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”朝吼夕嘆・晴走雨読”さんのプロフィール

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ブログタイトル
”朝吼夕嘆・晴走雨読”
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/shigeta-nas
ブログ紹介文
「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」
更新頻度(1年)

122回 / 365日(平均2.3回/週)

ブログ村参加:2016/07/19

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ハンドル名
”朝吼夕嘆・晴走雨読”さん
ブログタイトル
”朝吼夕嘆・晴走雨読”
更新頻度
122回 / 365日(平均2.3回/週)
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”朝吼夕嘆・晴走雨読”

”朝吼夕嘆・晴走雨読”さんの新着記事

1件〜30件

  • 「260通以上頂いた令和3年の賀状分析」

    Facebook、Line、メール等々の普及に伴い、年々賀状の発送をする人は減っていますが、私はボケ防止も兼ねて今年も330通前後の賀状を発送し、250通以上の賀状を頂きました。今年初めての試みですが頂いた賀状の地域別、所属?別分析をし、傘寿を迎えた我と我が身の人脈模様を見ました。頂いた賀状は高校、大学の同窓の賀状が65通と圧倒的に多く、地域的には首都圏沖縄関係者が50通以上でした。後期高齢の私には年々喪中便りが増えていますが、今年も20通以上の喪中便りを頂きました。私は賀状に必ず一言、一行?の肉筆を追加しますが、大学・高校の同級からの年賀状に殆ど複数行の肉筆コメントがあり、何度も読み返しました。受領賀状のエクセル作成と円グラフ変換には四苦八苦しましたがこれもボケ防止!「260通以上頂いた令和3年の賀状分析」

  • 「ロッキー疑獄」:春名幹夫著(角川出版)

    安倍晋三首相が辞任した昨年9月に出版された600メージ近い本書、昨年12月20日に購入、本日1月14日早朝3時半ベッドで読了!ロッキード社から5億円の賄賂受領で逮捕された田中角栄のストリーだが、その背景には売国の意向を無視して対中国融和政策を嫌悪したキシンジャー元国務長官の策謀、背景を膨大なデーター資料で暴いている本書。驚くのはキシンジャはあれ程毛嫌いした田中角栄の自宅を釈放後2度も3度も訪ねていたこと!これもCIAの驚嘆すべき行動か!このロッキード社の田中贈賄の背景にはフイクサーの凶悪の児玉誉士夫のCIAアシスタントとしての活動。本来このロッキード疑惑の主役は児玉や小佐野賢治だったが、彼らは時効等で逮捕されなかったという。本書はそこまで書いていないが、岸信介、中曽根康弘元首相連もロッキード、ボーイング等々米国...「ロッキー疑獄」:春名幹夫著(角川出版)

  • 「年賀ご挨拶」~出版と事務所名義変更のお知らせ

    令和3年、明けましておめでとうございます!コロナが落ち着いたら今春明け、野入直美琉大教授が琉球大学からの出版助成金を受け、私の生涯・経歴の追跡レビュー調査“沖縄―奄美の境界変動の重田史”が出版される予定です。その出版パーティー等が決まりましたら、後日お知らせ致します。2013年73歳でCIJネクスト社の会長・顧問を退任、直腸腫瘍治療後、神田に“終のオフイス”日本アドバンスを開設後、今年で6年目になりますが、傘寿を迎えた今年からこのオフイスは関東沖縄経営者協会(新垣進会長)事務局に名義変更になります。何時迄続くか分かりませんが私のプライベート・カンパニー・日本アドバンスはこの事務局と同居し、命ある限り後輩、故郷に幾ばくお役に立てばと通う積りです。関東沖縄経営者協会共々今後ともよろしくお願い致します。コロナ蔓延で大...「年賀ご挨拶」~出版と事務所名義変更のお知らせ

  • 「久々懐かし東京駅八重洲南口」

    令和2年末の12月29日、久々に神田多町の事務所から有楽町まで歩きました。同行同伴は140以上島旅、脅威の離島ソムリエ・下山敦子さん!凡そ30分の歩行で目的地は沖縄県アンテナショップ「わした」で開催の山川夏子さんとシーサー玉城の「オキナワグラフ」トーク参加!途中、日本橋川沿・常盤橋公園内の渋沢栄一銅像。日本初の銀行や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上創設の伝説の大実業家、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあったとのこと。ここから東京駅八重洲北口から南口へ。以前の都庁と三菱銀行本店斜め向かいの「三井八重洲ビル」は私が行政管理庁を辞めて8年間通った懐かしの㈱ビジネスコンサルタント入居ビル。このビル勤務があったからこそ、その後の創業独立の原点!過日を思い思わず落涙!撮影の下山さん、...「久々懐かし東京駅八重洲南口」

  • 「叱咤激励!郷土同窓団体への参加!」

    (関東・沖縄経営者協会合同総会で乾杯音頭)前回、首都圏の沖縄関係懇親会「大城会」を紹介しましたが、沖縄各地の県人会や同窓会以外にも様々な懇親団体がありますが、私が参加する沖縄関係の団体は関東沖縄経営者協会、関東沖縄IT協議会、東京沖縄県人会、那覇会、沖縄フアンクラブ、沖縄大好き会、沖縄クラブ、ニライ会、三月会、四水会、WUB東京、関東城丘同窓会、琉球大学同窓会関東支部、高校同窓・同期会等々です。沖縄関係以外の奄美大島関係団体では「関東奄美IT協議会」「東京奄美会」「埼玉奄美会」、大学関係では「早稲田大学校友会」「浦和稲門会」「西洋史クラス会」、これ以外にITOB関係の「IT/SP会」「余人会」に参加しています。これらの会の例会はそれぞれ月一、年1回、数回と様々です。全ての会に年会費制がある訳ではありませんが、年...「叱咤激励!郷土同窓団体への参加!」

  • 「沖縄歌舞踊のパワー」

    (琉装・琉舞のブラジル沖縄二世姫に囲まれ!)前回「歌と踊りの島・沖縄」について述べましたが「WUB東京会長」としてブラジル、ボリビヤ、ペルー、上海を訪ねた時、沖縄の歌と踊りのパワーを堪能、実感しました。各地で出会った沖縄二世、三世の若者は沖縄語を話せないものの、巧みに沖縄サンシンを弾き、エイサー、カシャシ―を踊ります。5年に一度行われる「世界のウチナワンチュ大会」でも琉球民謡とエイサーが行われ、言語を超えたウチナ―・アイデンティティーの共有でした。今首都圏でも琉舞、エイサー、サンシン活動が盛んですが、この参加メンバーの過半はヤマトンチュでは。実は「東京沖縄県人会」の財政を支えているのも東京琉球舞踊協会の支援とパワーです。私は時に鹿児島県人会にも参加しますが、こうした要素を感じたことはありません。全国最下位は脱し...「沖縄歌舞踊のパワー」

  • 「大城会」

    東京には大城姓を持つメンバーが毎年集う「大城会」に一度ゲストとして呼ばれた時に200人近い盛大、高揚に圧倒されました。この会は東京生まれの大城さんが立ち上げたようで、異郷で生まれたからこそ故郷への郷愁回帰心が強く、結束の源か!沖縄ルーツの姓は大城以外にも比嘉や金城、玉城等々がありますが「大城会」以外にこうした会の存在は聞きません。因みに、東京には和歌山を起源とする「鈴木会」が長く続いているようです。首都圏には様々沖縄関係の懇親団体があります。「大城会」

  • 「歌と踊りの島!沖縄!」

    沖縄には県立芸大があり、他県でも京都や石川(金沢)にも芸大があります。大きく違うのは京都、金沢両県には工業大学があり、九州各県には芸大がないものの、第一工業大(鹿児島)、久留米工大、長崎科学大、西日本工大、九州工大等々各県には工業大学がありますが、何と沖縄には工業大学はないのです。まさに“歌と踊りの島・沖縄の象徴”では!沖縄にはOIST(科学技術大学院大学)がありますが、これは尾身幸次・元内閣府大臣の粘り強い主導に依って設立され、日本政府の多額の補助金により、国内外から研究者を集め世界レベルの研究形成の拠点ですが、現時点、県内高校からの入学は難しい状況です。これは米軍基地受領見返り・沖縄振興政策の一つでは?島外に住む私が云うのもなんですが、人口過疎化急進の我が故郷奄美でも徳之島の旧日本軍基地跡に辺野古の基地一部...「歌と踊りの島!沖縄!」

  • 「2元、多様社会の沖縄?」~「私の履歴書」㊾

    全てとは言いませんが概ね九州各県には新聞社、銀行、テレビ、ラジオ局等は一社、一行、1局が多いようですが、沖縄には何と「琉球新報・沖縄タイムス」「琉球銀行・沖縄銀行」、テレビも「RBC(QAB)・OTB」、AMラジオ局も「ROK、RBC」と夫々2紙、2銀、2局の併存です。そう言えば、いずれも人口10万足らずの八重山、宮古、奄美にも「八重山日報・八重山毎日」「宮古新報・宮古毎日」「奄美新聞・南海日日」とそれぞれ2紙が併存しています。これは島嶼特有のカルチャか。とは言え、蝸牛角上の争いとまでは言わずともこれによる並存競合、切磋琢磨による島の活力の源と見なすことも出来るか!最近は連合や組合が出来ていますが、沖縄の空手・琉舞は多派済々。県内泡盛酒造社は40社を超えるようですが、170億近いその総売り上げは宮城県の霧島酒造...「2元、多様社会の沖縄?」~「私の履歴書」㊾

  • 「旧真和志村平野・銘苅の変容に驚愕!」~「私の履歴書」㊻

    私が中高時代を過ごした那覇(当時の真和志村)の安謝隣はフェンスで囲まれた米軍族住宅地(マチナト)に隣接した平野、銘苅がありました。高校卒業後、安謝の自宅からこの平野、銘苅の草道を歩いて当時首里に在った琉球大に通学しました。この辺地の平野と銘苅が米軍住宅tig地域が返還後、那覇新都心住宅街として再開発され、ここに自宅を建てた知人宅を案内された時、さながら沖縄の“池田山、高輪か”と思う高級華麗さに圧倒されました。米軍基地建設、駐留を是とする訳ではありませんが、これも植民地、占領変容側面か?因みに、この那覇新都心に高給華麗な自宅を建設、案内頂いた私の知友人とはオリオンビール、QAB、㈱レキオスフォーマの会長、社長歴々でした。「旧真和志村平野・銘苅の変容に驚愕!」~「私の履歴書」㊻

  • 「南米に行った安謝中同期」~「私の履歴書」㊺

    小学6年から中学3年まで過ごした那覇の安謝で忘れられない二人の同級生。一人は小学6年の時、転校してきて中学2年の時南米に移住した田中君。彼が南米に移住すると聞いて、私は友人数人を集い、岡野の彼の自宅に送別会に行った記憶があります。二人目は安謝中卒業後、同じ那覇高校に行き、卒業後上京しブラジル大使館に勤務し、上北沢の私の下宿にも来られましたが、その後ご家族と共にご南米に行かれた金城さん。二人とも何故かヤンバル?から岡野に来られていました。金城さんは一度南米から戻り、又渡られたようです。二人はブラジル、ボリビヤ、ペール何処に行かれたのか、私が2008年WUB東京会長として「沖縄移民100周年」式典参加の為、ブラジルに行ったとき、現地の人々に二人の消息を聞いたのですが分からず(´Δ`;)今思うと、当時何故ヤンバル出身...「南米に行った安謝中同期」~「私の履歴書」㊺

  • 「伝説の奄美シマウタ歌手・朝崎郁恵さんとの出会い}~「私の履歴書」㊹

    私が小学6年2学期まで住んでいた奄美大島・古仁屋の自宅向いの家に何時もシマウタを歌う中学生がいましたが、後で知るのですが何とこの方、度々NHKから流れる伝説の奄美民謡歌手・朝崎郁恵さんでした。それから60年後、偶然東京五反田の居酒屋「結まーる」でお会いし、古仁屋の思い出話をしたのですが、朝崎さんには五つ下の当時の私の記憶はないとのことは当然かも(´Δ`;)故郷・奄美ではしばしば「朝花」や「行ちゅんな加奈」等々のシマウタを聞きましたが、沖縄に来て「安里やユンタ」や「ヒヤミカチ」等々の軽快なリズムを聞き奄美との違いを感じました。シマウタや三味線には疎い私ですが、奄美には沖縄に少ない“返しバチ”サンシン演奏や裏声唄いがあり、“沖縄はラテン!奄美はブルース”と言うのを聞きました。これは自分が育て砂糖キビを齧っただけでも...「伝説の奄美シマウタ歌手・朝崎郁恵さんとの出会い}~「私の履歴書」㊹

  • 「具志堅用高と裁監督」

    (東京奄美総会で、緑健二さんと!)具志堅用高さんとはいろんな機会で会いましたが、御存知の通り、彼は沖縄出身として初のWBC世界フライ級王者ながら、その愛嬌ある言動は日本中を沸かしました。裁さんは沖縄を代表する高校野球監督として、何度も甲子園に出場し、連日日本中のマスコミに取り上げられました。私達が沖縄から上京した頃はアパートや居酒屋等々入居を断られる等々の差別が結構あったようです。しかし、この二人の活躍した1970年代を契機に、沖縄への評価?が変わり、在京沖縄出身者の心境も随分変わりました。私はこうした在京沖縄出身者の状況を立命館大学の研究チームから、インタビュー調査を受けたことがあります。「具志堅用高と裁監督」

  • 「我が故郷・加計呂麻の実久・鎭西村伝説」

    6歳の頃、私が満州から引き揚げた奄美の加計呂麻島の左半分は実久村、右は鎭西村と呼んでいました。それは平清盛に追放された源為朝が奄美に渡り、奄美の娘との間に生まれた子供が実久村「実久」の実久三次郎神社として祭られているようです。為朝は後に「鎮西八郎為朝」と称し大島から脱出して琉球に渡り、琉球王朝の先祖になった等々の伝説がありますが、これが加計呂麻島の実久村・鎭西村の名称になったのか?それにしても全国津々浦々にこうした源平のフィクションがあるのだろうか?「我が故郷・加計呂麻の実久・鎭西村伝説」

  • 「裁監督との出会い」~「私の履歴書」

    沖縄の高校野球を何度も甲子園に出場させた様々毀誉褒貶の伝説の裁監督は65才で逝去しますが、生前会食した思い出があります。彼は糸満生まれながらルーツは奄美と言ってました。そいえば琉大卒業後、那覇市松山で“夜の商工会議所”と呼ばれるクラブを経営、後にベンチャービジネスを立上げ、日経ビジネスウーマンイヤーズ賞を受賞した奥キヌ子さんも糸満生まれながらルーツは奄美とのこと!。こうした糸満と奄美はの縁はカツオ漁業の繋がりでは?「裁監督との出会い」~「私の履歴書」

  • 「伊良部・佐良浜美人との出会い」~「私の履歴書」㊵

    会社経営現役の頃、顧客接待でしばしば通う赤坂見附のスナックで見事なピアノ演奏歌唱の女性に会い、沖縄出身と聞き、え!と驚きました。沖縄で高校卒業後、東京の音大に進学バイトしているとのこと。モデルを思わす背高い妙齢華麗な姿はどう見ても沖縄出身(´艸`)には見えなかったのですが、何と宮古島の伊良部・佐良浜出身でした。彼女は宮古、沖縄と一定の距離を保ち、県人会等の集いには滅多に参加しないとのライフスタイルでした。彼女は今、横浜でピアノ弾き語りのスナックを経営しています。実は仲間由紀恵や国仲涼子等沖縄出身の何人かのタレントのルーツが同じ伊良部・佐良浜で、それはかって遭難ドイツ船員が佐良浜に滞在したのが出自というのを聞き、調べたところこれは今から150年前の10人近いドイツ人船員の1月近い滞在史実がありますが、これは佐良間...「伊良部・佐良浜美人との出会い」~「私の履歴書」㊵

  • 「2元世界の沖縄?」~「私の履歴書」  

    九州各県には概ね各県1紙、1銀ですが、沖縄には「沖縄タイムス」「琉球新報」の2紙に銀行も「琉銀」「沖銀」と2行があります。ラジオ、テレビも「RBC・QAB」「OTB」と事実上の2局です。そういえば奄美、宮古、八重山の各島にも「南海日日、奄美新聞」「宮古新報、宮古毎日」「八重山日報、八重山毎日」とそれぞれ2紙並存です。最近ようやく、協会や組合が出来たものの沖縄の空手、琉舞各派もバラバラ多彩でした。これは島嶼特有の多元カルチャー?だろうか?また、40社近くの沖縄泡盛メーカの総売上高は大分「いいちこ」や宮城「黒霧島」焼酎1ブランドに遥かに及ばないと聞きます。沖縄には“ヤーグワーチクイ”(小屋作り)というフレーズがありますが、反面、お互い切磋琢磨!、共存強化してきたのか!(琉銀本店~改装中)(沖銀本店)「2元世界の沖縄?」~「私の履歴書」

  • 「今帰仁・北山ナイチャー!」~「私の履歴書」㊴

    (東京で会った今帰仁・北山出身のカーギ女性)前回、“イトマンウランダ”(糸満オランダ)というフレーズを紹介しましたが、これとは別に“今帰仁・北山ナイチャー”と言うジョーク・フレーズも聞きました。これは今帰仁・北山にはナイチャー(内地=大和)風の容貌が多いという意味らしいのです。後に私は新宿・歌舞伎町で今帰仁・北山出身の何人かの女性に会い、私が幼少を過ごした大連で会った色白、背高い女性や垢抜けした北朝鮮女性色写のその容姿に魅せられました。まるで”秋田美人!東シナ海に面するこの今帰仁、北山港はその昔、済州島、朝鮮半島、清と交流があったのでは??これは根拠の無い私の妄想、今帰仁・北山の皆さん!ゴメンナサイ!「今帰仁・北山ナイチャー!」~「私の履歴書」㊴

  • 「初めての糸満訪問」~「私の履歴書」㊳

    (東京で会った糸満女性)奄美から沖縄に移住した父が糸満と奄美海産物取引があり、その縁で初めて糸満を訪ねた時、小柄色黒ながら、目のくっきりした糸満の女性に会い、そのカーギ(美貌)に打たれました。後に“イトマンウランダー”というフレーズを知りました。この“糸満オランダ―”の意味は“糸満は外人風”というのを知りました。外洋漁場盛んな糸満は海外との交流が盛んだったという意味か?後に東京で糸満出身の女性とお会いましたが、皆さん文字通りのカーギ―でした(´艸`)那覇の松山で会った糸満出身のママから“小さい頃、旭橋、真玉橋は渡るな!と言われたと聞きました。禁断の旭橋、真玉橋渡り那覇に行けば二度と故郷・糸満に帰れない!”という意味で、これは那覇の辻や仲島で働く糸満の女性は、遂に故郷に帰りたくても帰れない悲しい伝えから作られたフ...「初めての糸満訪問」~「私の履歴書」㊳

  • 「奄美で見た沖縄」~「私の履歴書」㊲

    (糸満の漁業)私が在校した奄美の古仁屋小学校に大城君や金城(カナシロ)君という同級生がいました。彼らは共に大島生まれでしたが、両親は沖縄出身の「クダカ」でした。古仁屋で「クダカ」というのは漁師のことで、古仁屋にいた沖縄出身者の殆どはクダカでした。後に沖縄に行き金城(カナシロ)は金城(キンジョウ)と呼び、さらに神の島“久高島”があることを知りました。奄美の漁業は沖縄の久高島や糸満出身の漁師から取得したのでは?古仁屋小学校でも悪さやヤンチャを続けている男の子は“糸満に売られるよ!(糸満売り)”女性は“辻に売られるよ!”と冗談半分に言われていました。糸満に売られた子は海に放り投げられ、潜水漁業を鍛えられたと言います。後に「松の下」「左馬」「那覇」等伝説の料亭が立ち並ぶ那覇市辻町を界隈し、琉球文化の華麗さに圧倒されまし...「奄美で見た沖縄」~「私の履歴書」㊲

  • 「沖縄・大和の架け橋・奄美!」~「私の履歴書」㊱

    (琉舞・諸鈍)奄美から沖縄に来て双方のカルチャの違いを感ずる一方、融合や架け橋を感じました。それは沖縄で琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」舞踊を見ての確認でした。と言うのは、諸鈍とは私の故郷奄美・加計呂麻島にある集落で、ここに源平の戦いに敗れた平資盛が移住し、土地の人々との交流を広めるため教えた舞踊が“諸鈍シバヤ”としての伝説です。以後、島の人に継承され「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、住民の過疎化を圧して毎年催されてています。何故この集団男踊りの“諸鈍シバヤ”と女一人踊りの琉舞“諸鈍”があるのか?琉球古歌に“諸鈍みやらび,カーギーのチュラサ”があるようです?私の高校同期の琉舞師匠に「奄美の加計呂麻に諸鈍という村があるよ」と言ったら“えー?”と驚いていました。一方、諸鈍出身の同級生に“諸鈍という琉球古...「沖縄・大和の架け橋・奄美!」~「私の履歴書」㊱

  • 「沖縄に来て驚いた名前・地名の違い」~「私の履歴書」㉟

    私が入学した奄美の古仁屋小学校1年の先生は祈(いのり),2年は林(はやし),3年は森(もり),4年は藤(ふじ)と皆一字の姓でした。奄美出身の歌手の元(はじめ)ちさと、城(きづき)南海、中(あたり)孝介がいるのでこれらハジメ、キザキ、アタリの名前は読めると思いますが、皆さん以下の奄美の姓「文」,「英」読めるでしょうか?”ふみ,えい”ではなく(カザリ),(ハナブサ)と読みます。何故、これほどに奄美に一字姓があるのか?これは薩摩藩の強制でした。沖縄に来て眞栄田、真栄城、玻名城、山入端、我如古、饒平名、喜屋武、仲村渠等々の3苗字には驚きましたが、中でも大工廻(だくじゃく),健堅(きんきん),為又(びいまた),保栄茂(びん)等々の難読の地名です。これらの地名読み方の由来には諸説がありますが、中でも興味深いのは沖縄に来航し...「沖縄に来て驚いた名前・地名の違い」~「私の履歴書」㉟

  • 「沖縄・宜野湾村との出会」~「私の履歴書」㉞

    (宮城村長から親善大使再任委嘱状拝命~2018年)(伝説の芭蕉布名工・平良敏子さんと~2016年)沖縄北部の大宜味村は県内随一の長寿、芭蕉布の里として有名ですが、私が小中学を過ごした沖縄安謝地区には奄美や宮古出身者が多く居住していましたが、隣接の岡野地域には何故か大宜味やヤンバル出身の宮城仁四郎や松岡政保等錚々たる著名人が移住していました。後に大宜味出身の友人により、大宜味村長を紹介され「大宜味村・観光物産親善大使」を委任されました。平成28年の「沖縄県功労」受賞式典会場にわざわざ御足労頂きお祝いを頂いたのは恐縮の極みでした。先に記載した小学クラスメート義明君のご尊父・宮城仁四郎祈念像を大宜味村に参拝した時には喜如嘉の人間国宝「芭蕉布の名工」の平良敏子さんをお訪ねした時は95才とは思えないにこやかな笑顔が忘れら...「沖縄・宜野湾村との出会」~「私の履歴書」㉞

  • 「忘れ難い沖縄の同期級友」~「私の履歴書」

    (懐かしい安里小学の同期)傘寿を迎えた私の人生1割を沖縄で過ごしました。この小中高の8年の沖縄は最も思い出深く、知り合った多くの友人にお世話になりましたが、最も印象に残っているのは、宮城義明、屋良文雄、粟国安彦の3君です。奄美から転校入学した安里(後の安謝)小学6年の級長クラスで眩しく輝いていたのが宮城義明君でした。彼は沖縄の財界四天王と呼ばれ、製糖、パイン、セメント等々の県内基幹産業を立上げた宮城仁四郎の子息で、慶應大学卒後に㈱リュウエン商事を立上げ、沖縄に初のケンターキフライドチキン店を展開します。勢理客の彼の邸宅に呼ばれた時、最も驚いたのは自宅にあったピアノでした。終戦直後10年足らずのあの頃は学校にのオルガンはあったもののピアノは貴品で滅多に見ることのない貴品でした。彼は安謝中1年?で東京杉並に移住、慶...「忘れ難い沖縄の同期級友」~「私の履歴書」

  • 「奄美から沖縄に来て感じた優しさ」~履歴書㉜

    (招集された父)小学6年奄美から沖縄に来て、初めて知った“命(ヌチ)ど宝”を至上とする沖縄の相思相愛“ユイマール”精神でした。奄美の古仁屋小学で度々受けた喧嘩や苛めは沖縄の安謝小学校では皆無の優しさでした。その代わりとは言いませんが奄美で味わった猛烈な?競争精神は沖縄では余り感じない居心地の良さでした。その背景には、長く薩摩の支配下で影響を受けた奄美では“命を惜しむな、名こそ惜しめ”の❕三島由紀夫も絶賛した「葉隠」武士道の影響があったのでは?後で思うことはこの“命を惜しむな、名こそ惜しめ!”と自らの命を疎む武士道精神が他者の命を蔑むアジア諸国侵略略奪と沖縄のひめゆり部隊、健児の塔、ちびりがま、果ては宮森小学校、コザ暴動等々数々の惨劇を強いられたことが沖縄に”命どぅ宝”を至上のフレーズとして定着したのでは!勿論、...「奄美から沖縄に来て感じた優しさ」~履歴書㉜

  • 「奄美と沖縄のカルチャー違いにビックリ」~「私の履歴書」㉛

    (奄美から沖縄へ転校半年後の小学卒業写真~真中・校長先生後ろが私)小学6年2学期に奄美の古仁屋から沖縄に転校して、そのカルチャーの違いに驚きました。転校入学した沖縄の安里(後の安謝)小学6年のクラスメートに当然の事として「このクラスで喧嘩一番は誰?」と聞いた私の質問に「え!変な質問、そんなの誰か分からない」との回答にビックリしました。と言うのは古仁屋では成績と同様、重視されたのが喧嘩順位でその入れ替わり決定のために、時折決闘が行われました。この時程、沖縄の“ユイマール優しさ”と奄美・古仁屋の野蛮文化を痛感しました。その背景には奄美の“競争、優劣、出世、努力意識“と沖縄の”ノン競争、テーゲー、ユイマール精神“を感じました。もっとも、この価値観文化は奄美全体というより、古仁屋や徳之島のスットグレ(何糞)カルチャーで...「奄美と沖縄のカルチャー違いにビックリ」~「私の履歴書」㉛

  • 「全校代表として挨拶~「私の履歴書」㉚

    私は小学6年2学期まで奄美大島の古仁屋小学校に在学し、3学期から沖縄の安謝小学校に転校しました。古仁屋小学校1年の時の学芸会での全校代表での開会挨拶や2年での主役出演、3,4年の時の会計や級長を務めましたが毎年行われる運動会の走競争ではいつもビリから2、3番目でした。あの頃のグランドのラインは白線の路面標示ではなく、杭にロープが張られたラインでした。気が付けば私はロープの内側を走っていることに気付き、皆とは逆走し、見学応援の両親の爆失笑を覚えています。さほどに幼少の私の運動神経は最低で、毎年の運動会は嫌で嫌で、以来長きに亘り運動能力の低さと劣等感に悩まされていました。ところが、50歳のフルマラソン初完走で長く背負っていたスポーツ劣等感を克服出来たのが忘れられません。私のこのマラソン歴はまた、後程!「全校代表として挨拶~「私の履歴書」㉚

  • 「古仁屋小学校の思い出」~私の履歴書㉙

    (大連幼稚園入園記念写真~6歳)この写真撮影の時”坊や首を左に左に”と何度も言われたの覚えています)満州から引き揚げた奄美大島での小学入学は今や廃校になった加計呂麻島の須子茂小学校でしたが、両親の転住に伴い1学期で奄美本島の古仁屋小学校に転校します。古仁屋小学1年の時、忘れられない記憶があります。それは小学1年の時に、学芸会で全校代表として挨拶させられたことです。我家の近くに住む後に校長先生になられる祈先生に「辰弥君!学芸会で開会の挨拶をしなさい!」言われました。当時の古仁屋小学校は1クラス40~50名前後、1学年松、竹、梅の3クラスの6学年の1000人近い全校生徒の前で開会の挨拶をさせられました。何で私が全校代表の挨拶を指名されたのか?今思うと、それは満州帰りの私は島訛りのない流暢な日本語を話し、都会的で垢抜...「古仁屋小学校の思い出」~私の履歴書㉙

  • 「大連・澤ビルの思い出」~「私の履歴書」㉘

    (私達が住んで入た大連・澤ビル~1990年・45年振りの訪問)日本の満州侵略に伴い、30万近い日本の農民が開拓民として満州に移住しましたが、ソ連参戦により日本が敗戦し、これらの移住民は日本に引き揚げます。しかし、ソ連国境に近い満蒙地域から大連や旅順という港町のある遼東半島への移動は至難で、途中それまで掠奪被害にあった現地中国人の報復やソ連軍による抑留、シベリア送還、家族殺戮、残留孤児等々これら満蒙移民の3分の2が悲惨な体験史を後程知りました。何故私達一家にこうした満蒙悲劇体験が無かったかというと、1945年の終戦時、私達は満州・遼東半島港町の大連に住んでおり、父が“引揚隊長”を務める等の幸運がありました。終戦間近に招集され、シベリア抑留運送途中の列車から脱走?し、澤ビルアパートの自宅に帰って来た父の姿を玄関に見...「大連・澤ビルの思い出」~「私の履歴書」㉘

  • 「満州の思い出」~「私の履歴書」㉗

    (大連広場)私は満州の哈爾濱で生まれ、7歳まで大連で育ちましたが、この二都市はロシアが設計し、日本が建設したと言われています。大連はダリーエンと言うロシア語に由来し、その中心街はエッフェル塔を中心とするパリ―を模写し、そっくりです。当時の哈爾濱には白系ロシア人が多く移住し、私達の哈爾濱の大家さんもロシア人で私が生まれた時も“ハラショウ!シンパチュナー、スパシナ!”(コンニチハ!カワイイ)等々と可愛がってくれたと母が言っていました。大連で御付合いのあった中国女性の多くは背が高く、色白で、後に私が北京や福建省でお会いした中国人とは大部違った印象でした。今思うと大連は漢族ではなく清族で、親日的要素があります。中国に進出した多くの日系IT企業が大連の親日性を言います。20年前、傘寿を迎えた母を連れてかって暮らした大連の...「満州の思い出」~「私の履歴書」㉗

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