chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
江戸川教育文化センター https://blog.goo.ne.jp/2012kyoubun

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流す

江戸川教育文化センター
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/03/15

arrow_drop_down
  • NEWS江戸川区教組 No.2407

    自らの労働条件は自らの手で!教え子を再び戦場に送るな!日教組・東京教組と共に闘おう!NEWS江戸川区教組2024/10/29No.2407江戸川区教職員組合(江戸川区中央3-7-11-102江戸川区平和運動センター)東京教組教育研究集会報告学びをもとに共に考えよう❣10月26日(土)ラポール日教済にて東京教組教研集会が開かれました。山内榮さん(琉球大元非常勤講師)の記念講演「平和・教育・オキナワから考える」の後、各分科の会に分かれて7本のレポートの提案・意見交流を行いました。区教組に関連する2つのレポートを紹介します。総合学習と防災・減災教育分科会上記の分科会で、区教組は「被災地能登半島を訪ねて~2024江戸川区教組夏の合宿報告」をレポートしました。分科会では、「私も連れ合いも能登の出身。家族も被災にあっ...NEWS江戸川区教組No.2407

  • わが故郷(4)ー変わってしまった水田風景ー

    わが集落では減反に応じる農家が少なかった。それは、減反助成金を得るより水田を荒廃させることなく維持したかったからだ。我が家の様に小規模な農家ほどその思いが強かったように思う。しかし、時は流れ兼業農家の担い手たちが高齢化し、若者たちは農家を継ぐ者がほとんどいなくなった。そこに現れたのが蓮根栽培企業だ。耕作者のいなくなった水田を次々に買い取り、改修して蓮田に変えてしまったのである。蓮根の栽培には常に大量の水が必要であり、水田を深く掘り下げ泥田を維持するのだ。夏には一斉に花が咲き美しく見栄えがするが、米作りの水田の季節に応じた風景の美しさにはとうてい及ぶものではない。それに、大雨の際に水田が持つダム機能は持ち合わせていない。唯々、会社が利潤を上げるための耕地となってしまったのである。辛うじて我が家は父がEM農法...わが故郷(4)ー変わってしまった水田風景ー

  • わが故郷(3)ー減反に向き合うー

    24戸で形成されていた集落はどの家も水田や畑を持っていたが、完全な専業農家は数軒に過ぎず、我が家のように兼業をする家が多かった。それは耕地面積が少なく、米作だけで生計が立つ家はごくわずかであったからだ。私が地域社会の様子をある程度は理解できるようになった頃は、既に高度経済成長の終盤にさしかかっていた。初めて「出稼ぎ」という言葉を知り、稲作中心の東北地方の農民が農閑期に都会へ出て働き高度経済成長を底辺から支えていた頃である。農業だけでは食っていけない農業政策をとりつつ、二次産業興隆のための労働力として使うとはあまりにも農民を愚弄する話ではないか!私の集落からも農閑期には都市部の建設現場に働きに出る人々が少なからずいた。祖父も一時期はその一員として加わっていた。そうは言っても、東北の出稼ぎとはまるで異なり自宅...わが故郷(3)ー減反に向き合うー

  • わが故郷(2)ー我が家の農業ー

    その後、私は家を出て下宿生活を始めたが、就職しても実家には戻らず都市生活者となってしまった。したがって、私が実家に居た頃の地域の風景の変遷を見ていたのはこの時期までである。この間にも年老いた父は退職後の趣味として始めたEM農法による米作りを行なっていた。代々受け継いできた水田が小規模ながら残っていたからだ。もちろん、農薬を拒否しつつ狭いながらも独自耕作を行なっていたが、周囲はヘリコプターによる農薬散布をしていたため少なからず影響はあったに違いない。さて、私のルーツを確かめるべく先祖を遡って調べたら、どうやら祖父の代には自作農地が激減したまま受け継がれたようで、祖父は相当に苦労したようだ。何しろ長男は戦死、次男は養子として親類に入り、三男の祖父が辛うじて家を継いだというから・・・。戦前には村の名士として村長...わが故郷(2)ー我が家の農業ー

  • わが故郷(1)ー集落の中央を流れる川ー

    先日、秋の彼岸に実家の墓参りに行った。父母が亡くなってからは春秋の彼岸と夏の盆の時期に足を運ぶ程度になってしまった。私が生まれたのは、下総台地に入り組んだ谷の一部で典型的な谷津の地形をなしている小さな集落である。集落の中央を流れる小川を挟んで水田が広がり、崖を背にして住宅が立ち並んでいた。その川で私たち子どもは魚を獲ったり川遊びをしていたものだ。また、家の裏には清水が湧き、サワガニがいた。当時の我が家では飲料の他に二つの池を維持する程の水量があり、余分な水は隣地との間を流れる細い水路に流れ込み、最後は集落の中央を流れる川に合流するのであった。さらに、その小川は何本もの川と合流して最後は利根川へ流入していた。因みにその合流後の川はその後、成田空港の建設に伴い空港関連施設からで出る排水のための水路にすべく拡幅...わが故郷(1)ー集落の中央を流れる川ー

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、江戸川教育文化センターさんをフォローしませんか?

ハンドル名
江戸川教育文化センターさん
ブログタイトル
江戸川教育文化センター
フォロー
江戸川教育文化センター

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用