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  • 伊都国マンポー第23弾・24弾。

    伊都国マンポー第23弾・24弾。

  • 第22弾 伊都国マンポー(2018.2.25)

    糸島観光フレッシュガイドの伊都国マンポー!(2018.2.25)第22弾「深江から福吉へ・唐津街道沿いの史跡巡り!」16,000歩・約12km。写真・動画・テキスト・音楽で16分のムービーにまとめました。そのスクリーンショットのコラージュです。^^第22弾伊都国マンポー(2018.2.25)

  • 小金丸の会開催。

    保育園からの同級生はあと2年で古稀を迎えます。^^小金丸の会開催。

  • 第21弾 雷山不動滝コース 2017.12.3

    第21弾雷山不動滝コース2017.12.3

  • いいとこ糸島

    実家の小金丸に盆参り。そして、近くをぐるっ~とひと回り。自然いっぱいの「いいとこ糸島」を再認識しました。^0^いいとこ糸島

  • 小金丸考⑮ 小金丸の小社。

    文献にある小金丸の小社を訪ねました。古くから今日に至るまで地元の人々によって祀られています。①まずは菅原社(天神様)。小さい頃の「短冊取り」の思い出は、ここだったのでしょうか。②古くからあると聞いていた「皇后石社」こうごしさま。集落から火山の方に少し上ったところにありました。〇神功皇后石殿コウグウイシ火山の麓也。皇后三韓より御帰朝の時、鳳駕を休め玉ひし所と里民いへり。(筑前国続風土記附録)(⋆鳳駕・・天子の乗り物。また、仙人の乗る車。鳳輦ほうれん。宝駕。)〇社内に平石あり。横五尺長七尺許。これ神功皇后三韓より御帰朝の時御輿を懸させ給ひし石なりといふ。(筑前国続風土記拾遺)皇后石社③半畑の高台にある速鷹天神社。〇速鷹天神社谷口山祭日九月廿五日(筑前国続風土記拾遺)速鷹天神社④ひっそりとあった薬師堂。〇薬師堂。大阪...小金丸考⑮小金丸の小社。

  • 小金丸考⑭ 熊添遺跡。

    小金丸・志摩中入口バス停の近くに熊添遺跡がありました。この遺跡は、昭和58年に「農地開墾及び埋め立て用土の採土工事」に伴う発掘で、時代は4世紀末から5世紀初頭の頃らしいです。(糸島市志摩小金丸)ここは私たちが小さい頃の遊び場の一つで、「かっちょうわな」を作ったり「マンジュウシバ」を採ったりしていたところです。現在は、二つあった小山の一つがなくなっています。遺跡もありません。(志摩町文化財調査報告書第4集1984年より)小金丸考⑭熊添遺跡。

  • 小金丸考⑬ サジキ。

    小金丸の栗山に行く途中に「サジキ」という場所があります。小さいころから聞きなれた名でしたが、どんな意味があるのかわかりませんでした。それについては、「怡土志摩地理全誌」(糸島新聞社刊・由比章祐著)に書かれています。「馬場の六所神社は大友氏が尊崇した神社で、小金丸の浜まで神幸があり、今も田の字に桟敷という名が残る」と。いつもは柑子岳城や親山城にいる城代や家臣が、この桟敷に座って行列を見物したのでしょう。今も段が残っており、まさに桟敷席です。^^神幸の行列は手前の川に沿った土手の道を歩いていたと思われます。当時は今の大きな新道はありません。(福岡県糸島市志摩小金丸)小金丸考⑬サジキ。

  • 小金丸考⑫ 小金丸の「「やくじん様」。

    私たちが小さい頃から「やくじん様」といって親しんできた、志摩小金丸の鎮守の杜。・・・でも、この神社がいつごろから祭られているのかは知りませんでした。・・・このたび嬉しいことに、その由緒がまとめられているものを手にすることができました。それによりますと・・・正式には「港疫神社」。通称「やくじん様」。祭神はスサノオの尊・櫛稲田姫尊・大己貴命・少彦名命・事代主命。明治十年創建。社説によれば明治初年悪症(伝染病)がはやり、それを鎮めるために佐賀県唐津市湊港疫神社より悪症免除のため勧請。その時期、陸路より海路が近いため、岐志浦西村氏(網元)の船にて渡海、小金丸に至る。当時の境内はこんもりとした砂山で、松の大木が繁り西向きに建てられていたもので、現在の境内は船形となり東向きに建てられている。江戸の頃かと思っていましたが、創...小金丸考⑫小金丸の「「やくじん様」。

  • 小金丸考⑪ 小金丸・一の町遺跡が気になる。^^

    志摩・小金丸の「一の町遺跡」(稲留から小金丸にかけて)が発見されたのは2003年のこと。それ以来ずっと気になっているんですが、もしかしたらこここそが魏志倭人伝に書かれている、伊都国に置いた「一大率」ではないかと、こっそり思って楽しんでいるのです。(初めて告白します。^0^)東は「初(波津)」まで海が入り込んでいたし、西からは小金丸の「浜」という集落まで入り江になっていたはずですし、この間の地域に税関みたいな役所を置いていろいろチェックしたのではあるまいかと。だから「一大率」の「一」が「一の町」という小字名として今も残っているのではないかと。松本清張も解けなかった「一大率」。さてさていかなることになりますやら。いずれ真実が。^^下のブログ記事は2008年に一の町遺跡辺りを自転車で散歩したときのものです。http:...小金丸考⑪小金丸・一の町遺跡が気になる。^^

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