秩父奥名栗「識」とは道理であり、口舌を駆使することなく内心で会得することであり、「術」は手立てや技ともあるが、術智がなくては単なる企みに終始してしまうようだ。よく知識人の堕落は国家をも衰亡させるという。ならば内心会得する道理とはどの様なものであり、会得した人間の姿や能力はどのようなものか考えてみたい。「色聴」という文字がある。人と応対したとき顔色をみて真偽を観察する。あるいは容、象、体の表れで対象を観察する、それが色聴能力で表されることである。「色」は女が座って上から人が覆いかぶさっている姿だが、なまめかしい形でもある。それこそ様々な聴き方があるが、観人則(人物をみる座標)から独り鎮まりを以って聴いてみたい。「辭(辞)聴」辞めるとき、下がるとき、「色聴」「気聴」「耳聴」「目聴」などがあるが、敢えて言葉に出...知識と技術は、識と術を弁えなくては痴戯(知技)同然