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  • 帆船 海王丸<海王丸パーク>(富山県射水市海王丸町8番地)

    訪問日令和6年6月3日帆船海王丸<海王丸パーク>海王丸パークは、人びとが集い、学び、憩う、素敵なベイエリア海の貴婦人と呼ばれる海王丸進水日が2月14日のバレンタインデーであることから、「恋人の聖地」に選定されている記念モニュメント富山湾が「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟した記念帆船海王丸海王丸は、商船学校の練習船として誕生した帆船昭和5年2月14日に進水して以来、59年余の間に106万海里(地球約50周)を航海し、11,190名もの海の若人を育てた2年前に初めて訪れた時には残念ながら休業日で雨この日は事前に営業していることを確認してから訪れたが小雨乗船する(料金:400円)帆船ではあるが総帆展帆は年に10回のみ2024年の今後の予定は、9月16日と10月20日の2回となっている船種:4本マストバーク型帆...帆船海王丸<海王丸パーク>(富山県射水市海王丸町8番地)

  • 真宗大谷派井波別院瑞泉寺(富山県南砺市井波3050)

    訪問日令和6年6月3日真宗大谷派井波別院瑞泉寺浄土真宗の宗派の1つで、阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とする山号は「杉谷山(さんこくさん)」大谷派の根本道場である東本願寺を本山とする寺号標寺号標には「井波御坊瑞泉寺」その奥の石柱には「井波別院高岡門」と彫られている15世紀末には、「井波城」と称した戦国時代には、越中一向一揆の拠点とされ、伽藍は堅牢な石垣に囲まれている花が咲いている石垣というのは珍しい山門(富山県指定文化財)明徳元年(1390年)本願寺第5代綽如により建立された堂宇であるが天正9年(1581年)織田信長の北陸方面軍佐々成政の軍勢と戦うが焼き討ちに遭い焼失した天明5年(1785年)東本願寺の大工の棟梁であった柴田新八郎貞英により釿始(起工式)が執り行われたが、同8年本山の火災復興のため帰京...真宗大谷派井波別院瑞泉寺(富山県南砺市井波3050)

  • 三郎丸蒸留所(富山県砺波市三郎丸208)

    訪問日令和6年6月3日<前回に続く>金沢競馬場を出た後に能登半島にある「道の駅ころ柿の里しか」に向かう予定であった「三郎丸蒸留所」巡りを考えていて、HPで定休日を確認すると能登半島へ向かうとタイミングが悪くなると判断富山県にある、道の駅「福光」に行き先を変更した到着して直ぐに車内にいるのが不安になるほどの豪雨と雷(警報3が出ていた)寝不足で朝を迎えると、スマホから突然地震警報が鳴り響いた午前6持頃、能登半島でマグニチュード5.9の地震が発生したというニュースが流れた三郎丸蒸留所駐車スペースが少ないということで早めに道の駅を出た駐車場には営業時間の30分前に着いたが、30台程度のスペースがあった営業時間になったので門から中に入る歓迎されているようで嬉しい若鶴大正蔵蒸溜所ガイド付見学は予約制自由見学は当日受付...三郎丸蒸留所(富山県砺波市三郎丸208)

  • 金沢競馬場(石川県金沢市八田町西1)

    訪問日令和6年6月2日金沢競馬場旅の目的の一つに「全国(中央・地方)の競馬場巡り」がある地方競馬は日程の調整が難しいが、ここ金沢競馬場は中央競馬と同じ日程で開催されていることが多いこの日程を考えた人は、競馬好きの心理を読み取っているこの日は日曜日で中央競馬では「安田記念GⅠ」金沢競馬場では重賞の「百万石賞」が開催されるいつもなら駐車場の近くに駐めることができるのだが、この日は遠く離れた場所に1台だけスペースがありそこに駐めた3700台収容の無料駐車場がこのような状態だ場内では各種イベントが開催されていて、親子連れやカップルの姿が多い感じがした北陸新幹線開通記念のようで子供達が笑顔で新幹線乗車を楽しんでいたこの日は第2Rから馬券を購入した地方競馬は馬場と観客の距離が近いのも魅力だ今日の軍資金は2万円以内と決...金沢競馬場(石川県金沢市八田町西1)

  • 白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)

    訪問日令和6年6月1日白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)加賀国一宮全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ)の総本社である地元では「しらやまさん」とよばれ親しまれている北参道鳥居この日は土曜日ということもあり、「混むのかな」と思い、いつもより早めに道の駅を出た初めて訪れる神社なので様子が分からないカーナビが案内したのは、3つある駐車場のうちの「北駐車場」かなり大きな駐車場で私が着いた時にはまだ多少の余裕があった帰りには満車状態であった狛犬1手水舎芭蕉句碑元禄2年(1689年)7月、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で詠まれた句とされる「風かをる越の白嶺を國の華」さわやかに風が吹き渡る白山こそは、国の誇りであることだなあ社務所大ケヤキ(白山市指定天然記念物)胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は100...白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)

  • 安宅住吉神社(石川県小松市安宅町タ17)

    訪問日令和6年5月31日安宅住吉神社境内に安宅の関址があり、「安宅」「勧進帳」にも取り上げられた伝承から、難関突破の神として知られる陽のみち6月1日月次祭当日の早朝、大鳥居の真正面から太陽が昇り、光は本殿まで差し込み、表参道は「陽のみち」となるという前日の5月31日に訪れたのだが、「陽のみち」についてこの時は理解していなかった(残念)狛犬1鳥居額には社号の「安宅住吉神社」社殿へつながる参道は木々に囲まれ趣がある神輿倉狛犬2神亀石稲荷社勧進帳勧進帳を読み上げる弁慶像拝殿古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ「安宅の住吉さん」として親しまれている昔は安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称された創建は古く、歴史を遠く溯る事1200有余年前、奈良時代天応2年(782年)で、琴佩山(ことお...安宅住吉神社(石川県小松市安宅町タ17)

  • 蓮如の里 吉崎(福井県あわら市吉崎)

    訪問日令和6年5月31日蓮如の里吉崎道の駅「蓮如の里あわら」ができたということで立ち寄ることにした道の駅ができる前に「蓮如の里」には、平成21年(2009年)7月に訪れたことがある史蹟蓮如御坊跡浄土真宗中興の祖・蓮如上人が北陸での布教の中心拠点に選んだ場所付近一帯は「蓮如の里」と呼称されている蓮如上人像御山の上に7mの高座を設け、その上に高さ4.85mの銅像を安置高座の正面には「慧燈高照」の文字(諡号:慧燈大師)「智慧の燈を高く照して大衆を済度された」蓮如上人の徳をたたえたもの高村光雲の手により型が作られ鋳像された銅像で、高村光雲の3大名像の一つ(あと2つは皇居外苑の「楠木正成」、上野公園の「西郷隆盛」)吉崎御坊本堂跡永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退...蓮如の里吉崎(福井県あわら市吉崎)

  • 雄島・大湊神社(福井県坂井市三国町安島)

    訪問日令和6年5月31日雄島・大湊神社東尋坊を訪れた時、遠くに見える赤い橋と島の存在がずっと気になっていた今回は東尋坊には寄らず、気になっていた橋と島を目指した雄島橋(おしまばし)橋の近くに無料の駐車場がある雄島橋周辺は小学生の校外学習(写生)で賑わっていたそのバスの運転手から「北海道からですか」と声を掛けられ、しばらく会話を楽しんだ雄島(おしま)橋の奥に見えるのが「雄島」標高27m、周囲2kmの越前海岸では一番大きな島である土地の人は昔から、「神の島」とあがめている島全体が流紋岩でできている東尋坊同様に「柱状節理」が発達しているほか、「板状節理」も見ることができるこの橋の長さは224m鳥居鳥居の奥には洞穴のようなものがある初めて訪れるので不気味な感じがする鳥居の額には「大湊神社」今にも雨が降ってきそうな...雄島・大湊神社(福井県坂井市三国町安島)

  • 三國神社(福井県坂井市三国町山王6-2-80)

    訪問日令和6年5月31日三國神社(別名:山王宮、お山王さん)この近くを何度か走っていたのだが、訪れたのは今回が初めてとなる正面鳥居の右側50mの所に駐車場がある社号標天文9年(1540年)竹田川の支流の兵庫川から流れてきたとされる御神体を住人が拾い、当地の正智院に納めたのに始まる天文13年(1544年)正智院の院主・澄性が境内に小社を建立永禄7年(1564年)澄性の弟子の澄元が現在地の桜谷を開き、「山王宮を建立」したのが創建年となる鳥居額には「三國神社」明治2年(1869年)山王宮を桜谷神社に改称明治18年(1885年)に三國神社と改称し、現在に至る地元では「おさんのさん(お山王さん)」と呼ばれている狛犬1手水舎大好物のツブ貝が奉納されている日本海の豊富な海産物に恵まれ、近くには有名な観光地「東尋坊」があ...三國神社(福井県坂井市三国町山王6-2-80)

  • 丸岡城<別名:霞ヶ城>(福井県坂井市丸岡町霞)

    訪問日令和6年5月30日丸岡城(別名:霞ヶ城)現存12天守(江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守)の一つ国宝-5城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)重要文化財-7城(弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)一筆啓上碑「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」徳川家康の家臣であった本多作左衛門重次が、戦場から妻に送った手紙文簡潔にして要を得たこの文は、手紙文の手本として今日でもよく紹介されている「お仙泣かすな」のお仙は、後に「丸岡城」の城主になった「本多成重(幼名:仙千代)」丸岡城には、これまで4~5回訪れている2年前には地元のお祭りか何かで駐車場に屋台が出ていて駐めることができずに諦め、今回の訪問になった城周辺を歩き石垣を撮る丸岡城を支える石垣は「野づら...丸岡城<別名:霞ヶ城>(福井県坂井市丸岡町霞)

  • 長林山 往生院 称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎19-17)

    訪問日令和6年5月30日長林山往生院称念寺平成30年(2018年)、丸岡城を訪れた時に、偶然、この寺の存在を知り訪れたことがある明智光秀縁の寺(「黒髪伝説」)ということで興味を持った山門山門左の寺号標には「時宗長林山稱念寺」右には「史跡新田義貞公墓所」と彫られている案内板の文字が小さい参道の正面に(案内図によると)「御像堂」水屋参道横の石仏贈位碑昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際、上部が欠損したとのこと「(近衛)中将新田義貞公贈位碑」と読める新田義貞公墓所(福井県史跡)鎌倉幕府も北条高時の頃になると、世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れたその代表的な武士たちが足利尊氏や新田義貞、楠木正成だそして鎌倉幕府を滅ぼした武士が新田義貞になる中雀門その後、足利尊氏と新田義貞が争い、南朝と北朝に別れ日本中...長林山往生院称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎19-17)

  • 大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

    訪問日令和6年5月29日大瀧神社・岡太神社数年前、社殿が重要文化財に指定されているということで訪れたのが最初地元愛、神社愛に溢れるボランティアガイド(若い女性)の説明を受けてから何度も訪れている魅力は社殿の美しさにである鳥居上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建っている下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記されている狛犬1手水舎観音堂(絵馬堂)伝承によれば、養老3年(719年)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする「神仏習合の社」を創建後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった額には「観音堂」堂内に安置されている観音像だが、いつも隙間から拝観していた木造十一面観音坐像(越前市指定文化財)堂内に入って驚いたの...大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

  • 総社大神宮(福井県越前市京町1丁目4番35号)

    訪問日令和6年5月29日総社大神宮総社とは大化改新の結果、越前国にも国府が置かれ、国司は管内の官社をはじめ、国内神名帳所載の諸社を巡拝することになっていたやがて巡拝の労を少くする為や、急を要する祈願や祭礼のために、国司所祭の神霊を一ヶ所に合祀して総社が建てられた鳥居長徳2年(996年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向もしかしたら、父とともに総社を参拝していたかも知れない『源氏物語』の浮舟の巻には「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを…」とあるそうだ宇治から帰京する浮舟の母が「たとえあなたが、遠い武生の国府のような所へ行ってしまったとしても、こっそりとお伺いしましょう…」狛犬1鳥居鳥居の額には「總社大神」正面に社殿が見える手水舎狛犬2拝殿鎌倉・室町時代の争乱により...総社大神宮(福井県越前市京町1丁目4番35号)

  • 大塩八幡宮(福井県越前市国兼22-2)

    訪問日令和6年5月29日大塩八幡宮仁和3年(887年)、中納言紀友仲が仲間のねたみにより、越前国府へ流罪となった現社地に榊を植えて石清水の八幡神に帰洛を祈願したところ、寛平元年(889年)に勅許を得て京都へ戻ることができた寛平3年(891年)に社殿を造営して石清水八幡宮の神霊を勧請したのが当社の創建一の鳥居社号標社号であるが、中世期の大塩保の中心集落であったことから、「大塩保八幡宮」と称された明治以降「八幡神社」を正式な社号とした昭和46年(1971年)、現社号「大塩八幡宮」に復称した社務所石段の途中に社務所がある社務所付近からの眺め二の鳥居額には「八幡宮」手水幟には紫式部が暮らした福井県とある越前市は、紫式部が生涯でただ一度都を離れて暮らした地とのこと雄大な自然や文化に触れた暮らし、上質な越前和紙との出...大塩八幡宮(福井県越前市国兼22-2)

  • 瑞巌山 高源寺(兵庫県丹波市青垣町桧倉514)

    訪問日令和6年5月27日瑞巌山高源寺臨済宗妙心寺派の寺院円通寺、石龕寺とともに「丹波紅葉三山」の1つとして知られる大きな石には「高源寺」と彫られている紅葉で有名な寺院らしいが、新緑の季節も美しい惣門弘巌玄猊が柏原藩の支援により再建額の「丹丘勝處(たんきゅうしょうしょ)」は弘巌玄猊の筆惣門をくぐると、モミジのトンネルになる境内の大半のカエデは「天目楓」だが、山モミジ等のカエデもある紅葉の季節になると、この木々の葉が紅く染まる歩いてきた坂道を振り返ると惣門が見える先には白壁の建物が見えてくる山門(紫鳳楼)寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊による再建額には山号の「瑞巌山」と「西天目」高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派の本山甲斐(山梨)の「栖雲寺が東天...瑞巌山高源寺(兵庫県丹波市青垣町桧倉514)

  • 十九山 達身寺(兵庫県丹波市氷上町清住259)

    訪問日令和6年5月27日十九山達身寺平安時代前期から鎌倉時代の仏像が多数納められており、「丹波の正倉院」の別名をもつ寺伝によれば開山は行基菩薩曹洞宗の寺院石柱達身寺(たっしんじ)は丹波地方有数の千年以上の歴史を持つ古刹「丹波古刹十五ヶ寺霊場」第六番霊場になっている寺号の「達身寺」と彫られている寺名についていは、十九山の「達身堂(たるみどう)」を本堂としてこの地に移した為十九山達身寺(じゅうくさんたっしんじ)と名付けられた仏像拝観を目的で訪れたのだが、遠くに見える茅葺き屋根の本堂に魅了された戦国の時代、達身寺は、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であった織田信長が丹波平定を行った際、明智光秀が丹波の地を攻めた寺院は、焼かれてしまい、僧侶たちは仏像を近くの谷へ運び出したが、長い年月置き去りにされた元禄...十九山達身寺(兵庫県丹波市氷上町清住259)

  • 柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)

    訪問日令和6年5月27日柏原八幡宮(かいばらはちまんぐう)前日に訪れる予定が降雨により、1日延びたいつもなら通り過ぎた場所に戻ることはしないのだが、何故か気になっていた社号標鳥居額には寺号の「八幡宮」神馬厳島神社(表弁天)猿田彦神社先の見えない参道を進む初めて訪れたということもあり、先に何があるかも分からず上るのは辛いものだ先に建物が見えてきた祓殿ゴール地点と思っていたが甘かったつづら折りの参道がまだ続く若宮社手水舎鳥居拝殿・本殿(重要文化財)社伝によると、舒明天皇の御代(629~641)に出雲連が入船山に素戔鳴尊を奉祀したのが当宮の創始と伝えられている境内には、三重塔と釣鐘が現存し、神仏習合当時の景観を今日に伝える神社狛犬文久元年(1861年)柏原大新屋の上山孝之進・柏原北山の田口金次の寄進作者は丹波佐...柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)

  • 御嶽山 清水寺<播州清水寺>(兵庫県加東市平木1194)

    訪問日令和6年5月26日御嶽山清水寺<別称:播州清水寺>天台宗の寺院京都市の音羽山清水寺と区別するため「播州清水寺」と呼ばれる寺伝によると、天竺(古代インド)僧の「法道仙人」が創建したとされる仁王門この楼門は旧参道の頂上にあったが、昭和40年(1965年)の台風で全壊昭和55年(1980年)に場所をかえてこの地に再建した金剛力士像金剛力士像は、大正10年(1921年)に奈良の仏師菅原大三郎が作成(遺作)清水寺縁起坂上田村麻呂佩刀奉納画清水茶屋参道は緩やかな坂道が続くが、疲れが出てくる場所に茶屋がある手水舎薬師堂創建は、平安時代末期。平清盛の義母である「池禅尼」現在の建物は、昭和59年(1984年)檜材にて再建本尊:薬師如来十二神将平成13年(2001年)東京芸大・藪内佐斗司教授作これまで観てきた「十二神将...御嶽山清水寺<播州清水寺>(兵庫県加東市平木1194)

  • 鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑609)

    訪問日令和6年5月26日鹿野山(ろくやさん)朝光寺高野山真言宗伝承によれば、白雉2年(651年)、「法道仙人」が権現山に開基したとされる法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、伝説上の人物法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数ある参道令和2年10月に初めて訪れた時は、駐車場の場所が分からず苦労したことを思い出す新緑に包まれた参道と川の流れる音が心地よい山門寺伝によると、文治年間の創建三間一戸の八脚門形式は江戸初期から中期の様式仁王像本堂(国宝)4年前(この時は2年前だと思っていた)に初めて訪れた時にボランティアガイドにお世話になったこの日は日曜日でガイドが待機していることを知っていたので訪れてみた前回、お世話になったガイドの男性に声を掛け、以前お世話になったことを伝えた勿...鹿野山朝光寺(兵庫県加東市畑609)

  • 極楽山 浄土寺(兵庫県小野市浄谷町2094)

    訪問日令和6年5月26日極楽山浄土寺高野山真言宗の寺院開山は重源で、建久5年(1194年)の創建浄土堂<阿弥陀堂>(国宝)治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちたこの大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀国(現・三重県)、周防国(現・山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を創設した七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺であるこの地は播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であったこの地から西に約2kmのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる浄土寺の前身寺院とされる「広渡寺」があった建久5年(1194年)に広渡寺を現在地に移転して寺名を浄土寺...極楽山浄土寺(兵庫県小野市浄谷町2094)

  • 法華山 一乗寺(兵庫県加西市坂本町821-17)

    訪問日令和6年5月25日法華山一乗寺寺号標久し振りに国宝の三重塔を観たいと思い訪れた何年ぶりかなと調べて見ると平成26年(2014年)10月に訪れていた境内図受付所で拝観料を払う「ありがとうございます。よくお参りくださいました」と気持ちの良い挨拶をされる石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)鎌倉時代末期、正和5年(1316年)12月21日造銘文の奉献先には「金輪聖主」とある山号の由来一乗寺を開山した法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物法道は日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出したそこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したというここから急な階段が続くが、境内図によると違う道もあるようだ今回は階段の無い道を...法華山一乗寺(兵庫県加西市坂本町821-17)

  • 廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)

    訪問日令和6年5月25日廣峯神社(別称:広峯牛頭天王)奈良時代末、天平5年(733年)吉備真備が中国から帰国した際、広峯山系の白幣山に登臨して牛頭天王の信託を感受し、翌年に廣峯神社の大社殿を造営した2年前に「斑鳩寺・姫路城・廣峯神社」を訪れる予定でいたところが斑鳩寺に車で向かう途中、事故回避のハンドル操作を誤り左側の前後輪のタイヤを破損、自走できなくなりレッカー車で運ばれた応急処置をしたものの、不安もあり旅を終え自宅に戻った社号標廣峯神社のことが気になっていたこともあり訪れることにした途中、国宝姫路城を横目で見ながら通り過ぎ、姫路競馬場は気持ちは揺れたが我慢し通過、広峰山山頂にある駐車場に着いた城のような石垣だが、明治の神仏分離令までは天王山増福寺、広嶺山増福寺と称していた江戸時代は徳川将軍家の菩提寺であ...廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)

  • 斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

    訪問日令和6年5月24日斑鳩寺三重塔(重要文化財)拝観目的で、何度も訪れ発信しているので今回は写真のみ仁王像聖徳太子御二歳尊像聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)聖徳殿中殿・後殿(国登録有形文化財)講堂(太子町指定文化財)鐘楼(兵庫県指定文化財)三重塔(重要文化財)撮影令和6年5月24日斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

  • 大滝山 福生寺(岡山県備前市大内999)

    訪問日令和6年5月24日大滝山福生寺(ふくしょうじ)高野山真言宗の寺院奈良時代創建の寺伝をもつ山陽地方でも有数の古寺重要文化財の三重塔があることを知り、初めて訪れた奥深い山にあり、上り坂の途中に山門らしき建物があったが、この場所まで走ってきた現在、大滝山福生寺は宗教法人格を有せず、寺は「実相院、西法院、福寿院」の3つの子院によって維持管理されていることを後に知った鐘堂本堂(岡山県指定文化財)元禄14年(1701年)に書かれた縁起によれば、天平勝宝6年(754年)鑑真により創建されたとある平安時代初期、菅原道真が編纂した『類聚国史』には「天長5年(828年)6月備前国墾田四町六反為大滝寺田」とあり、法隆寺や唐招提寺と並んで記載されている平安時代中期の万寿元年(1024年)に大火により焼亡したその後、足利尊氏...大滝山福生寺(岡山県備前市大内999)

  • 和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1385)

    訪問日令和6年5月24日和気神社昨年春に初めて訪れた時、残念ながら社殿の修復工事中完成したことを確認しての参拝である石柱には「至誠」「精義」と刻まれている鳥居1霞(かすみ)橋日笠川に架かる橋で「俗界と聖界の境にある橋」とされる境内図清麻呂公銅像高さ4.63mの青銅製で、故朝倉文夫氏の作品昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して和気町に寄贈された和気清麻呂といえば何と言っても「道鏡事件」だが……女優・気象予報士の「半井小絵」さんが子孫であることにも興味を持っている日本一の大絵馬参道を進む狛いのしし1全国的にも珍しい狛犬がわりに「狛いのしし」猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされることから、清麻呂の守護とされてきたことに由来する鳥居2随身門本殿、拝殿に続き、明治...和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1385)

  • 真木山 般若院 長福寺(岡山県美作市真神414)

    訪問日令和6年5月24日真木山般若院長福寺真言宗御室派の寺院2年前に重要文化財の三重塔を拝観するために訪れたことがある天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった鐘楼門梵鐘本堂弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、明徳年間(1390年–1393年)に真言宗の寺院になった本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財ー伝行基作)宝蔵庫木造十一面観音立像、絹本著色十二天像図、絹本著色両界曼荼羅図、絹本著色動明王像図などの重要文化財を所蔵本堂側から三重塔を眺める三重塔(重要文化財)棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって...真木山般若院長福寺(岡山県美作市真神414)

  • 中山神社(岡山県津山市一宮695)

    訪問日令和6年5月23日中山神社(別名:仲山大明神・南宮)美作国一宮と本殿が重要文化財ということで楽しみにしていた鳥居と駐車場が近づくにつれ、記憶が蘇った(訪れたことがあると)鳥居(中山鳥居)額には社号の「中山神社」社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた寛政3年(1791)の建設。高さ8.5m、幅は7m弱、花崗岩製で柱は2分割、笠木は3分割されている角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調しているこのような形は他県にあまり例がなく、特に中山鳥居として一形式をつくっている調べて見ると2年前に訪れている記憶力に自信がなくなっているので帰宅後訪問地を記録しているのだが……2年前の写真を見ると、小牛の位置が今と違っていた老人の旅人の心に響く言葉だ狛犬1...中山神社(岡山県津山市一宮695)

  • 美作総社宮(岡山県津山市総社427)

    訪問日令和6年5月23日美作総社宮(正式名称:総社)カーナビでは案内された場所には何も無く、Googleナビでは不安になるような狭い道を案内された何とか社殿の傍にある駐車スペースに駐めることができた参道遠くに鳥居が見えるので、こちらが参道になる本殿が重要文化財に指定されているということで訪れた初めて訪れる神社で駐車場を含め、何処に何があるのか全く分かっていない手水舎拝殿「総社」という名の神社にはこれまで訪れたことがない調べて見ると、古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたこれを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになった当社はそのうちの美作国の総社にあたる「中山神社・高野神社」と並ぶ美作三社の1つであり、美作65郷912社を合祀している本...美作総社宮(岡山県津山市総社427)

  • 津山城(岡山県津山市山下135)

    訪問日令和6年5月23日津山城(別名:鶴山城)津山盆地の中央部に位置する城郭の形式は梯郭式平山城日本三大平山城のひとつ(他は兵庫県の姫路城、愛媛県の松山城)森忠政公像元亀元年(1570年)美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる天正10年(1582年)織田信長に小姓として兄らと共に召し抱えられる兄にはあの有名な「森蘭丸」がいる同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ親許に返されたこれが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ天正12年(1584年)兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死後家督を継ぐ豊臣秀吉に続き、徳川家康に仕え慶長5年(1600年)信濃川中島13万7千石を領す慶長8年、美作国18万6500石を与えられ津山に入封慶長9年より津山...津山城(岡山県津山市山下135)

  • すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

    訪問日令和6年8月1日すすきの祭り「花魁道中」すすきのの夏を彩る「第60回すすきの祭り」今年は、8月1日(木)~3日(土)の開催すすきの祭りの中でも最大のイベントが「花魁道中」だ進行方向がこれまでと変更され、札幌駅前通の南5条から南7条の豊川稲荷になった出発地点までの移動中の様子太夫役の二人も移動する新造役の二人「夢千代太夫」役は、さっぽろ名妓連こと代さん足元には高さ約30cmの下駄重さは7kg花魁道中の歴史を調べると、衣装や髪飾りが豪華になるにつれ、バランスをとるために高くなっていったという以前はススキノに勤務するホステスが選ばれていたが、最近は学生や会社員から選ばれている今年は、第60回という記念すべき年で芸者衆の出演となった午後8時15分開始の花魁道中だが、午後1時から太夫役の準備が始まったという付...すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

  • 瑞塔山 雲樹寺(島根県安来市清井町281)

    訪問日令和6年5月22日瑞塔山雲樹寺この日は、予定していた松江城と神魂神社に加え、八重垣神社と巡り道の駅に向かおうとしていた走行途中に「雲樹寺」の案内板が目に入り立ち寄ることにした手水舎この寺は今回で4回目になる駐車場から入ると手水舎に出る手水舎の蛇口として、龍の口や竜頭が使われていることを多く見かける龍が水を司る神様として崇められていたことに由来する仏殿の方を見るといつもと何かが違っている仏殿に向かう途中にある石仏「第二七番中国観音雲樹寺」とある貼られている紙には「南無地蔵菩薩」斜めになっている台座には「おかげさま」と彫られているこちらの台座には「南無観世音菩薩」と観音様に手を上げて迎えられているような感じがいい仏殿遠くから仏殿を見て違和感があったのは、これまで固く閉じられていた扉が開いていることだった...瑞塔山雲樹寺(島根県安来市清井町281)

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