【▼新エルサレムと天界の教義106-4隣人を愛するとは、全ての仕事と役割において、公正に善を行うことである。】当たり前の事なのに言われてみれば、私たちは自分の利得を優先させがちでは?/隣人語録より<隣人愛>
【▼旧約聖書-イザヤ書57章(15)いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。(16)わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。】今、私は思った自分の卑しい心を悔い改めて真の親(主なる神)元へ帰りたい!と。/隣人語録より<真の親>
【▼天界の秘義4220肉体の〈いのち〉にある間、主の神的なものを受け入れた人、つまり全人類にたいする主の愛を受け入れ、隣人にたいする仁愛を受け入れ、主にたいする相補的愛を受け入れた人は、来世で、理知と英知をいただき、筆舌を越える幸福を受ける。つまり天使になるからであり、本当の意味で、人になるからである。肉体の〈いのち〉にある間、主に属する神的なものを受け入れず、人類にたいする愛を受け入れず、主への相補的愛を受け入れず、ただ自分だけを愛し、むしろ自分に仕え、自分とこの世に属するものを目的として追求した場合、来世では、そこでしばらくの間過ごしたあと、あらゆる理知を失って、愚かきわまりない人となり、そこで地獄の愚者の仲間入りをする。】上記の言を読んで、私は"人で無し"という言葉を思い出した。来世に近い自分、天使...<現世と来世>
▼ヨハネ福音書8:(57)そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。(58)イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。(59)そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(協会口語訳/新約聖書)▼ヨハネ福音書20:(24)十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。(25)ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信...<真の神>
【人間のもとへ主から善が絶えず流入している。しかし、実際的な悪と遺伝的な悪の両者が、それ(主からの善)を受け入れないように妨げるのである。それで、これらのものが遠ざけられると、新しい意志が存在するようになるのである。このことは、不幸や悲惨や、病気にある者たちの場合には非常に明白である。何故ならこれらの者において、あらゆる悪の源である自己への愛と世への愛とが遠ざけられると、その人は神と隣人とについて良く考え、又その隣人の幸いを願うようになるからである。霊的な苦しみがあり、そこから内的な悲惨と絶望とが生まれてくる試練にあっても同様である。すなわちこの試練によって悪が遠ざけられるのであり、それが遠ざけられた後に、天界の善が主から流れ入って、それにより新しい意志が形成されるのである。天界の秘義5353/スウェデン...<新しい意志>
【人間は自分自身のためではなくて、他人のために生きんがために生まれたものである。真のキリスト教406/スウェデンボルグ著】上記の言葉はほんとうだと思っている。なぜなら、私は心が落ち込むたびにこの言葉を思い出し生きる意欲を頂いて来たからである。「あなたは何の為に生まれたか?」への真の答えであるに相違ない。隣人語録より<人生論の真髄>
★【▼黙示録講解659:1「埋葬されること」は、聖言では目覚めること又は復活することを意味する。それは人間は死んで葬られるとき、彼は目覚める、又は永遠の生命に蘇るためである。何故なら人間は死後、この世で生きていた時と同様に生き続けるが、自然界で人間に役立った物質的な身体を脱ぎ去り、霊的な身体の中でその生命を生き続けるからである。それゆえ埋葬は、彼が自然界で持ち回った言わば抜け殻を捨て去ることでしかない。】知らなかったとはいえ、上記の内容を安易に考えたら永遠の悔いに落ち入りそうな気がする。/隣人語録より<生命は永遠です>
【▼天界の秘義2371:5主がそのように命じられているとの理由から、善を行おうと努力する人々は、ついにこの善を受ける。彼らは後に教えられて、善はすべて主から発していることを承認し信ずる人たちである。そのとき彼らは自分の功績を考えるのみで悲しみをおぼえ、それに応じて祝福と幸福が減退して行くのを認めるようになり、自己功績に反感を持つのである。】『善は全て主から発している』とは、言いかえれば「御主のみが善であって、生来人に善は無い」と言うことである。小生はこのことに気付かなかった。生来人の善は似非ものだったのだ。つまりその善は後で見返りや自己功績を思うからである。真の善を心がけねば。。。/隣人語録より<善の確認>
★【▼天界の秘義1504他生(霊界)では他の人間は、たとえその人は何も語らなくても、近づいて来るのみでどのような性質の人であるかが知られている。このことから人間の内部は、一種の無意識な活動の状態の中にあって、そこからその霊の性質が認められていることを知ることが出来よう。】霊界に於いて人間は自分の性質を隠すことは不可能なのである。短いこの世の生き方を軽んじてはなるまい。/隣人語録より<人間の内部>
★【『我々の願望なるものは、我々のうちにひそかにひそむ能力の予感であり、我々が成し遂げうることの先触れである。ゲーテ』『全て物事は願望から生まれ、心からの願いはすべてかなえられる。エルバート・ハバード』】<願望>
★【人の苦しみをやわらげてあげられる限り、生きている意味がある。ヘレン・ケラー】"生きがい"を再検討しつつ実生活の改善を心がけたい!/隣人語録より<生きがい>
★【▼真のキリスト教610人間の再生は、一瞬では行なわれない。この世の生涯の終わりまで、さらにこの世を去った後までも、継続する。自分の内にある悪と戦い、勝利していかねばならない。】<再生の道>
お★【若き日に汝の創り主を覚えよ伝道の書12:⑴旧約聖書*(若き日=元気があるとき.の意)】「世事に慢心せぬよう.世人にいくら褒められようと,創り主なる神の"無限愛"を実感せずに現世を去ったら,人生がもったいない.」(余命幾ばくも無いので,元気なうちにと思って発信しました。よろしく)/KS氏の書簡より5<創り主>
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【▼新エルサレムと天界の教義106-4隣人を愛するとは、全ての仕事と役割において、公正に善を行うことである。】当たり前の事なのに言われてみれば、私たちは自分の利得を優先させがちでは?/隣人語録より<隣人愛>
【▼天界の秘義223主は、慈しみ、平安、そして善の全てであられるので、だれにたいしても顔を背けることはあり得ない。悪を隠すために顔を背けているのは人間である。人が悪の中にいれば、人の方が顔をそむける。主はイザヤ書の中で言っておられる。「あなた方の悪行は、あなた方と、あなた方の神との間を分け隔てている。あなた方の罪は、あなた方の眼から、み顔を隠している」(イザヤ59:2)。】弁解の余地がない。でも悪行を振り捨てて主の御顔を拝見できる人間になりたい。/隣人語録より<創り主のお顔>
【ツライのは、あんた1人じゃない。心でしか見えない愛があるから、人生は輝く。この広い宇宙はもとより実在するものは全て唯一の神人なる創り主によって創造された、と。自分の命を思うままに伸縮できないからには私たち一人ひとりに命を授けて下さったお方の存在を再考する必要があるような気がします。/隣人語録より】<創り主>
【特別なきまりがあるわけではない。ひとつだけ私が言えるのは自分がしてもらって嬉しいことを人にもしてあげなさい、ということだ。チェスターフィールド】これだ、ささやかな喜びをみんなと分かち合える人になりたい。/隣人語録より<シェアする>
Sさん「いつもありがとうございます。なんのお手伝いも出来ませんですみません、、、」隣人「やあこちらこそありがとう。年寄りの愚痴を聞いてくれて。“真の愛によって生きているものは永遠に若い”との言葉を耳にしたので、そうありたいなと思ったんだ。」/隣人語録より<いつまでも若い>
【歩けることは当たり前ではありません。(歩けない人たちがおおぜい居られます)見えることは当たり前ではありません。(見えない人たちがおおぜい居られます)/隣人語録より】<感謝の忘れ物>
『「人でなし」という言葉がある。人間として生まれながら、人間ではない人のことだ。』『へえっ!そんな人っているの?』『人間としての愛情を欠いている人のことなんだよ。今の世の中、そんな人が増えつつあるけど…』/隣人語録より<人でなし>
【▼神の摂理280・真のキリスト教409、539主はどんな人の罪をも赦され、責任の追及もされないが、だからといってその人の罪がなくなるわけではない。本人が悔い改めて、悪を遠ざけないかぎりは、その人は罪の中にとどまっている。すなわち救われていないのである。▼天界の秘義10042罪の赦しは、悪と虚偽から清められること、善と真理とを植え付けられること、善と真理とが結合すること、かくて再生すること以外のなにものでもない。▼天界の秘義3318再生により新しくされた人間は、依然悪への傾向を、否、悪そのものをすら保有しているが、しかし主の愛の生命の流入によって、悪から遠ざけられており、しかもそれは極めて大いなる力によって行われている。▼天界の秘義7697赦すことは、誰かを悪から見(考え)ないで、善から見(考え)ることで...<罪の赦し>
【▼天界の秘義8478:3神に信頼している人たちは、明日のために心づかいはするが心労はしない。ましてや不安などは持たない。望んでいるものを得ようが、得まいが心は穏やかである。自分に割り当てられた境遇に満足している。金持ちになっても富に心を置かない。名誉ある地位にあげられても自分自身を他の人より価値ある者とはみなさない。貧乏になったからといって、悲しまない。境遇がひくくても気落ちしない。神に信頼している者には、凡てのものは、永遠に幸福な状態に向かって進んでおり、時の流れの中で何が起ころうと依然として永遠の幸福につながるものであることを知っている。】(再)この安らぎ・・・!是非あやからせていただきたいと心から願っています。/隣人語録より<安らぎ>
【「読書であれ何であれ、どんなに小さくても義務感が湧くと嬉しくなる。義務を果たし終えたときには、喜びが倍増するんだもの…実践を大切にしたい。」隣人語録より】<実践>
▼天界の秘義5508:3現在、奇跡が行われないのは、そのため。見えるもの・納得のいくものが万事そうするように、奇跡は人に信仰を強制するからである。強制は、自由を失わせる。人の自己改革と再生は、いつも本人の自由のうちに行われる。自由のうちに植えられなければ、根づかない。人が善と真理の情愛の中にあれば、自由の中で植えつけられる(1937,1947,2744,2870-2893,3145,3146,3158,4031節)。<奇跡について>
【▼黙示録啓示376主は、人間に与えるものを前もって知っておられるのであるが、先ず人間が求めることを望んでおられる。それは人間がそれを自分自身から行うものとして行うとき、それがその人のものとなるためである。もしその祈願そのものが主から発しているものでないなら『何でも祈り求めるものを受ける(マタイ7:8・ヨハネ15:7)』とは言われなかったであろう。・・・・人間が先ず求め、祈り、その後主が答え、行なわれるのである。そうでないと、人間は神的なものを受けることができないのである。】「先ず」求めよと言われたのは単なる知識としてではなく、第二の天性を身に付けさせるためであったのだ!ありがとうございます。隣人語録より<求めよ>
【▼天界の秘義1050・1906・5342ほか残果(残れるもの)とは、主によって人間の内なる人の中に、幼少の頃から生涯の終わりに至るまでさへも、貯えられている善と真理のあらゆる状態である。主は残果を通して働かれる。】残果を通して全人類を愛して居られる創り主のお働きは涙が出るほど有り難い。「何たる幸いぞ残果(内なる声)に忠実な人は!」/隣人語録より(再)▼神の摂理330:(2)神の愛は、悪人にも善人にもすべての人間に行き届いている。したがって神的愛であられる主は、世の父親が自分の子たちに抱いている思い以上に、限りない配慮をしておられる。神の愛は無限愛なのである。主は如何なる人間からも離れ去ることはない。なぜなら、全ての人間の生命は主からのものだからである。主が悪人から離れておられるかのように見えるが、離れて...<残果>
【「創り主なるお方は、我らが願う以上に与えょうとして居られる。御主の無限愛を受けた証しを1人でも多くの人にお伝えして、人生の幕を下ろしたい。」信徒の証言】同兄は私ら老いぼれにも寛大な人で、「創り主なる神を知らないなんて人生がもったいない」と、彼の口ぐせは治らないようです。/隣人語録より<信徒の証言>
▼天界の秘義2335自分を罪に定めるものは人間自身である。何故なら彼は善をしりぞけるからである。彼は、身体の生命の中で善を避けたように、他生でも善を避ける。したがって天界と主を避けるのである。▼天界の秘義5851同じ霊が絶えず同じ人間と共に居るのではなく、その人の状態、即ちその情愛の状態に従って、又はその愛と目的の状態に従って交代し、前の者が退くと、他の者がそれを承け継ぐのである。一般に、人間と共に居る霊は、その人自身に似た性質の霊である。貪欲な者には貪欲な霊が居り、高慢な者には高慢な霊が居る。復讐を望む者にはそうした性格の霊が居り、詐欺を働く者には同じような霊が居るのである。人は自らの生活に応じて地獄から霊を呼び寄せるのである。】決定権は、個人の自由に委ねられているとは言え一度きりの現世が永遠の生活を左...<天界か地獄か>
【『孤独を嫌悪したり恐れたりする勿れ。孤独な時は自由であるばかりでなく、人生の真髄を知るためには絶対に必要だと言われている。』作者不詳】孤独って惨めなものですが自由であるとは気づきませんでした。お言葉ありがとうございます。/隣人語録より<孤独>
【▼新エルサレムと教義239人間の生命は死後も変わることは出来ない。それは生命の状態のままにとどまっている。なぜなら人間の霊の性質は、あらゆる点でその愛の性質と同一であり、地獄の愛は天界の愛には決して書き写されることは出来ないからである。それはその二つのものは相反しているためである(ルカ福音書16:26)。このことから地獄にいる者は永遠にそこに留まり、天界に入る者は永遠にそこに留まることが明白である。】何といっても、人間の生命が永遠である事はありがたい。しかし、心の状態はこの世の生き方で決まる。つまり自己改革のチャンスは現世しかないわけです。恥多き生活からは脱皮しておきたい。/隣人語録より<永遠に生きる>
【▼夢日記109私たちのどの一つの考えにも、実に私たちがほとんど純粋だと信じている考えの中にも、際限のないほどに、罪と不純さが付着しているのがわかった。それゆえ、いつ如何なる時でも、地獄へと罰せられる罪があると告白するのが最善だ。】マジで、私自身はこれまで仲間たちに比べてもさほど悪くはない人間だと思っていました。ところが折に触れて自己点検しているうちに、自分ではどうにもならない卑しい人間であることを確認しました。上記のお言葉に同感したのはもとより、一生忘れないことでしょう。/隣人語録より<自己点検>
【先輩曰く「大学を含め長年の学校生活で、いかに生くべきか、心の在り方について語ってくれた先生は1人も居られなかった。知識オンリーで、卒業後は医者か弁護士か学者など安定した職業人になることが目標であり、とにもかくにも名を上げさえすればよかったんだヨ」と。】今はどうだろう?/隣人語録より<知識オンリー>
【▼天界の秘義2694人間は自分の中に地獄(悪と偽り)を認め、しかも救われることに絶望する程度になると、自分の誇りも、また自分と比べて他の人をさげすむ思いも、打ち砕かれ、主の前における卑下に導き入れられる。その時はじめて、主からの慰めと救いを受けるのである。このようなことは自分の真の性格を承認する事なしには有り得ないのである。◇真理への情愛:新教会教義には、真理の情愛を引き起こす諸真理が無限にあります。次にその例をあげてみます。「神は唯一である」-「人のエゴは悪そのものである」-「🚫人が天界に入るには、再生が必要である」-「啓示者スウェデンボルグを通して、聖言の再臨は行われた」-「主の神人性の栄化により、あがないが完成した」-「天界には無数の社会がある」-「信仰のみでは救われない」-「主が人に怒りを発した...<自己卑下と救い>
【▼旧約聖書-イザヤ書57章(15)いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。(16)わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。】今、私は思った自分の卑しい心を悔い改めて真の親(主なる神)元へ帰りたい!と。/隣人語録より<真の親>
【▼天界の秘義4220肉体の〈いのち〉にある間、主の神的なものを受け入れた人、つまり全人類にたいする主の愛を受け入れ、隣人にたいする仁愛を受け入れ、主にたいする相補的愛を受け入れた人は、来世で、理知と英知をいただき、筆舌を越える幸福を受ける。つまり天使になるからであり、本当の意味で、人になるからである。肉体の〈いのち〉にある間、主に属する神的なものを受け入れず、人類にたいする愛を受け入れず、主への相補的愛を受け入れず、ただ自分だけを愛し、むしろ自分に仕え、自分とこの世に属するものを目的として追求した場合、来世では、そこでしばらくの間過ごしたあと、あらゆる理知を失って、愚かきわまりない人となり、そこで地獄の愚者の仲間入りをする。】上記の言を読んで、私は"人で無し"という言葉を思い出した。来世に近い自分、天使...<現世と来世>
▼ヨハネ福音書8:(57)そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。(58)イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。(59)そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(協会口語訳/新約聖書)▼ヨハネ福音書20:(24)十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。(25)ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信...<真の神>