日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
中央区宝町の国立映画アーカイブは、コロナ頃からチケットが、基本的に事前予約制のパソコン入力になった。それがなかなか上手くできず、以前の「京マチ子特集」など行けなくて困っていた。ところが、先週友人にスマフォで席を予約してもらい、入場できたので、日曜日は自分のPCで取ると無事できた。今度は、明日のも無事取れた。どうしてこうなったのか不明だが、出来るようになったのは、非常にうれしい。今度の特集は、普段は上映されない作品ばかりなので、ぜひ見に行こうと思った。チケットが取れるようになった
昨日は、国立映画アーカイブで、「かんけまり」特集を見た。かんけは、東宝のスクリプターから始まり、戦後は記録映画監督になった。4本が上映されたが、3本目の『ガジュマルは生きている』が、興味深かった。これは、沖縄返還を叫ぶ短編だが、なかで佐藤栄作首相が来て、「沖縄が戻って来なければ、戦後は終わっていない」の名言を残した。その通り、現在ではいろいろ問題はあったが、沖縄返還を実現したのは、すごいと言える。この沖縄返還を実現したことで、日本社会党などの野党は、政権を取る可能性を失ったと私は思うのだ。池田の所得倍増と佐藤の沖縄返還、この二つは大きかったいえるだろう。4本目の映画は、『鳴らせ自由の号笛』で、これは国鉄の動力車労組の、革マル派の支配に対する、共産党系の反対運動を描くものだった。これは、参議院選挙での、動労...佐藤栄作の功績
NHKの「バタフライエフェクト」の『ロックが壊した冷戦の壁』に、チェコスロバキアのハベル氏が出ていた。元劇場主のハベル氏は、当時は反体制人の一人で、当局に監視される人間だった。彼らは、しかしいろんなイベントをやっていたが、その一つが、日本の田中泯さんのダンスで、制作は田村光男だったが、そのことは今度出した本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』に書いた。後に、ハベル氏は、チェコの大統領になる。そして、2014年に田村が病死して、追悼イベントが行われたとき、ハベル氏名の弔事が来たのだった。ハベル氏が出ていた
1939年、東宝京都撮影所で作られた石田民三監督作品で、助監督が市川崑と毛利正樹。この二人は、後に東京に移り、東宝、新東宝の監督となる。原作は、人気作家吉屋信子で、高峰秀子ら、大阪の女学生の日常を描くもので、友人として清水美佐子らが出ている。他に、戦後加藤治子となる御舟京子がいたようだが、これは分からず。ここで、注目されるのは、恐らくはロケーションだった大阪の富豪な家の設えの立派さである。戦後、新東宝で谷崎潤一郎の『細雪』が阿部豊監督で映画化され、このとき市川崑が助監督で、「これは違う」と思ったそうだが、その理由がよく分かった。高峰の家は、芸者屋で、中で踊りや音曲の稽古が見られるが、その内部が実に豪華で、伝統の厚みを感じさせるものになっているのだ。こうした大阪の持っていた伝統と文化の厚みは、戦時中の空襲で...『花つみ日記』戦前の大阪の文化の厚みを感じる
トロッコというと、地方の列車のように思えるが、東京大田区の池上でも、トロッコがあったことがある。それは、池上の本門寺の崖のところに大田区民会館を作った時のことで、本門寺脇の崖から、呑川までトロッコの軌道が引かれて、土砂を運搬していた。当時は、トラックがまだ普及していなくて、工事での土砂の運搬にはトロッコが使用されていたのだと思う。そうした図は、成瀬己喜男監督の大映映画『あにいもうと』で、兄で肉体労働者の森雅之が働く、多摩川の土手での作業用のトロッコが出てくる。大田区民会館は、大ホールの他、結婚式場、会議室などもあり、そして図書館もある総合的な文化施設だった。ここには、豪華な詩集などもあり、埴谷雄高なども、ここで読んだのだ。また、大ホールでは、定期的に映画会をやっていて、ここでは『黄色いカラス』のような子供...東京にもあったトロッコ列車
国会への欠席を続けているNHK党のガーシー参院議員に対し「議場での陳謝」を科す懲罰が、参院本会議で22日、与野党の賛成多数で可決し、正式に決定された。【画像で見る】ガーシー議員VS鈴木宗男議員”場外乱闘”で舌戦も・・・ドバイに滞在し、去年7月の初当選以降、一度も登院していないガーシー氏に対し、「議場での陳謝」を科す懲罰が、参院本会議で22日、与野党の賛成多数で可決し、正式決定された。本会議では、NHK党の浜田政調会長が「少数派が多数派に排除されるそのプロセスを国民にはしっかりと注視していただき、現状の日本の政治の問題点、今後の日本の進むべき方向を考えて頂けると幸いだ」などと弁明した。欠席を理由とした懲罰は初めて。本会議終了後、立花党首は記者団に対し、「ガーシーは国会で誰かに迷惑をかけたわけではない。ただ国...早く除名すべきだと思う
先日、あるイベントのためにパシフィコ横浜に行って話を聞くと、4月には放射線医学会総会・展示会が行われるとのことだ。これは、私の記憶では、パシフィコ横浜開業以来ずっと横浜でやってくれているコンベンションで、多分最初に横浜での開催を決めてくれたイベントなのだ。当時は、高橋利男さんの後任として、JTBから井上幸一さんが来ていて、彼が中心となって営業した結果なのだ。当時、私は、企画係長としてウォーマッド横浜などの、オープニングイベントのことを中心にやっていて、その点では井上さんに大変お世話になったものだ。そして、2001年夏に、脳梗塞で倒れて、滝頭の脳血管医療センターに入院した。そのとき、MRIをはじめ、ペットなどの多数の放射線医療機器のお世話になった。その時、思ったものだ、「情けは人のためならず」と。私が寄与し...「情けは人のためならず」
再び、『昭和天皇拝謁録』に戻る。中で一番の問題点は、昭和天皇は、戦後、日本国憲法が制定された後でも、自分は日本の元首だと思っていたことだろう。1953年5月18日のことで、首相を「認証しないこともある」と言ったことだ。この時の政治体制は、吉田政権だが、保守は分裂していて改進党があり、社会党では左派が優勢になっていた。そこで、かつての芦田政権のような、改進党と社会党との連立政権のようなことを考えたのかもしれないが。このときも、もちろん首相を認証しているのだが、ときどき自分は「象徴」とされたが、それでも日本の元首なのだとの考えが出ることがあったようだ。そのたびに、リベラリストであった宮内庁長官の田島に、諫められている。大正時代末期の摂政の時代から、1945年まで、元首的存在だった昭和天皇にとって、天皇は本来元...昭和天皇は、自分を元首とみなしていた
今回出した『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』では、パシフィコ横浜の人についても書いた。本当は、もっと面白いこともあったのだが、他人への批判となる可能性もあるので止した。もう一つ書いたのは、社内の部長以上に人にしたが、課長で一番にお世話になったのは、上司の営業課長の高橋利夫さんである。彼は、私とまったく同学年で、JTBから出向してきたが、都立桜町高校から東大文学部に入られた方だった。非常に優秀で、面白い人で、私は「コンベンションの営業」を教えてもらったのだ。彼は、JTBでは、国際旅行にいた方で、世界中に添乗員として旅行されていた。いろいろと聞いたが、一番すごかったのは、イスラエルに行った時のことで、山本七平先生とアラブの遺跡を辿る旅だった。途中で道に迷い、戦場に入ってしまい、兵隊たち...高橋さんのこと
先日の「昭和天皇拝謁記」からには、いろいろと面白いことが出ていた。1953年1月には、秩父宮が死去されている。よく知られているように秩父宮は、陸軍青年将校らに近く、2・26事件の黒幕の一人とされた西田税とは、士官学校同期生でもあり、青年将校らに同情的とされて、昭和天皇を悩ませた。このことから、「昭和天皇と他の兄弟の父親は別」との説が生まれてきた。明治天皇までは側室がいたのだから、それも変ではなく、特に大正天皇は、心身に障害があったとされていたので、「別の種を」と望んだのは無理もないことだ。そして、3月にソ連のスターリンが死去し、マレンコフ、さらにフルシチョフが権力を握るようになる。国内情勢では、次第に吉田茂の力が低下していき、自由党でも鳩山派が出来てきて、他に改進党もあり、保守は分裂していた。社会党も右と...昭和天皇の好き嫌い
答えは、「東宮ちゃん」である。山田朗先生の田島道治の『昭和天皇拝謁記』を読むの中での、昭和天皇の言葉で、17日は、1953年の前半で、非常に興味深い言葉があったが、これが最高だった。山田先生は、昭和天皇のことを「かなりの親ばか」と呼んでいるが、その通りだと思った。昭和天皇は、皇太子をなんと呼んでいたのか
ユーチューブには、かなりオーディオについてのサイトがあり、見ている。私は、本にも書いたが、中学時代はラジオ少年だったので、オーディオにも興味はある。池田圭と言えば、オーディオの世界では、神様のごとき人である。高校の同級生に、カメラマンになったIという男がいて、彼が雑誌の仕事で、池田邸に行ったそうだ。田園調布の邸宅の地下にリスニングルームがあったとのこと。そこで、大先生がお聞きになっていたのは、沢たまきの『ベッドで煙草を吸わないで』だった。もちろん、沢たまきが悪いわけではなく、元ジャズシンガーの彼女の歌は悪くない。ただ、池田先生なら、せめて武満徹か黛敏郎くらいを聴いていてほしかったなあと私は思うのだ。池田圭先生は、沢たまきを聞いていた
一昨日に見た「ノア美容室」の、美容と理容だが、これは国家試験資格の合格が必要で、開業には保健所の許可がいる業種なのである。昔、ある保健所にいたとき、理容室の開業許可に立ち会ったことがある。結構、さまざまな事項がチェックされるもので、担当者が厳しい人だったので、いろいろ言うと店の者と喧嘩しそうになった。それは、その店が、低価格で組合に加入しないチェーン店の一つだったので、それを妨害してるのではと店の人が誤解したように見えた。別に、保健所が、非組合店を妨害している事などないのだが。その後、係長に、「なんで理容、美容は、こんなに厳しい許可をしているのか」聞いてみた。彼の答えは、「首から上のことで、なおハサミや剃刀などの危険な物を使っているからでしょう」とのことだった。ちなみに、エステや全身美容等は、一応首から下...理・美容について
民藝の公演を新宿のサザンシアターに見に行くが、寒くて参る。話は、作者のナガイヒデミの故郷の瀬戸内地方の美容院・ノアで起きるドラマで、悪くはないが、なんともぬるい作品だった。美容師は、昔から女性の仕事としてあったので、劇や映画になっており、渋谷実の映画『もず』でも、主人公の有馬稲子は、地方から出てきて東京で働く美容師だった。この劇では、主人公は日色ともえで、そこは近所の高齢者たちの居場所、息抜きの場となっている。そこが、高速道路の建設予定地になり、息子で地方銀行の支店長は、自分の預金獲得のために早く売って預金してくれと懇願してくる。孫で大学生の娘は、美容師たちの話を聞き、生活史・民俗史として卒論としようとヒアリングする。この辺は、面白いが、どこにもドラマがない。二幕目は、村の生まれで、海外に行っている報道写...『ノア美容室』
去年、私が出した本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』で、早稲田大学の劇団演劇研究会に入っての最大の事件は、林裕通さんに会ったことだと書いた。この林さんは、ある意味で不思議な人で、世界最長の中里介山の小説『大菩薩峠』を読み通したという人なのだ。たぶん、近所にあった貸本屋で借りて読んだのだろうと思う。感想を聞くと、「最後は、同じことの繰り返しだった」とのことだ。まあ、奇特な人には違いない。なにしろ、二浪して8年生だったので、私が会った1966年には、28歳だったのだ。「大学にはいろんな人がいるなあ」と思ったものだ。『大菩薩峠』を読んだ人林裕通さん
1967年のこと、トルコに遊びに来たアメリカ人のビリーは、小遣い稼ぎにヘロインを買い、体に身に巻き着けて出国しようとする。空港で、飛行機に乗る寸前に警察に止められる。当時、頻発していたテロ事件と間違えられたのは、不幸というしかない。大使館の男は、「君たちは、新聞を読まないから知らないだろうが、テロ事件が起きていたんだよ」と言い。そして、裁判になり、4年の刑が宣告されて、獄に入れられる。そこは、雑居房で、さまざまなトルコ人がいて、およそ地獄絵図である。ほとんど暴力も犯罪的行為も野放しで、異国人のビリーはいじめられる。このトルコの監獄の描き方には、問題があるとしてトルコから苦情があったようだが、相当に誇張されていると思える。監督はイギリス人なので、比較的客観的にも見えるが、まあ当時はこんなものだろうと思う。公...『ミッドナイト・エキスプレス』
1973年だったと思うが、不連続線という劇団が『日本沈ポコ』という劇を上演したことがある。横浜市南区南太田の元横浜国立大学の跡地に、テントを張って公演したのだ。作・演出は、菅孝行。私が今までに見た劇で、確実にワースト3には入る出来だった。いろいろあって1時間くらいで終わったが、終わったという気がせず、観客がみな唖然としていると、管が現れて、「終わりです」と言ったのだ。そのくらいひどい芝居だったが、女優では、元早稲田小劇場の高橋美智子が出ていたのは、憶えている。彼女にとっては、忘れてもらいたい実績だろうが。『日本沈ポコ』
今日の朝日新聞には、埼玉県の「新しき村」は、今は3人しかいないと出ていた。だが、日本映画界の重鎮の一人、小国英雄は、この新しき村にいた方なのである。もっとも、小国がいた時は、埼玉ではなく、宮崎県にあったようだが。小国は、脚本家として多くの弟子を持ったはずだが、黒澤明映画にも多大な貢献をしている。黒澤の持つ、ある種の理想主義は、小国が持っていたものでもあると思うのだ。共に、大正時代に育った人間である。新しき村の経験者小国英雄
元東宝の監督だった木下亮の「撮影監督の世界」のタイトルに、溝口健二監督の『新平家物語』の、有名な祇園祭りのシーンが出てくる。その踊りの連中の振りが、すべて「なんば」なのだ。なんばとは、日本舞踊等の伝統舞踊の動きで、手と足が、同時に出ることで、日本人の動作の基本なのだ。明治維新以後、強兵を作るために、行進の動作の手と足が交互に出る動きになったのである。かつて武智鉄二などは、うるさく言っていたことだが、溝口健二作品では、きちんと守られている。『新平家物語』のなんば
1973年の東宝作品で、言うまでもなく大ヒットした。これによって東宝は、1960年代中頃からの混乱を抜け出して、大作路線に転換する。同時に、スタッフ、キャストの大幅なリストラを実行し、三船敏郎の三船プロなどが、それを受け入れ、本格的にテレビ映画へと移行してゆくことになる。現在、CS等を見ると、結構充実したテレビ映画があるが、これはそうした映画界のリストラの結果だったともいえるだろう。話は、小松左京原作のSFだが、本人の他、物理学者の竹内均なども出てきて、作品にリアリティを与えている。この映画によって、普通の人は、今では常識のプレート・テクトクス説を知ったと思う。ここで、すごいのは、物理学者の小林桂樹の造形で、ほとんど異常に近い表現で、最高である。多くの俳優が出ているが、河村弘二などと言う人が出ているのがう...『日本沈没』
『恐るべき16歳・少女妻』 星輝美は、広瀬すずよりも可愛い!
1960年、新東宝映画、監督は渡辺祐介の初作品である。セーラー服姿の女子高生たちが、校舎からいっせいに町に遊びに出て、喫茶店に入り、二階に上がると、鑓りてのような女がいて、「いつまでそんな格好しているんだ」と言って着替えさせる。これは、少女売春をさせるための衣装なのだ。ボスは、御木本伸介で、いつもパイプでタバコを吸っている。主人公の少女は、星輝美で、相手のチンピラは鳴門洋二で、二人は夫婦である。だが、ある日、御木本から「人事異動!」が宣告されて、星は御木本の妻にされる。まるで昔の巨人軍みたいだが、ここは「売春株式会社」なのだろうか。御木本曰く、「いつまでも同じだと安住して稼がなくなる」とのこと。場所は、主に新宿で、歌舞伎町あたりがロケーションされているのは、貴重な映像である。そこに、昔の御木本の仲間の天知...『恐るべき16歳・少女妻』星輝美は、広瀬すずよりも可愛い!
大阪の「ララいずみ」さんのユーチューブによれば、大阪環状線から新大阪に行っている貨物線が、今度は地下で大阪駅にも入るようになると変更されると出ていた。これは、大阪駅、東京で言えば、新宿駅や横浜駅などは、貨物線があったが、出来る限り迂回していた。それは、乗降客の多い駅では、貨物は事故がある時は危険だ、として迂回させていたのである。古い人なら、「新宿米タン闘争」というのがあったことを知っていると思う。これは、鶴見の米軍石油貯蔵所から貨物線を使って航空燃料油槽車両を北上させ、ベトナム戦争のために、新宿から中央線で米軍の横田基地等へ輸送していたので、中核派等が騒いで、「ベイタン闘争」にしたものである。だから、横浜駅でも、根岸線から来た貨物線は、桜木町駅で降りて、高島駅を通過して横浜駅を迂回するようになっている。大...貨物線は、主要駅を通過してはいけない
4月に行う予定のイベントのため、パシフィコ横浜に行く。大きな会議は入っていなかったが、展示ホールで、青山学院大学の入学試験をやっていた。聞くと、大学の入試は結構あるとのこと。以前は、入学や卒業式が良く行われていたが、入試までも行われるようになったとのこと。帰り、周囲を見るが、高層マンションが多く建っているのに驚く。1993年には、パシフィコ横浜の中心のプラザで、「ウォーマッド・コンサート・プラザ」をやった時は、閑散たるものだったが。30年の変貌ぶりにはさすがに驚く。大学の入学試験をやっていた
1962年の『座頭市』シリーズの最初であり、監督は三隅研次である。1966年に早稲田に入り、映画研究会にも入ったとき、2年上の松本さんや照喜名さんらは、「座頭市もカラーではなくて、白黒時代が良かったね」と言われていたが、その頃私は、この1作目は見ていなかった。当時、「カツ・ライス」の大映作品は、名画座等で上映されることは少なく、そこでは日活や東映が多く、『座頭市』も1作目はみていなかったのだ。これを見ると、後の作品で展開される手は、ほとんど出されていることが分かる。盆の代わりの茶碗で、その外に落ちて出たサイの目に皆が掛けるが、本物の賽子は茶わんの中にある、という手も、冒頭で使用されている。ここでは、卑劣なヤクザの下っ端として出てくる南道郎が非常に良い。南の妹が万里昌代で、これも最高に良い。飯岡助五郎が、柳...『座頭市物語』
1962年の松竹京都作品、喜劇と名乗っているが、センスが古くて参るが、テンポはあるので、見られる。監督は、市村泰一。関西と東京の喜劇人協会の合同作品となっているが、実際は、関西喜劇人協会会長伴淳三郎のものだろう。伴淳は大阪のヤクザの親分で、多くの子分を抱えているが、東京の大学に行っていた娘の環三千代が急に戻って来る。原因は、東京の検事森繁久彌の息子佐々木功と恋仲になったが、「親がヤクザなので結婚はダメ」と悲観して戻ってきたのだ。そこで、伴淳はヤクザを辞め、子分もクビにして、大阪の団地に住む。そこはどこか分からないが大きなところである。芦屋雁之助と小雁の兄弟は、テレビ局で暴力事件を起こして留置所に入れられ、そこでペテン師の渥美清に会う。団地には、「文化人協会」というものがあり、インチキくさい自称文化人がサロ...『団地親分』
「せっぶんは、英語で言えば、キッスです」またしても、春風亭柳昇ネタである。せつぶんは、
『明日に向かって撃て』を見たので、『ワイルド・バンチ』も見たくなり、久しぶりに見るが、やはり満足した。この話は、『明日に向かって撃て』の続編的内容で、「壁の穴強盗団」のその後なのである。1913年の設定となっていて、南テキサスのある町、そこでは禁酒の集会が開かれていて、牧師が酒の害を叫んでいて、婦人会の連中が聞いていて、ついにはパレードに出る。そのとき、ウイリアム・ホールデンのパイクを首領とする強盗団が、鉄道の事務所を襲って現金を奪おうとするところだった。さらに、対岸のビルの屋上には、ロバート・ライアンのソーントンら、鉄道に雇われた賞金稼ぎの連中が襲撃を待っているところだった。つまり、鉄道は現金輸送の噂を流して強盗団に襲わせて、一網打尽にしようとしていたのだ。鉄道保安官は、ハリガンと、『明日に向かって撃て...『ワイルド・バンチ』
『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を知人等に献本して言われるのは、「指田さんが、こんなことやっているなんて知らなかったよ」である。特に上司がそうで、私が役所での仕事の他に、密かに『ミュージック・マガジン』等で原稿を書いていたことは知られていなかったのだ。これは、私の「塩沢化計画」で、映画『ある殺し屋』で、主演の市川雷蔵が、1作目では、小料理屋の主人、2作目では日本舞踊の師匠だが、実はすごい殺し屋、という二重性を目指した結果なのだ。1作目では、雷蔵は塩沢で、2作目の『ある殺し屋の鍵』では、新田なのだ。どちらも、監督は大贔屓の森一生で、撮影は宮川一夫、音楽も鏑木創と同じスタッフの仕事なのだ。この秀作が、たった2本で終わったのは、大映京都に、市川雷蔵の現代劇をよく思わない幹部がいた性だと...塩沢化は、成功していたことになる
先週、BSで『明日に向かって撃て』をやっていたので、久しぶりに見た。最初に見たのは、1971年7月で、有楽町の有楽シネマで、『俺たちに明日はない』との2本立てだった。まさにアメリカン・ニューシネマ全盛時代だった。有楽シネマは、駅近くにあり、邦画と洋画が月替わり等で上映される館だった。私の周辺では、この2本の内、『俺たちに明日はない』の方が人気があったが、私は断然に『明日に向かって撃て』だった。高校時代から、私は日活の蔵原惟繕が好きでその弟子筋の藤田敏八も大好きだったが、これの延長線上で『明日に向かって撃て』が良いと感じられたのだ。映像的で、どこかユーモアを感じるからである。そんなことを下川博と話している内に、劇を書いてみれば、となった。『明日に向かって撃て』だけでは、短いので、その続編的な『ワイルド・バン...『明日に向かって撃て』から
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳