日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
土曜日の東京新聞の書評欄で、紹介されました。1991~1996年に横浜で毎年開催された国際的音楽イベント「ウォーマッド」。アフリカ、アジア、欧米の音楽家が多数来日し、日本からは坂本竜一、都はるみらが出た。横浜市の元職員で、企画にあたった著者が自分史を交えてつづる。幅広い出演者が複数の舞台で並行して演奏するウォーマッドの精神は、現在の野外音楽フェスにつながると指摘。関係者の寄稿なども含め、貴重な記録だ。(Pヴァイン発行、日販アイ・ビー・エス発売2200円)東京新聞で紹介されました
一昨日、シアターχで、志賀さんにお会いしたとき、『美と恋の位相・93』をいただいた。写真が多く、かなり豪華な雑誌で、季刊とのこと。美術大学の若い女性などに人気で、この号には志賀さんは、3本書かれている。こういう雑誌もあるのか、と思う。『美と恋の位相』をいただく
昨日の午後は、磯子区中原で行われた「山下ふ頭再開発を考える意見交換会」に行く。この辺は、昔住んでいたところの近くで、よく散歩していたが、年の性か新杉田駅から遠いのに参る。この日も、ファシリテーターなる横浜港のことなど、ろくに知らない助言者が司会をする。6人ほどのグループで、私の他は、元県庁の職員だった村上さん、栄区の藤田さん、大学に勤務していたという人、さらに匿名の若者で、やはりファシリテーターなる者をやっている人、さらに20代の男女が一人づつ。今、「職業としてファシリテーターがあるのか」と驚くが、それなら「まずファシリティー、横浜港の施設をきちんと勉強してこい」と言いたくなった。村上さんは、自分で「金沢区八景の横浜市立大学をここに移転させる」というプリントを作ってきて配る。きわめて文化的な発想で、こんな...夢を語らせて喜んでいるのは誰だ
門田が死んだそうだ、74歳で、私と同じだ。門田で、思い出すのは、幕末に人斬り彦斎と恐れられた河上彦齊である。門田は、身長170と大きくはなかったが、王、野村に次ぐホームラン3位の記録である。彦齊も、150センチくらいで、やさ男だったらしいが、非常な人斬りだった。映画では、女形の中村扇雀が演じたほどだった。要は、体の大きさに運動神経は関係ないということだろうか。人斬り彦斎を思い出す門田博光、死去
私が苦手なのは、シャンソンと能なのだが、制作の斎藤朋君から案内をいただいたので、両国のシアターχに行く。ここも、もう昨年に30年を過ぎたのだそうだ。わがウォーマッド横浜91と同時代なのだから、立派なものだと思う。Ⅰの「観世寿夫を読む」は始まっていて、観世の「世阿弥を読む」などの朗読が、清水寛二さんによって行われていた。なにせ、本の朗読であり、動きもなにもないので、私の前の席の女性は、ずっと寝られていた。しかし、観世さんの言うことは、すべて正しく、その通りと思えるご指摘ばかりで、観世氏の凄さを再認識した。休憩中に斎藤君から、志賀信夫さんを紹介される。以前おられたテレビ批評の志賀さんとは同姓同名だが、こちらの志賀さんは、舞踏批評家である。「テレビ批評の志賀さんは、もう亡くなられているが、年取った人からは、未だ...唐十郎の芝居を思い出した『しみかん曼荼羅・モノガタリ』
前回に書いた下川とやったメークアップショーの企画は、マックスファクターから来たものだった。マックスは、よく知られているようにハリウッドのカラー映画の女優のメイクで有名になった会社だった。監督の大島渚も、1950年代の松竹大船撮影所でのカラー映画撮影には、必ずマックスのメイクアップ・アーチストなる女性がきて、撮影に立ち会っていたと書いている。カメラ、照明等の準備がすべて整い、「いざ本番」となると、この姉ちゃんが出てきて、「待った!」と言い、再度女優の顔塗りをやったのだそうで、「メークをやり直さないとまずいのですか」とスタッフが聞くと、「絶対に映りませんから・・・」と断言したとのこと。撮影の邪魔ばかりしているので、「あの女のジュースに下剤を入れて、スタジオから追放しろ」と大島も思ったそうだ。だが、このメークア...外資系化粧品会社は
昨年の今頃亡くなった友人の下川博とは、芝居だけではなく、いろんな企画を一緒に考えたことがある。と言うのも、彼は大学院を出た後、すぐには定職につかなかったので、その間、いろんな企画をさがしていたのだ。私も、彼が持ってくる企画に一緒に考えたことがいろいろあった。その一つが、アメリカの某化粧品会社が、日本で新製品を発売する時のキャンペーンだった。全国キャンペーンで、「金になる」とのことで、知り合いの広告代理店の人から来たものだった。1週間、二人で寝食を共にして、いろいろと考えた。最後にできたのは、「メークアップ・ショー」だったので、ある若い女性の数か月を描くというもので、上京、恋愛、結婚等を経るもので、最後はファッションショーにして、結婚式に、だった。企画と筋を出したが、数週間後に返事が来て、残念ながらダメだっ...下川博とやった企画
映画『東京裁判』は、非常に公平な見方の作品だが、中で一つだけ問題なのが、南京事件の部分で、中国側が作った先導的映画を挿入しているところだろう。それについては、荒木正也さんなどスタッフも反対したが、小林正樹監督が、「どうしても入れたい」として入れたフィルムである。そこで、「これは中国が作った宣伝映画である」とのコメントを入れることになった。戦時中は、ソ連国境近くの満州の部隊にいた小林正樹監督の実感から来たものだろうと思うのだ。映画『東京裁判』の問題シーン
最近読んだ本では一番面白かった本である。荒木氏は、大学卒業後、松竹に入り、大船撮影所で制作を担当する。いろんな作品があるが、一番重要だったのは、小林正樹監督の『人間の条件』である。その3・4部の、満州を舞台とした作品は、北海道での長期ロケで撮影したのだが、スタッフ・キャスト120人、貨物列車120台を組んで行かせたのだとのこと。当時のことなので、恐らく国鉄のチッキで送ったのだと思うが、これも実に面倒なものだったらしい。先輩の林さんは、大学に入ったころは、ドサ廻り、つまり地方公演があったそうで、そのために装置、衣装等をチッキで送ったとのことだ。そして、荒木氏は、松竹を辞めて博報堂に入る。そこでも、映像企画をやっていたが、ついに博報堂・講談社が製作していた『東京裁判』に関わり、小林正樹監督の下で、制作を担当す...『映画の香気』荒木正也
1960年、松竹京都作品、監督は大曾根達保で、主演の明智光秀は松本幸四郎(先代)で、息子の当時市川染五郎も、織田信長の側近の森蘭丸で出ている。織田は、田村高広で、妻の濃姫は淡島千景、娘の一人は岸恵子で、もう一人は北条喜久子である。筋は、普通に進行し、明智が、なんども信長に裏切られ、恥辱を受けて、遂には本能寺での変に至る。秀吉は、河津清三郎で、いつもの悪役だが、おかしいのが徳川家康の嵐勘十郎で、わざわざ新東宝から迎えているほどの大作だったのである。その他、秀吉の間者で、最後は光秀に殺されるのが、石黒達也と、なかなかの配役である。この時期は、大船では、大島渚らのヌーベルバーグが出ていた時だが、松竹全体としては、このような映画だったのである。脚本は、池波正太郎で、彼は、後に『剣客商売』『鬼平犯科帳』などの多数の...『敵は本能寺にあり』
去年亡くなった下川博脚本の代表作だろう。杉山義法との共作となっているが、当時下川の言っていたところでは、杉山はほとんど書いていなくて、下川が書いたとのことだ。話は、安宅の関で、中村吉右衛門の弁慶が勧進帖を読み上げるところで、富樫は児玉清。最後、見せろと言うところで、弁慶は白紙の勧進帖を見せる。ここは、「良い」と褒められたそうだが、忠臣蔵にもあったような気がする。そして、弁慶に先に行っていた義経たちをまた、別の関の役人が咎めると、ここで弁慶は義経を「新参者め!」と打擲し、詮索を逃れることができる。まあ、元が良くできているので、出来たシナリオだろう。時代劇専門チャンネル『武蔵坊弁慶29話』
松竹映画の指導者だった城戸四郎は、シナリオが大好きで、上がってくる企画には、必ず目を通した。そして、聞いた「どんな映画か一言で言え」と。そう考えると、映画のポスター等に掛かれる惹句は、まさに城戸四郎への返答だったわけだ。この一言で言えは、非常に意味のある表現で、私も役所にいるときは、部下が持ってくる企画の説明に行った言葉だった。だいたい、一言で言えないような企画は、まずだめなのだからである。『惹句術』から思ったこと
昨夜は、新宿の紀伊国屋で行われた、関根忠男さんと鈴村たけしさんとの文庫本『惹句術』のトークショーに行く。新宿に夜に行くなんて、何年ぶりだろうか。ルミネから甲州街道に出るが、こんなに下がる道だったのかと思う。『惹句術』は、元は単行本として出たが、二度目の文庫化なのだそうだ。元東映にいた関根さんなので、いろいろな話が出たが、いちばん面白かったのは、映画『新幹線大爆破』の主役が、菅原文太だったが、「電車が主役の映画に出られるか!」と断ったので、当時やや不振だった高倉健に行ったとのことだ。確かに、あの実行犯は、高倉健が際立っていて、残りは山本圭、織田あきらなどのやや弱い俳優連中だった。しかし、もし菅原文太が、犯人を演じていたら、映画はもっとリアルになったはずで、高倉健のようなややメロドラマ的な抒情性にはならなかっ...最初は菅原文太だった『新幹線大爆破』
1958年のアーサー・ペン監督の作品で、主演はポール・ニューマンで、演じる役はビリー・ザ・キッド。21歳というには、少し年取りすぎているが。ビリーは、リンカンの町で、世話になった男が殺されたことから「復讐だ」として、2人を殺してしまう。そこにパット・ギャレットが保安官となって、ビリーを追う。原作は、テレビで、脚本は、『マイラ』のゴア・ビダルとのことで、相当に変な人間に造形されている。言ってみれば、ジェームス・ディーンのような不良少年というところだろうか。ビリーは、さらに二人を殺し、ギャレットに逮捕されるが、逃亡してメキシコ近くの友人の家に来る。そこから出てきたところで、ギャレットに撃ち殺される。だが、このときビリーは、丸腰だった。ビリー・ザ・キッドは、この後、なんども映画化されているが、これが最初のようだ...『左ききの拳銃』
『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』で、新しい間違いを見つけた。劇団俳優座が、その俳優の養成所を止めたくだりで、「桐朋学園に移行させた」のことで、正規の4年生の大学と書いたが、桐朋学園の演劇系は、実は4年制ではなく、2年生の短大なのだった。いまどき、絶滅危惧種のごとき短大とは気がつかなかった。桐朋学園で、本来の音楽は4年制だが、演劇は短大なのだ。また、この短大には音楽系もあるようだが、それはどのような趣旨なのかは、不明である。しかし、2年で演劇がきちんと教えられるものなのろうかとは思うが。間違えがあった桐朋学園
『ウォーマッド横浜 歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を配った
横浜稲門会のカラオケクラブの例会で、『ウォーマッド横浜歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を、日頃お世話になっている皆さんにお配りした。ご迷惑なら、近所の図書館か地区センターの図書室に寄付していただきたいとお願いした。ブックオフに持って行っても、50円くらいにしかならないのだから。1月11日、水曜日の夜のことである。『ウォーマッド横浜歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を配った
先日、堀川監督の作品を見て、思ったのは、吉村公三郎とのことだ。どちらも、東宝、松竹の看板監督だったが、最後は必ずしも良くはなかったように思える。吉村の場合は、新藤兼人と共に、松竹を自ら辞めた性だが、堀川監督の場合は、東宝で次第に活躍する場所がなくなり、最後は東京映画での『アラスカ物語』の失敗で、東宝系から出て、独立プロで作品を作るようになる。どちらの監督も、その作風が、時代と合わなくなったからだと思う。吉村は、「風俗映画」の監督で、女性映画に秀作を作っていた。だが、1960年代中頃からピンク映画、さらに日活ロマンポルノになると、次第に時代とのズレが目立つようになる。ポルノ映画が、次第に過激な表現になるのに対し、吉村は、やや微温的で、その性的表現は、「お笑い的」になってしまう。セックス・シーンで、水槽の中で...堀川弘通と吉村公三郎
こう書くと不謹慎と言われるかもしれないが、近年一番に笑った作品である。早川雪州が演じる山下が、非常に世間離れしていておかしいからだ。本当に見ていて、実におかしい。もちろん、敗戦直前のフィリピンの戦況自体が、悲喜劇的なのもあるが。山下が、フィリピンに赴任し、ルソン島が決戦だと言われていたのが、すぐにレイテが決戦だと変更される。山下は、現地の防備がひどいことに唖然とするが、同時にこの作戦変更にも驚く。だが、軍人は命令に従うのもだとして、参謀長として新作戦を持ってきた武藤章元軍務局長の指示に従って作戦を遂行するが、もちろん米軍の圧倒的勢力に叶うわけもなく、敗走に次ぐ敗走。そして、軍隊以上に悲劇なのが在留邦人で、軍と一緒に逃げて、これもほとんど飢餓地獄。中でも、信欣三と戸田春子夫妻と子供の飢餓は最たる悲劇である。...『悲劇の将軍山下奉文』
1991年のウォーマッド横浜の前年、神奈川県が、突然「かながわ国際交流フェステイバル」をやると言ってきた。それも、各都市の国際交流担当課を集めての会議だった。おそらく、1989年に横浜市が博覧会をやったので、これに対抗した策だったと思え、実際に三浦海岸で、「サーフ90」というイベントをやったのだが、こっちは陸場のイベントだった。要は、各都市が持っている友好・姉妹都市からイベント団を招聘させてイベントにする、とういうケチな考えだった。でも、開催費は、数千万円は出したはずで、金のない県としては、清水の舞台から飛び降りるような事業だったと思う。横浜市としては、姉妹都市のルーマニアのコンスタンツアとカナダのバンクーバーから団を招聘して参加させた。その中で、音楽など分かっているのは、私だけだったので、司会は関谷元子...かながわ国際交流フェステイバル「国際音楽舞踏祭』
松竹の城戸四郎は、新しい企画が来たとき、「それは、なんだ一言で言え」と聞いたそうだ。一言で言えない企画など、大したことないもので、私も市役所にいるとき、部下にさんざ言ったものだ。この映画も、いろんな要素が混入していて、その分だめになっている。平安建都1200年記念だそうだが、それはどこにあるのか、不明。京都の大学で先生をやっている益岡が、生徒に研究論文を書かせ、そこに浮島丸のことがあり、それを書いた女と、本当の作者の姉と知り合うところから始まる。敗戦直後、京都の舞鶴沖で、沈没した韓国への引き上げ船の浮島丸のことかと思うと、二人の姉妹の父親で、詩人の白雲を探すことになる。戦時中に、青森の鉱山で朝鮮人が強制労働されていたとのことで、そこでの苛烈な労働現場の話になる。そこで、唯一面白いのが、石橋蓮司が演じる、韓...『エイジアン・ブルー浮島丸サコン』
昨年の関内でやったトークイベントで、小林昭仁君が、さかんにウォーマッド横浜と国連ピースメッセンジャー都市会議との関連を質問された。私は、即座に否定したが、ピースメッジャー都市会議は、当時横浜市国際室長だった大内さんが、「我こそは、国際人だ!」と示したかったために招致してやった会議だった。なにしろ、大内さんは、英語はもちろん、ドイツ語、韓国語も堪能という、非常に珍しい土木屋さんだったからだ。むしろ、ウォーマッド横浜と強く関連したのは、アムネスティ・インターナショナルの日本での世界大会だった。1987年の秋ごろ、アムネステイの日本事務局から話があり、私も高田馬場にあった事務局に行ったのを憶えている。そして、アムネスティの地球的、全人類的目的に合うイベントして、ウォーマッド横浜は、最適となったのだ。だから、19...ウォーマッド横浜に関連したイベントは
1964年に松竹で作られた山田洋次の「馬鹿シリーズ」の2作目。ここでも、主人公の安吉はハナ肇だが、相手役のお嬢さんは、岩下志麻になっている。1作目は、桑野みゆきだったが、彼女が次第に松竹作品への不満を持ち始めていたので、岩下や倍賞千恵子へと変えていく端緒でもある。瀬戸内海の小島に、東京から岩下志麻が疎開してくる。そこに孤児で、漁夫の花沢徳衛のところにいる、乱暴者のハナと知り合う。この無知な男と上品な女性という組み合わせは、『無法松の一生』から来たもので、原作の岩下俊作がプロレタリア作家であるように、知的な階層の人間と、無知な労働者との組み合わせになっている。言わば、日本共産党支持の山田洋次監督にとって、庶民は啓蒙されるべき無知な階層となる。その典型は、まさにハナ肇だったが、やはり少々無理だったのか、かなり...『いいかげん馬鹿』
長門勇と言えば、市川雷蔵主演の『ひとり狼』での筋の進行役が有名だが、彼の主演作『道場破り』もある。それは、以下のとおりである。去年亡くなった長門勇の主演第一作と謳っているが、そのとおり彼の数少ない1964年の主演作品。監督は、内川清一郎で、脚本は小国英雄だが、原作は山本周五郎の『雨上がる』より、となっている。『雨上がる』と言えば、小泉堯史の愚作『雨上がる』の原作ではないかと思いつつ見るが、この二流時代劇の方がはるかに面白い。冒頭、多くの武士に護衛された駕籠の列を長門勇が襲い、岩下志麻を救い出す。そこから話が飛んで、長門はある天領で、道場破りと賭け試合で生き、最下層の連中が住む宿にいる。長門の殺陣の上手さを味わう作品だが、そこに丹波哲郎と倍賞千恵子の特別参加があり、原作を大きく膨らましている。それは、諸国を...長門勇について
山岸さんに間違いを指摘された 『WOMAD横浜 歴史から消えたビッグ・フェステイバル』
先日の関内での「トークイベント」を見に来てくれた山岸伸一さんから、私の本の記述の間違いを指摘された。山岸さんから指摘されたのは、「山岸さんは、学生時代にラジオ関東でアルバイトをしていた」との箇所で、ラジオ関東のカンツオーネ好きの人と知り合っていて、局に出入りはしていたが、アルバイトはしていなかったとのことだった。ただ、この記述の意味は、横浜にあるという建前の放送局のラジオ関東が、実は横浜市西区老松町ではなくて、東京都港区麻布台にあったということであり、その趣旨は間違いではないが。山岸伸一さんには、大変にご迷惑をかけたので、ここにお詫びします。その他、さまざまな記述の間違いをしていただいた。もし、拙著が重版されるときは訂正したいと思うが、そうなるとは到底思えないが。山岸さん、ありがとうございました。山岸さんに間違いを指摘された『WOMAD横浜歴史から消えたビッグ・フェステイバル』
正月は、横浜のジャック&ベティで、3日に『ジョン・レノン』を見た。ジョンが、やはりアイルランド系であることが分かり、さらにポール・マッカートニーとの出会いは、感動した。だが、西ドイツのハンブルグに行っての、トニー・ジェルダンとのことがほとんど描かれていなかったことが不満。ビートルズは、最初はトニー・シェリダンとビートルズだったのだから。6日までとのことで、ベティで若松孝二と若松プロを描いた『止められるか、俺たちを』を見る。これは、女性で助監督を目指した吉積めぐみを主人公とした作品で、当時の連中が出てくる。見ていて、60年代後半の若松プロの作品は、ほとんど見ていることに気づく。別に、特に好きだったわけではなく、蓮沼のヒカリ座がよく上映していたからである。ここは、1960年代末期は、大映と松竹がメインで、3本...ジョン・レノンから若松孝二に
2022年で、一番感動した動画は、映画でも、テレビでもなくて、ユーチューブの「ララいずみ」さんのものだった。1月の「みさき公園の今昔」で、大阪南のみさき公園にあった遊園地と動物園に関するもので、動物への哀惜に充ちた映像に感動したのだった。2021年春に閉演した、そこは大阪南部地区の唯一の遊園地・動物園だったようで、ララいずみさんは、本当に愛していた。ララいずみさんは、大阪和泉地区に住む50代くらいの方で、どうやらデザイン関係の仕事をしているようだ。私と同様、少々ひねくれているらしく、人混みが嫌いで、形どおりも大嫌いとのこと。なぜ、正月は、どこでも琴の曲を流すのか、などまさにその通りと思う。この人は、電車オタクで、必ず駅に電車が入ってくると、それを見て、「出るところを見送ります」となる。完全に擬人化していて...去年一番感動した動画は
今朝は、寒くて目がさめたが、寒の入りだそうだ。昔、フジテレビで『お笑いタッグマッチ』があり、司会の春風亭柳昇が言ったのが、この句だった。バカバカしいが、いつもこの時期に思い出す。寒の入り、犬は裸足であるいてる
私の父は、大田区で小学校の校長をやっていたが、脳梗塞で倒れるまで、任地の小学校(馬込小学校)の教職員を全員呼んで正月の新年会を家でやっていた。たぶん、1月3日だったと思うが、その学校の職員全員が昼間に来た。そして、御節料理を出すのである。だから、そのために年末に家では、父は兄と一緒に餅を突いて作っていた。さらに、母親の指揮の下で、3人の娘が御節料理を作り、もちろん酒も出していた。家は、明治時代の作りだったので、唐紙を開ければ、20人以上が入れる広さがあったのだ。手数はともかく、それなりにかなり予算は掛かったはずで、母親は、「12月のボーナスはこれで消えた」と言っていたそうだ。父は、酒もたばこも一切やらない「堅物」だったので、日頃付き合いのない職員たちへの年に一度のサービス、職員管理法だったのかもしれないが...正月の新年会
テレビの『徹子の部屋』を見たら、竹下景子が出ていた。随分と年取ったなあと思うが、私もそうだろうと改めて思う。彼女を見て、思い出すのは映画『祭りの準備』である。1975年の11月に、川崎の駅ビルにあった川崎文化で見ている。併映は、西村昭五郎監督の『わななき』とノートされている。『祭りの準備』では、二つのことに驚いた。一つは、監督が黒木和雄なのに、内容が簡単で分かること。もう一つは、大学の先輩の斎藤真さんが出てきて、竹下景子の処女を奪う役を演じていたことだ。竹下や彼女に憧れている江藤潤たちは、高知の中村で文学サークルをやっていて、そこに共産党のオルグの斎藤さんがやってくる。彼は聞く、「土佐の偉人は」竹下は手を挙げて言う「幸徳秋水です!」「そうだ、よく知っているね」と励ますオルグ。思わず「斎藤さん!」と叫びたく...『祭りの準備』で驚いた二つのこと
中学3年の3月、当時一番仲の良かった同級生の仁多見弘一君が、「今までに見た映画で、最高の作品だ」と言ったので、たぶん3月の終わりに一緒に蒲田で見た映画。その時も良いと思ったが、中平康作品では、ベストだと確信する。まず、脚本が馬場当、音楽は黛敏郎、美術は大鶴康弘(唐十郎の父親)で、制作はなんと大塚和である。これを見ていると、吉永小百合も、浜田光夫も芝居が非常にうまいことに感心する。なぜなら、彼らは、二人とも子役上がりで、演技の経験があるからで、芝居が大変にうまい。特に、浜田光夫は、受けるのも攻めるのも両方の芝居が良い上に、タイミングも是っ妙である。話としては、これは吉永小百合に引きずられる話で、ある意味で、彼女は女性ストーカーである。ストーカー小百合に魅入られた浜田光夫の悲劇とも言えるだろう。ここには、立派...『泥だらけの純情』
BS12で、1962年西河克己監督の『若い人』をやっていたので見るが、非常に面白かった。言うもなく、3回作られていて、全部見ているが、これが一番面白いと思った。そして、当時17歳、江波恵子を演じた吉永小百合の美しさである。もちろん、浅丘ルリ子も良い。それに脇役が非常に良い。恵子の母親が三浦充子で、この自堕落な感じが最高である。その情夫で、船員が北村和夫、石原裕次郎が下宿している家の親父が殿山泰司で、その妻は武智豊子で、殿山はエロ小説を読んでいる男。学校が(長崎らしい)が、修学旅行で上京してきて、旅館に来て会うのが、小沢昭一で、これも笑える。その他、裕次郎と校医の大坂志郎が会うバーの女は、千代郁子だった。原作では、橋本先生は、左翼的な文学サークルにいる女性だそうで、それは全部の映画では描かれていないが、ここ...『若い人』
今の早稲田の構内の地図を見ると、随分と配置がかわっている。この現在は、6号館となっているところが、当時の9号館で、ここをわれわれは勝手に占拠して使っていたのだ。今考えると、大学も随分と寛大なものだったと思う。いずれ治まると思っていたのだろうが。配置が代わっている早稲田大学の
たぶん、1967年に下川や田村光男らが大学に入学し、劇団にも入って夏が過ぎた頃の秋、私は下川に劇団内の「勉強会」の講師をやらされた。主に、吉本隆明理論の解説で、今から考えれば、赤面ものだが、下川におだてられてやったのだ。おそらく、3回くらいやって、そこには4,5人の一年生らが来ていた。彼らの内の4人は、後に「FUG」というグループを作った。そして、当時我々が占拠して勝手に使っていた、「早稲田大学の9号館が警察によって封鎖解除されるとき、バッハの曲を流した」と村上春樹の処女作に記述された連中である。ちなみに、9号館を占拠していたのは、我々や自由舞台などの劇団だけではなく、考古学研究会などもあり、人形劇研究会というのもあった。巷の噂では、村上春樹は、その人形劇研究会にいたとのことだ。封鎖解除後は、なにをしてい...下川博にやらされたこと
下川博で、もう一つ書いておきたいのは、彼は私と劇団を作る前、いろんなところに顔を出していたらしいことだ。その中に、文化学院の演劇グループがあり、そこで知り合った女性に近藤さんという人がいた。彼女は、まじめで良い方で、確か当時すでに年下の大人しい男の人と結婚していた。近藤さんは、我々の芝居の衣装もやってくれていたが、ときどき彼女たちの阿佐ヶ谷の下宿に行って飲むことがあった。その時、彼女から「ユーミンは、荒井さんの妹よ」と言われ、下川も「ああ、そうか」と言った。それは、彼らの友人の家でのことで、たぶん文化学院の人たちの集まりだったのだろう。そこに荒井さんの妹の由美も顔を出したというのだ。当時、荒井由美は、まだ高校生だったはずだが、その頃からレコード会社に出入りして、曲を売り込んでいたんだと近藤さんは言っていた...劇団を作る前のこと下川博
昨年、亡くなっていた下川博について、書いて與おきたい。「下川って誰だ」と言われるだろうが、私の大学時代の友人の一人で、彼と二人で劇団異立社(ことだてしゃ)を作って、約3年間やったのだ。異立ってなんだ、と言われるだろうが、当時もいつも聞かれたことだった。これは、保田與重郎の本にあった言葉で、異なる言説をたてることの意味で、異論に似た意味だろうと思う。その多くは、「異立の歌」というように使われたようだ。つまり、普通ではない事を言うのである。まあ、われわれにふさわしいと思われた。さて、下川は、『ミュージック・マガジン』に原稿を書いていたこともあり、音楽に普通の興味はあった。彼に誘われて見に行ったのは、ジャズシンガーの阿川泰子のコンサートで、昔の神奈川音楽堂で、そのj下手さには二人ともあきれた。ただ、元文学座研究...下川博と音楽のことなど
Pヴァインから掲載紙が送られてきて、12月25日に、北日本新聞の1面に出ていたのだ。こういう地方紙を読むと面白くて、「お悔み」のページがある。普通の人でも、情報提供すれば、載せてくれるのだ。北日本新聞に出ていた
NHKBSの『映像の世紀』、『スターリンとプーチン』で、プーチン大統領がスパイを志したのは、映画『真珠湾前夜・スパイゾルゲ』を見たからだとあった。こんなつまらない映画を見て、感動したとは、プーチンの頭のレベルが知れる。20年くらい前に、横浜のシネマジャックで見たが、あきれるほどひどい映画だった。「市川雷蔵主演の『陸軍中野学校』の方がはるかに上だ」と思ったのだ。『真珠湾前夜・スパイゾルゲ』は、日仏合作で『忘れえぬ慕情』と同じ、岸恵子主演、イブ・シャンピ監督だが、後者が一応松竹初の合作映画で、総力を挙げていたらしいのに対し、前者は脚本も沢村勉と、戦中期は戦意高揚映画、戦後は煮え切らない反省映画のバカなので、どうにもならなかった。しかも、京都撮影所なので、ひどく貧しく促成で映像もひどいのだった。そんなものを見て...プーチンのひどさが分かった
「ブログリーダー」を活用して、大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳