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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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水戸市
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2014/09/11

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  • 封建制度の形成

    守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領

  • 戦国時代

    応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国

  • 鉄砲伝来3

    時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと

  • 鉄砲伝来2

    日本人が初めて出会った鉄砲は どのようなものでしょう。 天文一二年(一五四三)、 種子島に漂着したポルトガル人によって、 日本に初めてわずか二挺の 鉄砲かが伝えられました。 火縄銃は一五世紀にヨー

  • ポルトガル3

    アフリカ研究者の 山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、 「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸 (現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの 要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、 ジンバ人(アフリカ人)に

  • ポルトガル2

    ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き

  • ポルトガル1

    一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「

  • 鉄砲伝来

    つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき

  • パスコ=ダ=ガマ

    インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西

  • ポルトガルのアジア進出

    西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を

  • 中世日本の技術

    政治の混乱はありましたが一方では、 新しい農業や耕作技術が発展しました。 特に水田農業が重要で、 水利施設の整備や灌漑技術の 進歩が行われました。 また農業土木の発展により、 農地の拡大や効率的な

  • 倭冠

    倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、 西国の土豪が組織した海賊、 いわゆる前期倭冠は、 米と奴隷の略奪を目的として 朝鮮半島から支那の北部、 さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、 倭冠の至るとこ

  • 幕府の財政

    室町幕府の財政は、 外国とくに明との貿易による利益が、 大きな財源となりました。 蒙古の来襲後も、 九州や瀬戸内海沿岸の住民は、 さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。 この貿易には莫大な利

  • 幕府の最盛期

    義満は室町幕府の最盛期を 築くことに成功しました。 明徳の乱で山名氏を押えたのは、 その第一歩です。山名氏は、 因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、 一族合せて十一カ国の守護を領し、 日本六十余

  • 応仁の乱

    1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に

  • 足利義満3

    日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の

  • 足利義満2

    足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力

  • 足利義満1

    南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年

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