新コインがそれほど流通していない時期から偽造コインが出やしないか、日本領事館は戦々恐々としていました。それは旧コインの偽コインが出まくっていたからです。 アモイ(廈門)で偽物の流通が確認されていました。明治9年6月15日頃、当時の廈門領事である福島さんが偽造コイン調査依頼を香港の安藤副領事に送っています。 「明治7年に鋳造された1元銀貨は偽造コインがすんごい数あるやん?これって香港から輸入した銀貨の中に混ざってたから、うち(アモイ)から香港の銀取扱店を訴えさせてもらったことがあるけど、1元銀貨のサンプルを送るから、受け取ったら貴地で偽造コイン製造者がいるかどうか調査してな」 安藤副領事が回答し…
「明治時期 香港的日本人(明治初期における香港日本人)」には貿易用銀貨が新しくなり、流通を始めたことが記載されいています。 明治8年(1875年)2月28日頃の公告第35号に基づき、我が国は新しい貿易銀貨を発行した。新しい銀貨は過去のものと見た目はほぼ一緒で、ちょっと重いだけ。為替レートは古いのは1元/7.176銭で、新しいのは1元/7.245銭。刻印については古いのは「1元銀(※1)」、新しいのは「貿易銀」となっている。 どちらも当時中国中に出回っていた支那大洋と呼ばれる銀貨や香港港元(香港ドル)と概ね一緒でした。 この新しい銀貨は中国やインド、海沿いの植民地エリアで使おうと計画されていたの…
少し話が逸れますが、その昔「苦力(クーリー)」という中国人労働者がいました。 19世紀中期、アメリカ西海岸やオーストラリアのシドニーなどで金脈が見つかったことでゴールドラッシュが起き、中国から多くの労働者「苦力(クーリー)」が香港を経由して「輸出」されていました。 例えば、1848年にアメリカ・カルフォルニア州で金脈が見つかった際、その翌年には大量の中国人労働者の輸出が開始され、1852年には香港から3万人のクーリーを送り込むために44隻もの船がカルフォルニアに行っています。 当時、香港には「苦力(クーリー)」闇市があり、多くのブローカーも存在、労働者のことを「豬仔(ブタちゃん)」と呼び、ひど…
明治9年(1876年)の領事館メンバーが「明治時期 香港的日本人」に載っていました。当時の日本人は安藤さん、小林さん、寺田さんの3人。 今までの報告書に良く出てくる「安藤太郎副領事」は、明治7年7月1日に来港、明治16年(1883年)までの9年間、香港にいることになります。 小林端一書記官は安藤さんと一緒に香港にきています。ところが小林書記官は体を壊して、明治8年に熱海へ温泉療養し、その後、2ヶ月ほどで香港に戻るも、明治9年4月25日に当時の外務大輔(外務省)の鮫島尚信さんより小林書記官に帰国命令が出て、6月20日に香港を去ります。 寺田一郎書記官は明治8年6月10日から香港に着任。明治9年7…
琉球人フィリピン漂流記。香港の日本領事館で語られる物語(後編)
前回のお話 : 嵐に巻き込まれた琉球人4人。1人が亡くなってしまうが、3人はなんとかフィリピンへ上陸。自分たちがたどり着いたのは台湾だと思い込んでた琉球人、上陸後に現地人を見つけるも、台湾で起きた「宮古島島民遭難事件」を思い出し、恐怖に震えます。 「助けてくださいっ!」とうずくまり命乞いをする2人。 牛を連れた男はどうやら2人の言わんとすることがわかっただけでなく、漂流民だと気付いたようでした。2人はこの男が危害を加えそうにないと判断し、自分たちが乗った小舟まで案内、その男に動けなくなった仲間を助け出してもらいました。 なんとか助かった3人は次の日、小舟に乗せられ同じ島の違う村に連れて行かれま…
明治9年(1876年)8月6日、香港にあるスペイン領事が日本領事館を訪れました。何の用事かと思いましたら「うち(スペイン)の植民地のフィリピンに日本人3人が漂流してきたから保護しててん。お渡しするな。」とわざわざ3人を連れてきてくれたのです。安藤副領事は「いや~、ほんまありがとう!」とお礼を言い、早速その3人に会いました。 助けられた3人は琉球人。困ったことに琉球語がわからない安藤さん、全く会話が成り立ちません。「え~、話できへんやん。どうしよう。。」と困っていた時に、鹿児島県出身の宮田五郎左衛門忰甚助さん(以下:忰甚助さん)(※1)という人が通訳ができると聞きつけ、早速きてもらいました。忰甚…
「明治時期 香港的日本人(明治初期における香港日本人)」に、明治初期の日本海軍についてこう書かれています。 「明治元年、うちの海軍の貧弱さと言ったら、言い訳というか何も言われへんほど確かな事実。もうホンマ仕方ないからこの事実をちゃんと認識して、実力を高めるためにイギリス海軍から勉強する事にしたわ。せやな、例えばうちの若くて優秀な海軍士官はイギリス軍艦に乗って、いろんな事、勉強してるで」 例として「伊月一郎」さんが挙げられています。彼はイギリス中国艦隊の旗艦「Audacious」へ乗船。その船が香港へ入港した際にジョンストン(Johnston)艦長と伊月さんは香港の日本領事館を訪問し、安藤副領事…
在香港日本領事館は開設してすぐに「そもそも領事館は必要なの?」との存在の危機に直面していましたが結局「香港の日本領事館は必要」と判断され、明治8年2月12日に現ヴエルブの部屋から、アレキサンドラ・テラス(Alexandra Terrace)3號に引っ越しました。 これだけはっきりと住所が残っているにもかかわらず、場所がどこなのかわかっていません。本では翻訳者のコメントで「中環(セントラル)のエスカレーター辺りで便利な、商業エリアに近いところだっただろう」と記載がありました。またネットで「アレキサンドラ・テラス(Alexandra Terrace)」を調べたところ「Old BaileyからShe…
嵐が過ぎた約2ヶ月後の11月15日に、軍艦「日進号」が突然入港してきます。「アモイから台湾へ行く途中に嵐に遭い、風に流され香港まできた」が原因だったようです。台風が軍艦を流してしまうほどひどいものだったことがわかりますね。幸いにして乗組員にけがはなく、船も目立った破損はなかったようです。ただ軍艦には物資がほとんどなくなっていたため「日進号」は香港で物資調達し、到着2日後の11月17日には台湾へ向けて出発していきました。 するとその後、「Lane Crawford(レーン・クロフォード)」(現在でも高級でおしゃれなイギリス系デパートとして超有名!)から4元50銭の請求書が領事館に送られてきます。…
領事館の記録には1874年に香港を襲った台風の記録が残っています。香港のメディアでも「香港で初めて記録が残っている台風」として紹介されています。 「明治時期 香港的日本人」によると明治7年(1874年)9月22日の午後8時より暴風雨になり、それは次の日の朝5時まで続きました。この台風で香港に停泊していた4艘の汽船が沈没、帆掛船の被害数は時間を追うごとに大きくなり、ましてや中国の小舟は数え切れないほど破壊・沈没しました。また香港だけでも5,000人(※1)が死亡、石澳・土瓜灣などの村は壊滅、筲箕灣(シャウケイワン)・油麻地(ヤウマテイ)のお寺は吹き飛ばされ、香港仔(アバディーン)やその他の埠頭の…
アメリカ人のリチャード・ルジャンドルが日本に肩入れしすぎてアメリカ・イギリスが猛抗議をしましたが、もちろん清朝もすごい危機感を抱いていました。実は、ルジャンドルが日本が台湾侵略に成功した後、貿易の利益をアメリカで独占し、ゆくゆくは植民地にしようと企んでいたことを聞きつけていたのです。清朝はその事を理解していたので必死に止めようとしました。 清朝の有名な政治家「李鴻章」は日本の台湾侵略計画論を唱え「日本はアメリカ人を頼みとしている。もしアメリカが自分たちの人間や船を引き揚げたら、日本は兵を撤退するだろう」と発表、それを聞いた清朝は正式にアメリカへ抗議をします。一方、アメリカは清朝との話し合いのた…
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