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廃校を巡る https://blog.goo.ne.jp/morinobunkou/

栃木県を中心に、茨城・群馬・福島の木造校舎や廃校を巡っています。

風雪に耐えた木造校舎の美しさ。小さな空き地にポツンと二宮金次郎。錆びたブランコに、朽ちかけの百葉箱。子どもの声が消えた校庭に、在りし日の思い出を探しています。

森の分校
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住所
宇都宮市
出身
宇都宮市
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2013/07/25

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  • 再び廃校巡りへ

    そろそろまた廃校巡りを再開しようと思います。この数年の間にもたくさんの学校が閉校してしまいました。それらの中には幾つかの学校が統合され立派な校舎を持ちながらも、さらに統合されて閉校になる学校も増えています。山の中の小さな集落の学校はほとんどなくなり、ある程度都市化されたエリアでも統廃合が進んでいます。また、それらの廃校は老人福祉センターや高齢者施設などへ姿を変えていて、卒業した学校が人生の終の住処となる場合も…。私も60を過ぎ色々と考えることも多くなりました。最後にブログを休んでいた間にもコメントを下さった方にはコメントも返せずすいませんでした。改めて御礼申し上げます。再び廃校巡りへ

  • 那須烏山市(旧南那須町) 熊田小学校 再訪

    コロナの影響であちこちの桜祭りも中止。鬱々とした気分を少しでも和らげたいと思い廃校の桜を見に行ってみた。校庭の真ん中に桜の巨木が残る熊田小学校。半分だけになってしまった木造校舎はあまり手を入れていないせいか、年を追って劣化しているものの今年も綺麗に桜は咲いていました。訪れた時はこの学校の卒業生かはわかりませんが老夫婦が仲良く桜を見上げていました。なんともいい感じでコロナの憂鬱も少しだけ忘れることができました。那須烏山市(旧南那須町)熊田小学校再訪

  • 足利市 小俣第二小学校

    小俣第二小学校は1997年足利市立小俣小学校へ統合されています。閉校してすでに23年が経っていますが、現在は足利市ふるさと資料館として余生を送っています。訪れたのは日曜日、管理人に記帳を求められましたが、1週間の入館者は限りなく0人に近いようです。教室には古代の土器などの出土品や江戸から現在までの生活道具、また、足利らしく機織機などが展示され資料館としての価値はそれなりにありそうです。子供達の学習の場としては良さそうですが一切撮影禁止とのこと。古ぼけた機織機や民芸家具にどれだけの価値があるかわかりませんが、どんどん撮影させて、子供達にもためになる施設をアピールさせればいいのにね。お役所仕事の典型ですね。建物はRC構造の4階建て。小学校では4階建ては珍しいかもしれません。体育館とは呼べない木造の講堂が残っています...足利市小俣第二小学校

  • 足利市 松田小学校

    足利市の北部の山間にある松田町。今回訪れた松田小学校は、2000年、三和小と統合し足利市立坂西北小学校になっています。2000年の閉校後は足利市が推進する「映像のまちあしかが」のプロッジェクトもありドラマやCMの撮影に使われているようだ。足利市は東京からもさほど離れていないので、数々の映画やドラマの舞台に選ばれている。学園モノなどでは旧足利西高校が幾度となく使われているし、市内に残る銭湯や映画館跡などもよく使われているようだ。最近は聖地巡礼ならぬロケ地巡りも盛んなので市でもかなり力を入れているようです。そんなわけで今週日曜日に最終回を迎えた人気ドラマ「テセウスの船」のロケ地である松田小学校である。ドラマでは音臼小学校として児童21人が毒殺されるという事件の現場ですが、山間ののどかな、明るい感じの学校跡です。足利市松田小学校

  • 常陸太田市 染和田小学校 東染分校

    すっかり忘れさられそうな当ブログですが、先日久々に近況をアップしたところ、当ブログを参考に廃校を巡った方からコメントをいただきました。廃校を扱うこんなニッチなブログを気にしてくれる人がいるのはありがたいことです。そんなわけで久々の蔵出し物件。あまりにも情報が少なく、沿革をはじめ創立年も不明のため寝かせていた物件。正しい校名も確信は持てないのでアップは控えていたのですが、今までも間違った情報を地元の方に指摘され、正確な情報が得られたこともあるのであえてアップする次第。おそらくは染和田小学校東染分校跡と思われます。現在は東染林業センターの建物が建っていますが、分校跡を示す記念碑等は見つけられませんでした。訪れた時はちょうど桜の時期。いい感じに桜が咲きいかにも廃校跡を思わせます。昭和初期の地形図にはすでに「文」マーク...常陸太田市染和田小学校東染分校

  • 2020年の廃校巡り

    2020年になって早くも20日がすぎました。昨年は後半から全く廃校巡りにも出かけられず、ブログもすっかり放置プレイ状態。抗がん剤治療を続けていた愛猫が治療の甲斐なくなくなったりしたせいもあり、あまり活動的に出掛ける気分にもならず、しばらくは廃校巡りからも遠ざかっていました。まぁ、その間もたまに古い地形図を引っ張り出してみたり、グーグルアースを覗いていたりはしていました。群馬や福島などまだまだ見てみたい木造校舎もあり、暖かくなったらまた遠征してみたいと思います。写真は鹿沼市石裂小学校2020年の廃校巡り

  • 茨城県 旧水府村 高倉小学校 上高倉分校 再訪

    こちらも蔵出し物件。桜が咲く4月に訪れた上高倉分校。3年ぶりの再訪になります。本来の目的は高倉分校上武生分教室。グーグルマップにマーキングしておいた場所まで後わずかな場所まで近づいたのですが、全く電波が届いておらず最終場所まではたどり着けず。高倉分校上武生分教室(分校との表記も散見)は高倉分校が廃止後新たに高倉分校と名乗るようになったりと複雑な歴史をたどります。グーグルマップで確認すると木造の小さな校舎らしきものが確認できるので是非とも再探索で確認したいところです。そんなわけで高倉分校上武生分教室は確認できませんでしたが、高倉分校を3年ぶりに訪れてみました。相変わらず山の分校らしさを保っておりましたが、校庭にあった市の天然記念物であった樹齢400年のカヤの巨木がなくなっていました。跡には「カヤの木跡」の説明板が...茨城県旧水府村高倉小学校上高倉分校再訪

  • 茨城県 常陸太田市 高倉小学校

    ここ最近はすっかり廃校回りから遠ざかっています。理由は週一度の抗がん剤治療。とは言っても自分ではなく飼っている猫。猫白血病からくるリンパ腫と診断され週に一度抗がん剤治療をする羽目になってしまいました。投薬後は24時間の観察期間が必要なためどうしても家族が休みの週末に通院するサイクルになってしまい、土日はほとんど使えなくなってしまいました。現在抗がん剤のおかげでだいぶ調子がよくなりましたが、医者が言うには再発する可能性も高くそう長くは生きられないとのこと。そう聞くと気持ち的にも落ち込むものでどこかに出かけようとも思わず、しばらく廃校回りもやっていませんでした。そんなわけで久々の蔵出し物件。茨城県常陸太田市高倉小学校。明治10年創立の由緒ある高倉小学校ですが、1981年に現在の建物に建て替えられ、2000年3月に閉...茨城県常陸太田市高倉小学校

  • 茨城県 日立市 中深荻小学校

    1967年の閉校から50年を超えた中深萩小学校跡を訪ねてみた。グーグルアースを見ると学校跡地には集会所らしき建物が確認出来る。当時の遺構はあまり期待できないが記念碑ぐらいは残っているか。中深萩小学校の沿革は古く、明治7年2月中深萩村の戸長大部喜明所持地に創設されたのが最初の様だ。訪れた跡地には立派な記念碑が残され、学校創設からの詳細な内容が刻されていたが、字が細かな上に、苔の様な地衣類が文字を覆っていて詳しくはわからなかった。現在は中深萩公民館が立っているが、道路から学校跡までのアプローチする道沿いには学校時代の卒業記念の様なオブジェがあった。当時の卒業生だとするともう70歳近いと思われる。学校敷地傍の天満宮には古い低学年用の鉄棒があったが当時の物かは不明だ。山間のせいか道路から一段高くなった狭い敷地。ちょうど...茨城県日立市中深荻小学校

  • 茨城県 旧十王町 高原小学校 黒板分校

    桜が咲き始めた頃訪れた茨城県旧十王町高原小学校黒板分校。黒坂分校の歴史は古く、創立は明治7年、常陸國多賀郡黒坂村に黒坂小学校として設立されています。昭和30年5月多賀郡十王町高原小学校黒坂分校となり、昭和48年高原小学校に合併されています。以上の沿革は分校跡にあった記念碑に刻されていたものですが、「統合」ではなく「合併」と言っているところに地元のこだわりを感じますね。跡地には集会所が建っていますが分校時代を偲ばせるものは桜の木ぐらいでしょうか。閉校から40年以上経っていますのでしかたありませんね。集会所はまだ建って間もない様に見える分校当時の築山らしき場所に記念碑があり裏面に沿革が刻されていた。植栽もきれいに手入れされている。標高が高いせいか桜はまだ2分咲きだった茨城県旧十王町高原小学校黒板分校

  • 茨城県 旧岩瀬町 坂戸小学校 長方分校

    坂戸小学校の3つあった分校のひとつ。最後は長方分校を訪ねました。大泉・下泉・長方の3つの分校とも昭和58年4月1日に本校に統合されていますが、本校である坂戸小学校のHPの沿革を見ても各分校の創立時期は確認できませんでした。長方分校跡地には現在農村集落センターが建てられ、当時の遺構は閉校記念のタイムカプセルの記念碑、当時の校名版が残る門柱に何かの記念碑らしきものがひとつあるのみ。遊具類や当時の付帯施設なども見当たりませんでした。気になったのは閉校記念のタイムカプセル埋設の記念碑。閉校時の1983年埋設後の2013年に開封と刻まれていますが果たして開封されたのでしょうか。記念碑自体基礎石から掘り上げられている様にも見えますが、その後の扱いはかなり雑な様にも見えます。ちなみに1983年に流行ったものといえば■東京ディ...茨城県旧岩瀬町坂戸小学校長方分校

  • 茨城県 旧岩瀬町 坂戸小学校 下泉分校

    茨城県旧岩瀬町。現在の桜川市に残る坂戸小学校下泉分校を訪ねました。1983年の閉校ですので遺構は期待できませんでしたが。校名版が残る門柱が現存していました。門柱脇には名前が刻まれた児童の作品らしき卒業記念碑?が残っていました。閉校記念碑などは確認できませんでしたが、「なかよし」と刻まれた石碑がありました。いい感じに建物がありますがこれは後世に建てられた集会所。実際の校舎は門柱からずっと奥にあった様です。ただ、桜の花と集会所の感じは当時の雰囲気を感じさせます。ソメイヨシノの樹齢は短く70年ぐらいらしいので、廃校の桜も楽しめるのもそう長くはないのかもしれませんね。校名版が残る門柱児童の名前らしきものが刻まれた記念碑。台座の上には何か像があった様だが…。二宮像の台座ではない様だ。なかよしと刻まれた石碑。横には崩れた石...茨城県旧岩瀬町坂戸小学校下泉分校

  • 茨城県 つくば市 田水山小学校 旧校舎

    新年号も発表され、春満開と言いたいところだが桜の開花後も寒い日が続く。桜と廃校の撮影チャンスはほんのわずかだが今年は寒さのせいで幾分長く桜を楽しめそうです。訪れたのは筑波山の麓、つくば市。合併前は筑波町だが明治10年の開校時は田水山村になる。田水山小学校は2018年3月に筑波小学校、田井小学校、北条小学校、小田小学校、作岡小学校、菅間小学校、筑波東中学校、筑波西中学校を合わせた小中一貫校、つくば市立秀峰筑波義務教育学校になっています。最近増えつつある小中一貫校の「義務教育学校」の呼び名ですが、なんともなじめないですね。つくば市はもう小中一貫校しかない様です。訪れた田水山小学校は昭和48年に移転新築された鉄筋校舎以前の校舎。一部改修され現在は下田中児童館として利用されている様だ。遊具類は児童館になってから設置され...茨城県つくば市田水山小学校旧校舎

  • 茨城県 瓜連町 静小学校

    瓜連町静小学校現在は那珂市に編入されています。閉校は1963年と古く既に半世紀が過ぎていますが、廃校めぐりを始めた6年ぐらい前、どこかのHPで静小学校の明治期の木造校舎の写真を見た記憶があります。少なくとも10数年前までは明治期の木造校舎が残っていたようです。1984年-87年当時の航空写真にも校舎が確認できます。残念なことにパソコンの買い替え時期にそのHPアドレスも失念し、何度か「廃校」「廃校めぐり」等で検索してもたどり着けません。北海道から東日本を網羅していてなんども参考にさせていただいたHPなのですが残念なことです。現在は集会場が新たに建てられ幾つかの遊具類が残っています。門柱も残っているのですがガードレールで塞がれなんとなく荒れた感じです。大正期の建立で寄贈者の名前も残っていますが雑に扱われています。タ...茨城県瓜連町静小学校

  • 茨城県 下館市 大田小学校 布川分教場

    下館市大田小学校布川分教場本校の大田小学校の沿革によると明治22年に大田村尋常小学校西方教場・野殿教場・布川教場分設明治44年西方・布川各尋常小学校を合併し,大田尋常小学校となる。この日を創立記念日とする昭和47年布川分教場,本校へ統合とあります。創立から本校に統合されるまでずっと分教場として歩んできたようです。1974年当時の航空写真には小さな校舎らしきものが写っていますが、どう見ても教室1つに教員の部屋が1つほどの大きさです。もしかすると低学年までが通う分教場で、高学年は本校に通っていたのかもしれませんが、詳しい沿革は不明です。訪れた布川分教場にも記念碑等は無く、新たに集会所が建てられています。わずかにコンクリート製の門柱に樹勢が衰えたサクラの木。それとだいぶ風化が進んだタイヤ跳びが分教場時代の遺構でしょう...茨城県下館市大田小学校布川分教場

  • 茨城県 関城町 黒子小学校(東小学校黒子教場)

    黒子小学校は1972年に関城町立河内小学校とともに統合され新たに東小学校になっていますが、1974年までは3年以下の児童は旧黒子小学校が変わった黒子教場に通学していたようです。統合された東小学校のHPの沿革によると明治20年4月黒子尋常小学校(本校1,分校2)となる明治43年3月黒子尋常高等小学校となる昭和16年4月1日国民学校令公布太平洋戦争黒子国民学校と改称昭和22年4月1日河内村立河内小学校となる黒子村立黒子小学校となる昭和31年8月1日関本町,河内村,黒子村が合併し,関城町が誕生関城町立黒子小学校となる昭和47年4月1日河内小学校,黒子小学校が統合し,関城町立東小学校となる東小学校黒子教場となる昭和48年4月1日関城町立東小学校統合,3年以下児童は黒子教場へ通学昭和49年9月1日黒子教場を廃止し東小学校...茨城県関城町黒子小学校(東小学校黒子教場)

  • 茨城県 下館市 嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校

    茨城県下館市嘉田生崎小学校嘉家佐和分校かたおざきしょうがっこうかげさわぶんこうと読むようです。嘉田生崎由緒ある地名のようですが調べると明治期の町村合併でできた合成地名のようです。昔から合併にはそれぞれの町村の力関係や駆け引きがあるので、歴史ある地名かと思うと意外に漢字一文字づつとった合成地名がよくあります。ここも下館市に合併する前は嘉田生崎村。明治の町村制の施行で嘉家佐和村、飯田村、西石田村、野田村、東榎生村、西榎生村、下岡崎村が合併してできた村のようです。しかし、「田」のつく村は3つ、「生」のつく村は2つあってもそれぞれ1文字づつしか使われていないのはフェアではないのでは?現在は川神馬農村集落センターとなっている跡地には後から設置された遊具類がありますが、分校時代を偲ばせる遺構は石の門柱のみ。石に刻された校名...茨城県下館市嘉田生崎小学校嘉家佐和分校

  • 茨城県 真壁町 紫尾小学校 羽鳥分教場

    分教場時代の遺構は昭和10年7月の日付が刻された門柱のみ。しかし、地元に愛されいまだ地域のよりどころになっている様子が見て取れます。分教場が廃されたのは昭和33年だが羽鳥分教場跡の記念碑が建立されたのは平成になってからの平成4年。記念碑には4面にわたって沿革や、明治から昭和にわたって教鞭をとった先生の思い出などが事細かに刻されています。思い出を語った方は平成4年当時もご健在だったのでしょうが、戦前の話でありかなりのご高齢だったと思われます。それでも記念碑の建立に力を注いだことを思うと、いかに地元の方に愛されココロのよりどころだったのかがわかりますね。羽鳥分教場沿革(記念碑より抜粋)明治6年4月羽鳥村に永林寺住職後藤達道氏を觜試補として羽鳥小学校誕生明治13年4月羽鳥小学校創立明治23年4月紫尾小学校に合併羽鳥分...茨城県真壁町紫尾小学校羽鳥分教場

  • 茨城県 真壁町 紫尾小学校 酒寄分校

    11月の三連休の1日。茨城県筑波山周辺の廃校跡を巡ってきました。この辺は筑波山を中心にのどかな田園風景が広がりなんとものんびりした感じです。最近は出かける前にグーグルマップでどんな感じなのか知ることができるので、空振りでがっかりすることも無くなりましたが、意外な出会いで感動することも無くなりましたね。人気のテレビ番組「ポツンと一軒家」もグーグルマップを見るとだいたい空き家か住んでいるかはわかりますよね。そんなわけで今回もグーグル先生で予習すると校舎が残っている廃校跡はなさそうです。学校時代の遺構が少しでも残っていれば当たりといった感じ。まずはじめは旧真壁町(現在は桜川市)紫尾小学校酒寄分校を目指します。訪れた酒寄分校は、晩秋に近い秋の日に照らされ黄金の輝きを放つイチョウの木が美しいではありませんか。黄色に染めら...茨城県真壁町紫尾小学校酒寄分校

  • 那須町 逃室小学校

    栃木県を南北に走る一桁国道である4号線。交通量が多い国道沿いにあるにもかかわらず、昭和47年にはすでに廃校になった逃室小学校。読み方は「にがしむろ」。廃校記念碑の表記は「逃室」だが近くの交差点の表記は「迯室」になっています。現在は「逃室農村公園」となっていて新しく建物もできています。校庭跡には幾つかの遊具類がありますが、全て後から設置されたものでしょう。広い敷地にそれを囲む木々で学校跡の雰囲気は感じますが、当時からのものは校門横のシンボルツリーぐらいでしょうか。廃校記念碑には沿革が刻まれているのがわずかに学校時代を偲ばせます。逃室小学校沿革廃校記念碑より抜粋明治6年7月長久寺を仮校舎として創立明治10年逃室小学校となり分校を有す明治25年小島松沼逃室統合改めて夕狩大島の分校を有す明治33年各分校独立昭和16年逃...那須町逃室小学校

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