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失われた本をもとめて http://one-wonder.at.webry.info/

私が生まれた昭和30年代から出会った本やテレビ番組、流行歌のことなどを書く。

昭和30年代、北関東の田舎にに生まれて、過ごした少年時代は、近くに本屋はありませんでした。情報の仕入れ先はもっぱらテレビからでした。テレビから得た情報は、いつか本とリンクしてゆき、大学卒業後は出版社に勤め、やがてひとりで書房を経営するようになりました。私が歩いてきた50年間、そこで見た日本のカルチャーシーンを、自分なりに分析しています。

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2013/06/13

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  • 藤圭子さん、なぜ死んだ?

    8月22日、藤圭子、自殺か。ネットのニュースは、イチローと藤圭子の話題ばかりが躍っていた。 翌23日の朝のワイドショーでは、時間もたっぷりあったから、昔の映像を引っ張り出してきて流していた。 確かになつかしい。 62歳かー。私より5歳お姉さん。 「夢は夜開く」は、私がほんの子供のとき、聴いていた気がする。でも、待てよ。こちらが13歳のとき、彼女は18歳か。 大人だったかも。 ましてこちらは、田んぼに囲ま…

  • 売れた作家、売れない作家

    水上勉氏のことから、話が演劇のことになってしまいました。 水上氏がなぜ演劇にも力をいれたのか。 これは、江戸期の劇作家、近松門左衛門の影響があるように思います。 駒沢大学で講演会があり、キャンパスに入ったところで、水上さんは旧知の人と出会いました。 野間光辰さんです。 その日は、たまたま江戸文学会の研究会の会場でもあったとかで、来られていたのでした。 野間さんといえば、近松や西鶴の研究では…

  • 水上勉氏のこと②

    水上勉氏は駒沢大学構内における講演会で、その大学のありようも含め、宗派教団というものに対し批判をしたのでした。 あとで聞くところによれば、大学関係者も聴衆のなかにはたくさんいたようでした。 しかし、水上氏の言いたかったことは、けっして誤りではなかったのです。 それは、ほどなく文芸誌の「新潮」に連載が始まった「金閣炎上」を読むことで、教団組織というもののもつ矛盾がわかったのでした。この「金閣炎上…

  • 水上勉氏のこと①

    前回、水上勉さんの名を出しましたので、時系列ではありませんが、水上さんとのことを書きます。 私が作ったサークルは、「日本文学研究会」という名前でした。(まるで研究者養成のサークルみたいですね) 小説を中心に、エッセイでも評論でも書きたい人、集まれ、というサークルなのでしたが。 会の柱は、会誌を出すことと、講演会を企画することでした。 田舎者の私は、活字でしか知らない人に、とにかく会ってみたか…

  • 個性的な駒沢大学の教授陣・・・新井章先生、大野達之助先生、羽貫磨哉先生、甘粕健先生

    1977年、成人になっています。 成人式は出ました。なにしろ、郷里は田んぼと畑ばかりの自然に満ち溢れた風土であり、考え方が保守的になりがちなところですから、わざわざ東京から戻って、出かけたのでした。(両親は喜んでくれました) 小学校、中学校は、ほとんど同じ顔ぶれでしたから(高校3年間のごぶさたとはいえ)、みんなの顔はよく覚えています。しかし、みんな変わったなあ、というのが、印象ですね。思春期から成…

  • キャンパスには、角材とヘルメットの男や女がいて、校門出るとロッキードの旋風が吹き荒れていたあのころ。

    いよいよ、1976年であります。 この年2月は、ロッキード献金問題で国会は騒然となりました。 なにしろ、日本の宰相を巻き込んで、片やアメリカのロッキード社との間に、黒いお金のやりとりがあったというのですから。 醒めた日本人のなかには、あの金権体質の田中角栄なら、やりかねんといった思いもありましたが、この問題を徹底的に取材し論証したのがフリーのノンフィクションライターの立花隆であり、彼の書いた「田中角…

  • 70年代なかば、ベトナム戦争終結し未曾有の不況に陥る

    年代記、続けます。 1974年 テレビ「アルプスの少女ハイジ」「寺内貫太郎一家」「傷だらけの天使」「パンチDEデート」 映画「砂の器」「華麗なる一族」「青春の蹉跌」(売れた本が映画化されるようになる)「スティング」「ジーザス・クライスト・スーパースター」「エクソシスト」(オカルト・ブーム) ベストセラー「かもめのジョナサン」(あの五木寛之さんが翻訳した外国小説ということで、薄い本だし、手…

  • 壇 蜜が聴いたら、笑うかもしれない時代のこと。

    表現としての性は70年代後半から80年代、かなり過激だったと思います。 それと関係あるかどうかは別にして、テレビ「11PM」(イレブンピーエム)というテレビ番組がありました。この番組が始まったのは1965年のこと、終了したのは1990年でした。深夜のワイドショーということで、記憶に残る司会者は、藤本義一、大橋巨泉、愛川欣也あたりです。当時としては、テレビにしてはぎりぎりのエロさを売り物にしていました。 …

  • ヌーベルバーグ映画は、映像も音楽も卑猥でした。

    女優談義は続きます。 小川真由美という女優もいましたね。テレビドラマにもたくさん出ていたし、時代劇にもたくさん出ていました。普通の美人というのでなく、どこかに愛らしさを秘めつつ、コケティッシュなところのある人。異色作としては、寺山修司の最後の映画「さらば箱舟」にも出ていました。 寺山と言えば、渋谷のジャンジャンには、時々見に行ってました。ミカリという女優もいました。漢字3文字のミ・カ・リ、ど…

  • 昔の女優たちには、気品と色気がありました。

    大学入学で東京(初めは事情があって横浜でしたが)での生活となります。そろそろ横浜・東京編に突入といきたいところですが、その時代はテレビをあまり見ていませんでした。映画や観劇やサークル活動などで忙しく、独り暮らしだと、テレビ見ませんねえ。 まだ、もう少しテレビがらみの話をしたいです。 前にも書きましたが、テレビはよく(そのころ=昭和40年代)すでに古いものをよく放送していました。 時代劇は、子…

  • 海江田万里さん、民主党、漢詩の精神に還ろうではありませんか。

    閑話休題。 前回は当選した山加朱美さんのことを書いたので、今回、敗軍の将となられた海江田万里氏についても、ひとこと。 海江田さんは、もとも国会議員だった野末陳平さんの秘書を長くされていたというだけあって、漢文の素養は凄いのである。野末さんも、タレント稼業のような時代が長く、そして国会議員になられたため、当時流行したタレント議員の一人という評価が一般的だ。しかし、彼の中国古典の素養はなみのものでは…

  • 「走れ歌謡曲」パーソナリティーから都議へ・・・山加朱美さん。

    閑話休題。 6月22日(日)の都議選で、練馬区から立候補の山加朱美さん、みごと連続当選を果たした。4期というから、たいしたものである。 私の知る山加さんは、文化放送「走れ歌謡曲」のパーソナリティーだった。まだ、20代後半だったと思う。 声も美しかった。(声も、というのは、お顔も、という意味が込められている。なにせ20代前半は飛行機の客室乗務員だった。) 練馬区に住んでいない私は、残念なが…

  • 幕末史を、鞍馬天狗から「天皇の世紀」につないだ大仏次郎

    大仏次郎の『天皇の世紀』は、とてもあの『鞍馬天狗』を書いたのと同じ作家とは思えぬくらい、格調の高い文章であった。 大仏次郎は、1897年、神奈川県の生まれ。 代表作は、『鞍馬天狗』(1924-1965)、『赤穂浪士』(1929)、『帰郷』(1949)、『パリ燃ゆ』(1964)、『天皇の世紀』(1969-1973)。現代小説、歴史小説、ノンフィクション、さらには新歌舞伎や童話まで手掛けた作家である。 …

  • 田中角栄政権始まり、日中国交正常化でパンダ訪日、国際的には混沌とした時代

    1972年で、書きもらしたこと。 この年7月、田中角栄が総理大臣に就任。角栄の著書『日本列島改造論』はベストセラーになりました。現職総理が、今後の日本を改造するビジョンを展開した本として売れに売れたのです。私だって手にしました。読んでいて、細かいことはわからないまでも、とにかくこの日本をブルドーザーで住みよい国に改造します、そうすることの「メリット」はコレコレ、しないことの「デメリット」コレコレと主…

  • 1972年 「坂の上の雲」ベストセラー街道、発進!あっしにはかかわりのねえことで・・・

    テレビ「木枯らし紋次郎」(「あっしにはかかわりのねえことで」といいつつも、事件に巻き込まれる紋次郎。三度笠にカッパをからげたスタイル、口には大きな楊枝をくわえ、バッサバッサと悪人を切る。主演の中村敦夫はこれだけで顔を売り、のちに国会議員になる) 「太陽にほえろ!」(ボスは石原裕次郎、露口茂や、竜雷太らが脇を固め、松田優作ら若手を起用し人気のあった刑事もの)「必殺仕掛人」(池波正太郎原作の勧善懲…

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