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2012/12/23

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  • 患難が生み出す希望

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)---教会の門を叩いたのは、まだ20世紀の頃だ。購入した聖書を読み進めていって最初にありがたく思った聖句が上の「患難が忍耐を生み出し」のくだりだった。それから毎週教会に通い、賛美歌を歌い説教に耳を傾け兄弟姉妹と交わった。教会を変えもした。ある教会で、いきさつは忘れたのだが老牧師とサシでやりとりを重ねた挙げ句、「あなたはイエス様を分かっていますか!」と問い詰められて「いえ、全然……」と悄然として答えたということ...患難が生み出す希望

  • 成長痛

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)---俗に成長痛という言葉がある。あるいはもう死語かもしれない。しかし実際のところ、私たちは傷ついたとき、そしてそれを乗り越えることによって成長してゆく。上の聖書箇所では、このことを「希望」といっている。こういう苦難とは無縁に見える人がたまにいるが、かえって気の毒というか、御父から見捨てられているのかと思うほどだ。しかし、このような人もまた、人知れぬところで苦しんでいるような気もする。なにしろ御父の愛は、十字...成長痛

  • 極端なまでの非合理が死人を生かす

    「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)---「およそ百歳になって、自分のからだが...極端なまでの非合理が死人を生かす

  • 律法と信仰による義

    「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)---もし行ないによって義が確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず...律法と信仰による義

  • イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

    「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))---私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。では...イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

  • 値なしに義と認められる

    「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)---すべての人が罪を犯している。人間が持つアダムの肉を、神の律法が糾弾する。それゆえ、神の御目に義と映る者はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い。何かをやったから罪だというよりも、存在そのものが罪深い。「義人はいない」のである。それゆえ、この絶対的な存在である神から栄誉や栄光を受けるには、私たちははるか程遠い。だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に御父によって復活する。こ...値なしに義と認められる

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