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2012/12/23

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  • しあわせの中に住むたましい

    「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。」(詩25:12-15)---詩篇を読み進めてゆく中、「悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。」(詩22:26)に行き当たった。悩みにあるときには食が喉を通らないので、食べて満ち足りたときというのは悩みを通り抜けてうれしく、主を賛美する。しかし最近、こういう類いの悩みというのを、表ではほとんど耳にしなくなった。ダイエットのような容姿の悩み、人よりも耳目を集めたい、そういう外形的な悩みとでもいうものにあふれている。...しあわせの中に住むたましい

  • 打ちひしがれて悩む詩人

    「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」(詩22:6-8)---詩人は打ちひしがれている。悪いときにはすべてを悪く捉えてしまう。これは自分もそうだし、誰しも同じなのだろう。それで古今東西の多くの人がこの詩に共感する。「私は虫けらです」という自らの矮小化も、このようなときにしばしば陥る。ところで、この22篇のずっと後には「悩む者は、食べて、満ち足り、」(詩22:26)と詠われる。食欲もなくなって痩せ細った悩む者が、腹一杯食って満足する日が戻るのである。必ず戻る。御父は私たち被造物を放ってはおかないからである。---[一...打ちひしがれて悩む詩人

  • 主のさばきはまこと

    「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩19:9)---私は長い間、主を恐れる(畏れる)ということがわからなかった。いったいなぜ、主を恐れるということがあるのだろうか。今はよく分かる。「主のさばきはまこと」なのだ。だからかつての私は、教会に行こうという思いが募って実際に通いだした。そのときの私は御父の存在自体を知らなかったが、まさに主を畏れざるをえなかったからだ。翻って思うに、主のまことのさばきが下ることは、とてつもなく大きな恵みだと思う。---[一版]2020年4月27日[二版]2023年10月27日健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村主のさばきはまこと

  • 私の闇を照らす神

    「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(詩18:25-29)---人に親切なんかしてやるものかと思っていた時期がある。親切をして、その場では感謝されても、時間が経つとけろりとしているので、器の小さい私などは親切なんかするものではなかったという後悔に駆られる。そんなことがたまたま重なった。しかし、御父は「恵み深い者には、恵み深く」されるお方だったのだ。じっさい、イエスによって御父と和解して以来、御父からどれだけ良くしていただいたで...私の闇を照らす神

  • 演技に疲れて本来の自分がわからない

    「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。」(詩15:1-5)---ダビデ王の賛歌。乱暴に言ってしまえばこんな奴いるかよという内容であるし、ダビデ王にしてもこういう人がもしいたならなあという気持ちを歌ったのだろうと思う。なにしろ生きるということは戦いで、ダビデ王はその波乱万丈の戦いを生き抜いた人であった。もし、私こそこの詩で歌われて...演技に疲れて本来の自分がわからない

  • 他人からどう見られるかは恐れても

    「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(詩13:3-6)---「おれは彼に勝った。」と言わないように、また、私の仇が喜ばないように、という思いは、他の人から自分がどう見られるかというところから出てくる。ヤコブは兄のエサウに会う前夜、この不安に捕らわれた。他人からどう見られるかを恐れるということは、詩篇にも創世記にもあるほど、人がもともと持ち合わせている性質なのだろう。もちろん私にも少なからずある。では、この詩人の御父へ...他人からどう見られるかは恐れても

  • 御父が与えてくださるもの

    「彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(詩12:4-5)---御父は、悩む人や貧しい人を救いに入れよう、そう仰る。では救いとは何だろうか。悩みの解決であろうか。豊かになることだろうか。しいたげからの解放だろうか。そういった事々の一番根っこのところにあるいのちの回復、それが救いである。悩む人も貧しい人も、またしいたげられる人も、御父の御前に罪深い存在であることに変わりはない。だがその罪深い肉は、救われたときにキリストの十字架と復活によって赦されて御父が和解してくださるのである。私はこれを神の愛だと...御父が与えてくださるもの

  • いつの世もコミュ力の世のようだが

    「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」(詩12:1-4)---「この舌で勝つことができる」、正にコミュ力全盛の今の世界ではないか。旧約聖書にも詠われているのだから、むしろ、口がうまいのが勝つのは世の常というか、もっと踏み込んで言うと、世とはそういうところということなのだろう。イエスに救われた私たちは、そのとき瞬時にして世の原理から神の原理に移された。だから、私たちは世では末席に身を置きながらも、御父と...いつの世もコミュ力の世のようだが

  • 拠り所

    「主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。「それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩11:1-3)---「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」、拠り所とは、この詩では御父への信仰を指す。私たちは、御父という軸を中心にして右回りしたり左回りしている。信仰を与えられた者の中心軸は神であり、この中心軸こそ上にいう拠り所である。この拠り所が壊されることはない。ただ、「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」と言われて拠り所が見えづらくなることは少なからずある。中心軸が大きくぶれて、そのぶれの大きさが自分でも分かるほどだ。そんなときに私は...拠り所

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