chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
Levi
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2012/12/23

  • イエスを知るということ

    「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)---イエスの御父への祈り。聖書はいったい、何のためにあるのだろう。人の魂が救済されるためのものだろう。世界や宇宙の万物が書かれているわけではない。イエスの十字架と復活が、手を変え品を変え書かれている。だが、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。聖書は教科書や参考書とは違う。...イエスを知るということ

  • 世に勝つとは

    「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)---ひとことに孤独と言っても、さまざまな意味合いが含まれている。本来的な意味での孤独の他に、社会的な孤立であるとか、さみしさというのも含まれているように思える。まだあるかもしれないが、それらの区分けは、今の自分にはまだできていない。イエ...世に勝つとは

  • 復活のイエスに会うとは

    「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:21-22)---復活のイエスに出会う際、私たちは今まで経験したことのなかったほどの激しい苦痛が続く。しかしやがて、復活のイエスは戸の外に立ってたたいてくれる。このイエスと出会うことで、御父は私たちと和解してくださり、あらゆる罪が赦される。罪にさいなまれて続けてきた私たちの、この解放感とこの喜びよ。この内面の、腹の底に溜まるような満足感は、パンによる満腹とは明...復活のイエスに会うとは

  • 御父の子らしい自然さ

    「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:12-15)---真理の御霊、内住の聖霊について。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」とは、一言で言うと、そのとき、私たちは瞬時にして変えられるとい...御父の子らしい自然さ

  • イエスの有り難みはどこに

    「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。……しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)---イエス様はあわれみ深いお方で、としばしば語られたり讃美されたりする。だが、肉のイエスのあわれみ深さばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。イエスのありがたみは、なんといっても、そのあわれみ深い神である「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にあ...イエスの有り難みはどこに

  • 父に祈り求めるもの

    「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16))---御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。今の私にはこうありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。だが、御父が必ず願いを叶えてくださることは違いない。ただ、願うものそのものを実現するというようなご利益宗教的なものではないのである。ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白-ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。大事を成そうとして力を与え...父に祈り求めるもの

  • イエスの喜びと私たちの喜び

    「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)---イスカリオテ・ユダが裏切って、ついにイエスは栄光を受けた(ヨハネ13:31)。上の聖句は、このことがあってのちにイエスが弟子達に語った言葉である。ここでイエスの言う喜びとは、どのようなものであろうか。栄光を受けた喜びであろうか。おそらく、イエスが奥底のところで持ち続けているものを、ここで喜びと言っているのではないかと思う。そしてこれは、私たちの奥底にもあるものであり、イエスは私たちのこの喜びを満たすと約束している。私たちはかつて、自分の中に喜びというものがあること自体を分からずにいた。その頃は、喜びは外部から来ると思っていたが、それはただの刺激に過ぎなかっ...イエスの喜びと私たちの喜び

  • 実を結ぶとは

    「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできませんわたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1-5)---剪定をするのは御父であ...実を結ぶとは

  • イエスが与える平安

    「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)---平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。ストレスのないことだろうか。しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。イエスがここで約束しているのは、もっとずっと奥深いところ、すなわちたましいの平安のことである。このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マ...イエスが与える平安

  • 世の原理に死に御父の原理によみがえる

    「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」...世の原理に死に御父の原理によみがえる

  • イエスを知っているのにイエスを知らない

    「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:7-9)---ピリポはイエスの弟子として、長い間イエスに付き従っている。そのピリポは、イエスに「私たちに父を見せてください」と願う。しかしイエスは「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」と返す。知っているのに知...イエスを知っているのにイエスを知らない

  • イエスが拓く道

    「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)---イエスは行かれる。「場所」を備えるために、父の家へと。十字架の道を通って。この道をかつ...イエスが拓く道

  • あなたがたは互いに愛し合いなさい

    「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)---大分前のことだが、通勤電車が駅に着いてホームを走り出した途端、すてーんと滑って転んだ。マンガの絵そのままに、すてーんと転んだ。幸い体に痛みはなかったし何しろ乗り換え時間があまりないので、そのまま立ち上がってまた走った。このことを職場で話すと、それはyoutuberがバナナの皮をホームに置いていて、どこかで動画を撮っているんだと教えてくれた。私は心底驚き、そして途方もない気分になった。通勤時間帯の電車や駅が...あなたがたは互いに愛し合いなさい

  • 裏切りを受ける神の子

    「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)---イエスの動揺、そしてそれを目の当たりにする弟子たちの当惑。イエスは何に動揺しているのだろう。イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。公生涯での御子イエスと私たちとでは、同じところが1つだけある。それは肉をまとっているということで、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる...裏切りを受ける神の子

  • 苦痛のない愛は愛とはちがう

    「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)---遙か昔、教会にいた頃、足を洗い合うということがあった。総勢20人くらいだっただろうか、はしゃぎながらやっている。自分も誰かの足を洗った。誰かはまるで覚えていない。多分、向こうも覚えていないだろう。思うに、足を洗った相手をまるで覚えていないというのは、私にとってその人は大切ではないわけで、上の聖書箇所でイエスが言った意味での足を洗うというのとは似て非なるものだった。このような、自分にたいして痛みの伴わない行為というのは、誰でも彼でもやっている。しかし、ここでイエ...苦痛のない愛は愛とはちがう

  • イエスが愛、愛がイエス

    「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)---ユング心理学者の河合隼雄さんは、「物と心、自と他などと明確に分割することによって、近代人は多くのことを得たが、…………。つまり、明確に分割した途端に失われるものが「たましい」だと考える」と書いている(「物語を生きる」,p.13)。このことを「愛」という言葉に当てはめてみると、愛だけを分割して取り出した途端に愛とは何かが分からなくなるということになるだろうか。そうすると、イエスが愛であり、愛がイエスである、という方がより近いだろう。愛の乏しいこの私にも、十字架と復活というイエスの愛は惜しみなく注がれた。---健やかな一日...イエスが愛、愛がイエス

  • イエスの言うことを聞くとは

    「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:47-48)---イエスの言うことを聞くか、それとも受け入れないか。受け入れないというのはわかりやすい。この世に多くいる。では、イエスの言うことを聞くとはどういうことだろうか。それは、イエスのことばがその人の内に入って、その人の古い人が死ぬことである(ローマ6:6)。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村イエスの言うことを聞くとは

  • ブラックな世界に射し込むイエスという光

    「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)---イエスは光として世に来た。ただ、多くの人は盲目であったため、光を光とは分からなかった。光を光といやでも分かった人もいる。目が一時的に見えなくなったサウロがそうだ。そこからすれば、盲目のため光を分からない人々はやみの中にとどまっているのだろう。ここでやみとは何だろうか。御父という唯一の神が分からずに、好き勝手やっている状態ではないだろうか。言い換えるとブラックであって、利権が神であって、正義も何もあったもんではない。このブラックさに息苦しくなったら、イエスに照らされることを祈ろう。このやみの原理とは異なる創造主の原理がある。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村ブラックな世界に射し込むイエスという光

  • かたくなな心

    「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)---ラザロのしるしを目の当たりにした多くの人々は、イエスを神の子とは信じなかった。イザヤによれば、御父が彼らの目を盲目に...かたくなな心

  • 死ななければ生きない

    「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)---聖書という書物は、十字架と復活についてもっぱら書かれている。死ななければ生きないのである。一粒の麦が地に落ちたとき、死ななくてはその麦が生きていのち輝くことはできない。しかし、この麦が地に落ちたのは御父によってであり、麦がみずから落ちたわけではない。マモニズムに満ちたこの世にあっても、死んではじめて、このマモニズムを超えて生きるようになる。このこともまた、御父の働きであり、イエスの十字架も、自ら選んだというよりは御父の命令に従った...死ななければ生きない

  • 運命

    「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。今わたしの心は騒いでいる。...運命

  • スケープゴート

    「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ11:48-52)---希代の芸術家である岡本太郎は、こう述べている...スケープゴート

  • 死とよみがえり

    「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:42-44)---イエスは、死者ラザロをよみがえらせた。これは、「あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」のしるしである。その神の子イエス自身は、苦しみの果ての十字架と三日目のよみがえりによって、最大のわざを成し遂げた。このわざによってイエ...死とよみがえり

  • よみがえり主

    「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)---よみがえり、ということ。死んで復活するということ。イエスはもっぱら、そのことを為すためにこの世に来られた。罪深い私たちのために神が極刑の十字架に架かって死んで、しかも復活を遂げてくださったのだから、神の愛とは正にこのことを指すのだろう。そのイエスに従わざるを得なくなり、私たちも死んでよみがえって「いのち」を授かるのである。ところで私たちは確かに生きている。だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。人間としては死に続けている。それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつ...よみがえり主

  • 自分の内の光

    「その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:7-10)---イエスは「夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」という。つまり、私たちは自分の内に光を宿していない。「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:23)とイエスも言っている。神が受肉したイエスが世にいた昼には、自分の外に光があった。このイエスが光...自分の内の光

  • 羊飼いイエスの声

    「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)---イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。イエスを知るイエスの羊は、イエスの後を付いてあの狭い道に入ってゆく。この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れる...羊飼いイエスの声

  • 私たちを奪う者

    「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ユダヤ10:28-29)---十字架と復活の御子イエス、その御子を介して御父と和解した私たちは、この囲いの中にいて、ほかのだれかからも奪い去られることがない。このことを異なる角度から見ると、奪う者が存在するということである。この奪う者とは、どのような者であろうか。マタイ伝で荒野のイエスを誘惑した悪魔のような存在だろうか。しかしそれではわかりやすくて多くの人は見抜いてしまうだろう。そうなると、私たちは、それとは気づかぬうちに奪う者に与しているのかもしれない...私たちを奪う者

  • イエスの羊

    「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:25-27)---信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。イエスの羊に属している者が、否応なしに信じさせられる。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」とイエスが言うのは、それ以外の羊はイエスの声を聞き分けることができず、どの声も同じに聞こえることを指す。もっと言うと、どれがイエスの声なのかを峻別できない。しかし、イエスは目の見えない者を...イエスの羊

  • いのち捨てる権威、いのちをもう一度得る権威

    「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)---十字架と復活、その予告。ただ、イエスの話しているこのことを理解できる人はいなかった。イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。具体的には、罪人の救いという命令である。罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。そして、「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。これは救いの型であり、イエスがはじめて切り開いた狭き道である。恵みによ...いのち捨てる権威、いのちをもう一度得る権威

  • 間違いのある神

    「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)---イエスのしたたとえ話は、どうも理解されなかった。そこでイエスは話を仕切り直す。受肉した神イエスは、間違うこともあるのである。間違うこともある神、というよりもそれは肉を持つ者の不完全さのあらわれなのだろう。まして、アダムの肉の子孫である私たちが間違いひとつないということがあるだろうか。私にしても、今までどれだけの間違いをし続けてきたことだろう。どれだけ多くの人を傷つけ、悲しませたことだろう。それにもかかわらず、周りからどれだけ許され続けてきたことだろう。だが私には、どうしても許すことのできない人が1人いる。こんな私の大きな間違い、どうにもならなさも、イエスは理解してくださる。肉...間違いのある神

  • いのちを捨てた牧者がわたしたちにいのちを得させた

    「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)---多分羊飼いという職種は、局面によっては羊のためにいのちを落とすこともあると思う。しかし、イエスという羊飼いは、私たちのためにすすんでいのちを捨てたのである。単に私たちを守るためではなく、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」に、イエスはすすんでいのちを捨てた。イエスという門をくぐった人は、与えられたいのちの素晴らしさを実感する。---健やかな一日をお祈りします!にほんブロ...いのちを捨てた牧者がわたしたちにいのちを得させた

  • 見えるようになったことについて

    「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見え...見えるようになったことについて

  • 救いは恵みにより、恵みとは風が吹いてくるようなもの

    「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)---生まれつきの盲人を見かけた一行。「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。なぜ、イエスは特段この人を癒したのであろうか。それは、イエスが彼をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。この盲目の人が誰より気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイ...救いは恵みにより、恵みとは風が吹いてくるようなもの

  • 偽り者は偽らない者に変えられるか

    「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)---「この方」とは御父のこと。イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば、あなた方同様に自分は「偽り者」となる、そう言っている。自分が偽り者だという気付き。自分が殺す者だという気付き。律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは経験したことのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。それは、断食とか滝に打たれるとか、そのような自発的な行ないではどうにもならず、ただ恵みによるのである。偽り...偽り者は偽らない者に変えられるか

  • 『自由』と『自由』

    「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:30-34)---自由ということばについて、イエスの言うところと彼らの言うところが大きく違っている。彼らの言う自由とは、奴隷のような束縛や制限がない...『自由』と『自由』

  • イエスが与える自由

    「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:31-34)---自分語りになるのだが、私は必要以上に緊張している時期が長かった。その緊張がほぐれてからそうであったことに後から気づいたのだが、この緊張がほぐれてくると、人前でもいきいきとした会話ができるようになり...イエスが与える自由

  • ほんとうに生きぬく道

    「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)---希代の芸術家である岡本太郎は、こう書いている。「考えてみると、人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。」(「自分の中に毒を持て」,p.122)イエスの言う「世」とは、この世渡りをするところの世である。この「世」について、先の本をもう少し引用する。「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(同,p.137)これこそまさに「やみの中」だ。死んだ人々がおびただしく群れて...ほんとうに生きぬく道

  • いのちの光

    「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)---世には二種類の人がいる。生きている人と死んでいる人だ。死んでいる人とは、イエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22)と言っているところのものである。生きているが死んでおり、やみの中にいる。一方、生きている人は、いのちの光を宿している。世の光であるところのイエスから与えられたこの光を宿している。私などは死んでいるように見えても生きており、イエスと共にある内からの満足感が湧き上がってくる。生きがいとかやり甲斐というものは、自分の外にある何かではなく、この内なるいのちの炎なのではないかと思う。---健やかな一日をお祈りします!...いのちの光

  • 生きたことば

    「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45-49)---もともとはイエスを捕らえるために、役人たちはパリサイ人たちから遣わされた。このパリサイ人たちは、日頃、律法を教える立場にある。イエスを捕らえなかった役人たちはこのパリサイ人に告げる。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」パリサイ人の教えに接し続けてきた人々がこのように言うのであるから、少な...生きたことば

  • 内側からわき出る満足感

    「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)---世の中には二種類の人に大別される。乾いている人と、乾いているが乾いていることにすら気づかない人である。前者には伝道者の書(コヘレトの手紙)に著されているような虚無感が含まれる。そしてこの世では各種イベントや宴会などが刺激を与え、この外部からの刺激が心の飢え乾きから一時的にでも気をそらしてくれる...内側からわき出る満足感

  • イエスが私たちのところへと訪れる

    「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)--パリサイ人(の遣わした役人)とイエスとのやりとり。公生涯のあとにイエスが行くところというのは、天の御国である。その御国にいるイエスを、パリサイ人は探しても見つけることができないし、彼らパリサイ人は御国に来ることもない。このこと自体は、私たちにとってもそうである。私たちがイエスを探そうとし...イエスが私たちのところへと訪れる

  • 御父を分かる角度

    「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:14-16)---わたしの考えがわたしのものであることの例として、日本文学の金字塔である夏目漱石は、「私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。」(夏目漱石、「私の個人主義」(講談社学術文庫),p.136)と講演している。世界を見る独自の角度を見出したのである。一方、イエスの言うことは、イエスの見方や角度によるものではなく、御父のものである。さらに言うと、イエスが...御父を分かる角度

  • 恵みを待つ忍耐

    「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」……そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)---去っていった弟子たちは、イエスに従えば「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。ところ...恵みを待つ忍耐

  • 肉に死んで御霊に生きる

    「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)---罪から救われるため、まずは神の律法を遵守するという肉の努力を行う。ところが、神がよしとする基準ははるかに高く、律法を守り行おうとすればするほど守れないことが身に染み、罪の意識はさらに増してゆく。そうして「肉は何の益ももたらしません」、言い換えれば、自力では何をやってもダメというところにまで堕ちる。ここまで堕ちてはじめて、恵みによってイエスがその人の戸を叩く。このイエスとの出会いが、罪の赦し、御父との和解、そしていのちをもたらしてくれる。このような、肉に死んで御霊に生きるという過程は、イエスの十字架と復活と変わるところがない。私たちは、イエスが切り拓いた救いの道を...肉に死んで御霊に生きる

  • 世の基準軸、御父の基準軸

    「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:57)---イエスは父によって生きている。それ以外の何か、たとえば金銭欲や名誉欲や権力欲などによって生きているのではない。私たちは日ごろ、そういったものを満たすべくあくせくしている。しかし、そのようなものは私たちを本当には心満たさない。10億儲かったら100億へ、100億儲かったら1000億へ。このような際限のなさは、1000億が私たちの心を満たす何かではないことの証左だろう。また、その逆も同じことで、金銭という軸を中心に右に回るか左に回るかの違いでしかない。しかし、イエスが与えるパンを食べた者は、こういった世の基準軸から離れてしまう。「父によって生きる」という基準軸へと瞬時に移る...世の基準軸、御父の基準軸

  • 一回限りの正餐

    「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)---イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。この十字架のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。そのとき、私たちは「いのち」を与えられる。また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。両者は異なる表...一回限りの正餐

  • 神によって教えられる

    「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)---イエスは言う。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたし...神によって教えられる

  • パンでは満たされないもの

    「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:35-37)---マタイ伝の中で試練にあったイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)と言っている。しかし、この物質主義の世はパンで満ちあふれ、人々は「いのちのパン」のことなど思いもしない。加えて、現代は情報もあふれかえっている。だが、パンという物質や情報によっては、人...パンでは満たされないもの

  • 救いについて

    「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)---どんなに疲れていても、乾くことがない。よそから見てどんなにボロボロでも、その人の内はいつも満たされている。むしろ内側がボロボロなのは、よその人々の方だろう。死の間際にあっても、この満足感はいよいよ大きくなるのではないか。イエスの言う「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」というのは本当のことだ。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村救いについて

  • しるしが分からない群衆は私たちも変わりがない

    「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。」(ヨハネ6:26-30)---イエスのパンのしるしに...しるしが分からない群衆は私たちも変わりがない

  • ヒューマニズムと聖書

    「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」(ヨハネ5:43-45)---ヒューマニズムというものがある。人間をすばらしい存在ととらえ、互いに評価し合う。人間の良い面も醜い面もありのままに認めてすばらしいととらえるのならばまだ分かるのだが、このヒューマニズムは良い面だけを見て、その上で人間の全存在に信頼を置こうとする。彼らは自分の内側にある醜い面、嫌な面から無意識に...ヒューマニズムと聖書

  • 聖書に何を求めるのか

    「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)---「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がいきいきとよみがえることをい...聖書に何を求めるのか

  • 生ける死人

    「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)---著名な仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)は、次のように言っている。「『人間』というものは(機械化してしまうと)無くなってしまう。人間の創造性、潤いとか柔らか味とかいうようなものは、ことごとくそっちのけで、それを作る機械そのもので行くことになるのです。もう、そこへ来ると、人間の代りに機械だけしか見えぬということになるのです。何かそこに一つの柔らかさとか味とかあるいは余裕というものがなければ、人間性はない。人間はどうしても物になれぬ、機械になれぬ。」(大熊玄編、「はじめての大拙」、p.84。なお、上記引用中のカッコは編者による補足。)上の引用を借りると、死...生ける死人

  • 恵みと行ない

    「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:2-9)---38年も病気が治らない人にイエスが出会う。イエスは彼に言う。「よくなりた...恵みと行ない

  • 霊とまことによる礼拝

    「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)---エルサレムの神殿で礼拝するにせよ、北イスラエルが勝手に定めたゲリジム山(うろ覚え)で礼拝するにせよ、それは礼拝というよりか、ただの儀式になってしまう。しかしこのただの儀式によっては、人は御父とつながらず、御父は人と...霊とまことによる礼拝

  • いのちの水は飲むのではなく内から湧き出る

    「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:12-14)---「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。何が渇くのだろうか。もちろん魂が渇くのである。渇くとどうなるかというと、刺激で一時しのぎをしようとするかもしれない。刺激といっても様々なものがあるので、ここでは物欲に絞ると、衝動買いという言葉もあるように、消費することそれ自体が刺激になることがある。そんな刺激はもちろんすぐになく...いのちの水は飲むのではなく内から湧き出る

  • キリストの光

    「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)---「生きがい感というものは、そぼくな形では生命の基盤そのものに密着しているので、せいぜい生きるよろこび、または『生存充足感』としてしか意識されない。デュマのいうように、ひとの生活が自然な形で営まれているときには、一種の自動性をおびて意識にのぼらない傾向があるからであろう。したがって『あなたは何を生きがいにしていますか』とたずねても即座に返事のできない人が多い。或る調査用紙にこの質問を入れておいたところ、『この問いをみてギョッとした』という感想をのべた婦人もある。」(神谷美恵子著、「生き...キリストの光

  • 御子を信じる者とは

    「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:18-21)---真理を行う者か、それとも悪いことをする者かは、イエスを信じるかどうかによる。悪いことをする者はやみを愛する。イエスという光を避け、イエスが与えようとするいのちを拒み、生きているようで実際には死んでいる者である。しかしイエスを信じる信仰は、自ら選ぶのではなく、イエスによっ...御子を信じる者とは

  • やり直すことと新しく生まれること

    「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉で...やり直すことと新しく生まれること

  • 悩みを抱えて夜にイエスを訪れる者

    「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:1-3)---指導者ニコデモは、夜にイエスのもとを訪れる。夜、というのは、誰かに見つからないようにというのもあるだろう。しかし、この後に続くイエスとのやりとりを見るとニコデモは明らかに気弱で、深い悩みを抱えていたのではないかと思う。夜は悩みが募るのかもしれない。ニコデモの相談というのは、一...悩みを抱えて夜にイエスを訪れる者

  • 人の土台

    「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:23-25)---信じるということは、外形的なしるし、信じるに足るものを見たので信じるというのとは違う。こういうものは、観察して因果関係が認められたから、あるいは、実験データからこういうことが言えるといった近代自然科学のやり方と変わることがない。これは認識であって信仰ではないのである。そうではなく、信仰は内側に宿る。イエスの十字架の死と復活を通して御父...人の土台

  • 宮清め

    「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたは...宮清め

  • 救いによって何が大切なのかが根底から変わる

    「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:13-16)---イエスに救われて、気づくと物欲がなくなっていた。かつては分不相応な高級車を乗り回していた。それを買うために残業代を膨大に稼いでそれから倹約も随分した。それにしても、残業代で購入する高級車とは、ない見栄を張ることに他ならないのだが、当時はそんなことにも気づかない。多くの人と同じく、当時の私もカネという中心軸の周りで動いていた。カネを稼ぐか倹約するか、いず...救いによって何が大切なのかが根底から変わる

  • 聖霊のバステスマ

    「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32-33)---もう随分と前、私も水のバステスマを授かったことがある。水が浅く張ってあるバスタブに入った私を、牧師は全身沈めてすぐ引き上げる。これは死と復活を象徴するものであって、この水のバステスマとは型であり予兆なのだという理解を私はしている。しかし、ヨハネの後に来たイエスは、型として...聖霊のバステスマ

  • イエスによって御父が示される

    「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18新共同訳)---イエスの公生涯のさなか、実に様々な人がこのイエスと係わった。多くの人々をあわれみ、給食の奇跡を起こし、病人をいやし、死者ラザロを生き返らせた。それはなぜだろう。多くの人々に御父の本質を示すためである。奇跡やいやしそのものが目的なのではない。だが、イエスによって示された御父を信じようとする人は稀であった。パンで腹を満たした人々は満足すると解散してしまった。それでもイエスが示した御父を信じようとする人には、イエスのわざであるところの十字架と復活を通して恵みに預かった。イエスは今も、御父の本質を示し続けている。むしろ、それをどう捉えるかを私たちは問われている。---[一版]202...イエスによって御父が示される

  • 恵みとまこと

    「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)---「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。イエスが肉をまとっておられた公生涯において、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。このことを言い換えると、記者はイエスの中に神を見いだしたのである。十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまで...恵みとまこと

  • 神の子という新たなアイデンティティー

    「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11-13新共同訳)---御父は万物を造り人を造った。しかし、多くの人々は御子を受け入れなかった。御子を受け入れなかった人々は、御父から断絶していることに気づきもしなかった。一方で、御子を信じる者もおり、彼らは御父から断絶していることを受け入れた。「神の子となる資格」とは、御父との関係性を回復できる可能性のことである。「神の子」は、人間の血肉的なものに由来せず、正に神から生まれた者のことであり、彼はルーツが変わり、アイデンティティーも変更される。「神...神の子という新たなアイデンティティー

  • イエスが与える満足はこの世のものでは得られない

    「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)---このイエスは、「いのち」という光を宿している。そしてイエスは、多くの人を救うため、その「いのち」を恵みによって分け与える。その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。人が根源的にもっとも大切なもの、これを人は失ってしまっていたのだが、イエスが回復させてくださるのである。いま、人々は、カネ、モノその他物質的・物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。まさにマモニズムそのものだ。確かにないよりあるに越したことはないが、いったいカネやモノで満足できるのだろうか、心満たされるだろうか。果てに見栄を張ったり他人を貶めるというのは、満足感というにはほど遠い。このマモニズムは、人間に...イエスが与える満足はこの世のものでは得られない

  • やみの中の私たちを照らすいのちの光

    「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:3-5)---「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とは、イエスに依らずに存在するものは、やみのものであるということである。実に、私たちは、やみの中にいるのである。このやみの中で救いを求めてあえいでいる。しかし、人の光であるところのいのちが、やみに射し込んでいる。この光はやみの中にあって燦然と輝いており、やみの中にいた私にもこの光が照らされた。どの人にもこの光は照らされているのだが、照らされるのを嫌う者も少なくない。人の光を喜ぶ者は、イエスによる救いに招待されたのである...やみの中の私たちを照らすいのちの光

  • ことばは神とともにあった

    「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)---ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。このことばによって、人から人へと意味が伝わる。聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。これは、大きな苦悶のさなかにいた...ことばは神とともにあった

  • イエスの復活

    「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)---イエスの復活。11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。かつての私は、この復活の仕方が不思議でならなかった。エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば...イエスの復活

  • 祈りについて

    「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)---祈りについて。公生涯においてイエスは実にしばしば祈っていた。何を、または何について祈っていたのだろうか。そもそも祈りとは何だろうか。この日本においては、祈りというと初詣や厄除けの類のものが祈りであると思われている。つまり、家内安全、商売繁盛、無病息災のお願いの類であり、神(神々)はこういった御利益をかなえてくれる便利な存在なのであるから、神よりも人の方が上に位置してしまっている。聖書の神は、そのような御利益のための神とは全く違う。神が私をお造りになったのであるか...祈りについて

  • イエスの受難、私の受難

    「それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:27-31)---ピラトの決定によって十字架に付けられることになったイエスは、十字架に付ける側のローマ兵にからかわれる。肉の上ではユダヤ人のイエスにとって、異邦人のローマ人に馬鹿にされるということは耐えがたい侮辱と屈辱だった...イエスの受難、私の受難

  • 『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶとは

    「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人...『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶとは

  • 世の原理と御父の原理

    「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:3-8)---イスカリオテ・ユダが何故イエスを売ったのかは、わからない。しかし理由はともかく、ユダは裏切り、そしてそのあと、彼は激しい後悔の念に駆られて、祭司長達の...世の原理と御父の原理

  • イエスの契約

    「また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27-28)---イエスはここで「契約の血」と言っている。どのような内容の契約なのであろうか。それは、イエスが多くの人の罪を赦すために血を流すということである。単に罪を赦すということではない。イエスは十字架で血を流し、そして復活した。救いの道を開通させるためであり、これがイエスの契約である。私たちは、このイエスの血で染められた狭き道を気づくと通っていて、大変な苦しみの後に復活し、そこで罪赦されるのである。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村イエスの契約

  • 裏切り

    「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:21-24)---この社会に身を置いていると、さまざまな辛いことが襲ってくる。わけても、裏切りほど辛いことはないのではないか。予め分かっていたであろうイエスですら、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と...裏切り

  • 行ないについて

    「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。……すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さ...行ないについて

  • 持たざる者が持てる者に変わる

    「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)---上の「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、…」には、述語がない。何を持つ(あるいは持たない)ことを言っているのだろうか。持っている者には好循環が起こっている。述語をカネと仮定してみれば、このことは分かりがいい。多額のカネを運用すれば、リターンもでかい。でかくなったより多額のカネを運用すれば、そのリターンはもっとでかい。その好循環である。述語を今度は「いのち」とすれば、「いのち」ある者は、救いの喜びゆえにますます喜びが大きくなってゆく。好循環が起こるのである。それに対して、この好循環のない者は、どんどんすり減ってゆく。あたかもデフレ経済のようで、じり貧になる。ソロモン...持たざる者が持てる者に変わる

  • 愚かな娘は花婿より油切れの方が気になってしまう

    「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らない...愚かな娘は花婿より油切れの方が気になってしまう

  • 偽善者について

    「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)---主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人にばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。では、この偽善者とはどういう存在だろうか。ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろうか。とこ...偽善者について

  • 御父とのつながりつづけることがこの時代の忍耐

    「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:8-13)---イエスの語る黙示はわかりやすい分、より恐ろしい。わかりやすいも何も、これは今のことなのではないかと自分は思う。本音が包み隠さず堂々とまかり通り、一方で、空々しいほどのきれい事がいくつも流布している。去年2021年の7月に有料になったレジ袋には、今やバーコードが印刷されている。「...御父とのつながりつづけることがこの時代の忍耐

  • 外側の行いから変わるのではなく内側の聖霊に動かされる

    「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ23:23-26)---律法を表向き守ることは、比較的簡単だ。たとえば、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた...外側の行いから変わるのではなく内側の聖霊に動かされる

  • 自分を高くする者は低くされ

    「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)---若い頃の私は、何一つできないくせにプライドだけは三人前だった。周り中からさまざまな形で叩かれた。しかし、こんな自分をくじいたのは、実は御父だったのだ。くじかれた自分は、イエスを介した和解を経て、こんどは御父が支えてくださるようになった。---[一版]2018年6月23日[二版]2022年8月7日健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村自分を高くする者は低くされ

  • 戒めを守ろうとして守れず苦しむ人の幸い

    「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36-40)---神の完全な秩序は、律法という形で明文化されている。人はすべて、こうでなくてはならない。そのとき彼は、義人である。数多い律法の中で、大切なものとしてイエスは2つを挙げる。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。律法は、この2つに収斂する。神を愛し、人を愛せよ。だが...戒めを守ろうとして守れず苦しむ人の幸い

  • 聖書を目的としてでなく手段として扱う人の残念さ

    「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)---支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。聖書というのは、力である。御言葉の力だ。正に、「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」である。死者をも生き返らせ、生ける死人をよみがえらせる、御言葉の力はそれほど...聖書を目的としてでなく手段として扱う人の残念さ

  • 私たち神のものが神に返る

    「それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:17-21)---イエスが見事に切り返す場面であるが、ここでイエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言っている。世俗のものと神のものと...私たち神のものが神に返る

  • 追い出された人も招待される時が来るかも

    「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。……王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っ...追い出された人も招待される時が来るかも

  • 山が動くほどの力が自分の中に働いてよみがえる

    「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:18-22)---いちじくの木を呪うと...山が動くほどの力が自分の中に働いてよみがえる

  • イエスの宮清め

    「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)---イエスの宮清め。御父にお参りをする宮という聖なる場所には、捧げ物の商人たちであふれていた。彼らは御父にお参りをするのではない。お参りの便宜のための商売をしている。イエスは彼らを追い払う。それも「強盗の巣」という強い表現で彼らを非難する。私たちの内側にも宮はある。しかしその宮は、およそ宮としての体をなしていなかったり、あるいは、もう、宮の存在に気付きもすらしないかもしれない。イエスの宮清めは、そのような私たちの宮を清めてくれる。私...イエスの宮清め

  • なにゆえイエスを喜ぶのか

    「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)---イエスのイスラエル入城。イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろうというものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そ...なにゆえイエスを喜ぶのか

  • 人に仕えるのは聖霊の働き

    「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:27-28)---私は電車でよく席を譲った。偉くなりたいとかいうよりも、体が勝手に動いている。昔も電車で席を譲ったことはある。だがそのときは、疲れてるし嫌だなーでもイエス様も喜ぶしなどとぐちゃぐちゃ考えた挙げ句に譲っていた。嫌々譲っていた。だから、体が勝手に動いて席を譲るというのは、私が譲っているのではなく、内住の聖霊様の働きなのだろうと思う。ちなみに最近は、席を譲ろうとすると、いえあなたこそお座りくださいと言われたということが2度あって、それ以来、席を譲ること...人に仕えるのは聖霊の働き

  • 夕方まで粘ってとうとう声を掛けられた

    「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦...夕方まで粘ってとうとう声を掛けられた

  • イエスは金持ちを生かすがためにお前死ねるかと迫っている

    「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなた...イエスは金持ちを生かすがためにお前死ねるかと迫っている

  • 兄弟を赦しますってお前ちっとも赦してないだろ本当は

    「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:32-35)---一万タラントの借金を主人から赦してもらったしもべのたとえ話。私には、心底憎くて殺してやりたい、そんな奴がごろごろいる。先日、3度殺しても気が済まない元上司の降格人事が発表された。ざまあみろ、せいせいするわ。そういう思いの沸き立つ自分に引け目を感じるかといったら、かけらも感じない。むしろ、敵を心から赦してますなどと言う...兄弟を赦しますってお前ちっとも赦してないだろ本当は

  • 弱っていない人と弱っている人とではイエスは後者を憐れむ

    「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし...弱っていない人と弱っている人とではイエスは後者を憐れむ

  • 誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

    「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)---大ベストセラー「星の王子さま」(サン=テグジュベリ)の主人公である王子さまは、数々の小惑星を巡る。その4番目の星は実業家の星で、私は有能な人間だと二言目には口をつく。「有能な人間だからな、私は」。「だが私は有能な人間だからな!」。この星をあとにして、「おとなってやっぱり、まったくどうかしているな」という思いが...誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

  • 信仰はあるかないかのどちらか

    「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)---イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。つまりそれは信仰があるのである。信仰とはあるかないかのどちらかしかないからだ。たとえば「信仰が30%ある」というようなことはない。違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。このとき、私たちの内で、...信仰はあるかないかのどちらか

  • 超不信仰なこの時代ですらイエスは個々に会いに来てくださる

    「イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)---エリヤの時代も不信仰な時代だったという。北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。たとえばイエスは安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられ...超不信仰なこの時代ですらイエスは個々に会いに来てくださる

  • 生きるために死ぬ

    「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:23-26)---かつて教会に行っていた頃、自分はとても苦しかった。愛情の類にも飢えていた。だから私は、牧師にべったりと寄り添って離れなかった。この牧師こそ自分を...生きるために死ぬ

ブログリーダー」を活用して、Leviさんをフォローしませんか?

ハンドル名
Leviさん
ブログタイトル
平成隠れキリシタン
フォロー
平成隠れキリシタン

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用