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坂田舞子の長唄三味線 https://syamisen.doorblog.jp/

三味線の面白さや楽しさが伝わるように精進して参ります。生徒の募集もしております。

多くの人に三味線の面白さや楽しさが伝わるように精進して参ります。コメントやメッセージお待ちしております。生徒さんの募集も随時しております。初心者から中級者までどなたでもお気軽にご連絡下さい。質問等でも結構です。

坂田舞子
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2012/07/10

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  • 22私の一番のお三味線の話

    2013年という年は私にとって転機の年、スタートの年でした。大学を卒業して2年たち、まだまだ駆け出しでしたがこの年に拠点を浅草に置き、最高級の舞台用楽器を買いました。買った舞台用の楽器は、学生の頃からお世話になっていた『根岸の菊岡

  • 20じーぼちゃんとの出会い

    じーぼちゃんは思わぬ出会いからご縁をいただき、うちに来た猫でした。9年前の2012年のある日、ある方からこのブログに『母の形見の三味線を使ってもらえないか』というメッセージをいただきました。 当時大学を卒業したてで私は楽器を

  • 20三味線教室のスタート

    三味線のプロになってすぐ食べられるようになるわけではありません。安定した収入を得るために、自分の教室を開いて生徒さんを集め、お月謝をいただくことがまず必要でした。私の場合、本当に運が良かったのですが、藝大四年生の時から浅草中学校の三味線

  • 19プロの演奏家になろうと思ったきっかけ

    藝大卒業後、師匠が『東音会』に所属していたので、私も東音会に入ることとなりました。実は、藝大入りたての一年生のときは母親から強制的に決められた道だったので普通に就職して一般企業で働こうと思っていました。でも、一年生のときある授業で先

  • 18藝大の思い出10

    藝大の思い出学生時代の思い出最後の記事を書きます藝大は普通の大学と違い論文を書いて卒業ではなく、演奏試験で判定されます。四年生になると勉強会や実技試験の他に10月に学内演奏会、1月に卒業演奏会の二つの試験が追加され、授業は少なくてもレ

  • 17藝大の思い出10

    藝大の思い出2年生の時声楽科の同級生が立ち上げた『Message主義』という団体に参加していました。音楽、美術合わせて50人くらい関わっていたかな?藝大だけでなく他校からも数人参加していて、卒業までの2年間オリジナルミュージカルの公演やワークショップ

  • 16藝大の思い出8

    藝大の思い出学生のあいだは学外の色んなところで同級生と弾いたり、コラボしたり、洋楽や美術の仲間たちとオリジナルミュージカルや奏楽堂企画2008に参加したりして、演奏活動を盛んにしていました。邦楽科には『一年生は学外の演奏活動をする場合大

  • 15藝大の思い出6

    藝大の思い出私が藝大にいるあいだに、校舎が大改造されていきました。三味線のレッスン部屋のある1号館3階はまず、古くて暗くて花子さんが出てきそうなトイレが綺麗になりました。(いきなりトイレの話ですみません)このトイレ、度々不審者

  • 13藝大の思い出6

    藝大の思い出食堂『キャッスル』は、大好きな場所でしたご飯が美味しいのはもちろん、同級生とたむろったり悩みを打ち明けたり学生みんなで先生を囲んで藝談を伺ったり居場所がないときに来て時間を潰したりキャッスルでの思い出全て青春でし

  • 13藝大の思い出5

    藝大の思い出藝大の醍醐味と言えば『藝祭』毎年9月の第1金土日曜日にあります。この時大学は夏休み中ですが、学生は藝祭の準備にほぼ毎日大学に通います。藝祭の名物はやっぱりお神輿!美術と音楽の一年生が組んでお神輿をつくるこ

  • 12藝大の思い出4

    藝大の思い出学生時代の演奏試験は年に2回勉強会(合奏)と、学年末に実技試験(一人で弾く)がありました。勉強会は学年ごとに1曲ずつ演奏し、一人一人に評価をいただきます。これがとにかく緊張するんですよね… 私のときは能楽専

  • ⑩藝大の思い出3

    藝大の思い出藝大は楽しかったですが、辛いこともたくさんありました。そのひとつが楽器のことでした。私が高校2年生のときに母が今の父と再婚しましたが、新しい父が藝大に行くことに大反対だったので、学費は払ってもらえても、舞台用の楽

  • ⑨藝大の思い出2

    藝大の思い出藝大に入ったらまず揃えなければいけないもの・黒紋付の着物(単衣と絽。袷も購入できればよいが、とりあえず単衣があればOK)・紺の袴(男性は縞の地味な袴)・羽織または道行(学生は道行のほうが便利かな)・舞台用の楽器一揃い(女

  • ⑨藝大の思い出1

    藝大での思い出私が入学したてのころは上野公園が今みたいにおしゃれで綺麗ではなくて、大学の前にホームレスの人の小屋がたくさん建っていて、夜は真っ暗で怖かったです。同級生は持っていたパンを見られ『そのパンくれよ』とホームレスの人に言われた

  • ⑧藝大受験

    今回は受験のときについて書いていきます。私の母校東京藝術大学音楽学部邦楽科は、三味線音楽(長唄、常磐津、清元)、邦楽囃子、日本舞踊、箏曲、尺八、能楽、能楽囃子、雅楽の専攻があります。(全部合わせて一学年25名の定員)私は『長唄三味線』

  • ⑦高校生のころ

    中学校3年生の全国大会は、残念ながら予選落ちでした。悔しかったですが、高校でも陸上を続けるつもりでした。進学は埼玉栄の特待生の話があったのですが陸上が嫌いだった母が許さず、陸上をやるならと条件を出され母の出身校に入れられました。群馬

  • ⑥三味線のお稽古

    三味線のお稽古はとても厳しいものでした。師匠は子どもにも容赦のないご指導でした。調弦ができないと合うまでやらされたりお稽古は絶対暗譜でしたので、前回のお稽古したところまでは覚えてこないと怒られ、先生が弾いているのを見て同じように弾けない

  • ⑤中学生のころ

    中学校に入ると、足の速さを生かしたいと思い陸上部に入部しました。私の母校の陸上部は当時県や全国の歴代記録を持っているほどの強豪校で(公立です)、浦和市の大会では何年も連続で総合優勝する強い学校でした。(入ってから知りました)そんなだ

  • ④大好きだった日本舞踊

    習い事をこんなにやっていたと言うとさぞやお嬢様なんだろうと思われますがまったく、そんな身分ではありませんでした。母子家庭でしたし、どちらかというと貧乏を経験しています。母がそういう人で、母方の祖父母の理解もあったので、運良く習い事をた

  • ③三味線を習い始めたきっかけ

    急に生い立ちから話し始めました。『思い出』を話すと言っておいて、今までの人生を語り始めました。最近、数名新しい生徒さんが入ってきてくださって、興味を持って私のことを色々聞いてくださるので…なんだか話したくなり。気長にお付き合いください。

  • ①はじめに

    藝の道に進む人のほとんどは、親がプロの演奏家だったり芸術家だったりいわゆるそういう家に生まれた人だと思います。プロの演奏家になって、キャリアも10年以上そこそこ積んできた今思うのは生まれてすぐにそういう環境で育ってきたほうが、間違いなくい

  • 思い出をつらつらと書いていこうかと

    みなさまお変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか?今年こそは毎日ブログを更新しようと元旦の時には思っていたのに…かなり久しぶりになってしまいましたつい最近久しぶりに会った友人と思い出話などを語るうちに、ふと自分の思い出などをブログに書いてみよ

  • ②生い立ち

    私が産まれたのは群馬県安中市でした。母方の祖父が産婦人科医だったので、祖父に取り上げてもらいました。実家でそのまま産めるって最高ですよね。黄疸で保育器に入れられたそうです。年がバレますが1986年7月25日生まれ。この日の出来事を調べる

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