自然坐道。
坐するとは、瞑想とは、ただ、黙って坐る。損も、得もなく、ただ、坐る。そこで、自発があっても、強制しては、ならない。そこで、無理をしては、ならない。自然に坐れるか、坐れないか。もし、自然に坐る事が出来ないのであれば、坐は、辞めるべきである。「自然にまかせていると、何時か早い人は早く、遅い人は遅く、何事も急ぐ事は無い。坐とは急がないでやって下さい。もし、それを、坐することを強調すると、今度は、枯寂になってしまう。これは、どう言う事か。丁度木が枯れたのと同じように、芽が出ない。化しない。変化上昇しない。坐を強制し、何がなんでもしなければ、ならないと、坐すると、枯寂し、枯渇し、自己の神をも苦しめ、内鳴る神を削り、自らの御魂を滅ぼしてしまう。瞑想とは、かつての、古の修道人でも、仏教でも、儒者墨者、耶蘇教、回教でも、...自然坐道。
2023/10/28 18:07