今日もまた冷たい雨降る私の部屋の窓辺です今日はばばちゃんのデーサービスの日です週2回のデーサービスはばばちゃんの楽しい生きがいいっぱいの日なんですよ。たくさんのお友達と楽しく明るく話し合って過ごせる一日なんですよ。私の家内ですけども、私と違って外向的で話し大好きなばばちゃんです。私など毎日顔を合わせていますから時にはうるさいと思いただ「うんうん」と聞き流し無視することが多いんですけども外では人気があるみたいなんです。今日も迎えにきて下さったデーサービスの人と笑顔いっぱいで車にのって出かけていきました。有り難いことです。「ばばちゃん元気で外がいい」ちょっと違うような気がしますけどどっかで聞いたような気がします。今日はゆうくりと中公新書の「二二六事件」を読むつもりです。私が小学校4年のとき陸軍の若い将校たちが武装し...ばばちゃん元気で外がいい
冷たい雨降る窓辺です日本列島の西から東へ梅雨前線上を低気圧が移動して猛烈な雨をふらして川はあふれて街の通りが川になっています。コロナも大変ですけども地球の大気も異常のような気がします。中国も豪雨洪水の被害で大変のようです。異常気象で野菜が根上がりしているそうですね。でも地球規模の異常気象で地球規模の食料不足などが起こったら食料自給率37%の日本の食料事情はどうんるんでしょうんね潤沢な食料事情になれきっていますけど、75年前まえの敗戦後の数年の飢餓の狂気を私は忘れていません。庭を耕して作ったさつまいもを掘ったあとの茎や葉っぱまで大事に食べました。地球大気の異常気象と暴れ回っているコロナウイルス禍のなかでそれぞれの国がそれぞれの正義を振りかざしてののしりあい、核とミサイルの攻撃力と防御力をそれぞれの国の英知と富を傾...この梅雨空はいつまで続くんでしょうね
静かな会津野に心和みます梅雨空の磐梯山に雲たなびいて
梅雨空に草刈る人の姿が小さく見えてました散歩道わきの綺麗な花も迎えてくれました3年ぶりの入幕の照ノ富士か8勝1負で勝ち越しました。今日の毎日新聞からの複写です膝の故障で大関を陥落して引退を考えた照ノ富士を「まずは体をなおしてから」と励まし踏み止まらせた伊勢ヶ浜親方も偉いと思いますけど、膝の故障だけでなく糖尿病や腎臓結石などの病いもあって序二段まで陥落したのに復帰、3年ぶりに入幕して勝ち越した照るノ富士関はすごいです。横綱かの声さえあった元大関が序二段で相撲をとる。プライドもあったろうに凡人には出来ないことだと思います。照の富士関と伊勢ヶ浜親方にの尊敬の拍手を送らずにはいられません。人生の終末期の93歳7ヶ月をよたよを生きている私希望と勇気を頂きました。広々とした圃場の緑が遠くまで
こちらから行くんじゃなくって遠くの向こうから歩んで帰る道なんですよ私の93年生きてきた私の人生みたいです。茫洋としてなんの取り柄もありません。「あなたって優しそうに見えて冷たい人ね」といわれて「そうかなあ違うよ」と思ったことがあります。でも今は「そうだなあ」とも思っている私です。いろいろありましたから満州事変・515事件。226事件・シナ事変・太平洋戦争・空襲・都市壊滅・敗戦・飢餓・と20歳までは狂気の時代を生きてきました。昭和前期・昭和中期・昭和後期・平成・令和・一生懸命生きてきたつもりですけども考えてみりゃ~茫洋としてなんの取り柄もない人生でした。人生終末期の私、惑い心が消えたわけではありませんけどどうやら惑わず残りの人生を生きて逝けそうです。ものに動じないばばちゃんのお陰と思っているんですけどもね。ははは...茫洋としてなんの取り柄もない私の散歩路
暗く雨降る窓辺ですコロナ禍といい、大雨の予報といい、いつ心が晴れるんでしょうね、耐えなさいということなんでしょうね。元大関照るの富士、膝や肩の故障で大関を陥落相撲を止めてモンゴルに帰ろうとしたけど親方にいさめられ踏みとどまるも糖尿病や腎臓結石まで煩い一時幕下49枚目まで陥落してしまい姿を消していました。照るの富士フアンだった私は昨年の場所で十両に復帰して活躍している照るの富士の姿をみつけ嬉しくて感動してしまいました。そして今場所幕内に復帰4勝1敗です。私の大相撲は照るの富士です。老いの私の心を奮い立たせてくれます。ネットで写真を見つけ複写してパソコンの前にかざっています。今日もまた大雨の予報です
爽やかな会津野の風はすみきっていますコロナウイルスの心配なぞない農道の散歩道です。マスクなど必要ありません。さわやかな風を胸いっぱいに吸って嬉しい散歩の1時間30分です。幸いに私の町ではコロナウイルス感染の声は聞いてはいません。でも町にゆくときには充分に気をつけなかればなりません。マスク・手洗い・エタノール消毒は必須でしょうけどそれで100%ウイルスが防げるとは思ってはいません。訪れる場所に最大の注意をはらわらなければと思っています。なんせ私は終末高齢者ですし、その上心筋梗塞の定期診察治療を受けている身です。ウイルスに感染すれば残り少ない命は一週間で消えてゆくんでしょうから、貴重な命をかけて注意しなければと思っているんです。必要以上の恐怖感は持ってはいませんけども。それに感染者治療のために身をていし働いていらっ...会津野はコロナなぞには負けていませんよ
塀越しに綺麗な花が見える道に豊かな森の明るい家がみえました由緒ある豊かな集落なんでしょうね。いつも楽しんで通る散歩道なんですよ。農村といえば茅葺き屋根の家々・・それはもう遠い遠い昔のことになりました。集落の家々はみんな綺麗な住宅になりました。鎌で刈り取って馬や人の背で運んで「さで」に掛けて干し足踏脱穀機で脱穀していた昔の稲刈りは、今はご主人が大型のコンバインで刈り取って脱穀した籾を奥様が軽トラで運ぶ時代になりました。稲作に人手は必要なくなりました。たった二人で作業は進むようになりました。どの農家でも今は乗用車が2台か3台はあります。仕事で町の会社に行くために必要なんですよね。小さな町に学習塾がいっぱいです。もう大学を出なければ立派な社会人にはなれない時代なんでしょうかね?。農村は豊かになりましたけど若者や子ども...思うことふとあって
力強い緑に心励まされ心豊かになりました。鮮やかな緑の圃場の遠く村見えて
垣根越しの花がいぱい綺麗に咲いていました。梅雨の晴れ間の嬉しい村の散歩道でした。綺麗な花みつけて嬉しい散歩道
陽の光さす空の雲も遠くまで広々とした圃場の緑も嬉しくてルンルン私一人の散歩道でした久方ぶりの梅雨の晴れ間が嬉しくて
肥後の守ナイフってこんなナイフなんですよでも知っていて懐かしむ人は少なくなりました。80年ほど昔、私を含めて小学校の同級生たちはみんな筆入れの中にこのナイフを入れていました。鉛筆を削るためにです、一個5銭くらいの値段だったような記憶です。自分の小遣い銭で買いました。私たち子どもがいろんなことに使う大事な道具ですから自分が選んで買ったんですよ。5銭の価値は感覚的にいうと現在の500円相当だったでしょうか。高価なもものではありませんでした。肥後の守ナイフは旧式で今ではもう使い道はありません。でも子どもの頃の思い出が懐かしくて購入する人がいるんでしょうね、写真のような昔の肥後の守ナイフそっくりの復刻ナイフが作られて3000円から4000円見当で販売されているようです。肥後の守ナイフはあの頃の男の子どもにとってはとても...肥後の守ナイフのことふと懐かしく思い出しました
私には集落の幸を守って下さるお姿に見えました春も・夏も・秋も・吹雪く冬におたちなさるお姿もみな有り難く尊く見える私です。圃場の基盤整備の邪魔になって一度は切り倒されたのにすぐに2本のひこばが生えてこんな見事なお姿になられたんですもんね。ポンプ小屋跡の桜の緑
見渡す限りの圃場の緑が広々と逞しく見えていましたし綺麗な花も見えていました。でも梅雨明けの酷暑の前に豪雨など来なければよいがと思っています。GOTOまた新しい横文字の対策ですか?。老体の私には困ってしまいます。いちいちネットで調べなければなりません。画期的なコロナ対策での明るいニュースかと思ったらなんと「観光・飲食業界などを支援するための政府が取り組む看板政策」とのこと、」東京都の感染者最多286人、これからどうなるんだろうと心配してるこの時期に、私のようなボンクラには政府のおやりになることはどうにも理解が出来ません。GOTOなに強盗・・バカ!・・縮めてゴトと読むんだアホンダレ。「観光需要喚起作」と日本語で言ってもらえばなんとなく分かる気がしますけど、コロナ収束の見通しがついたときならいざしらず、コロナ二次感染...冷たい梅雨の一日でしたけど
私より30歳近くお若い友人の奥様なんですよ。ご主人のご挨拶のなかで奥様の名前を呼んで「ありがとう」とおっしゃって何度も奥様のお名前をお呼びなさる言葉に目がうるみました。足袋わらじウツギの杖で冥界の旅を歩み行かれる姿を思い浮かべながら静かに導師の読経を聞きました。今日は知人の葬儀に参列して来ました
今日も冷たい雨が降ってます「中国も雨で洪水」と聞けば地球規模での異常気象と思ってしまうんです。異常気象もコロナのこともホモサビエンス(現人類)が自分で撒いたたねで起こった災いに苦しんでいるような気がします。地球の大気が怒っているのかと思う冷たい雨降る窓の景色です。すぐそこに酷暑の夏が来てるというに
興味があったので注連縄(しめなわ)についてネットで調べてみました。注連縄は天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あめのいわと)から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命(ふとだまのみこと)が「尻久米縄」(しりくめなわ)で天岩戸の入り口を塞いだのが起源とされるとWikipediaにありました。天岩戸「あめのいわと)の物語は80年程前私が小学校の児童だった頃どこかで教えていただいた「高天原(たかまがはら)」での神様たちの物語です古事記のいう神世の時代は天照大神(あまてらすおおみかみ)と言う女性の神様が八百万(やおよろず)の神々の上に君臨して神々の世界を豊かに明るく照らしていました。どなたさんかのお言葉に「原始女性は太陽であった」というのが思い浮かびます。ところが天照大神は荒ぶる神速須佐之男命(すさのうのみこと...注連縄考(Ⅱ)
それはこの集落の諏訪神社の鳥居と拝殿の正面に張られている注連縄を見てああここに本当の注連縄が張られていると思うからなんです。私の子どもだった頃大晦日の午後家中の掃除も終わり家中のものが晴れ着に着替えると祖父は新しい注連縄を綯うのです。選りすぐった生藁(きわら、槌で叩いて柔らかになっていない固いままの藁)で普通の太さの縄を綯うのです。ただ等間隔に藁の根元のしべを出して、紙を切ってつくった紙垂(しで)をつけて神棚の前にはるののです。新しい注連縄ですよね。その頃の神社の拝殿や鳥居や神木などには長さはちがいますけども祖父の綯った太さと同じ太さの注連縄が張ってあたような気がします。注連縄は神域と俗界の境を示す表示と言われております。太さは関係ないんですね。清められた手で生藁(きわら)が綯われ等間隔に藁の垂れがあって紙垂(...神さびた静かなお社(やしろ)が私は好きなんです。
大規模な基盤整備で広々と平らになった圃場の用排水路はすべてコンクリートのU字溝になって澄みきった綺麗な水が流れています。そこには生き物の姿は全くありません。でもかつての田んぼの用水路の掘は生き物がたくさん生きていました。こんな詩が子供達に歌われていました。春になればしがこが融けてどじょっこだのフナっこだの夜が明けたとおもうべな春になると堀の上の冬の氷が融けて明るくなって長かった暗い冬の夜が明けたんだなと、どじょうッ子やフナっ子たちが喜んでいるだろうなというようなことなんでしょうか・・・古い昔の堀にはドジョウやフナだけではありません、ザリガニもいましたし、蛍の幼虫の食べ物の蜷(にな)やカラス貝や、小さいけども淡水のシジミも生きていました。こどもたちが網を持って小魚をすくって遊ぶ楽しい堀の流れだったんです。今日はそ...ザリガニなどが生きてる流れ見つけて嬉しくて
あかるいアジサイの花も緑の圃場の遠くの村もコロナのことなど忘れて心明るくしてくれました。梅雨の晴れ間の散歩道
ミミズは地中で土を食べて生きています。一番の心配ごとはこの土を食べ尽くしてしまったらどうなるだろうかということだそうです。生きていけなくなりますから私は僅かな年金で細々と生きています。だからミミズのたわごとをぼそぼそといつもつぶやいています。九州鹿児島・熊本では記録的な豪雨に襲われて洪水被害に苦しんでいらっしゃいます。ニュースによると福岡・佐賀・長崎にまで大雨特別注意報が発令されたそうです。異常気象に心が痛みます。でもこの気象異常は九州地方だけのものではなくて地球規模でおきるんだと思います。昨年のアメリカのハリケーンの大被害や、何ヶ月も続いたオーストラリア北東部の熱波旱魃による森林火災など記憶も新たです。万一地球規模の異常気象で旱魃による砂漠化や洪水による被害で地球規模の食料不足がおこったら日本はどうなるんでし...ミミズのたわごと好きな爺いのつぶやき
カボチャの花は肝っ玉かあさんのように逞しく咲いている奥会津「かなやまカボチャ」と言うんでしょうか。やがてどっしりと大きくてホクホク栗の味嬉しいカボチャになるんでしょうね。ちょと落ち込んでいる爺い負けちゃおれんぞな、もし美人じゃないけども
二階の窓から眺めるとばちゃんの花壇に可憐な花が咲いていました下におりると「おはよう早いね」と台所のばばちゃんが声をかけてくれました。「うん」と言って洗濯機の所へ行きました。私の朝は洗濯機を回すことから始まります。古い洗濯機はすっかり私になじんでいるんです。掃除と洗濯物干しと可燃ゴミ袋山出しくらいですけども結構時間いっぱい動きます。ばばちゃんのデーサービスの日は食事の後片付けはわたしです。むかえに来て下さったかたへの「お世話になります」の挨拶も私の役目です。本当は「婦唱夫随」なんですけども外部の人には恥ずかしいので「夫唱婦随」みたいに立派に挨拶しているんです。まあまあお互いまだ認知症までは惚けていませんから幸せといううんでしょうね。梅雨の雨ふる冷たい朝に
東天紅の花って私がそうう呼んでいるタチアオイの花のことなんですよ。80数年前、5-6歳の子供だった頃真夏の花タチアオイが咲くと幼かった私達は「トッテコイノー」の花が咲いたと喜んだんですよ。当時の集落でちょっとした家では鶏を飼っていました。鶏卵は現金収入にもなりましたし、病気をしたときなどの栄養食にもなりました。でも今のように誰でもいつでも食べられるポピュラーな食べものではなくて、すごく高価で貴重な食べものでした。鶏卵は私など子供のときに見たことはありますけど食べたことは一度もありませんでした。一度でいいから食べてみたいなといつも思っていました。当時の鶏の飼い方は、今のように雌鳥だけが一列にならんだゲージに入れられて身動きがとれない状態にされひたすら餌を食べて卵を産むだけの工業生産するみたいな飼い方ではないんです...東天紅の花咲いて
会津野は変わったなとしみじみ思うのです私が古里只見からこの町に移住したばかりの頃はこの広い緑の圃場には細い流れの鶴沼川が蛇行して流れていました。その流れに添って4アール前後の小さな田んぼが並んでいました。川辺の堤にはカワセミの巣穴が掘られていましたし、今はまったく見えなくなった青色のきれいな鳥オナガがなどが群れていましたし、初夏の芦原にはヨシキリの群れが賑々しくてカッコウの声ものどかでした。蝶やトンボなどの昆虫もいっぱいいましましたし今はもう全く聞くことの出来ない自然のスズムシもいましたしホオジロやホオアカやカワラヒワなどの小鳥もいて賑やかでした。まだ30数歳だった私は世間のことは何にも知らない若造でしたけど精一杯生きていたようにも思います。ある日この流れで一人で釣りをしていました。テグスがゆっくりと動くのです...60数年前といえばもう遠い昔のことですですけど
「ブログリーダー」を活用して、さんたろうさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。