イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...
婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいる...
そしてまた、それは使徒行伝と共に始まる第二区分で使徒たち全員が抱いている支配的考えです。栄光の霊が使徒行伝の二章で登場します。栄光を受けた方の御霊が、栄光の中で来臨されます。教会は栄光で満たされました。教会は栄光の中にもたらされました。キリストが栄光を受けられたからです。そして、これが教会と宣べ伝えの基調、勝利の基調でした。人々が十字架につけたこの御方に、神は栄光をお与えになりました。使徒たちの...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。 私たちは、これまでのメッセージの中で、シオンを巡り歩いて、この天的・霊的裔――キリストとその民――の面をいくつか考えてきま...
見て理解して知的に解決できない時、なにも感じず、まったくなんの感覚もない時、あるいはとても悪い感覚がする時――それは一つの領域の事であり、あなたがどうであるかにすぎません。キリストはそうではありません。そのような時、私たちは、「主よ、これは私の弱さであり、これが私の有様ですが、あなたはそうではありません。私は自分の信仰を自分自身から、これらの事柄から、あなたに移します」と言わなければなりません。キ...
キリスト教は魂の命の事柄ではない 次に、土台であるキリストについてのパウロの言葉のこの文脈の中で、彼は、その土台の上に多くのくずや、多くの混ぜ物をもって建造している人々がいる、と述べています。調べてみるなら、そのくずが何なのかを見い出すためにあまり遠くを見る必要はありません。「金、銀、宝石、木、草、刈り株」というこの様々な材料でパウロが何を言わんとしているのかに関して、列挙する必要はありません。彼...
ペテロの言葉は、あらゆる点(それがなんであれ、私たちに欠けているので彼にその欠け目をご自身でもって満たしていただく必要があるもの)を網羅しています、「わたしはシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石を据える。彼を信じる者は辱められることがない」。自分自身を見てください、もし放っておかれたなら、どんな結末になるでしょう?間違いなく――私たちにはその結末がわかります――恥と失敗です。もし放っておかれるなら、結...
「信じるあなたたちには尊いものです」。キリストに言えることがすべてここに記されています。このようにヨハネの福音書をもう一度読んでみてください。自分はこれである、と彼が述べておられることがすべて記されています。「わたしは命のパンである」(ヨハネ六・三五)。「わたしは世の光である」(ヨハネ八・十二)。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ十・十四)。「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネ十五・一...
キリストの栄光を見るのです。なにものにもまして主イエスを現わしたいという熱い志を私たちの中に生み出してくださるよう、主に求めましょう。偉大な真理を説くこと、説教者や教師などになることではなく、主イエスを、彼ご自身から出ているものを、彼ご自身の臨在を、彼ご自身の尺度を、彼ご自身の性質を現わすことを求めましょう。宣べ伝えの機会が訪れるのは――そもそも私たちに宣べ伝える気があればの話ですが――私たちが話せ...
キリストの尊さは信仰を通して私たちのものになる 私たちは「尊さ」という言葉を取り上げて、これを土台として、神ご自身の性質とその神聖な聖なる要求をすべて満たすキリストは信仰を通して私たちのものとなる、と述べているのです。「信じるあなたたちには尊いものです」。この尊さとは、主イエスの麗しさと栄光の現れです。ああ、これはある種の主題に関する話である、と思わないでください。これは集会や、大会や、御言葉の学...
御父に対するキリストの尊さ さて、この尊さとは、第一に、御父にとっての尊さです。「見よ、わたし(つまり神の語りかけです)はシオンに、選ばれた尊い隅の石を据える」(一ペテロ二・六)。神に対するキリストの尊さを調べるなら、当然、次のような明確な結論に達するはずです。すなわち、神にとって尊いものとは、神ご自身の性質に応えるものであり、それなしでは神はことをなせないものであり、神にとって持たないわけにはい...
もしあなたや私が、より多くの光、より多くの啓示を持っている、と主張するなら――そのような主張をすることを神は断じてお許しになりません!――しかし、もしそう思っているなら、その証拠・真価は――人々は私たちの中に他の人々よりもキリストを多く見ているのか?ということです。なぜなら、神は決して御子を超えて進んだりはされませんし、理論や教えや教理やいわゆる啓示に向かって進んだりもされないからです。ただ、生ける御...
クリスチャンの目的は地上でキリストを示すことである 私の見るところ、このような問いに対する神の御言葉の答えはただ一つです。それはイエス・キリストを示すこと、表すことです。主イエスを見えるようにすること、表すこと、実際に地上におられるようにすることです。それは、すべての人が彼を見ることができるようになり、すべての人が彼を知ることができるようになるためです。あなたたちはこう言うかもしれません、「そんな...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。「……愛する者の中で、神が私たちに無代価で授けてくださった、恵みの賛美となるためです」(エペソ一・六)。「……キリストの中で...
「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの働きはあらわになります。なぜ...
勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める 私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚もしくは自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼...
イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エル...
キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なん...
勝利の命の統合する力 次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面で見られることがよくあるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教...
キリストの堅固さ 第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。...
「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」(詩篇十一・三) 私たちは、永遠から永遠へと私たちを導く神の壮大なみこころと御旨について、膨大な量の教えを受けてきました。また、神のそれらの御旨に関する領域の多くに通じており、少なくとも知ってはいます。しかし...
イエス・キリストの霊は、あなたと私の中にこの同じことをなすために来臨されました。それは私たちが、自分の失敗や不完全さ、そして私たちを疎外し、引き離し、分裂させるあらゆる類のことのゆえに、やすやすと互いに離れ去ることのないためです。私たちは、自分たちと同じように見ていないからといって、他の人々を去らせることはできません。啓示を受けていないからといって、主の民を去らせることはできません。私が言わんと...