湊川の戦いを前に楠木正成は目印になるような大きな松の木を見つけ一族郎党をその木の下に集め、身に付けていた神仏の護符が自身らの血で穢れることを嫌い根元に祀られていた稲荷のお社に護符を奉納したと言います。これが松尾稲荷神社の始まりで700年の歴史があることになります。江戸時代より神社のすぐ近くには福原遊郭があり商売の神様お稲荷さんということで昼夜問わず賑わったのだとか。 ...
小田原の陣後関東に入府した徳川家康により岡部など5250石を与えられた安倍(あんべ)信勝が父元真の菩提を弔うため賢達和尚を招き開いた曹洞宗の寺院で、息子信盛の代に加増を受け1万石を超え大名となった安部家の菩提寺となります。 本堂 安部元真顕彰碑安部家の祖である安部大蔵元真を顕彰した碑。元真は今川家の家臣で今川義元が桶狭間の戦いで亡くなった後も今川家を最後まで見限ることなく支え...
前回紹介した平忠度の供養塔を建てた岡部六弥太とその妻(畠山重能の娘)や父行忠らの墓は現在埼玉県指定文化財となっており、墓石には覆屋が設けられ一帯は史跡公園となっています。 岡部六弥太忠澄の墓六弥太は元々熊谷直実らと共に源義朝に仕えていましたが義朝が殺害され武蔵の所領へ戻っていました。そこへ義朝の遺児頼朝挙兵の知らせを受け馳せ参じ転戦し、一ノ谷の戦いで前回の記事...
清心寺は天文18(1549)年に深谷上杉家の家臣であった岡谷清英が萬誉玄仙を招き創建した浄土宗のお寺です。 本堂 平薩摩守忠度の供養塔忠度は平清盛の異母弟で一ノ谷の戦いで敗走するも岡部六弥太忠澄主従に追いつかれ交戦の末討ち死にします。戦後六弥太は忠度の遺髪をもらい受け所領へ戻ると居館近くのこの地に桜の木を植え供養塔を建立しました。 元々この場所に先に忠度塚があり、後...
詳細な創建年次は不明ですが小田原陣後から開基である深谷城主松平忠直が亡くなる文禄2(1593)年までの間と考えられます。本尊の阿弥陀如来は家康の養女となり有馬豊氏に嫁いだ忠直の娘連姫の寄進によるものです。 松平康直の墓徳川十六将のひとりに数えられる父松平康忠(長沢松平家8代)と家康の異母妹矢田姫との間に生まれ、小田原の陣では岩槻城を攻め戦後深谷城が与えられますが25歳の若さ...
現在は一帯が城址公園になっている深谷城は康正2(1456)年に深谷上杉家上杉房顕によって築城された平城で、小田原の陣後に家康の異母妹の息子である長沢松平家9代康直が城主となり後継の家康6男忠輝、桜井松平家松平忠重を経て酒井忠勝の代に川越に移封を機に深谷藩は廃藩、深谷城も廃城となっています。 城跡は埼玉県指定史跡、隣接している富士浅間神社の周囲に残る外堀遺...
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湊川の戦いを前に楠木正成は目印になるような大きな松の木を見つけ一族郎党をその木の下に集め、身に付けていた神仏の護符が自身らの血で穢れることを嫌い根元に祀られていた稲荷のお社に護符を奉納したと言います。これが松尾稲荷神社の始まりで700年の歴史があることになります。江戸時代より神社のすぐ近くには福原遊郭があり商売の神様お稲荷さんということで昼夜問わず賑わったのだとか。 ...
西出鎮守稲荷神社の歴史はよく分かっていませんが、後述するようにすぐ近くに本拠を構えていた豪商高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠が今も建っていることから江戸時代中期にはこの地に鎮座していたことが分かります。 平経俊塚平清盛の異母弟経盛の息子で平敦盛の異母兄になります。一ノ谷の戦いでは生田の森に布陣しますが源氏方に崩され敗走、最期は西出の浜で清盛の八男淡路守清房・清盛...
前回は一ノ谷の戦いで討ち死にした平忠度の腕塚を紹介しましたが、今回は胴塚です。腕塚と違い道沿いにあるのでこちらは分かりやすいかと思います。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...
一ノ谷の戦いで敗れ西国へ逃れようとした平清盛の異母弟忠度ですが源氏方の岡部忠澄主従に追い付かれ忠澄と組み合いその首を獲ろうとしましたが主人の危機に駆け付けた忠澄の郎党に腕を切り落とされ討ち死にしました。 忠度の腕を埋めたと伝わる場所には十三重塔供養塔とお堂が建てられ今日まで地元の人々によって守られています。忠度の戦死地に関してはここ神戸の駒ヶ林と明石の2説あり...
佐々友房は熊本藩士の家に生まれ肥後勤王党に属した叔父佐々淳次郎に強く影響を受け水戸学に傾倒、また池辺吉十郎の門下となっています。西南戦争時は以前より西郷隆盛と気脈通じていた師匠の池辺が熊本隊を結成し武装蜂起すると友房も各地を転戦し最終的に中隊長となりますが、大口の戦いで重傷を負い官軍病院に担ぎ込まれます。その後、池辺たちが隊長ではなく一兵卒に過ぎないと庇ってくれたことで死罪を免れ投獄に留まります。...
明治10年に熊本商工会議所初代会頭や熊本商業高校のルーツである私塾素心吟社を創設した岡崎唯雄氏が営む岡崎酒類醸造場の酒蔵として建てられました。その後履物問屋を経て昭和29年に貸倉庫業の早川倉庫の所有となりトランクルームなどとして活用されてきましたが、熊本地震での被災を機にクラウドファンディングで母屋の一部がリノベーションされ文化発信の場としても活用されており、熊本市が新たな制定した熊本市歴史的風致形成...
肥後蕎麦の元祖と言われ藩主細川家の御用も務めていたという大石本店。営業していた頃に一度記事にしていますが、9代目だったご主人が体調を崩され2010年にお亡くなりになられたため廃業されましたが、昭和初期に建てられ空襲の被害も免れた京町家風の建物は熊本史歴史的風致形成建造物に指定されプレートも設置されていました。 隣が駐車場となったことで奥行きのある鰻の寝床のようになっていたことがよく分か...
慶長年間に加藤忠広正室崇法院(蒲生秀行の娘、家康の外孫)が江戸より釈誉上人を招き創建した浄土宗のお寺で、加藤家の後熊本に入った細川家の菩提寺のひとつになっています。井上大九郎正忠の墓加藤家二十将の一人にも数えられ、清正最古参の家臣のひとりと伝わります。元々は三木城主別所長治の家臣でしたが三木城落城後浪人となり各地を放浪中その秀吉の居城長浜城下の河原で寝そべっていたところ後に同じく共に清正に仕え角力で...
南北朝の時代に元より玄慶という楽人が来日しましたが時は南北朝の動乱の最中で音楽どころではない状況。玄慶を雇う者などなく失意の玄慶は帰国することを決めるも帰る途中、疲労からここ明石の八木の地にて持ってきていた楽器を埋め弁財天を祀り、またこの地に池を掘ったと言われます。池は玄慶の池と呼ばれ古くは玄慶という地名にもなっていたそうですが、現在周囲には次々住宅が建っている中、確かにこの場所だけは手が付けられ...
来迎寺の西側にはアン(庵)の井戸と呼ばれる弘法太子が掘ったという伝承を持ち干魃の時も水は枯れることなくこんこんと湧き続けた井戸があり、昔は酒造りにもこの井戸の水が使われたそうです。この辺りは水位が高く水が溢れるので囲いには穴が開いていて水を排出できるようにしているのだそう。 また来迎寺の東側にもコエの井戸と呼ばれる掘り当てたのは弘法太子とも来迎寺を開いた行基和尚とも言われる生活用の井戸も残っ...
養老元(717)年行基により創建されたという明石市内でもかなり歴史のある天台宗のお寺で、明石三十三ケ所第六番札所にもなっています。勅願寺時代は塔頭を複数抱えた大きな寺だったそうですが次第に衰退、南北朝時代に再興され信長の命による羽柴秀吉の別所(三木城)攻めでも秀吉方に放火されるなどしています。 御朱印は書き置きのみ常時4種類ぐらいを授与されています。以前は季節ごとに限定御朱印も枚数限定で出し...
国道250号線(明姫幹線)沿い、谷八木川の西側中位段丘の先端に位置した古墳時代及び中世の粘土採掘跡が見つかった遺跡で土器などを作る窯が恐らくあったと考えられています。この場所から南側は平成初期までたくさんの瓦工場の煙突が立ち並んでいた屏風浦海岸で、かなり古くから良質の粘土が採掘される土地だと人々は知っていたのだと思われます。また、この地から明石では初めて隠岐島で採掘された黒曜石を用いた縄文時代の石鏃も...
江戸時代創業の老舗で現在は書店ですが古くは油や紙、日常用品から楽器までと何でも扱うデパートみたいなお店だったそうで現在の建物は築120年を越える ここ龍野出身の作詞家三木露風も学生時代に利用していたという店内はかつては2階の回廊にも本棚がびっしり並んでいたとか。床も板張りと歴史を感じます。 明かり取り窓からの日差しがいい感じ。龍野重伝建地区内にあり...
姫路城の西側城西エリアの旧西国は街道沿いに建つ旧家で、北原白秋に師事した姫路出身の歌人初井しず枝の嫁ぎ先でこの家に住んでいました。しず枝は実家が薬種商ということもあって姫路高等女学校(県立姫路東高校)から大阪道修薬学校(大阪医薬大の前身)に進学し薬剤師資格を取得するなど先進的な女性で、アララギの会員であった夫の勧めで歌を作り始め、戦後の農地改革で初井家が没落し一転生活が困窮するもそれ...
姫路旧城下は空襲や再開発もあり古い建物があまり残っていないのですが、旧第三十四銀行姫路支店だったという大正6年築の建物は今も健在です。以前は病院として活用されていましたが現在は見る感じ使われていないのでは。正面はモルタル造りですが側面・背面は赤煉瓦造となっています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...
姫路藩主本多政朝が祖母見星院(信長の娘で松平信康の正室五徳)の菩提を弔うために創建した臨済宗妙心寺派のお寺です。 本堂 寛延2年洪水犠牲者供養碑寛延2(1749)年に姫路城下を襲った水害で船場川が決壊し402名の犠牲者が出ました。その23回忌法要が安永2(1773)年にここ見星寺で執り行われた際に建立されています。 本多忠政・忠刻の供養塔忠政(左側)は本多平八郎忠勝の嫡男で池田家が備前に転封した後姫路藩...
5時46分、あの忌まわしい揺れから29年となりました。今年は元日早々に関西でもはっきりと揺れを感じる能登を震源とした大きな地震が発生し、多くの方々が被害に遭われ今なお捜索活動が行われています。日本列島が揺れ始めたその29年前、当時大学生だった私も50になったのだから当然ですが、私の周囲にも阪神・淡路大震災を経験していない人が増えてきました。そのためこのブログでは可能な限り1月17日は少し触れようと思っています...
奈良時代に行基が創建したという伝承があるようですが、現在は臨済宗相国寺派のお寺です。 このお寺には古墳に埋葬されていた石棺を用いた石棺仏があります。石棺仏は奈良県でも存在が確認されていますが全国的に見てもほぼ播磨地方、それも加古川流域と姫路市周辺に集中しているかなり珍しい仏像で播磨地方でも明石などには一例もありません。その珍しい石棺仏の中でもこちらにあるのは不動...
的形城(構居)は全体像がはっきりしない山城で、城主は長尾(三木)重朝だと伝わる山城ではありますが築城年なども全く分かっていません。...
熱田神宮前に店を構える昭和10(1935)年創業の和菓子屋で、店名は天明年間頃に熱田神宮内にあったきよめ茶屋と茶店が由来だそう。建物は昭和30年に建てられたもので名古屋市登録地域建造物資産になっています。 屋号の一部にもなっているきよめ餅は熱田神宮の門前に名物の餅菓子がなかったため初代が作り出したというもの。今では季節限定本店限定などもあります。 ★当ブログのまとめサイト...
この地の領主であった6千石の大身旗本城和泉守昌茂開基 同じく城氏出身と伝わる和尚が開山した臨済宗のお寺です。 城和泉守昌茂の墓城氏は元々越後の名門で上杉家に仕えていましたが昌茂の父景茂が上杉謙信と折り合いが悪く出奔、親子で会津で浪人していたところ武田信玄に迎えられ家臣となったとされます。 武田家滅亡後は他の多くの武田家遺臣と同じく家康に召し抱えられ昌茂は...
熊谷に宿泊したのでここは見ておきたいと思っていた聖パウロ熊谷教会。煉瓦造りの建物は国の登録有形文化財となっています。 焼過煉瓦を効果的に用いた煉瓦造教会。桁行約16m,梁行約7m規模の単廊式会堂で,東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし,外壁要所に尖頭アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし,木造シザーストラスを架ける。...
こちらも熊谷市の近代建築を調べると必ず出てくる建物。現在を道を挟んだ反対側に新しい病院が建てられ診察はそちらでやられているようですがこの建物も電気など点いていたので活用されているようです。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり...
八木橋百貨店の西側、旧中山道沿いにある中々渋い看板建築?の建物。近代建築のサイトなどで必ずアップされているこの建物、いつなくなっても不思議じゃない感じだったので現地へ行って一安心。ただ昨年訪れたのですが、はす向かいにあった朝日湯の建物は残念ながら取り壊されて更地になっていました。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブロ...
明石市の西部に位置する幣塚古墳は4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれたと考えられる直径34m、高さ4mと明石市内にある円墳としては最大規模の古墳になり、板石によって築かれた竪穴式石室が確認されています。この古墳には金の鶏が埋められている金鶏伝説(全国各地の古墳に伝わる)があり、明治時代3年間続いた水害や風害からの干魃に困窮した地元民たちが金鶏伝説に賭けて明治19年無計画に乱堀、もちろ...
大福寺からさらに東へ歩くとどろま地蔵に行き着きます。その地蔵堂ですが固寧倉という姫路藩が飢饉等の際に備え領内各所に設置した備蓄倉庫に併設する形になっていました。 お堂を覗いてみると赤いおベベを着たお地蔵さまたちに見えますが、よく見ると全て五輪塔。小松原城主小松原氏一族の墓だと伝わり小松原氏が記録から姿を消して以降江戸時代の形式の墓石もあるよう...
大福寺は三社大神社の東隣にある浄土宗西山禅林寺派のお寺で天正年間に松空西空上人により創建されていますが、元々この場所には大蔵寺という別の寺があり小松原城主小松原氏の菩提寺だったと考えられています。小松原城と小松原氏は天正年間より数十年前に記録から消えますので大蔵寺も戦禍に巻き込まれ衰退していったのでしょうか。 小松原盛忠の墓山門潜るとすぐ左手にある十三層塔は小松原氏初代盛忠の墓(供養...
小松原城の詳細な築城年次は不明ですが、鎌倉幕府連署北条重時に従い三浦義村の子良賢の謀叛鎮圧に功を挙げた赤松盛忠が弘長元年6月にこの地を与えられ下向しており、この頃から居館が築かれたと思われます。小松原は加古川三角州の頂点に位置する天然の要害と言える場所で、赤松より小松原に姓を改めた盛忠より城主小松原氏は6代続いた記録がありますがその後記録からは姿を消すことになります。 現在は三社大神社が鎮座...
永正8(1511)年に蓮如上人の弟子正西が創建した浄土真宗本願寺派のお寺です。 天竺徳兵衛の墓歌舞伎や浄瑠璃に登場するガマの妖術使い天竺徳兵衛のモデルとされ、父親は赤穂出身の塩問屋で後に高砂に移ってきたと伝わります。彼は鎖国前に朱印船(角倉家が派遣した角倉船)に乗り2度当時日本で天竺とされていたシャムへ渡り、寺には徳兵衛がシャムより持ち帰ったとされる貝多羅葉という経文が伝わっており市の文化財指定を受け...
工楽家旧宅のすぐ北側にあるお宅にある三連の蔵。明治時代初期に食器などを保管するために建てられたという建物の厚みは30cmほどある堅固な造りとなっており兵庫県都市景観形成重要建造物となっています。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...
工楽松右衛門旧宅は高砂出身で兵庫津で廻船問屋御影屋を営み択捉島など蝦夷地開発の功績から工楽の姓を幕府より賜り、また丈夫な松右衛門帆を開発し海運業の更なる発展に大きく寄与した工楽松右衛門の旧宅として兵庫県指定文化財及び日本遺産(荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間-北前船寄港地・船主集落)構成物の指定を受けており一般にも公開されています。...
西の法隆寺とも称される鶴林寺は所在する加古川はもちろん明石など近隣市町で育ったなら小学校の行事などで一度は訪れたことのある人は多いのではないかと思う聖徳太子ゆかりのお寺ですが、創建年など詳細はよく分かっていません。寺の縁起によれば蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた高麗僧恵弁の教えを受けるため播磨を訪れた聖徳太子が、後に3間4面の精舎を建立させ刀田山四天王聖霊院と...
上本町の寺町界隈にある臨済宗妙心寺派のお寺です。寺は会館を併設しており土塀など風情ある趣ですが創建年次などは分からず。ただ後述しますが墓所には戦国時代の武将の墓などもあるため江戸初期までには開山しているのではと思います。 本堂 根来盛重の墓苗字の通り根来衆で小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と手を組み背後から雑賀衆らと秀吉を脅かし岸和田城攻めでは主導的役割を果たします...
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。まだ過去2年ぐらい訪れた先々の記事があるのですが、ここ1~2年ほど自分の気力の問題で一向に日の目を見ないままになっています。悲しいことに日が経つと現地を訪れたかった所ばかりなのにその感動は薄れ筆、いや指が全く進まない。鉄は熱いうちに打てではないですが、ほんと旅や散策から帰宅し一気に書かないとダメですね…。今年も更新頻度は月3~4本ぐら...
寺町として現在も多くの寺が残る谷町筋界隈の一画に近松門左衛門の墓が残されています。 元々はこの地にあった法妙寺に近松の墓はありましたが地下鉄工事などに伴い昭和42(1967)年に寺は大東市へ移ることになります。が、すでに墓は国の史跡指定を受けており遠く引っ越すことで史跡指定取り消しの可能性が出たため市や保存会など各所が動いた結果、現在ある場所に墓を移し大東市に移る法妙寺には複製墓を...
慶長9(1604)年日秀上人が創建した日蓮宗のお寺です。寺を開いた日秀上人は歌道を通して秀吉と親交があり、また秀吉の実姉瑞龍尼が深く帰依していたことでも知られています。 本堂本堂は大阪大空襲で焼失し戦後再建されたもの。本堂前にはこちらを菩提寺としていた大塩平八郎と養子格之助の墓、大塩平八郎の乱で亡くなった人々の慰霊碑が建立されています。 大塩平八郎...
市町村合併で一宮市になった旧木曽川町の町議会議事堂として大正13(1924)年に建てられ、その後町の資料館として山内一豊・浅野長政・兼松正吉らゆかりのある戦国武将を始め郷土に関する資料を展示しています。 南北に細長い寄棟造、桟瓦葺、2階建で、正面の南に円柱を立てた玄関ポーチを構え、内部はホール、議場、控室等で構成され、ホール側上部に傍聴席を設ける。議場は吹き抜けで格天井とし、壁面は折上部...
明応2(1493)年創建の日蓮宗のお寺で、黒田城代だった山内但馬守豊盛の庇護を受けました。 本堂 山内豊盛(右側)・十郎の墓山内但馬守豊盛は岩倉織田家家老で黒田城代、十郎はその嫡男で山内一豊の実父・実兄となります。岩倉織田家と敵対していた織田信長によって画策されたという説もありますが野盗に夜襲を掛けられ十郎はこの戦いで戦死。豊盛も討死したと言われてきましたがこの時は岩倉城へ逃れ、この2年...
尾張織田家嫡流である織田伊勢守家(岩倉織田家)の家老だった山内家が城代を務めた城で、後に土佐の国持大名にまでなる山内一豊はこの城で生まれたとされます。その後織田弾正家である信長によって落城させられ、以後弾正家(信長)の持ち城となり本能寺の変後も織田信雄の重臣沢井雄重が小牧・長久手の戦いでは秀吉の諜略にも応じることなく城を守り抜きましたが、秀吉の機嫌を損ねた信雄が改易されると一柳監物直盛が城主と...
明徳元(1390)年に空遄召運上人(足利尊氏の甥)によって創建された西山浄土宗のお寺で市の文化財指定を受けている観音堂の如意輪観世音菩薩像は尊氏の守り本尊と伝わります。 関成政の墓尾張一宮城主 織田家家臣として数多くの合戦に参加し信長の嫡男信忠の近侍を務めます。本能寺の変後も引き続き信長の次男信雄に仕えますが秀吉と信雄が対立したことから勃発した小牧・長久手の戦...