2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
ここ最近、猛暑日が続いている。今年の夏がピークを迎えたのだろうか。それとも8月にかけて、さらに暑くなるのだろうか。夏と言えば「スイカ」だ。かみさんはスイカが大好きだった。子どもの頃から好きだったそうだ。かみさんは、スイカを丸ごと買ってきて、よく冷やし、日
現在7月29日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。俺は会社に向かっている。街中を歩きながら、周囲を見回している。街の中も、公共交通機関の中も、閑散としている。人が少ないのだ。俺の視界の及ぶ範囲は、人影が“まばら”なのだ。学生さ
何度かブログに書いたとおり、俺は両親から虐待されて育ってきた。おかげで俺は、人間が大嫌いになってしまった。人間に対する不信感は、「自己否定」と「過緊張」の原因になった。そのせいで、俺には「できないこと」がいっぱいあった。子供の頃から生きることが苦しかった
二人が一緒なら、怖いものは何にもない。二人が一緒なら、俺たち夫婦は何でもできる。二人が一緒なら、全知全能だ。かみさんと俺は、お互いに支え合って生きてきた。恐れるものなど何もなかったんだ。かみさんに欠けている部分は、俺が補ってあげればよかった。俺にできない
現在7月26日の午前7時40分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今年4月以降、本当に忙しかった。仕事の量が多すぎて、息をつく暇もなかった。昨年度の実績報告を作ったり、今年度の年間計画を作ったり、部下全員の人事関係の資料を作ったり…何がワーク
かみさんが亡くなってから。それなりに時間が経過した。それでも俺は哀しくて、寂しくて、やるせない。そんな俺を温かく見守ってくれる人々がいる。とりわけ夫婦仲の良い人々は、人間の一生で最も辛いことがあったのだから、哀しくて当然ですよ…と言ってくれる。一方で、い
一日に数回、俺はかみさんに線香をあげている。朝目覚めた直後。朝のお供えをするとき。スーツに着替えて出勤する直前。会社から帰宅したあと。夜のお供えをするとき。そして就寝する直前。俺は仏壇の前に座り、線香を焚いている。かみさんが元気だった頃。俺がかみさんに線
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、夏が大好きだった。夏といえば「海」、「花火」、「蝉の声」、「かき氷」、「スイカ」、「そうめん」、「旅行」、「避暑地」、そして「夏休み」。さまざまな言葉とイメージが頭に浮かぶ。かみさんと俺は、それらの全てが大好きだった
先日の記事に書いたとおり、ここ最近、俺は禁酒をしている。自分の健康を心配しているからではない。長生きしたくなったわけでもない。なんとなく飲みたくならないのだ。おかげで、いつも俺を苦しめていた倦怠感が消えた。食欲も旺盛で、以前のように無理やり食い物を口に運
かみさんが亡くなった。俺にとって、世界でいちばん大好きで、いちばん大事な人が死んじゃった。亡くなってからの数年間。あまりの激しい悲しみに翻弄され続けていた。人前では歯を食いしばり、涙が溢れてくるのを必死で堪えていた。誰も見ていないところでは、声を張り上げ
幸せになりたい…なんて思っていない。一日をなんとかやり過ごし、余生を食い潰し、少しでも早く「終わり」が来ればいい…と思っている。俺には幸せを求める余裕なんか無い。幸せを求めるためには、ある種の「余裕」が必要なのだ。かみさんが死んじゃった。かみさんに会
かみさんは、俺の妻だった。かみさんは、俺のいちばんの親友だった。かみさんは、俺の母であり、姉だった。かみさんは、俺の娘であり、妹だった。そうだ。かみさんは、俺のすべてだったのだ。かみさんが死んだ。俺は「すべて」を失った。妻がいなくなり、いちばんの親友もい
頑張れば、どうにかなる…というものではない。どんなに沢山の障害があろうとも、どんなに大きな山があろうとも、頑張れば乗り越えられる…というものではない。だが、この世界には「根性論」だけで全てが解決すると思っている者がいる。数年前のこと。俺は会社でのプレゼン
かみさんが亡くなってから。俺は何度も同じような夢を見ている。全く同じ夢というわけではないのだが、似たようなストーリーの夢を頻繁に見ている。その夢を見て目覚めた朝は、いつだって切なくて、やるせない。心の底から求めているにも関わらず、その希望は絶対にかなわな
7月の3連休。俺は久しぶりに断酒した。自分の健康を気遣ったわけではない。断酒の理由を聞かれても、答えは見つからない。あえて言えば、酒を飲みたくならなかったのだ。いつもとは違い、身体が軽かった。何もやる気がない…という気分にもならなかった。3連休の1日目。
かみさんを亡くして最初の数年。俺に寄り添ってくれる人たちがいた。俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちもいた。これ以上、俺を傷つけないように気を配り、選びに選んだ言葉を掛けてくれる人たちもいた。だが、そんな優しい人々ばかりに囲まれていたわけではない。世界はあま
かみさんが元気だった頃。俺と世界との間は、とても滑らかだった。俺は世界を受け入れていた。世界も俺を受け入れてくれた。まるで真綿でくるまれているかのように、世界は俺にとって、居心地の良い場所だったはずなんだ。それなのに…かみさんが死んじゃった。そのとき以来
かみさんが元気だった頃。毎週土曜日には夫婦二人で散歩に行った。健康のためというのではない。体力づくりのためというのでもない。かみさんと俺は、他愛のない会話を交わしつつ、周囲の風景を眺めながら、気ままな散歩をしていたのだ。あの頃、俺たち夫婦は「ゆっくり、の
かみさんが元気だった頃。俺は基本的に楽観的な人間だった。辛いことは沢山あった。苦しいことも沢山あった。悔しいことも沢山あった。だが、いつだって「どうにかなるさ」と希望を失うことはなかった。事実、いつだって「どうにかなっていた」のだ。俺が「どうにかなるさ」
朝、目が覚める。まだ目を開けてはいないが、意識はハッキリしつつある。そんな瞬間、眠っている間に忘れていたことが、意識の中に上ってくる。あ、そうだっけ。容ちゃんは死んじゃったんだっけ…もう俺の家族はいないんだ。俺は“ひとりぼっち”になっちゃったんだ。思い出
7月2日以降、毎晩ほとんど眠れない。もともと睡眠障害はあるのだが、それが悪化しているらしい。睡眠導入剤を飲んでから布団に入る。だが、まったく寝付ける気配がない。日付が変わった頃にはウトウトするのだが、30分程度で目が覚めてしまう。しばらくすると、眠りに落ちる
伴侶を亡くしてしまえば、誰だって悲しかろう。伴侶のいない余生を過ごしていかざるを得ないとすれば、誰だって哀しかろう。体力が尽きていようと、意識が朦朧としていようと、死別直後の数年間、遺族たちは悲しくて慟哭する。自分の意思とは無関係に、悲しみが内側から噴き
身体がダルい。歩くことはもちろん、立ち上がることさえシンドイことも少なくない。全身が痛む。あちこちの骨と筋肉とが悲鳴をあげている。俺の身体が徐々に崩れていく。それは「あの日」から、ある程度は予想していたことだ。死ぬこと自体は怖くない。かみさんの生前は怖か
かみさんが亡くなって多少の時間が過ぎた頃。俺の中に希死念慮が生まれた。そこには、いくつもの理由があった。強烈な悲嘆に耐えられなかったからだ。心身を引き裂かれたような、激しい痛みが苦しかったからだ。持っていたモノすべてを失って、自分の人生に絶望したからだ。
週末はずっと布団の中にいた。身体が半端じゃなくダルかったからだ。さらには鬱がひどかったからだ。死にたいと強烈に思った。眠っている間に心臓が止まってしまえばいいと思った。かみさんが亡くなってから。俺はずっと“ひとりぼっち”で生きてきた。だから分かるんだ。か
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
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2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
この記事をスマホで書いている現在。6月14日の午前4時19分である。自宅のバルコニーから空を見上げている。どうやら晴れているらしいのだが、薄暗くて判然としない。まだ「日の出」の前のようだ。空が暗いからだろうか。それとも疲労が溜まってきたからだろうか。あるいは脳
インドで旅客機が墜落したとのニュースが流れていた。離陸してから、わずか30秒後の墜落だったらしい。乗客は242人だった。昨晩そのニュースを見たときは、乗客全員が亡くなったのだろうな…と思った。しかし、翌朝のニュースでは、イギリス人の男性1人が生存していたとのこ
毎朝5時半くらいに目が覚める。かみさんの生前とは違い、スッキリ目覚めることはない。頭の中に霞が掛かっているかのようだ。全身の血液がドロドロになっているみたいだ。心が奈落に堕ちてしまったかのようだ。かみさんが亡くなって以来。目覚めた瞬間の爽快感がなくなった
俺はかみさんを喪った。たった一人の家族を喪った。自分の家庭を失った。そして…最愛の人を亡くしてしまった。祖父母とも死別した。実父とも死別した。叔父や叔母の中にも若くして亡くなった人がいる。同年代の友人も、何人か死んでしまった。だが、かみさん以外の人々との
かみさんが俺の隣にいない。周囲を見渡しても、かみさんの姿は見えない。かみさんは、どこに行ってしまったんだろう…俺はとても動揺した。だが、かみさんはどこかにいるはずだ。かみさんが生きていることを感じる。かみさんの息づかいと気配を感じる。すると俺は気がついた
禁酒を始めてからも、毎朝5時半くらいに目が覚める。酒を断っているせいか、睡眠の質は悪くない。夜中に目覚めることもなくなった。だからといって、スッキリした目覚めというわけではない。心が重たいのだ。頭がボンヤリしているのだ。そのくせに、神経が鋭敏になっている
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、自分たちの「死期」について、何度か語り合ったことがある。かみさんは、いつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね…二人で一緒に死ねたらいいね…俺は笑顔で応じた。そうだね…仲良く暮らしてきた二人。これからも仲良く暮ら
6月27日は、かみさんが俺を遺して逝った日だ。現在6月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。21日には、義母と2人の義弟が北海道から上京してくれる。22日の土曜日には、俺と一緒にかみさんの墓参りをしてくれることになっている。かみさ
ふとした瞬間、かみさんを想い出す。かみさんの満面の笑顔。かみさんの明るく元気な声。かみさんの仕草。かみさんと交わした何気ない会話。想い出した瞬間、俺はほんのりと幸せな気持ちになれる。かみさんと散歩をしたこと。かみさんと旅行を楽しんだこと。かみさんと食事を
先日のブログに書いたとおり、ここ最近、ずっと熟睡できていない。夜中の2時とか3時半とかに目が覚めて、その後は朝まで眠れない日々が続いている。そのせいだろう。いわゆる「睡眠負債」が貯まっているらしい。週末の日曜日のこと。いつものとおり、午前3時に目が覚めた
かみさんが元気だった頃。配偶者や子どもを亡くした遺族の話を聞いたことがある。遺族たちは、俺の身近な人々ではない。名前はおろか、顔さえ知らない人たちだった。テレビのニュースや新聞を見ると、誰かが死んで、誰かが最愛の人に遺されたという記事が頻繁に出ていた。そ