俺より2歳年上の男性がいる。同じ会社の先輩で、俺が管理職になってから3年後、その男性も管理職になったと聞いている。彼と俺とは本社ビルの同じフロアで仕事をしていたことがあり、顔と名前くらいは知っている。だが、同じ部署で仕事をしたことはないため、ほとんど接点
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
俺がかみさんと出会ってから、かみさんが癌だと診断される日までの約20年間のことだ。俺たち夫婦は無敵だった。かみさんと俺とは全知全能だった。二人にとって、この世はコントロール可能な世界だった。何もかもが思いどおり、願いどおりに動いていった。もちろんツラいこ
かみさんが悲しいとき。かみさんが辛いとき。かみさんが怖がっているとき。かみさんが苦しいとき。いつだって俺は、かみさんの隣にいた。かみさんは闘病中、俺に言ってくれた。一緒にいてくれて、ありがとう…かみさんの隣にいるために、俺はさまざまなモノを犠牲にせざるを
現在7月28日の午前7時39分。いつもより遅い時間だが、通勤途中でブログの記事を書いている。今朝は5時半すぎに目が覚めた。まだ頭がボンヤリしていた。眠気を覚ますため、俺はバルコニーに出て日光を浴びた。そうしているうちに、どういうわけだか段々と気分が沈んできた。あ
かみさんは夏が大好きだった。北海道産まれなのに、東京の蒸し暑い夏が大好きだった。専業主婦だったので、かみさん本人は「一年中、休みみたいなもの」だと言ってはいたが、それでも夏休みの期間が大好きだった。かみさんは言っていた。7月になると世間の空気が軽くなるか
かみさんがいた頃は、目の前のことに集中することができた。仕事をしているとき。運動をしているとき。本を読んでいるとき。映画を観ているとき。俺は「今ここ」に意識を向けて、かみさんの存在を忘れていた。今は違う。かみさんが元気だった頃と違うのは、いつでも頭の片隅
昨日の記事に「4月から鬱(うつ)が悪化した」と書いた。それと同じくらいの時期からだった。俺は熟睡できなくなった。夜中の2時から3時ぐらいに目が覚めてしまうのだ。しかも、いったん目覚めたあとの眠りは浅い。嫌な夢ばかり見てしまう。朝の5時半に目覚まし時計が鳴
今年の4月。突然、鬱(うつ)が悪化した。理由や“きっかけ”はよく分からない。しばらくすれば治るだろうと思っていた。だが、5月になって、ますます鬱は悪化した。俺は(いろいろな意味で)限界に近づいていた。自然に治るのを待っている余裕はなかった。俺は心療内科の
かみさんが癌だと診断される前の年。かみさんの伯母が亡くなった。死因は「肝細胞癌」だった。伯母は亡くなる少し前、「あんまり良い人生じゃなかったな…」とつぶやいていたそうだ。そのことは、頻繁に見舞いに行っていたかみさんから聞いた。伯父はずいぶん前に亡くなった
熟睡できない。夜中に何度も目が覚めてしまう。しかも悪夢ばかり見ている。目が覚めるたび、グッスリ眠りたいと思う。だが、早朝4時半にもなれば、意識は完全に覚醒してしまう。覚醒したくせに目を開くことができない。強烈な不安感で目を開けることが怖いのだ。それでも俺
なぜだか疲れてしまった。とりわけ「心」というか、「精神」が疲れてしまった。仕事が忙しく、やらなきゃならないことが沢山あるからだ。また、気温も湿度もあまりに高く、不快な日々が続いているからだ。新型コロナウイルス感染症が収束(?)したにも関わらず、少子化だの
かみさんが癌だと診断された。俺の血液が逆流した。医師からは、とても進行の速い癌だと告げられた。余命は年単位ではないと言われた。俺の全身から力が抜けた。だが、俺はまだ絶望していなかった。かみさんを救う方法はあるはずだ。しかし、かみさん本人に自分の病状を知ら
生きていれば、辛いことがいっぱいだ。かみさんが元気な頃だって、そうだった。かみさんが亡くなったから、辛いことだらけになったわけではないのだ。だが、かみさんがいた頃と、いなくなってからとでは、辛いことの受け止め方が大きく違っていることは確かだ。かみさんが元
現在7月18日の午前7時12分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。3連休が終わった。しんどい3連休だった。3日間、誰とも会話をしなかった。したくてもできなかった。俺の周りに人がいないからだ。寂しいのはもちろんだけど、心がザワザワして不安になっ
かみさんが元気だった頃。時間は過去から未来へ流れていた。未来への道は一本ではなかった。たくさんの分岐点があった。かみさんと俺は、分岐点の手前で立ち止まった。二人で一緒に、どちらの道に進もうか…と話し合った。かみさんと俺は、いつでもそんなふうに生きてきた。
かみさんは、俺の唯一の「心の支え」だった。かみさんがいてくれるから、俺は残酷な世界の中でも生きてくることができた。もちろん、かみさんと出会う前だって、俺は生きていた。かみさんと出会う前に付き合っていた女性たちだっていた。だが、楽しくはなかったし、面白くも
かみさんが亡くなったばかりのことだった。俺は自分の人生も終わったな…と思った。かみさんが亡くなって一周忌を迎える前だった。俺の余生はロクなものにならないな…と思った。かみさんが亡くなって1年3か月が経った時期だった。俺も早く死のう…と思い、それ以前からあ
現在7月14日の午前7時25分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。昨晩、かみさんの夢を見た。とても哀しい夢だった。俺はどこかの駅(のような場所)にいる。大きな荷物を持っている。その荷物を抱え、俺はかみさんに会いに行きたいと思っている。だが、す
人生でいちばん辛いことがあった。人生でいちばん悲しいことがあった。その人は、自分にとって最も大切なモノを失って、人生に絶望し、自ら命を断とうとさえ考えた。それなのに…周囲の人々から「がんばれよ」と言われた。また、「元気出せよ」とも言われた。あるいは「そん
昨日の記事に書いたとおり、俺はかみさんの遺骨の一部が入ったペンダントを無くしてしまった。昨晩も帰宅したあと、必死になって家の中を探したが、見つけることはできなかった。かみさんの身体の一部を無くしてしまった。罪悪感で胸が張り裂けそうだ。それでも俺は出勤し、
かみさんが亡くなったばかりの頃だった。以前の記事に書いたとおり、俺は「遺骨ペンダント」を買った。骨壺を開け、小さな遺骨を入れて、俺は(風呂に入るとき以外)肌身離さす身に付けていた。そのペンダントを紛失してしまった。気が付かないうちに鎖が切れて、落としてし
現在7月10日の午前7時13分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。夜中の3時すぎに目が覚めたときだった。俺はかみさんが俺の隣に寝ているような気がした。そこに違和感はなかった。かみさんが俺の横にいるのは当たり前だからだ。このときの俺は、かみさんが
この世でいちばん大切な人を亡くしたら、遺された者の心に大きく深い穴が開く。この大きくて深い穴によって、伴侶や子どもを亡くした人々は「隙だらけ」になってしまう。周囲の人々には、その隙が見えているらしい。その隙は周囲の人々に刺激を与え、ある種の衝動に駆り立て
眠っている間は目を閉じている。目が覚めれば目を開ける。それらは自然な動作であって、取り立てて話題にするようなことではないかもしれない。それらの動作を意識したことさえない人が多いに違いない。かみさんが元気だったころ。かみさんは俺の横でスヤスヤと眠っていた。
現在7月6日(木)の17時46分。いつもとは違い、帰宅する電車の中でブログの記事を書いている。ついさっきまで、俺は懐かしい場所にいた。かつて俺が、いちばん輝いていた頃にいた場所だ。あの頃。俺は会社の中枢部門で働いていた。順調に昇進を重ねていった。毎日のように残
俺が今の会社に入った年のこと。同じ部署に定年退職間近の女性Oさんがいた。独身で、高齢の母親と二人暮らしだった。Oさんは仕事ができなかった。また、周囲の人々との関係も悪く、まともに人付き合いのできない人だった。同僚たちは、みんなOさんの陰口を言っていた。職
伴侶を喪うということは、どんな時でも味方でいてくれる人を失うということだ。伴侶を亡くしてしまうと、遺族は「ひとりぼっち」や「孤独」になってしまうだけでなく、いざというときに「孤立」して、「四面楚歌」になってしまうということだ。そうだ。伴侶に先立たれた者は
かみさんが亡くなって少しの時間が経った頃。俺は死にたくなった。かみさんの後を追いたくなったのだ。それほどまでに、自分の人生に絶望していた。あるいは、俺が死んだらかみさんと再会できるのではないか…とも想っていた。俺はブログで「死にたい…」と呟いた。すると「
現在7月3日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。また長い一週間が始まってしまった。クソ面白くもない日々が始まってしまった。今週も仕事に追われ、精神的にも肉体的にも疲弊してしまうに違いない。楽しくもなければ、面白くもない一週間に
俺より2歳年上の男性がいる。同じ会社の先輩で、俺が管理職になってから3年後、その男性も管理職になったと聞いている。彼と俺とは本社ビルの同じフロアで仕事をしていたことがあり、顔と名前くらいは知っている。だが、同じ部署で仕事をしたことはないため、ほとんど接点
ここ最近、深く眠ることができない。就寝前には睡眠薬(ハルシオンとレンドルミン)を服用しているが、それでも寝付きは良くないし、夜中に何度も目が覚めてしまう。エアコンのせいで、家の中が冷えすぎているせいかもしれない…と思い、エアコンを消して寝ようとしたことも
俺の頭の中は、「かみさん」と「仕事」のことでいっぱいだ。ぼんやりしていると、仕事のことを考えている。もしくは、かみさんのことを想っている。それ以外のことが占める余地は、俺の頭の中には(ほとんど)ない。これが鬱の原因なのかもしれない…と思った。・・・仕事は
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俺より2歳年上の男性がいる。同じ会社の先輩で、俺が管理職になってから3年後、その男性も管理職になったと聞いている。彼と俺とは本社ビルの同じフロアで仕事をしていたことがあり、顔と名前くらいは知っている。だが、同じ部署で仕事をしたことはないため、ほとんど接点
人間は、仕事をするために生きているんじゃない。生きるために仕事をせざるを得ないのだ。かみさんが元気だった頃。俺は生きるために仕事をしてきた。だが、かみさんが亡くなってから、目的と手段が逆転してしまった。俺は今、仕事をするために生きている。だからこそ問うの
かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
かみさんと俺は、散歩が大好きだった。俺が休日出勤をしなくてよい土曜日。雨が降っていない土曜日。二人のどちらかの体調が悪くない土曜日。毎週土曜日のたび、俺たち夫婦は散歩ばかりしていた。6時間から7時間もブラブラ歩いていた。目的地も決めずにブラブラ歩いていた
かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
週末はずっと布団の中にいた。身体が半端じゃなくダルかったからだ。さらには鬱がひどかったからだ。死にたいと強烈に思った。眠っている間に心臓が止まってしまえばいいと思った。かみさんが亡くなってから。俺はずっと“ひとりぼっち”で生きてきた。だから分かるんだ。か
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就