かみさんが癌だと診断される前。かみさんが俺の隣にいることは、当たり前のことだと思っていた。あまりにも当たり前すぎて、隣にいてくれるという「奇跡」に感謝の気持ちを持っていなかった。そんな俺だ。かみさんを傷つけたことがあったかもしれない。かみさんを不安にさせ
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
男ヤモメの休日は、掃除や洗濯など最低限の家事から始まる。それが終わると、かみさんに線香をあげ、お供えをする。そして俺は途方に暮れる。夜までには、まだ時間がある。どうにかして時間をやり過ごさなければならない。だが、何をしたらいいのか分からない。かみさんが元
最愛の人を喪った哀しみは、大きな質量を持っている。大きな質量は時空間を歪め、巨大な重力場を形成している。潰れてしまいそうだ。崩れてしまいそうだ。しかし…重力に反発する力もあるらしい。心の中では、死にたい…と願っている。かみさんの後を追いたい…とも思ってい
休日の朝。たいていは4時半前後に目が覚める。この時間。平日ならば、すぐに起床する。だが、休日の朝は布団から出る気力が湧いてこない。気が重いのだ。心と身体が重たいのだ。どうやって1日を過ごしたらいいのか分からない。夜が来るまでの間、どうやって時間を潰したら
日本人男性の平均寿命は概ね80歳と言われている。20年をひとつの単位とすると、それを4回ほど繰り返せば人生は終わりだ。俺の80年の人生のうち、最初の約20年間には反吐が出る。良い思い出なんて一つもないからだ。ツラいこと、苦しいこと、イヤなことばっかりで、この世界
俺は子どもの頃から「早く年を取りたい…」と思っていた。年を取れば周囲は俺に無関心になり、少しは生きやすくなるだろうと思っていた。これは、俺が両親から虐待されて育ってきたことと無縁ではないだろう。人間に対する不信感でいっぱいで、この世界はなんて生きづらいん
俺は朝が大っ嫌いだ。平日であろうと、休日であろうと関係ない。1日のうちで、最も不快な時間帯が朝なのだ。あの不快な気分をどう表現したらいいのだろうか。あまりにドンヨリしている。あまりに落ちている。あまりにも虚しい。そして、あまりにも哀しいのだ。1日を過ごし
昨晩、かみさんの夢を見た。すでに記憶は薄れているが、ぼんやり覚えている部分もある。夢の中。誰かが俺に聞いた。奥さんに連絡してあげなくてもいいの?俺は戸惑った。どうやって“あの世”に連絡したらいいんだ?連絡する方法が分からない。だが、かみさんが“あの世”に
朝はスッキリ目が覚めた。かみさんと目が合って、お互いにニッコリと笑った。そして「おはよう」と声を掛け合った。目が覚めると、すぐにエンジンが掛かった。頭はフル回転し、身体は活力に充ちていた。テキパキと洗顔し、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、スーツに着替え
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は「死後の世界」や「あの世」について語り合ったことがない。俺がかみさんに「『あの世』ってあると思う?」なんて聞いたことはないし、かみさんが俺に「人が死んでも『魂』は生きてるんじゃないかな…」なんて言ったこともない。当時の
一週間に一回程度だろうか。頭から血の気が引いたような、急に血圧が下がったような感覚に襲われる。その感覚は、決まって朝目覚めた瞬間にやって来る。そんな時は立ち上がるのもしんどいし、歩くペースもゆっくりで、呼吸が荒くなってしまう。昨日のブログに書いたとおり、
かみさんが亡くなって一ヶ月が経った頃。俺は生まれて初めて「心療内科」を訪れた。悲しくて気が狂いそうだったからだ。涙が止まらなかったからだ。鬱で身動きできなかったからだ。誰とも話をしたくなかったからだ。主治医の診断は「死別反応」だった。そのときは抗鬱剤、精
誰でも同じだろうが、俺は「楽しい時間は速く過ぎる」と感じている。それは一時間だとか、一日だとか、短いスパンだけの話ではない。一ヶ月だとか、一年だとか、さらには数年だとか、そういう長いスパンで見ても、楽しい時間は速く過ぎていく。おそらく幸せな毎日を送ってい
久しぶりに深く眠ることができた。スッキリした気分で時計を見ると、まだ午前3時を過ぎたばかりだった。もう少し眠ろうと思った。だが、眠れそうにはなかった。俺は目を閉じて、目覚まし時計が鳴るのを待つことにした。布団の中が温かかった。目を閉じて、フワフワした感覚
土曜日の朝。目が覚めて時計を見ると、まだ午前4時すぎだった。3時間しか眠ってないが、頭はスッキリしていたし、身体は軽かった。ただ、やはり気分は重たい。家族のいない“ひとりぼっち”の身で、どうやって時間を潰したらいいのか分からない。夜までの長い時間を想像す
明るくて、幸せで、楽しかった人生が、突然、一変してしまった。それは、かみさんが癌だと診断された日だった。かみさんの余命が年単位ではないと知らされたとき。俺の心は深くて真っ暗な穴に落ちてしまった。それまでは明るかったはずなのに、世界は突然、真っ黒になったの
断片的にではある。しかし、産まれてから物心がついて以来の記憶は、確かに俺の中に残っている。楽しい思い出なんて、ひとつもない。嬉しい思い出なんて、ひとつもない。幼少期以来、自分は安全なところにいなかったからだ。そこには忌まわしい体験の記憶だけが残っている。
かみさんが亡くなって以来。睡眠障害になった俺は、二種類の睡眠導入剤(ハルシオン、レンドルミン)のお世話になっている。かみさんを喪ってから、相当な時間が経った。それにも関わらず、いまだに睡眠導入剤を手放すことができない。そろそろ薬を飲まなくても眠れるように
俺には「何か」が欠けている。その「何か」は普通の人々にはあるが、俺には無い。おそらく産まれたときには持っていたんだろう。だが、俺は「親ガチャ」に外れ、両親から「何か」を奪われた。奪われた俺が、マトモな人間関係を築けるはずがない。俺が「隙だらけ」だったから
かみさんはいつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね。俺も「そうだね」と応えていた。だが、それは叶わない夢だろう…とも思っていた。男性のほうが、女性より短命だからだ。できれば俺も、かみさんと一緒に死にたい。二人で手をつないで横になり、一緒に逝けたら最
かみさんが亡くなって1年ちょっとが経ってから。俺は主治医の勧めで会社を休職することになった。主治医から告げられた病名(?)は「死別反応、抑うつ状態、適応障害、睡眠障害」だった。これらについては以前の記事に書いたとおりだ。休職が明けて職場に復帰してからのこ
かみさんと俺は、夜が好きだった。夜遅くまで他愛のない会話をするのが好きだった。かみさんが元気だった頃。俺が会社から帰って入浴を済ませると、俺たち夫婦はその日にあったことを語り合った。俺が仕事をしている間、二人は一緒にいられない。その「すき間」を埋めるかの
悩み事があったり、ストレスが溜まっていたり、心に重たい荷物を抱えていると、人間は自分の話を誰かに聴いて欲しくなる。自分の心の内側を、どこかに吐き出したくなる。だが、話を聴いてくれる相手が誰なのかによって、どこまでの範囲の話ができるのかは変わってくるものだ
私は正しいグリーフワークの道を歩んでいます!時折そんなことを、臆面も無く言う人間を見かける。心理学などで示されたグリーフワークのモデルケースに照らし、自分がそのケースのとおりに立ち直っていることを誇っているのだろう。自分は絶対に正しい。自分と同じ人間も正
以前の記事に書いたとおり、俺の部下の中に、50歳代のKさんという「問題社員」がいる。仕事ができない。判断が遅く、いつまで経っても決断できず、結局は仕事を先延ばししてしまう。周囲が手取り足取り教えてあげても、いまだに仕事が身に付かない。そのうえコミュ障で、自
真っ暗闇だ。何にも見えない。とても静かだ。何にも聞こえない。それどころか何にも匂わないし、何の味もしないし、何にも触れない。すべての感覚が遮断されている。完全に静止した絶対零度の世界だ。だからといって怖くはない。むしろ穏やかな世界だ。理由は分かる。何も考
ここ数日間。眠っている間にかみさんの夢を見ている。続けて3回も見るのは珍しい。夢の中。かみさんと俺は、寄り添って会話をしていた。二人で今後の予定を話し合っていた。かみさんが生きているかのように、俺たち夫婦は日常を楽しんでいた。過酷な「現実」に比べ、夢の中
人生って辛いなぁ…と思う。生きていくのが、こんなに苦しいのなら、生まれてこなければ良かったなぁ…とも思う。かみさんが元気だった頃だって、生きていくのは辛いなぁ…と思うこともあった。だが、生まれてこなければ良かったと思うことはなかったはずだ。辛いことはたく
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かみさんが癌だと診断される前。かみさんが俺の隣にいることは、当たり前のことだと思っていた。あまりにも当たり前すぎて、隣にいてくれるという「奇跡」に感謝の気持ちを持っていなかった。そんな俺だ。かみさんを傷つけたことがあったかもしれない。かみさんを不安にさせ
かみさんが亡くなったばかりのことだった。俺は自分の人生も終わったな…と思った。かみさんが亡くなって一周忌を迎える前だった。俺の余生はロクなものにならないな…と思った。かみさんが亡くなって1年3か月が経った時期だった。俺も早く死のう…と思い、それ以前からあ
俺と妹は「親ガチャ」に外れた。両親から虐待されて育ってきた。父親は酔っ払うと俺を殴った。母親は言葉の暴力で俺たちの自尊心を破壊した。おかげで俺は、人間が大嫌いになった。人間に対する不信感と恐怖が、俺の言動に大きな悪影響を与えた。父親は俺が高校生のときに死
3連休が近づいている。どうやら猛暑日の3連休になるらしい。かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は連休が大好きだった。連休が迫ってくると、かみさんと俺の気分は高揚した。連休中は、夫婦二人で旅行をしたり、散歩をしたり、映画を観に行ったりして過ごしていた。本当に
かみさんが亡くなった。俺はたった一人の大切な家族を喪った。俺は“ひとりぼっち”になった。俺は孤独になった。最近、孤独死する人が増えている。高齢者ばかりではなく、40~50歳代でも孤独死する人が多くなっているそうだ。失業して社会から孤立してしまった人々。もとも
俺はかみさんに愛されていた。かみさんは俺を精一杯、愛してくれた。そこに疑いを挟む余地はない。だが一方で…かみさんは俺に愛されていると感じていただろうか。俺のかみさんへの想いを疑ったことはないだろうか。時折かみさんに聞いてみたくなる。しかし…かみさんは俺の
全国的に見ると、お盆の行事は旧盆の8月に行われることが多い。一方で、新盆の7月に行われる地域もある。東京では、7月にお盆の法要を行うお寺が多いらしい。7月13日の日曜日。俺は菩提寺に向かった。盂蘭盆会の法要に参加するためだ。20日ほど前にも墓参りに行ったので、
なぜだか疲れてしまった。とりわけ「心」というか、「精神」が疲れてしまった。仕事が忙しく、やらなきゃならないことが沢山あるからだ。また、気温も湿度もあまりに高く、不快な日々が続いているからだ。新型コロナウイルス感染症が収束したにも関わらず、少子化だの、人口
俺は先日、部下の一人(女性)から言われた。課長って生活感がないですよね~俺は忙しかったので、「あ~、そう?」と応えただけだった。だが、その瞬間、違和感を覚えたことも事実だ。生活感がないなんて、生まれて初めて言われたからかもしれない。しかし、それだけではな
毎朝5時半くらいに目が覚める。俺はかみさんの仏前に座る。お供えをして、線香をあげる。しばしの間、俺はかみさんの遺影を見つめる。哀しいような、淋しいような気持ちになる。俺はバルコニーに出て日光を浴びる。それでも交感神経のスイッチが入らない。あきらめてリビン
7月8日の夜から7月9日の朝にかけてのこと。俺はかみさんの夢を見た。決して幸せな夢ではない。癒されるような夢でもない。とても切なくなるような、とても不安になるような夢だった。俺は自宅にいた。かみさんは友だちの家に遊びに行っていた。夜遅くになったが、かみさんは
俺がかみさんと出会ってから、かみさんが癌だと診断される日までの約20年間のことだ。俺たち夫婦は無敵だった。かみさんと俺とは全知全能だった。二人にとって、この世はコントロール可能な世界だった。何もかもが思いどおり、願いどおりに動いていった。もちろんツラいこ
毎朝5時半くらいに目が覚める。その瞬間、「あぁそうか… かみさんはいないんだっけ…」と思う。朝が来るたびに、かみさんの不在を再確認している。朝が来るたびに、俺は死別を追体験している。以前よりは慣れたのかもしれない。だがやはり、かみさんの死は哀しい。哀しみ
かみさんが癌で闘病中のことだった。癌とは診断されたけど、まだ入院する前のことだった。彼女は笑顔で俺に言った。私は幸せだよ…この言葉は、今でも俺の宝物になっている。20年間、一緒に暮らしてきた。二人はいつでも寄り添っていた。この言葉は、俺たち夫婦の「絆」の証
俺より2歳年上の男性がいる。同じ会社の先輩で、俺が管理職になってから3年後、その男性も管理職になったと聞いている。彼と俺とは本社ビルの同じフロアで仕事をしていたことがあり、顔と名前くらいは知っている。だが、同じ部署で仕事をしたことはないため、ほとんど接点
人間は、仕事をするために生きているんじゃない。生きるために仕事をせざるを得ないのだ。かみさんが元気だった頃。俺は生きるために仕事をしてきた。だが、かみさんが亡くなってから、目的と手段が逆転してしまった。俺は今、仕事をするために生きている。だからこそ問うの
かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
幸せになりたい…なんて思っていない。一日をなんとかやり過ごし、余生を食い潰し、少しでも早く「終わり」が来ればいい…と思っている。俺には幸せを求める余裕なんか無い。幸せを求めるためには、ある種の「余裕」が必要なのだ。かみさんが死んじゃった。かみさんに会
かみさんは、俺の妻だった。かみさんは、俺のいちばんの親友だった。かみさんは、俺の母であり、姉だった。かみさんは、俺の娘であり、妹だった。そうだ。かみさんは、俺のすべてだったのだ。かみさんが死んだ。俺は「すべて」を失った。妻がいなくなり、いちばんの親友もい
頑張れば、どうにかなる…というものではない。どんなに沢山の障害があろうとも、どんなに大きな山があろうとも、頑張れば乗り越えられる…というものではない。だが、この世界には「根性論」だけで全てが解決すると思っている者がいる。数年前のこと。俺は会社でのプレゼン
かみさんが亡くなってから。俺は何度も同じような夢を見ている。全く同じ夢というわけではないのだが、似たようなストーリーの夢を頻繁に見ている。その夢を見て目覚めた朝は、いつだって切なくて、やるせない。心の底から求めているにも関わらず、その希望は絶対にかなわな
7月の3連休。俺は久しぶりに断酒した。自分の健康を気遣ったわけではない。断酒の理由を聞かれても、答えは見つからない。あえて言えば、酒を飲みたくならなかったのだ。いつもとは違い、身体が軽かった。何もやる気がない…という気分にもならなかった。3連休の1日目。
かみさんを亡くして最初の数年。俺に寄り添ってくれる人たちがいた。俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちもいた。これ以上、俺を傷つけないように気を配り、選びに選んだ言葉を掛けてくれる人たちもいた。だが、そんな優しい人々ばかりに囲まれていたわけではない。世界はあま
かみさんが元気だった頃。俺と世界との間は、とても滑らかだった。俺は世界を受け入れていた。世界も俺を受け入れてくれた。まるで真綿でくるまれているかのように、世界は俺にとって、居心地の良い場所だったはずなんだ。それなのに…かみさんが死んじゃった。そのとき以来
かみさんが元気だった頃。毎週土曜日には夫婦二人で散歩に行った。健康のためというのではない。体力づくりのためというのでもない。かみさんと俺は、他愛のない会話を交わしつつ、周囲の風景を眺めながら、気ままな散歩をしていたのだ。あの頃、俺たち夫婦は「ゆっくり、の
かみさんが元気だった頃。俺は基本的に楽観的な人間だった。辛いことは沢山あった。苦しいことも沢山あった。悔しいことも沢山あった。だが、いつだって「どうにかなるさ」と希望を失うことはなかった。事実、いつだって「どうにかなっていた」のだ。俺が「どうにかなるさ」
朝、目が覚める。まだ目を開けてはいないが、意識はハッキリしつつある。そんな瞬間、眠っている間に忘れていたことが、意識の中に上ってくる。あ、そうだっけ。容ちゃんは死んじゃったんだっけ…もう俺の家族はいないんだ。俺は“ひとりぼっち”になっちゃったんだ。思い出
7月2日以降、毎晩ほとんど眠れない。もともと睡眠障害はあるのだが、それが悪化しているらしい。睡眠導入剤を飲んでから布団に入る。だが、まったく寝付ける気配がない。日付が変わった頃にはウトウトするのだが、30分程度で目が覚めてしまう。しばらくすると、眠りに落ちる
伴侶を亡くしてしまえば、誰だって悲しかろう。伴侶のいない余生を過ごしていかざるを得ないとすれば、誰だって哀しかろう。体力が尽きていようと、意識が朦朧としていようと、死別直後の数年間、遺族たちは悲しくて慟哭する。自分の意思とは無関係に、悲しみが内側から噴き
身体がダルい。歩くことはもちろん、立ち上がることさえシンドイことも少なくない。全身が痛む。あちこちの骨と筋肉とが悲鳴をあげている。俺の身体が徐々に崩れていく。それは「あの日」から、ある程度は予想していたことだ。死ぬこと自体は怖くない。かみさんの生前は怖か
かみさんが亡くなって多少の時間が過ぎた頃。俺の中に希死念慮が生まれた。そこには、いくつもの理由があった。強烈な悲嘆に耐えられなかったからだ。心身を引き裂かれたような、激しい痛みが苦しかったからだ。持っていたモノすべてを失って、自分の人生に絶望したからだ。
週末はずっと布団の中にいた。身体が半端じゃなくダルかったからだ。さらには鬱がひどかったからだ。死にたいと強烈に思った。眠っている間に心臓が止まってしまえばいいと思った。かみさんが亡くなってから。俺はずっと“ひとりぼっち”で生きてきた。だから分かるんだ。か
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび