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  • 尾崎行雄(6) 浜田国松

    浜田国松は明治元年1868年4月2日に宇治の今在家町の山村楳香(ばいこう)の第二子として生まれる。(宇治郷の絵図では、今の岩戸屋あたりに、山村という苗字の家がある。)後に、岡村家の養子になり、浜田清三郎家の跡継ぎになった。国松の父の山村楳香(ばいこう)の楳は梅のことであり、山村家は伊勢の梅香寺と何がしかの繋がりがありそうです。国松は、三重師範学校を出てから小学校の教師につました。鳥羽小学校にも在任したようです。後に東京法学院(中央大)を卒業し弁護士の業務につき、政治活動として、町会議員から県会議員をへて、37年の選挙で国会議員となり、のち12回当選し、衆議員議長をへて昭和12年の1月12月に新築されたばかりの国会議事堂の、帝国議会で政友会の浜田はその施政方針の演説の中で、憲政の常道を説き、国家総動員法など軍の横...尾崎行雄(6)浜田国松

  • 尾崎行雄(5) 浜田国松

    伊勢市(宇治山田)出身の政治家といえば、なんといっても浜田国松です。浜田国松は有名でないかもしれないが、大戦を語る上では欠かせない人物です。尾崎行雄の門下であり、気概のある政治家です。著書(共著)「議会主義か・フアツシヨか」。昭和12年。衆議院本会議で、伯爵の寺内陸相に対し腹切り問答の演説し広田内閣を総辞職においこんだ政治家として有名です。(「速記録を調べて、自分が軍を侮辱してたなら切腹して誤る、そうでなかったら君が切腹せよと」と寺内陸相に詰め寄った。)年代背景としては、前年には2.26事件があり、天皇により鎮圧はされたが、次の広田内閣では、軍部の政治介入はますます加速され、軍の圧力により当時のレートとしては破格の36億4千万円という膨大な軍拡予算が編成され日本が、軍国主義の戦時体制国家に変貌しようとしていたハ...尾崎行雄(5)浜田国松

  • 尾崎行雄(4) 尾崎一雄

    尾崎一雄の父がなぜ勤務先の皇學館(現、宇治浦田神宮工作所)からわざわざ、遠くはなれた、山田の岡本町に住んだのか。この青い線の道(4キロ)を尾崎一雄の父は徒歩で通勤した。今の御木本道路のに沿っており、以前は狭い道だった。(当時、御幸道路はまだなく古市を通るより近い)。なお秀吉が古市街道をつくる以前は、この道が参宮道だった。さて父が、歩いて通勤してたのは、「父祖の地」に書かれてます明倫小学校1年の尾崎一雄少年は、父の帰る時刻になると庭はずれの用水路の堀に立ちまだかまだかと待っていると『やがてはるか「かえる石」の曲がり角に山高帽をみとめると、私は両手をあげ地団駄踏む。聞こえはしないとおもいながら「おとうさん」と呼ぶ。父はステッキを頭上で左右に振っているが、だんだんと歩調は速くなり、やがて駆け出す』なんか純朴というか、...尾崎行雄(4)尾崎一雄

  • 尾崎行雄(3) 尾崎一雄

    尾崎行雄と間違いやすいのは、尾崎一雄という芥川賞作家。『暢気眼鏡』で受賞。。文化勲章も受賞しています。他の、代表作は『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』など尾崎一雄原作の映画は戦前に『暢気眼鏡』、戦後は、(「愛妻紀」と「モグラ横丁」があります。明治32年(1899)に宇治山田で生まれる。出生地は伊勢市宇治浦田浦田交差点の右下隣の2件目あたり4歳に父の郷里小田原の曽我村に帰り、7歳にまた、戻り、伊勢の岡本町(当時は岩淵町)の明倫小学校に入学翌年に沼津小学校に転校。岡本町では祖霊社の隣に住む。父が教師として勤める皇學館は今の宇治にある工作所のところで、尾崎の「父祖の地」では岡本から4キロの道のりを徒歩で通勤していたようだ。どうして岡本に住んだのだろう?はたして、尾崎行雄と関係はあるのか?←前次→尾崎行雄(3)尾崎一雄

  • 尾崎行雄(2)

    有名な人の中に、ゆきおさんはおおぜいいますが、この方でもこの方でもありません。憲政の神といわれている尾崎行雄です。、憲政というとむずかしいですね。「議会政治の父」ということです。ワシントンに桜を寄付したことでも有名です。ただの肩書きばかりの、偉いさんではないんです。年をとってからもスゴかった。尾崎行雄は1941年83歳を過ぎてからも、大政翼賛会に反対し、三国同盟に反対し、近衛内閣や東条内閣に質問状を出し。不敬罪で巣鴨の拘置所に入れられたりと、国民の為に国の行く末を憂い、戦い続けました。その姿は痛々しいばかりであった。伊勢市川端の尾崎咢堂記念館は建て替える前は、市の経営する市民のための結婚式場でした。(安く結婚式があげられる料理は料理屋に注文するし出し。よくホテルがする出張パーティーのようなもの。)外見からしても...尾崎行雄(2)

  • 尾崎行雄(1)

    伊勢市には神式で葬式をするところがある。もとは、霊祭公社(現、祖霊社)といって、靖国神社のような、西南戦争の戦没者を慰霊するところだった。さて、昔、この祖霊社の近くに小泉八雲が住んでいたという話しがある!(小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)といえば、あの英語のリーダーに載っているムジナとか耳なしホウ一の「怪談」を書いた、松江に住む片目の外人。小泉八雲は英語教師として、文部省が招いて、アメリカから島根に直接来た人。もちろん、伊勢に住んだという記録はない)だからこの噂は、人違いです。尾崎行雄の英語の先生小泉敦のことだと思われる。明治7年から、フレデリック・サンデマンという当時では珍しい外人教師もいたから間違った噂が流れたといえる。明治5年、行雄の父の度会県の官史赴任で15歳の尾崎行雄とともに高崎から岡本の宮崎英語学校...尾崎行雄(1)

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