江戸初期数々の疑惑や陰謀がありました。大奥の話ではありません。岡本大八事件(1609~1612年)肥前藩藩主有馬晴信(ありまはるのぶ)が長崎港に入港したポルトガル船マーデレ・デ・デウス号を包囲し沈没させたことが始まりです。それは、マカオで、晴信の朱印船の乗組員と家臣の50人殺され、積荷も奪われた報復でした。そのボルトガル船を襲撃する監視役(目付役)として派遣されたのが岡本大八でしたが、つまり有馬晴信から金銀6000両をだまし取ったのです。それは、旧領土の回復を家康に働きかける運動資金としてでしたが、大八は、全て自分の懐にいれてしまった。有馬晴信が騙されたのは、岡本大八が本多正純の与力(子分)だったからです。本多正純といえば、家康の1,2を争う側近でした。岡本大八は死刑になるのですが、有馬晴信を道連れにしてやれと...おなつ寺(3)江戸謀略史
小田の橋参宮道には、おなつ寺のとなりの、寿巌院の三浦樗良(ちょら)の落葉塚とか祖霊社の芭蕉の句碑の何木塚(なんのきづか)「何の木の花とはしらずにほひかな」。がありますが、芭蕉の句碑は他にも何ヶ所かあります。さて、最近(5~6年前)に文化会館の前に(大喜の前の三角地)にできた句碑についてです。文化会館で伊勢青年劇場が芭蕉の劇をしたあと数ヶ月後にできた句碑です。知人が明智が妻の役をやったこともあり、非常によかった劇でした。「月さびよ明智が妻の咄しせん」です。月さびよはわびさびの世界。その秋の月のもとで。(高尚ですね。よくわからないけどわかるような気もする)明智が妻のは明智光秀の妻煕子(ひろこ)の咄しせん(はなしせん)否定形でなく話しをしましょうの意芭蕉が伊勢山田の西河原(現宮後町)にあった御師の家に宿をとったときそ...おなつ寺(2)芭蕉の句碑とソロバン
11才の行雄と父尾崎行正参宮館(最近まであった)浜田国松尾崎一雄が住んでいた家で、おそらく間違いなく、尾崎行雄も住んでいた。向こう隣が霊祭公社(祖霊社)で、その向こうには青木亭(松阪から移築)があった。浜田国松と尾崎行雄浜田は尾崎の門下であり、10歳尾崎のほうが年上。小田原文学館では、敷地内に尾崎一雄の書斎が移築されています。これどっかで見た風景だなと思ったら(参宮館の離れ)明倫小の北側の池の向こうにあった、尾崎一雄や浜田国松が住んでいた離れとそっくりです。参宮館の場所さて、気がついた頃には、参宮館は駐車場になってました。壊したら後の祭り。小田原がうらやましいです。また近くの岩淵町に少し前まで、あった野球の沢村栄治の生家も今や駐車場です。練習したボールの痕とかもありました。これじゃ歴史もへったくれもなにもなし。...尾崎行雄(7)完
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