コメント欄に返信が出来なくなっているので雑記として描きます。私の画風を描くコツについてですが、秘密です。基礎的な絵の勉強をせずに真似すると、立方体が描けなくなるなどの症状があらわれる表現もあります。最初から立方体が描けないのか、描けていたものが描けなくなったのかが分からないと、万が一マネして描いてそうなってしまったときに、絵の知識のある医師でも回復方法を解明するのは難しいと思われます。模写を推奨する似顔絵教室もあるようですが、私は奨めていません。特にシュルレシリスム、シュールレアリズム、シュール等の絵である場合、かなりの専門的な美術の知識が必要です。義務教育では「鑑賞」となっていて、描くことを奨めてはいないはずです。超現実主義を例にあげましたが、それ以外の表現やポリシーの絵で、マネしたときにどうなるのかは、私も...私の画風を真似ることについて(雑記)
ハイパウントハイパウント(似顔絵)
カツカツ(似顔絵)
謝罪。絵画を検索機で読み解こうとしている画家の先生に、「みちょぱ!」と読み解けないワードを言ってしまいました。先生は検索されて、読み解こうと詳しく説明して頂いたのですが、シャレにならないことにしてしまいました。「ぐっちょんぱ」にすればよかったかもしれません。「みちょぱー」では合わない(雑記)
映画の起源がスターウォーズでも個人的には気にしないですが、似顔絵の起源もそうだと困ります。肖像画と似顔絵との主従関係を壊してしまう映画起源でいくと、アートに関連する人にも都合が悪いことは多いと思います。何かしらの意図によって、美術史が今以上に遡れなくなる時代が来るのであれば、写実以外の表現手法が、リアル以外の絵画手法が、似顔絵描きのオリジナリティーの主張に屈することになりかねない。個人的な解決手段としては、似顔絵とアートとを分けて描いています。私の作品の起源が他にあることを、さりげなく提示して頂けるのは勉強になりますし、ありがたい場合もありますが、その方たちご自身の組織のルーツを不意にする行為は、理解しがたく、総崩れを狙う「絵をなくそうとする思想の方」からのアドバイスのようにも思えます。ロゴスの翻訳は、言葉だけ...キゲンをそこねる(お絵描き雑記)
「背が低いのにバスケをやってて何の得があったの?」と聞かれると少し落ち込む。フリースローとジャンプシュート、マンツーマンディフェンスしかできない。けれど、あえて言えば柔軟体操と散歩がまだできてる。難点は、他のスポーツのフォーム系の指導を受けるとき、「何年やってらっしゃったんですか?」とベテラン扱いされてしまうこと。飛距離が全く出せないので、ゲームは不可能で練習しかできません。背が低いのにバスケをして得したこと(雑記)
明るい色だけを使っていると、暗い色を使ったときにショックを与えてしまう。矛盾のない絵の説明を求められることは多いけれど、作品は矛盾も含んだものでありたい。明るさと暗さ(お絵描き雑記)
麻生氏の「いつまでこれをするんだね」というマスコミに対する発言を考えると、マスクは必要ではないのではないかと思ってしまう。しかし、教室の講師をしているので万が一を防がねばいけないので、マスク以上の防備になってしまう。「マスクはいらない」とアッピールする歩行者とすれ違う。私も「マスクはいらない」と書いてあるマスクをして歩いてみようかしら。けれど、都の方針に逆らう気はないので、素直にマスクをしています。冒険するなら絵でしたい。マスクマンの散歩(雑記)
「はじめての似顔絵教室」の文言を昨年から変えました。趣味ではありますが、習うのではなく学ぶことを重視した文になっています。模写を推奨される似顔絵の書籍があるとうかがっていて、それをしないためにはどうすればよいか苦慮しています。私自身も、小学生の頃は妖怪画を模写して楽しんでいたので、模写を否定はできないのですが、それが漫画家になれなくなった要因の一つにもなっています。一定以上の年齢で忠実な模写ができてしまうと贋作になってしまう危険性も感じていて、そうならないような指導ができないので、万が一を考えて「学ぶ」ことを目標にしています。はじめての似顔絵教室の文言(似顔絵談)
次に描きたいものがあるなら、自らということがないが、自ずから描こうとできる。送り仮名の間違いで、描くことを困難にする。文字を書くと、描くの読みを困難にする。自ら動きだす時間に、書くことを期待していた人は、また描くことであるとがっかりするのだろう。歩ける距離が短くなっている、また歩きづらくなっている。散歩という余暇に思える行為ではあるが、自らの衰えを距離や時間で傷つくことが、人としてではなく、自然の景色と違った景色として見せてくれる。個人的には、偶然出会うワゴン車やバイクで、危機意識しか持てない状態が続いているので、以前に描いた風景画を勇気に、人為的に余暇を楽しむための道ではなく、大通りをお巡りさんさながら、交通ルールを守って、もしものときでも仕方ないと思える歩き方で散歩をしている。女優のような自転車乗りが出てき...自ずからの読み(お散歩雑記)
アクリル画をまた何点か描いてみたくなって、その方向性を絵にしてみました。何も言わなくても分かる人、全て言っても分からない人、感じることの出できる人など様々な人と出会ってきて、自分の言葉では無理だと感じて絵を描いています。自分は感動させない人でありたいと思って、興ざめな雑記を書いてきました。けれど、ある程度感動させてしまった場合、それは飼いならすということになってしまうかもしれないので、その責任を取れる範囲で描いていこうと思います。おそらく、「飼いならす」と言ったので誰も飼いならされないと思っています。この絵からの連作において、その題材を崇高にしようということは考えていません。具象画という範囲内で描きたいと思っています。ところで似顔絵ですが、気を使いすぎて最終的に大きな亀裂を生むよりは最初にはなれた方がよいのでは...具象絵画の個人的な方向性(お絵描き雑記)
今週の週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」に、私の作品が掲載されました。週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」掲載!!(アンミカ)
彩山水インクを彩色筆で描いてみました。彩色筆で(似顔絵)
「街人-machibito-シリーズ」1〜24(アクリル画)
街人-machibito-シリーズです。縦位置の風景画のような人物画で、「街が人に見える」から始め、自分で決めた題名から逸脱しない範囲で発想していきました。「街人-machibito-シリーズ」1〜24(アクリル画)
「街人-machibito-」24(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」24(アクリル画)
「街人-machibito-」23(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」23(アクリル画)
自然の質感を見ていると自分の今まで描いてきたモチーフが見えてくるそのうち質感のないものにも見えてくるがふと不安がよぎるこれは自分のイメージなのだろうかと立ち止まり少し戻ってみるくしゃくしゃにした紙だったり水に垂らしたり現実に生まれた偶然の創造の力を借りたりする人の絵の力である危険性を極力さけ様々な見えるを組み合わせていく言葉で自分と自然を分けねば客観視できないけれど言語化しすぎるとポリシーになり他の人との共有財産になり得るかもしれないけれど肝心の光は見えにくくなる自然からのイメージ(お絵描き雑記)
レコートの針がなかったのでかじることしかできなかったミルクチョコレートの味がしたかしを味わう前まではレコードをかじって(非現実な詩)
「街人-machibito-」22(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」22(アクリル画)
「街人-machibito-」21(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」21(アクリル画)
傷口が出来てからでは遅い。頭が痛いときには、足の裏を揉む。「問題点の提示」がなされたときには、すでにそれに反対したものが賛成せざるを得ないシナリオができてしまっている。かと言って関わらない場合には、特定の宗教に指摘させる方法が考えられるので、「その問題以外」を今まで通り、愚直に、ときには楽しげに関わっていこうと考えています。頭が痛いときには、足の裏を揉む(雑記)
「空間のオブジェ」25(アクリル画、158×227mm)「空間のオブジェ」25(アクリル画)
「空間のオブジェ」25(アクリル画、158×227mm)「空間のオブジェ」25(アクリル画)
「朝食の前」9(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」9(アクリル画)
作品に、他の人が描けそうにない、描けたとしても別の方向性へいくような題名、つまり「絵にピッタリの題名」を付けたら、自分でも別の題材で発想できませんでした。題名から題材を作るのは大変だと知りました。結果的に「題名にピタリの絵」は描けるけれど、言葉ピタリ賞では、発展や向上させるという点では、続けて描くのは難しい。題材を見つけることは難しいけれど、常に考えたり、考えないことを考えたり、感じてみて考えたり、それ意外を模索したりしているので、題材を見つけたときの時間は一瞬に感じてしまうのかもしれません。知らないうちに、自分が視覚的に見た人の作品を忘れてしまい、それが模倣になってしまうかもしれないので、絵では視覚的ではない別の感覚器官の作品から、あるいは最近では視覚化できないものから影響を受けるようにしています。絵にピタッリの題名と、題名にピタリの絵(お絵描き雑記)
首振るのは高音を出すためでうぁないさ♪首振るのは高音を出すためでうぁないさ♪(似顔絵)
シートベルツの似顔絵を描いてみました。シンセサイザーの太鼓から、欧米の打楽器に。制限時速の全くない道での安全運転作曲家。ところで、スペースから何かが出て見えてくる危険性を先生たちが警戒しているのか、歌のお兄さんのシルエットはかせが、先に絵のシルエットを見せたり、カラーのシルエットだったりしているのが、逆に怪しく感じています。スペースから手のようなものが出てこぬため絵で埋め尽くしたら、今度は空間恐怖症と言われそうなので、音楽で埋め埋め尽くしてみました。シートベルツ(似顔絵)
「朝食の前」8(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」8(アクリル画)
「朝食の前」7(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」7(アクリル画)
「朝食の前」6(アクリル画、158×227mm)色をさしてみました。「朝食の前」6(アクリル画)
「朝食の前」5(アクリル画、158×227mm)モノとモノの間を描くにしても、モノも描かねば。言っていることとすべきことが矛盾しつつも、すすんでいければと…というように文字言語を動かしてしまうので、手がすすみづらいです。「朝食の前」5(アクリル画)
教室の心構えを書くところに、かなり分かりやすいように手順を文章として書いてみた。我ながら斬新なアイデアであったと思ったし、受講生もたくさん来て下さった。けれど、「分かりやすい手順」が、分かりにくい方が来ることまで想像できなかった。なぜ受講生が出来ないのかが、私には分からない。絶対に陥らないようにしていたはずなのに、受講生が分からないことがなぜ分からないのか、仮説を立てられずアドバイスが難しくなった。今、分かりづらい説明文にしたので、受講生は増えない。その代わり、分からないことがなぜ分からないのかは、検討が付けられるようにしています。「分かりやすいの扉」も問題ですが、この日記でよく用いていた、分かったように思って馬鹿にされたまま退出して頂く、「ただのダジャレっぽい自動ドア」は、多重言語であり、流布されたときに言葉...分かりやすいの扉(お絵描き雑記)
「日本人ってモノを描くのが好きですね」などと言われそうな絵を描いていますが、「だったら、もっと描写しないと」と合わせ技一本とられそうな静物画を描きすすめています。寓意のない静物画が描きたい。けれど、描いたモノが何なのか分からないと、静物画にはならないのかもしれない。そのモノが何であるかの答えがでてしまうと、それは文章でもよくなってしまったり、寓意事典を読んでいる方が人生のためになるかもしれません。寓意を知識からではなく、見た作品から知恵で見つけられるような、それも寓意なのかもしれませんが、子供のほうが答えを感じられる作品でありたい。モノとモノとの間を描きたいので、そのためには最小限モノを描かなければいけない必要が出てくる。なので、モノで描くのも好きです。寓意のない静物画(お絵描き雑記)
「朝食の前」4(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」4(アクリル画)
「描けているか、描けていないか」が、論点になることがあります。似顔絵として描けていてもアートとして描けていなかったり、似顔絵として描けていなくともアートとして描けていたり、両方描けていなかったり、両方描けていることとなったり。けれど万が一、「描けている」となったとき、「描けていないこと」が題材であったりした場合は、応援を裏切ることになってしまうかもしれません。「描いてはいけない」としたくないので、「描けていない」を用いる場合があり、描けていない似顔絵は、似顔絵として成立し得…る…ー、めんどーくさーいですねー。「腕時計をちょっと描き込んでみました」説明ぎらいな似顔絵描きは、そう説明するやもしれません。描けていない(似顔絵雑記)
「朝食の前」3(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」3(アクリル画)
「骨格に依存していません」似顔絵はたいがい骨格を描くことを目的としていません。ドラマ内で「フィクションで演じています」と言い続けるかのような可笑しさかもしれません。よく絵画では「レアレテ」という言葉を用います。「写真のように描こうが、マンガのように描こうが、レアレテ」と、くだけて言えばそう言えるかもしれません。なので、「リアル似顔絵」と「そうではない似顔絵」ということが、実のところ分かっていません。「レアレテではない、レアレテがない似顔絵」も応募しているのですが、なかなか掲載されません。「リアルではない似顔絵」の重要性は最初から強く感じているのですが、それも現実的であることが多くて、それだったら「レアレテ」を目指すほうが自分にとって整合性があって、向上していけます。英語かフランス語かの違いなだけかもしれませんが...骨格に依存していません(似顔絵雑記)
陰影を少し省略しました。肌の明度に合わせると、髪の明度がかなり低く見えてしまいます。肌の明度が高いように設定すると(似顔絵)
「髪切った?」テレビ番組「笑っていいとも」で、タモリさんがよく言っていたセリフ。私も顔のことがだんだん言いづらくなってきました。クスミに見えないように、髪の毛と陰影の影の部分の明度をより低く描いています。このままだとファンアートになってしまいそうなので、対策を考えます。髪切った?(似顔絵)
今週の週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」に、私の作品が掲載されました。週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」掲載!!(芦田愛菜)
「朝食の前」2(アクリル画、158×227mm)「朝食の前」2(アクリル画)
朝食の前(アクリル画、158×227mm)静物画を描いてみました。セッティングされた静物のデッサンが全く出来ませんでした。セッティングされていたからかもしれません。「松崎しげる色」という絵の具があるそうです。使用した絵の具の組み合わせだけでは難しい。絵の具の色だけではない、自分の色を出せるようになっていきたいです。朝食の前(アクリル画)
「街人-machibito-」20(アクリル画158×227mm)「モネへ捧げるオマージュ」に応募したものを、印象派的ではない表現に戻して描いた作品です。写実主義的すぎない、ダダを経由しないなど、「完成だと思われてしまう節目」を避けて描いています。「街人-machibito-」20(アクリル画)
「街人-machibito-」20(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」20(アクリル画)
「街人-machibito-」19(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」19(アクリル画)
絵本「ふしぎなえ」が、好きでした。数学的には凄いのだろうけれど気味悪い絵に目を向けることが出来たのも、「ふしぎ」がさほど怖くなかったからです。似顔絵を描いたら、「おかしなえ」になってしまいました。アートとして描いたときには、面白い絵と言って頂けたりしています。おかしなえ(似顔絵)
「街人-machibito-」18(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」18(アクリル画)
最近「リアル」という言葉を頻繁に見かけ、そのリアルが薄れゆくことを危惧する記事が出始めた。現実的という意味ならば、国民が現実的ではなく、現実の記事を求めていて喜ばしいことに思えてしまうから、リアルという言葉がそういう意味ではないのだろう。「気球に乗ってどこまでも」という歌があったが、「落下傘ではなく、おっかさん」という駄洒落だと、気球が軍事目的になって歌えなくなる。大きなおっかさんを百貨店のバルーンの垂れ幕のようにぶらさげている気球は、撃ち落とされるかもしれないけれど、中に入っている気体が「子供の夢や希望だった」と、内輪の問題として横書きの記事が出てしまう。こういうのが薄れゆく「リアル」なのだろうか?リアルって何なのだろう?(雑記)
空想させている椅子を現実的に存在させて描くと、パントマイムにならない絵です。パントマイマー(似顔絵)
陰影と線で描いてみました。陰影と線(似顔絵)
「似顔絵をアートに」という方向性が、失礼な物言いですが「成り上がり」と例えるなら、私は「成り下がり」であり、申し訳なく思ったりします。全力で描かないことが何かしらの問題ない絵になっていて、それを全力で模写をされると、それは私の作品よりもはるかに上手い絵であるかもしれませんが、何かしらの問題のある絵になってしまうかもしれません。模倣や模写を大丈夫に描く方法があるようですが、私は奨めていません。上手か下手かだけの直線上にある絵を描きたくはないですが、その価値感にあえて乗っかって、自分自身を上手いか下手かの直線上にいると想像して言うなら、「実力以上に上手に思わせようとしないで描いている」という表現になると思います。成り上がりと成り下がり(似顔絵)
エスキースの段階で、身体を線で表現するのが難しいと判断して、陰影で描いてみました。全身似顔絵と身体の線(似顔絵)
白と青紫と青みの黒長時間見つめ返さないで下さい。視力が低下するかもしれません。白と青紫と青みの黒(似顔絵)
黄色から黒につないでみました。中間の色が緑身に見えてくるので、緑系の中間色をはさんでもよかったかもしれません、黄色から黒(似顔絵)
「間を感じ、間から生まれる」予備校生のときに「無から有は生み出せない」などというニヒルな小論文を書いてしまったことで、作品が生み出しにくくなってしまったことがあります。最近では、「無から有を生み出すんだ!!」という、事実でなくともそういう気概がなければ作れないという立場でした。ところが、「早間」早い間という言葉にであって、「もともと間をもっていた」ことに気付かされました。無であるか有であるかを論じると、混沌か秩序かという、曲げられない立場の方に出会うことになると思います。「無だったのか、有だったのか」という自分で設けてしまった議論からはなれて、何も作られていない間から、描いていけばよいのではないかなどと考えて色を置いて塗っています。人物画で、色を置いて描く最大の欠点は、線がひきづらい点ですが、西洋的な表現のなか...無か有かの論争からはなれて(お絵描き雑記)
展示用に一枚仕上げてみました。以前、似顔絵として高い評価を頂いた作品の構想のまま展示物を作って、全く見てもらえないことがありました。親切な方が、自身の展示の話をして頂いて、なぜ見てくれないのかが明確になりました。(普通の読む方への)「ところで」、テレビを観ていて気付いたのですが、話法としての嘲笑を用いる方がいて、その瞬間に、敵に塩を送るではないですが、主格を省略して、その嘲笑した人の組織の利益が無くなってしまわないことを提案すると、真剣な表情のフリというのでしょうか、真っ向から反対するという奇妙な対話がおこることがあるのを思い出しました。スカイツリーの名刺の似顔絵の時にも、常に笑顔のまま来られた方がいらっしゃったのですが、私の似顔絵がどなたかの似顔絵より劣っていると感じさせながらの笑顔を作っておられるとき、名刺...似顔絵塾生展にむけて2(雑記)
似顔絵塾生展の作品を手がけはじめています。結論として、「Funny」ではなく「Interesting」であれば、場としての絵が成立するのではないかと考えています。似顔絵を評価の対象外に置いている方が多いことを知りました。似顔絵教室で、他の教室の受講生と合同で展覧会を開かせて頂ける機会がありました。けれど、最終的には似顔絵は評価できないということになり、辞退させるしかありませんでした。そうなる予感はあったので、「無理に出す必要はないこと」と前置きしていたので、大きなショックにはならなかったと思います。個人的には、アートとしての人物画を展覧会で評価して頂いたのですが、「似顔絵」として描いた作品を評価して頂ける可能性は、私の絵においてはないものだと判断しています。いずれにしても、「楽しい」ではなく「興味深い」作品にし...似顔絵塾生展にむけて(雑記)
怒らない会をフォルテで叱ると、怒りだすかもしれない。(脳イメ雑記)
そもそも論は否定されるのか。人の言ったことを否定しない会話法がある。そこで、そもそも論など、その会話法以上の話法を用いると、「否定しないことを否定しない」から始まって、「否定も肯定も否定しない」と続き、結果論として「否定することを否定しない」ようになってしまうと、真剣であったはずが滑稽な茶番劇になる情景が、常に前衛的でイノベーティブである絵描きは、概念として見えている。または、概念が苦手なアート気質の者が、茶番劇が想像力として視覚的に見える場合もあり得る。その感覚のすぐれた者は、末路の情景に陥らないために、いきなり他者の意見を否定したり、自己否定の理論を提示したりする。そのときに、「ネガティブ思考ではいけないよ」など、論じる以前の何も知らない一般人としての会話を強いられてしまう。その会話法を繰り返すことで、他の...怒らない会をフォルテで叱ると、怒りだすかもしれない。(脳イメ雑記)
画塾へ通っていたことがありました。モチーフを見て描く、いわゆるデッサンにおいて、「誰も合ってはいないのではないか」と直感として感じる若さと同時に「自分もさらに正しくない」という閉塞感を、人生の半分を生きた今でも一人で楽しんで描いています。知人に画塾のことを言うと「思い出したくもない」と言われるのですが、私にとっては財産です。「全員が間違っているのではないか」という不安を払拭するために、「見えるがままに描いたらどうなるのか」ということをやってみて、毎回ざわつかせていました。自然主義ではなく写実主義でよかったので、私だけを抜いた周囲の話し合いというものが、何を目指していたのかは想像できませんが、「描き方として(取り入れても)よいのか」という共通理解の場だったのかもしれません。「仕事の絵」ということも考慮に入れる場だ...文字の余白と、絵の空間(お絵描き雑記)
「街人-machibito-」17(アクリル画、158×227mm)「街人-machibito-」17(アクリル画)
自画像を狭い色相で描いてみました。自画像-狭い色相で-(アクリル画)
「私ではない誰か」75(アクリル画、158×227mm)「私ではない誰か」75(アクリル画)
パンケーキってなんなんだいってソーダベーがたずねると「低空のレシーブです」と極めて普通に怯えながら答えるスローなスパイク三拍子のまるちゃんのバレー誤解を恐れずに言えばギャグみたいな試合「スカイツリーボールより、チェンジアップでしょ」野球親父のフリしたフェザーステップはまるで千鳥足スローも踊れず乗換えれない街の人たちはブルース気分は湘南だいパンケーキってなんなんだい(お歌詞)
「私ではない誰か」74(アクリル画、158×227mm)「私ではない誰か」74(アクリル画)
「天ぷらが食べたい」鶴の一声でテンポーラを出すことになった。一流の天ぷら粉と油を集めるため、「ぷらり旅」という企画で、渡り鳥のように飛んでいった。「天ぷらまだかなー」どうやら、早急に対策本部を開いてもらいたいらしい。「ねえ、まだー」一刻の猶予もないと言うことらしい。「今、出来ることやろう」今出来ることをやり続けていた部下たちが、「やっていなかったのかこの人」と落ち込みながら、天ぷらを揚げることにした。「エビがない」肝心の海老を取り寄せることを忘れていた。「コロモだけ天ぷらはじめました」鶴は大喜びして、コロモだけ天ぷらのノロシを上げた。部下たちは壊れたのか、「根比ーべだ」と言い出した。皆で決めた決断ではあったが、誰もお客は食べたがらない。もやしのような大人がストレートに提案した。「『天かす丼』や『天かすそば』にし...天ぷらが喰いたいなー物語(散文詩)
一言一句確認する人がいる。そのときの情勢や風はどうだったのか、何の暗喩だったのかも理解せずに。その言葉のアレゴリーを定義しようとする人もいる。言葉そのものではなく、その関係性が寓意的であったとしても。「何々なんですね」と、個人的な制作手法を勝手に自分と同じだと決めつけて言われたことがあるが、全力で否定するのが精一杯。一言一句の書き言葉と描き絵(雑記)
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