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2009/02/13

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  • 黒船来航(ペリー来航)

    アメリカの艦隊が浦賀沖に現れたのは、1853年7月8日。 艦隊を率いたのはペリー。 ペリー来航をもって、激動の幕末が始まります。 日本にやってきた欧米の船は、ペリー艦隊が初めてのものではありません。 最初に来航したのはロシアの船です。(元ではありません。) 1792年に根室に到着しております。 そのあとも何度か来航し、通商を求めてきました。 19世紀になると、イギリスやアメリカの船も日本近海に出没するようになりました。 ぺりーの艦隊来航が特別な意味を持つのは、ロシアの船とは違い、外輪と蒸気機関を持つ船で、船体が真っ黒に塗られていた点である。 その外..

  • 応仁の乱

    承久の乱と同じくらい有名な応仁の乱。 私的には、大塩平八郎の乱も好きだが応仁の乱の方が有名であると思う。 この応仁の乱。実は日本史上最長の戦いであります。 応仁の乱は、有名であるがいまいちどういう戦いなのかよくわからない人が多い乱である。 室町時代の1467年から10年近く京都を主戦場にして行われました。 この戦いが、ドラマや小説になることが少ないのは、登場人物が多い割に、キャラの立つ登場人物がいないためのようだ。 他にも結末があいまいのことと、キャラが多すぎるとの声もある。 この乱の原因は、室町幕府の後継者争いである。 そこに登場するのが日野富子。 彼女..

  • 元寇~モンゴルからの襲撃~

    日本は歴史の中で海を渡って他国を攻めたことは何回もあります。 しかし、実は攻められたことはあまりありません。 鎌倉時代の元寇と第二世界大戦だけであります。 鎌倉時代、モンゴルには遊牧民族が暮らしていました。 遊牧民なので大きな政府を作るような発想はありませんでした。 しかし12世紀後半、チンギスハンによってモンゴル民族は統一され、世界帝国を建設しました。 、チンギスハンの孫である、フビライハンによって都は大都(現在の北京)に移し、国名を元と改めました。 元は朝鮮半島を征服すると日本も支配下に入れようと考えました。 なんと、最初は外交交渉から始まりました。 ..

  • 日清戦争

    明治時代に入ると、1894年の日清戦争、1904年には日露戦争、1914年には第一次世界大戦と、10年ごとに戦争に参加しています。 そして領土を拡大していきました。 日清戦争は当時の清国との朝鮮半島をめぐる戦争でした。 しかし、本質的にはロシアとの戦いであったようです。 ロシアは北の国なので、不凍港を求めて南下しようと考えていた。 日本にとっては、朝鮮半島が防波堤の役割を果たすと考えられていました。 そこで、1876年朝鮮との間に日朝修好条規を結びました。 一方、清国は朝鮮を属国と考えていました。 朝鮮では何回もクーデターが起こりましたが、その度に清国が鎮圧しま..

  • 源平の争乱パート2(源平合戦)

    平治の乱後、鞍馬寺で成長した義経は自分が源氏の御曹司であると知りました。 そして源氏再興のタイミングを計っていました。 すると、1180年機会をうかがっていた後白河法皇は平家討伐を源氏に呼びかけました。 これに最初に応じたのが源頼政でありました。 しかしあえなく敗北を喫します。 その後も頼朝は同年8月に石橋山での合戦では敗北しますが10月の富士川での合戦で勝利しました。 このように源氏と平氏の対立が再び激しくなってきました。 そんな中、1181年に平清盛が亡くなります。 そして平氏は弱体化していきました。 平清盛の遺言には「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、た..

  • 源平の争乱(源平合戦)

    源氏と平氏の争いは1156年、保元の乱で始まり、1158年の壇ノ浦での平家滅亡までの約30年間の戦いであった。 この年代と生涯とがほぼ重なるのが源義経である。 鎌倉幕府を開いた、源頼朝の異母弟であります。 河内源氏の当主である源義朝の九男として生まれ、幼名は牛若丸(うしわかまる)と呼ばれました。 1159年に生まれ、1189年に亡くなります。 1156年、保元の乱は朝廷内で起こった皇位継承が原因で起こりました。 その時の最高権力者は鳥羽上皇。 その鳥羽上皇は息子の崇徳天皇に皇位を譲り、上皇となりました。 しかし、この崇徳天皇が実は鳥羽上皇の子ではなく、祖父の白川上皇..

  • 日本の3大湖

    日本で一番大きい湖は皆さんがご存知の通り、琵琶湖。 669平方メートル。2位が霞ヶ浦の168平方メートル。 琵琶湖はだんとつの一位であります。 しかし世界では129位でしかありません。 ちなみに三位は北海道のサロマ湖です。 歴史に登場するのは琵琶湖が一番多いです。 日本の政府があったのは畿内にあったことでそれに近い琵琶湖は用水路として使用してきました。 日本の法律には湖の定義がなく、琵琶湖をはじめとする湖は河川法ではなんと川として扱われます。 したがって、川と湖の違いは法律上ありません。 また湖と沼の違いも法律上なく、 大きいのが湖、小さいのが沼、さらに小さ..

  • 日本の滝

    日本は山岳国であります。 したがって滝が多く存在します。 その中で3大瀑布とされているのが那智の滝、華厳(けごん)の滝、袋田の滝であります。 那智の滝は和歌山県に存在し那智川にかかる滝です。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されました。 那智山中には60近い滝がありますが、そのうちの48は『那智の48滝』と呼ばれています。那智滝とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称でるとされています。 華厳の滝は栃木県の日光市にあります。 急激な落差で、落差は97メートルもあり..

  • 前九年の役

    皆さんもご存知の通り、10世紀になると政治が混乱します。 地方で豪族が武装化するようになります。 ここで武士が初めて登場します。 ここで大きな力を持つようになったのが、清和天皇の血を引く清和源氏と桓武天皇の血を引く桓武平氏です。 11世紀、東北地方の出羽国(現在の山形と秋田県)では清原氏が支配し、太平洋側の陸奥国(現在の福島や岩手県)では安倍氏が支配しました。 安倍氏は力をつけ、朝廷への納税などを拒絶するようになります。 そして1051年、源頼義と義家の父子に安倍氏討伐を朝廷は命じました。 しかし、なかなか決着がつかず、朝廷軍は苦戦しました。 は勝利しました..

  • 征夷大将軍

    日本史はヤマト政権を主流とする歴史であります。 そのため、主要舞台は西日本であります。 しかし、東日本でもヤマト政権ができる前に人々は暮らしていました。 ヤマト政権から見たら、それは敵であり討伐の対象となっていました。 歴史には『夷』として登場します。 武家政権のトップとして征夷大将軍という役職があります。 この征夷大将軍という役職はもともとは東北地方の『夷』を討伐する 軍隊の将軍を現わしていました。 初代の征夷大将軍は大伴弟麻呂。794年に任命されました。 その時の副将軍がのちの征夷大将軍になる坂上田村麻呂であります。 801年に東北地方を平定し、ヤマ..

  • 大宝律令

    大宝律令について

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