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joseph
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2007/08/11

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  • アダムへの回帰

    キリストは、「第二のアダム」と呼ばれる。キリストを信じる者は、堕罪によって失われたアダムの祝福を、彼によって回復されるのである。 どのようにしてであろうか。 まず、「神の戒めを破って善悪の木の実を食べてしまった」という、もはや取り消すことのできない事実については、キリストの身代わりの死により、完全な赦しが与えられることで、すでに処理された。 次に、私たちの心の状態が堕罪前のアダムの状態、すなわち「無垢」な状態に戻らなければならない。これについては、新しい戒めとしてのキリストの教えが効力を持つのである。 まず前提として、無垢な状態とは、「善悪を知らない状態」つまり「自分で善悪を判断しない状態」と定義されなければならない。それは、妥当な定義だと思う。というのも聖書によれば、アダムが「無垢を失った」とは、彼が「善悪の木の実」を食べて、「善悪を知る者となった」ことだからである。それゆえ、私たちが「無垢を取り戻す」とは、もはや「善悪を判断しなくても良い状態」になることである。 どのようにして、そうなるのであろうか。 その前にまず、「善悪」とは何かというと、「為すべきか、為さざるべきかを判断する根拠」と定義される。つまり、「善悪の基準」は、その時々、場合々々により変わるのである。そして、それを判断するには、十分な前提知識と状況知識が必要となる。しかし、私たち人間は、通常それらを十分に持ち合わせていない故に、常に判断を誤るリスクを抱えながら判断をしているのである。 そこで、キリストの教えであるが、まず彼は「思い煩うな」と言われる。天の父は、空の鳥、野の花さえ御心にとめられ、命を与え、装ってくださる。まして、私たち人間には、もっと良くしてくださるに違いない。つまり、 第一に、「外から私たちに来るものは、すべて良いものだ」ということである。だから私たちは、「運命」、「境遇」、「経験」等々、すなわち「外から来るもの」について、「善悪の判断」をする必要がない。つまり、それらから開放されたのである。 それからキリストは、「人を裁くな」と言われた。そしてこれは、新しい「戒め」である。つまり私たちは、これを「命じられている」のであり、キリストを信じる私たちは、もはや「人を裁いてはならない」のである。つまり、 第二に「私たちの内から出るもの」に関しても、私たちは、「善悪の判断」をしてはいけないのであり、そのようにして、私たちは、それから開放

  • 再び「携挙の時期」について

    インターネット上の情報では、多くが「携挙の時期」について、「大患難時代の前」と言っているので、いまでもまだ気になってはいたのだが。いろいろとYouTubeを見たり、ホームページの記事を読んだりしていても、どうも判然としない。 私は、ディスペンセーショナリズムの考えは、やはり間違っているとしか思えないのだが。彼らが「患難前携挙説」を唱える理由として挙げているのは、一様に、「神様は、正しい人を正しくない人と同じように患難に遭わせることをなさるはずがない」というただ一点である。そして、その理由に、あの「ノアの箱舟」や「ロトの救出」等々を持ち出してくるのだが。これは、ディスペンセーショナリストとしては、あるまじき行為と言えよう。なぜなら、ノアやロトの時代と患難時代は、異なるディスペンセーションに属しているからである。そこで、ディスペンセーショナリズムに照らして考えてみても、これから来る患難時代に、携挙も含めて、クリスチャンが守られるという保証は一切無いと言えよう。なぜなら、これまでの宣教の歴史の中で、多くの殉教者が出て(神は彼らを守られなかった)、彼らの血が「キリスト者の種子」と呼ばれているほど、宣教になくてはならないものだったように、これからの魂の大収穫と言われる時代においては、さらにそれが重要なものになると思われるからである。 加うるに、大患難時代を描写する黙示録の14章13節には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と記されており、またその前の12節には、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と記されている。つまり、クリスチャンにとって安らぎは、患難時代の前にも後にもなく、患難の只中にあるということである。それは、主イエスがすでに死に勝利し、私たちも主イエスと共に、すでに勝利者となっているからである。 以上から言えることは、この終わりの時代に、私たちクリスチャンは、決して、決して、「携挙を待ち望む」ということなどがあってはならないということだ。例え、テサロニケ人への手紙に、「今述べた言葉によって励まし合いなさい」と携挙について書かれていたとしてもである。というのも、その言葉の目的は、13節にあるように、「既に眠りについた人たちについて、嘆き悲しまないため」なのであり、「どうせ携挙がくるから、大丈夫」という意味では、まったくないからである。そんな考えは、この終

  • 善悪を知る木

    アダムが罪を犯す以前、彼は神のロボットのような存在ではなかった。彼は、エデンの園の管理者であった。神はまた彼に非常に重要な役目を与えられた。それは、神が創造した動物たちのすべてに相応しい名前をつけることであった。「人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった」と記されている。神は、アダムを信頼し、そのような仕事を彼に任せられたのであり、そのようにアダムは、高度の知恵と判断力を神から与えられていた。しかし、神は彼に言われた、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と。 アダムが持っていなかったただ一つのもの、それは「善悪の判断能力」であった。神は、それをアダムに与えられなかった。しかし神は、アダムがその能力を得る可能性をエデンの園に置かれ、そうしておいて、アダムにそれを禁じられたのである。それは、アダム自らがその能力すなわち「善悪の判断」を神に委ねることを望んでおられたからである。 キリスト信者は、聖書を自分の手に取って読み、それを理解し、それが神の言葉だと確信したゆえに、そこに書かれていることを信じた者たちである。しかしもし彼がその後、そこから一歩も先へ進まないならば、つまりもし彼が、その最初の状態、すなわち彼が最初に信仰を得たときのように、聖書に書かれていることを理解し、それに心から喜んで同意することにより、信仰を保ち続けているとするならば、彼は、罪を犯した後のアダムと何ら変わるところがないと私は言いたい。神は彼から、エデンの園の祝福を取り去り、彼の信仰は、命の無いものとなるに違いない。それは神が、「あなたは必ず死ぬ」と言われたからである。 だから私たちが真の信仰者となるためには、神に「善悪の判断」をお返しする必要がある。つまり、彼が信仰者である理由はもはや、彼のものではなく、神のものである。神が彼を選ばれた(新しく創造された)からである。それゆえ今後、どのような新たな事実の出現も、彼の信仰を揺るがすものとは成り得ない。彼は、もはや「善悪の判断」をしないと決めたからである。ここに至って、彼は真のキリスト者となるのであり、それ以外に彼が自分の信仰の内に安らぐ術はないのである。 そして、彼が「善悪の判断」を放棄することは、彼の人生における彼の可能性の芽を摘み取るものでは決してない。堕罪前のアダムが神から豊

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Testimony:キリスト信徒としての人生から
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