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joseph
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2007/08/11

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  • 新改訳2017に関する疑問:全体のまとめ

    新改訳2017に関する疑問:まとめ この一ヶ月にわたり、新改訳2017を読んでみて、なんだかおかしいと思われる部分を書き出してみた。このブログで紹介した「聖書一ヶ月通読表」に基づいて行ったが、やり始めたのが、「エズラ記」からであったため、本日の「列王記 第二」において一通り終えたことになる。 ここにまとめとして、いくつか取り上げてみたい。1.致命的な間違えサムエル記 第一13:1 サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。→ 「ある年齢」とは、何歳のときだろうか。また、「二年間」だけのはずはない。サムエル記 第二1:18 これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。→ 歌の内容から、「弓を教えるためのもの」であるはずがない。列王記 第一3:26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。→ 「あなたのものにもしないで」とは、「ソロモン王のものにもしないで」という意味になるが。列王記 第二9:12 彼らは言った。「噓でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」→ 「噓でしょう。」とは、普通、聖書の中で使わないのではないか。歴代誌 第二13:18 イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。→ 「イスラエル人」には、ユダ族も含まれる。さらに「ユダ人」とは、なんだろうか。エズラ記4:10 その他、偉大にして高貴なアッシュルバニパルが、サマリアの町々とユーフラテス川西方のほかの地に引いて行って住まわせた諸民族からであった。→ 多分、異教の神を信じていたであろうアッシュルバニパルを「偉大にして高貴」と聖書の著者が讃えているのは、どうしてもあり得ないことだ。8:29 あなたがたは、エルサレムの主の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」→ 彼らがペルシャを出て、エルサ

  • 新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第二

    2:15 今、私の主が語られた小麦と大麦、油とぶどう酒を、私のしもべたちにお送りください。→ 「私の主」とは、誰で、その「主」が「小麦と大麦、油とぶどう酒」のことを語られたのだろうか。 3:5 この広間はもみの木の板を張り、良質の金でおおい、さらにその上になつめ椰子の木の彫刻と鎖を置き、→ 「鎖」は、ここにはなかったであろう。 3:13 これらのケルビムの翼は広げられていて、二十キュビトあった。これらはその足で立ち、その顔は神殿の方に向いていた。→ 「ケルビム」は、神殿の中に置かれていたのではないのか。 3:16 彼は内殿の鎖を作り、柱の頂に取り付けた。また、ざくろを百個作って、鎖に取り付けた。→ 「鎖」は、ここにもなかったであろう。 7:9 彼らは八日目にきよめの集会を開いた。七日間、祭壇の奉献を行い、七日間、祭りを行ったからである。→ 「集会を開いた」ことの理由が「七日間、祭壇の奉献」をしたことなのだろうか。 9:22 しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊や騎兵隊の長だったからである。→ 「ソロモンがイスラエル人を奴隷にしなかった」その理由が、「彼らが戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊や騎兵隊の長」だったことなのだろうか。 8:12 それからソロモンは、玄関の前に築いた主の祭壇の上に、主のために全焼のささげ物を献げた。→ どこの「玄関」だろうか。 12:16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。→ 「あなたの家を見」てどうするのだろうか。 13:18 イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。→ 「イスラエル人」には、ユダ族も含まれる。さらに「ユダ人」とは、なんだろうか。 14:13 アサおよび彼とともにいた兵は、彼らをゲラルまで追撃した。クシュ人は倒れ、生きている者はいなかった。主とその陣営の前に打ち砕かれたからである。兵たちは非常に多くの分捕り物を持ち帰った

  • 新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第一

    この書の翻訳に関しては、違和感は特に感じられなかった。...

  • 新改訳2017に関する疑問:列王記 第二

    9:12 彼らは言った。「噓でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」→ 「噓でしょう。」とは、普通、聖書の中で使わないのではないか。...

  • 本来のキリスト教会

    現在のキリスト教会の多くが「預言」や「異言」を禁じていることには、明らかにディスペンセーショナリズムの影響がある。それによると、今の時代は、「恵みの時代」であり、「聖霊の賜物」特に「預言」は、新約聖書の完成により、役目を終えたとされる傾向にあるからである。 たとえ、今日のキリスト教会で、「ディスペンセーション」を全面に打ち出した説教や議論を聞くことはほとんど無いとしても、上記のように教会の運営方針、牧会方針の中にそれは根強く尾を引いていると言わざるを得ない。 しかるに、一昨日の投稿でも触れたが、「預言」は、キリスト者が神から自分という一個人に対する特別なメッセージを聞くための唯一の方法である。というのも、神との会話は、ある意味で非常に危険な行為であり、それには、ともすると神を人間のレベルまで引き下げてしまうか、または逆に、自分を何か不可解な世界に紛れ込ませるリスクが伴うからである。つまり、神そのものを自分の意識の中に持ち込むということは、実際にはできないことであり、それを無理にやろうとすると、悪霊につけこむ余地を与えてしまう可能性があるのである。 そこで神は、「預言の賜物」を与えられたのだと思う。「預言の賜物」は、パウロが言っているように、一般信徒が用いるものである。それは、自分を相手の上に置くような行為ではなく、現象的には、神からの最初のインスピレーションを信仰により、「言葉」として語り出すことにより、それに「次に与えられる言葉」が続き、そのようにして、一塊の「預言の言葉」が完成するものである。そこには、人の創作、知恵、知識等は介在する余地がない。そして、その「一塊の言葉」を数人で吟味するというステップが次に確保されている。そのようにして、教会に連なる兄弟姉妹が、共に「神からのメッセージの取り次ぎ」に有効に関与することになる。これら「一連のステップのすべて」がキリスト教会の「預言」なのである。そして、このようなステップを経て、初めて神からのメッセージを安全に聞くことができるのであり、それに対して、これら一連のステップを一人で行うということは、端的に「危険」であるということが納得されるであろう。 ああしかし、今日の教会は、このような認識をどこかへ忘れてきてしまった。それは、翼をもがれた鳥と同じである。かろうじて、「異言」が生きてはいるが、その深い意味は、封じられているようだ。しかしこの「異言」こそが、「神との安

  • 新改訳2017に関する疑問:列王記 第一

    3:26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。→ 「あなたのものにもしないで」とは、「ソロモン王のものにもしないで」という意味になるが。12:16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。→ 「あなたよ家を見よ。」とは、どういう意味か。14:5 しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が来て、子どものことをあなたに尋ねようとしている。その子が病気だからだ。あなたは、これこれのことを彼女に告げなければならない。入って来るときには、彼女はほかの女のようなふりをしている。」→ 単に「ほかの女のような」と言っても分からない。誰のようなのか。20:10 するとベン・ハダドは、彼のところに人を遣わして言った。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」→ サマリアには、きっとそれ以上のちりがあるに違いないのだが。22:10 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にある打ち場の王の座に着いていた。預言者はみな、彼らの前で預言していた。→ 「打ち場の王の座」とは、どういう座なのか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第二

    この書の翻訳は、かなりひどい。支離滅裂としか言いようがない。1:9 『さあ、近寄って、私を殺してくれ。激しいけいれんが起こっているが、息はまだ十分あるから』と言いました。→ 「息はまだ十分あるから、殺してくれ。」とは、理解し難い言葉である。1:18 これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。→ 歌の内容から、「弓を教えるためのもの」であるはずがない。3:27 アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。→ そうではなく、ヨアブが彼を殺したのである。6:10 ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。→ ダビデは、主の箱を「ダビデの町に移したくて」苦闘しているのだというのに。13:39 アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。→ 何のことやら分からない文章である。14:9 テコアの女は王に言った。「王様。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位は罰を免れますように。」→ 「王様と王位」にいかにして刑罰が下るのだろうか。15:17 王と、王に従うすべての民は、出て行って町外れの家にとどまった。→ 「町外れの家」とは、誰の家だろうか。17:7 フシャイはアブサロムに言った。「このたびアヒトフェルの進言した助言は良くありません。」→ 「進言した助言」とは、妙な言い方である。17:29 蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデと彼とともにいた民の食糧として持って来た。彼らが「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからである。→ 「言った」のが聞こえたのだろうか。19:26 彼は言った。「わが君、王様。家来が私をたぶらかしたのです。このしもべは『ろばに鞍を置き、それに乗って、王と一緒に行こう』と言ったのです。しもべは足の萎えた者ですから。→ 「たぶらかした」とは、「迷わせ、誘惑する」ようなことであり、メフィボシェテは、「出し抜かれた」のである。21:4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すこ

  • 神と話すことの危険性

    ニール・ドナルド ウォルシュ著の「神との対話」という本(シリーズ)がある。これは、明らかに異教の怪しい本であり、ニューエイジ的な感触を受ける。また、マーク・ヴァークラー著の「神の声を聞くための4つの鍵」という作品もある。彼は、カリスマ系の神学教授のようなのだが、この書については、多くの批判があるようだ。その他にも、「神と会話する方法」というような内容の書物はいくつか存在するようで、それらに共通しているのは、「神に話しかけ、答えてもらう」ことが可能であるとしていることである。 しかし、聖書の中には、そのようなアプローチは出てこない。もっとも、聖書の中にも「預言者」という、神からの言葉を取り次ぐ人が存在するし、また「預言の賜物」というものが確かにある。しかしこれは、「神との会話」でも「対話」でもない。つまり「一方通行」なのである。キリスト教の場合、「預言」とは、「神からの言葉を取り次ぐ」ことであり、預言者自身は、神と会話しているのではなく、「神の言葉の通り道」になっているに過ぎない。つまり、それは「奉仕」なのであり、「ミニストリー」なのである。 ところが「神と会話する」ということになると、その対象が自分自身に向けられることになる。それは、「神を直に見る」ことになるのである。そして、聖書はそれを禁じている。キリストは、「わたしに依らなければ、誰も父のみもとへ行くことはできない」と言われた。キリストは、神への唯一の道なのである。それゆえ、キリストを通らずに神に行くことはできない。つまり、キリストを通さずに神を見ることはできないし、キリストを通らずに神と会話することはできない。「わたしを見た者は、父を見たのである」とキリストが言われたのは、そういう意味であった。 これは、徹底したことである。「預言」については、上で述べた通り、「直接的に神を見ること」から隔絶されている。それでは、キリスト者は、神と直接会話する方法を持たないのか。あえて言えば、一つだけ方法がある。それは、「異言」によってである。預言が人や教会の徳を高めるためのものであるのに対して、異言は、自分を高めるためのものとされている。そこで、異言は神との会話である。しかし、その内容は、自分には分からない。通常、第三者に解き明かしの賜物が与えられる。たとえ、自分で解き明かしをする場合があっても、それは、同時ではない。そのようにして、語るものは、神を直接に見ることから、

  • 新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第一

    1:4 そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、→ 「そのようなある日」とは、抽象的な言い方である。1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」→ 「一生の間、主にお渡しします。」とは、不自然な言い方である。2:27 神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。→ 「ファラオの家に属する」とは、どういう意味だろうか。2:32 イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。→ 「わたし(主)の住まいの衰退を見る」とは、どういう意味だろうか。2:33 わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。→ 「人の手によって死ぬ」とは、奇妙な言い方である。2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。→ 「わたしの心と思いの通り」ではないだろうか。3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。→ これから告げるのではなく、すでに告げたのではないだろうか。4:13 彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。→ 目の見えないエリは、何を見張っていたのであろうか。4:16 男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。→ 二度、同じことを言っている。8:7 主は

  • 新改訳2017に関する疑問:ルツ記

    1:22 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。→ ルツは、モアブの野から初めてイスラエルへやってきたのだった。2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」→ 休むために、いちいち家へ戻るとは思えない。2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。→ 「ほかの畑に落ち穂を拾いに行く」ことと「ここから移る」ことは、同じことである。3:14 ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、→ ルツのことを言っていて、急に「彼は」とは、唐突である。...

  • 新改訳2017に関する疑問:士師記

    2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ土地を占領しようと、自分の相続する地へ出て行った。→ 1章1節に「ヨシュアの死後」とあるので、この節の記述は、ちょっと不自然である。3:23 エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。→ どのようにして「かんぬき」をかけたのか、想像できない。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨシュア記

    6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ。→ 祭司たちは、7つの角笛を吹き鳴らしていた。しんがりも吹き鳴らしているとすると、合計7本以上になってしまうのだが。10:12 主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」→ ヨシュアが語っていることは、命令形であり、「主に語り」という表現には、ふさわしくない。19:47 ダン族の地域は彼らから失われたので、ダン族は上って行き、レシェムと戦った。彼らはそこを取り、剣の刃で討つと、これを占領してそこに住み、自分たちの先祖ダンの名にちなんでレシェムをダンと呼んだ。→ 「ダン族の地域は彼らから失われた」とは、「強奪された」、「奪還された」、「奪われた」という意味だろうか。それなら、そのように書けば良いのではないだろうか。この表現では、意味が伝わらない。22:27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で主への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは主のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。→ その前の26節には、「22:26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。」とあり、この2つの節は、矛盾している。...

  • 神のプロトコル

    情報用語でプロトコルとは「通信規約」といって、情報を送る側と受け取る側で、どのように受け渡しをするかを定める「取り決め(規則)」のことである。 かつて神は、アダムにご自身のプロトコルで一つの命令を発せられた、「この木からだけは取って食べてはならない」と。それは、何の前提もない、絶対的な命令であった。エバは、その命令を直接聞かなかったが、悪魔がそれを取り次いだときに、プロトコルが変わってしまった。「園のどの木からも取って食べてはいけないと神は本当に言われたのか。」絶対命令には、条件などない。それゆえ、判断の余地もない。しかし、悪魔は、プロトコルの変更によって、判断の余地を挿入してしまった。「自分でよく考えてごらんよ。」これが悪魔のプロトコルである。 今日でもこのプロトコルは生きている。しかも、キリスト教会の中で。というのも、ほとんどのクリスチャンは、聖書を読んで、自分の頭で考えて、「なるほど、これは、すばらしい書だ。ここに真理がある。」と言っているからである。しかし、聖書は、それを読む人が「これは神の言葉だ」と判断するような書物ではない。それは、読む人がどう受け取るかによらず、最初から神の言葉なのである。 聖書を神のプロトコルで受け取りたいと思ったら、まず、考えることをやめなければならない。でも、それでは、神が語っておられること、導いておられること、恵んでおられること、与えておられること、等々をどうやって受け取れば良いのか、と思うかも知れない。答えは簡単である。「直接に受け取る」ことである。それは、神から直接にやってくる。何の前提もなく、理由もなく、前触れもなく、それはやって来なければならない。主イエスは、そのようにして、神の言葉を受け取っておられた。「町に入ると、水瓶を運んでいる男に出会うだろう。彼について行くと、準備が整った二回の広間を見せてくれるから、そこに過越の食事の準備をしなさい。」、「海に行って釣り糸を垂れなさい。そして、最初に釣れた魚の口を開けると、銀貨が見つかるから、それをあなたとわたしの分として納めなさい。」、「村に入ると、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるので、わたしのところへ引いてきなさい。」これらの主イエスの言葉が、それが神から直接来たことを示している。そこには、この世界との接点は、1点しかない。つまり、最後の到達点であリ、神の言葉はそこに焦点を結んで、現実となるのである。しかし、人間

  • 新改訳2017に関する疑問:申命記

    25:7 しかし、もしその人が自分の兄弟の妻を妻としたくないなら、その兄弟の妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」→ この命令は、「兄弟の妻」に対して言っているのであるから、「妻としたくないなら」ではなく、「妻としたくないと言うなら」であろう。26:5 あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。→ 「私の父は」ではなく、「私たちの父は」、さらに適切には「私たちの先祖は」であろう。...

  • 再び299を

      8年くらい前だろうか、一度ここにきたことがあった。それ以来だったが、今日は、思い切って299を下ってみた。走っていて、あの頃のことが色々思い出された。それはきっと、同じ季節だったこともあり、山の若葉の色や景色が同じだったからだと思う。それほど、ここ埼玉は、時が経っても一向に変わらないところが多い。まるで、時が止まってしまったようだ。 でも今乗っているのは、あの頃と違い、1100ccなので、ちょっと情緒的には異なり、景色が走馬灯のように過ぎて行ってしまう。それは、今日の出だしが遅れ、ガソリンを入れたこともあり、出発が午後1時半くらいになってしまったこともある。これから、秩父を抜けて、志賀坂峠を超えて群馬へ入り、神流湖の縁を通って再び埼玉へ入り、本庄、寄居、小川、嵐山、東松山を経て川越に戻ろうというのだから。 結局、神流町恐竜センターを15分くらい見学した他は、トイレ休憩と本庄のマックでコーヒーとハンバーガーを食べたくらいであとは走りっぱなしで、家に着いたのは午後7時10分だった。夕食に間に合って良かった。...

  • 新改訳2017に関する疑問:民数記

    1:1 エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。→ 「会見の天幕」と言う呼び名は、かつてイスラエルの民が荒野で金の子牛を作ったことに主が怒られ、もはやイスラエルの民と共に歩まないと言われたことに対して、モーセが宿営の外に幕屋を張り、そこで主と会見したことを思わせる。聖書では、そのモーセの個人的な幕屋と契約の箱が収納された幕屋を同じ呼び名で呼んでいるようで、翻訳においても、それらを共に「臨在の幕屋」と言ったり、「会見の天幕」と言ったりしているが、それらを混同しないように、別の呼び名で呼ぶ方が良いように思える。つまり、モーセの個人的な天幕を「会見の天幕」と呼び、契約の箱を納めた天幕を「臨在の幕屋」と呼べば、さらに相応しい表現となると思う。最も、契約の箱を納めた至聖所である場所にアロンは、年に一回だけ入ることを許され、その場合にも、体を洗い、聖なる装束を着けて自身を聖別しなければならなかった。そこへ、モーセはいつでも言うなれば土足で踏み込むことを許されていたのであり、これらのことから、この2つを同じ呼び名で呼ぶことの主旨も分からないわけではないが、私としては、これらを分けて命名して欲しい。と言うのは、モーセが神の前で特別な存在ではあったが、それ以上に、神はイスラエルの民全体を特別な存在と見ておられ、彼らを約束の地に導き入れ、モーセはヨルダン川の東側に留め置かれたのだから。しかし、それにしても、ヨルダン川の東側もルベン、ガド、マナセの半部族に相続された約束の地であり、モーセはすでにその只中にいたとも言えるのである。4:7 また、臨在の机の上に青色の布を広げ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のための瓶を載せ、またその上に常供のパンを置く。→ 「臨在の机」とは、何だろうか。「パンの供物」を置く机なのに。5:18 祭司は女を主の前に立たせ、その女の髪の毛を乱れさせて、その両方の手のひらに、覚えの分としての穀物のささげ物、すなわち、ねたみのためのささげ物を置く。一方、祭司の手には、のろいをもたらす苦みの水があるようにする。→ 「髪の毛を乱れさせて」というのは、少々滑稽ではないか。5:24 のろいをもたらすこの苦みの水を彼女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って、苦くなる。→ なぜ、いちいち言い直すのか。12:4 主は突然、モーセとアロンとミリアムに、

  • 新改訳2017に関する疑問:レビ記

    1:5 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。→ 誰が牛を屠るのか明確ではない。しかしそれは、祭儀上きわめて重要なことなので、一々明示する必要がある。1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。→ 誰が切り分けるのか明確ではない。4:2 「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──→ 「すべてのことから離れて」とあるので、彼は罪を犯していないのではないか。4:13 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、主がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、→ 「集会」とは何か。「conference」の意味で用いているのかも知れないが、読む人にはたぶん意味が伝わらないと思われる。10:3 モーセはアロンに言った。「主がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。→ 「わたしに近くある者たち」とは、「聖なる者たち」と取られる可能性が高い。「わたしに近づく者たち」の方が良いだろう。10:16 モーセは罪のきよめのささげ物の雄やぎを懸命に捜した。しかし、なんと、それは焼かれてしまっていた。モーセは、アロンの子で残っているエルアザルとイタマルに怒って言った。→ 狭い幕屋の中を「懸命に捜す」までもない。21:1 主はモーセに言われた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。→ 「言え。」、「言え。」と不自然な重複である。...

  • 新改訳2017に関する疑問:出エジプト記

    30:6 それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。→ 香を焚く金の祭壇の位置なのだが、あかしの箱(ここではこう言っているので)の前、至聖所の中なのか、それとも至聖所に入る垂れ幕の前、つまり聖所の内部なのか、いま一つ判然としない。アロンが年に一回、至聖所に入って贖いをするときに、煙をたくさん漂わせて香を焚くことになっている。そのためには、金の祭壇は至聖所の中になければならない。しかし、「毎日香を焚く」と言われているところもあり、そのためには、至聖所の外になければならない。そこで、この箇所の訳が正しいのか、そうでないのか、私には判断できない。38:21 幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。→ 「~したことであった」という言い方は、牧師等が時々口にするのを聞くことがあるが、一般的にはそのような言い方をする人は、私の周りには皆無である。また、マスコミや出版されている書物等においても稀有である。正式な言い方とは思えない。しかしながら、この出エジプト記の翻訳は、ほぼ完璧に思える。なぜ、このように書によって大きな差があるのか。例えば、創世記と出エジプト記の訳者は、別人としか思えない。そして、編集者も別であろう。たぶん、翻訳にあたって、基本的な規則はあるのだと思うが、書き言葉にするときに、訳者の常識、文章力、構成力、理解力、判断力、表現力、そして神への愛、等々が大きく影響してくるものと思われる。...

  • 新改訳2017に関する疑問:創世記

    2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。→ 「やめられた」とは、否定的、消極的な言葉である。積極的に「休まれた」とすべきではないだろうか。2:20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。→ これまで「人」と訳してきて、急に何の前触れや説明もなく、「アダム」とすることは、得策ではない。4:11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。→ ここでは、まず「追い出される」ことの理由が述べられているのではないだろうか。5:32 ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。→ 「五百歳になった」ことと、「セム、ハム、ヤフェテを生んだ」ことがあまり関係していないような表現になっている。実際には、「ノアが五百歳になってから、生んだ」という意味ではないだろうか。6:8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。→ 前の節までに、神が地を滅ぼされようと決意されたことが書かれているので、「心にかなっていた」というよりも、「神の哀れみを得た」とかそういうことではないだろうか。8:6 四十日の終わりに、ノアは自分の造った箱舟の窓を開き、→ 一ヶ月には、30日しかないのに、この四十日とは、何を数えているのだろうか。8:13 六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた。→ 「六百一年目」とは、いつからのことだろうか。ノアの誕生からだとしたら、「六百一歳のとき」とかすべきではないだろうか。9:2 あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。→ 擬人化された表現であり、ここに相応しくない。18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。→ 「子を産めるだろうか」とは、子供を宿した人の言い草ではないだろうか。19:14 そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられる

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨハネの黙示録

    1:4 ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、→ 「七つの御霊」とは、聖霊ではないことは確かである。聖霊は唯一だからだ。それでは、何なのか。新改訳の訳者は、それについて言及することを避けているとしか思えない。元々「原語に忠実」を声高く主張しているのに、原語に「霊」とされている語を「聖霊」と訳したり、「御霊」と訳したり、また「霊」と訳したりしているのは、どう考えても「原語に忠実」だとは思えない。返って紛らわしくしているとしか言えない。その弊害を受けているのは、信徒である。牧師は、にやけながら原語を想像していればいいのだろうが。1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、→ 「その血」とは、ここでは「御子」であることは明白である。それなのに、他のところでは、「御子の血」と訳すと血相を変えて怒り散らすのは、どうも尋常ではない。2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』→ 「いのちの木」が「神のパラダイスにある」ことを、殊更別文章として強調する意味がどこにあるのだろうか。3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。→ 「少しばかりの力があって」とは、「あなたは力が弱かったのに」という意味ではないだろうか。4:5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。→ 「神の七つの御霊」、また出てきた。5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」→ 「ダビデの根」では、「ダビデの先祖」という意味にとられてしまう。「ダビデのひこばえ」とか訳しているものもあるのだが。5:6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠

  • 新改訳2017に関する疑問:ヘブル人への手紙

    2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。→ ここで「彼」と言われているのは、「キリスト」であるはずなのに、どうして「人」と訳しているのだろうか。2:17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。→ 「それで民の罪の宥めがなされたのです」という文章の意図が不明である。4:2 というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。→ 「あの人たちと同じなのです」という文章の意味、意図が不明である。4:3 信じた私たちは安息に入るのですが、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。→ 「と神が言われたとおりなのです」という文章の意味、意図が不明である。6:10 神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。→ 神が彼らの働きや愛を忘れたりなさらないのは、「神が不公平な方ではない」からではなく、正しい方、憐れみ深い方だからではないだろうか。8:8 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。 「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。→ 「神は人々の欠けを責めて」という文章の意味、意図が不明である。9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。→ 「御霊」と訳しているのに、さらに「とこしえ」まで付ける必要があるのだろうか。9:15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が

  • 新改訳2017に関する疑問:テモテへの手紙 第二

    1:12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。→ 「私がキリストにお任せしたものを、キリストがかの日まで守って」くださるのだろうか。守るべきは、私たちの方ではないだろうか。そして、それをキリストが助けてくださるのではないだろうか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:テモテへの手紙 第一

    1:5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。→ 「この命令」よりも、「目標」の方が重要に見えてしまうが、そうではなく、ここでは具体的な「命令」が重要である。1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。→ 「自分の言っていることに確信がない」から「理解していない」のではないだろうか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:テサロニケ人への手紙 第二

    2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。→ この箇所では、終わりの日に起こる出来事について言及されているのであり、その出来事を食い止めている秘密の力があり、それが「取り除かれる」ときが来ると言われているのであり、「秘密がバレる」ことを言っているのではないだろう。...

  • 新改訳2017に関する疑問:コリント人への手紙

    第一の手紙5:11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。→ ここでパウロは、前回に書いた手紙の内容について、話しているのではないだろうか。9:11 私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。→ 訳者は、「御霊」について、しっかりした神学を持っているのか疑わしい。「御霊のものを蒔く」その先は、明らかに御霊ではないだろう。ところが、ガラテヤ書では、「6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」と言っており、「御霊に蒔く」と言っている。「蒔くもの」、「蒔く先」等々が不明瞭である。15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。→ 「最後のアダム」とは、キリストを指しているのだろう。そうすると、「キリストは御霊になった」ということになってしまう。第二の手紙特に無し。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ローマ人への手紙

    2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。→ ここでパウロは、「律法を持たなくとも、自分自身が律法」だと言っており、律法は、裁くためのものであり、それは即座に行われるものである故に、それらは「その日」になってから行われるのではない。6:14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。→ たとえクリスチャンであっても、罪に支配されないように、日々気をつけていなければならないのであって、「罪の支配からの自由」を前提に話を展開すべきではない。6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。→ 「罪の奴隷」である者が「義について自由にふるま」えるだろうか。7:3 したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。→ 「他の男と結婚してはならない」という戒めから自由になるのであって、「律法から自由になる」のではない。7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。→ 「新しい御霊」とは、なんだろうか。御霊に新しいとか古いとか、あるんだろうか。8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。→ 「肉によって弱くなった」とは、どういう意味だろうか。12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。→ 「あなたがたにふさわしい」とは、少し人間的な言い方過ぎはしないだろうか。14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。→ たぶん「自分が良いと認めていること」で「自分を裁」く人はいないだろう。14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰か

  • 新改訳2017に関する疑問

    2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。→ 新改訳聖書の特徴的なこととして、原語で「霊」となっているところで、神の霊と想定されるところを「御霊」と訳していることが挙げられる。それは、時に度が過ぎていて、違和感があることが少なくない。この箇所の「御霊」という訳についてであるが、これは、異言を語る主体が「信者の霊」なのか、それとも「神の霊」なのかという問題であり、私は前者だと思う。もちろん語る時に、聖霊の導きはあるに違いないが、語るのはあくまで信者の霊だと思う。そうでなければ、信仰とはなんだろう。ただのロボットに過ぎなくなってしまうのではないだろうか。2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。→ この「自分の国」とは、「弟子たちの国」なのか、それとも「聞いている人の国」なのか、紛らわしい訳である。5:3 すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。→ 「地所の代金の一部を自分のために取って」おいても、それを公表すれば良かったのだが、それを「ごまかした」ことが悪かったのであり、ここではそのように訳すべきである。13:36 ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。→ ダビデが「朽ちて滅び」たとは、違和感がある不適切な表現である。彼の「肉体が朽ちた」(しかし霊は生き続ける)という意味に訳すべきである。13:38 ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、→ 私たちが義と認められるのは、「モーセの律法」の範囲だけではない。20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。→ この箇所の「ご自分の血をもって」とは、原語でも文字通り「神ご自身の血」なのだそうだが、これを「御子の血」と訳した方が良い理由を述べよう。 1.神には肉体が無いので、「神ご自身の血」とは、「御

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨハネの福音書

    1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。→ 「実現した」とは、何かすでに「理想」があり、それが現実になることを言うように思えるが、イエス・キリストの恵みとまことは、そのようなものを超えたものではないだろうか。1:31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」→ 「明らかにされるため」だけでなく、むしろ「現れるため」ではないだろうか。3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。→ 「そのこと」だけでなく、「それくらいのこと」という意味ではないだろうか。4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」→ 「神は霊ですから」と書かれているので、「霊と真理によって」ではないだろうか。「御霊と真理によって」では、礼拝する主体が存在しないことになる。また、「御霊」は、礼拝の対象であり、礼拝の主体ではない。10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。→ 「だれも彼らを、父の手から奪い去ること」ができないのは、「彼らが大切」な存在であることよりも、「父が偉大な方だから」である。また、「すべてにまさって」とは、「その他の人と比べて」ということだとすれば、良い表現だとは思えない。11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。→ 小学生のような文章ではないだろうか。11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」→ 離れた場所にいるのに、「ご覧ください」は、不適切だと思う。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ルカの福音書

    1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。→ 「エリサベツが不妊であった」ことが、必要以上に強調されているように思える。1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」→ 「父の心を子に向けさせ」と単数で訳している訳が多いが、複数にすることにより、家庭内のことではなく、社会的な事柄となってしまうと思うが、それで良いのだろうか。11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」→ 「その人の後の状態は」と訳しているものが多いが、「最後の状態」とした意図が分からない。たぶん聖書からは、読み取れないと思う。12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。→ 「何を食べようか、何を飲もうか」という訳が多いが、「何を食べたらよいか」と訳した場合には、食欲ではなく、健康というか、つまり「善悪の領域」に踏み込んだ意味を持つと思うが、それが必要なのだろうか。13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。→ 「入ろうとしても入れない人が多い」という訳が多いが、「入れなくなる」と言う状態の変化として訳す意図が分からない。14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」→ 「報われる」と訳していることが多いが、「お返しを受ける」とは、神からでなく、親切をした相手からだとしたら、意味が変わってしまっている事になる。16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。→ 「仲間に対して」というように訳すことが多いが、「人々の扱いについては」と訳す意図が分からない。16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。→ 「小さなことに忠実は人は、大きな事にも忠実」というように訳すことが多いが、なぜ

  • 新改訳2017に関する疑問:マルコの福音書

    1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。→ イエスは、シモンたちが網を打っているのをご覧になるためにガリラヤ湖のほとりを通られたという必然性を感じる訳になっており、実際その通りだったのかも知れないが、そこまで意図して訳して良いのかは疑わしい。2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。→ 「四人の人に担がれていた」ことを独立した文にすることにより、その意味が強調されると思うのだが、その必要は感じられない。2:21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。→ 「継ぎ切れ」と「新しい」、「古い」をあえて分離させた文章にしているが、くどくないか。5:7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」→ けがれた霊につかれた人が「神によってお願い」するだろうか。6:43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。→ 「集めたら~いっぱいになった」という訳では、なぜいけないのか。11:25 また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」→ 主イエスが言われたのは、「立ち上がるとき」よりも「祈るとき」ではないのか。14:14 そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。→ 「わたしの客間」と形容する意図はなにか。14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。→ あえて「わたしに」を省いて「つまずきます」とした意図はなにか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:マタイの福音書

    18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。→ 天の御国を人にたとえることはできないだろう。20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。→ 天の御国を主人にたとえることはできないだろう。22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。→ 天の御国を王にたとえることはできないだろう。...

  • 新改訳2017に関する疑問:12小預言書

    ホセア書2:2 「問いただせ。あなたがたの母を問いただせ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。その顔から淫行を、その乳房の間から姦淫を取り除け。2:3 そうでなければ、わたし彼女の衣をはぎ取って裸にし、→ 「そうでなければ」は、接続詞としては、不適切である。2:12 『これは、愛人たちが払ってくれた私への報酬』と彼女が言った、あのぶどうの木といちじくの木を荒れすたらせる。わたしはこれを林に変えて、野の獣が貪り食うようにする。→ 「ぶどうの木といちじくの木」は、茂っても林にはならない。9:13 エフライムは、わたしが見たところ、牧場に植えられたツロのようであった。しかし今や、エフライムはその子らを屠り場に連れ出さなければならない。→ 「牧場に植えられたツロ」とは、奇異な表現である。10:15 ベテルよ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、このようなことがあなたがたになされる。夜明けには、イスラエルの王は全く滅ぼされる。→ 「全く滅ぼされる」とは、奇異な表現である。11:9 わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。→ 「わたしは町に入ることはしない」という文章は、浮いてしまっている。12:2 主には、ユダに対して言い分がある。主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて彼に報いる。→ 主は、ユダに対して、何か「引け目」でもあるのだろうか。13:14 わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。→ 主が彼らを贖われるというのに、「あわれみはわたしの目から隠されている」というのはどういうことか。14:9 知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。→ 平らな道につまずくだろうか。アモス書6:7 それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。→ 「大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。」とは、奇異な表現である。9:13 見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追い

  • 新改訳2017に関する疑問:ダニエル書

    今日は、ダニエル書を読んだが、その訳の中にこれといって気づいた点はなかった。とても感動的に読むことができ、心を新たにされたように思えた。新改訳2017は、その表現においては、全体的に統一感が高いが、たぶん各書の担当が割り当てられており、その人が訳したものに、一人あるいは少数の人が編集を加えることにより、均一な訳にしているのだと思う。でも、その作業にも限界があり、最初の訳者の細かいところまでを修正するには至っておらず、各書における理解の凹凸は、依然として残されたままのように見える。その中で、ダニエル書はかなり質が高いと感じられる。でも、私の歴史的な知識が浅いことから、その正確性までは分からない。 今日、教えられたことは、以下の通りである。1.人類の歴史の中で、人間が何か独自に作り出せるものは、何も無いこと。2.神を信じる者は、その望みのすべてを神に置き、神にできないことはないということを信じなければならないこと。3.現代において、神のご計画に参与したいと願う者は、ダニエルのように、たえず神に祈り、日々神に仕えなければならないこと。4.誰が神に用いられるかということも、神のご計画の中にあるということ。以上...

  • 新改訳2017に関する疑問

    エゼキエル書には、いたるところに強い感情が突出しているように見える。神はエゼキエルに巻物を渡されたが、その表にも裏にも文字が書かれており、それは、神の書かれた哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。神はそれをエゼキエルに食べさせた。それは、これから後、彼に襲いかかることになる、神の感情の象徴であった。 エゼキエル書を読むとき、この神の「哀歌と、呻きと、嘆き」を自分の感情として共有したいと願い、それを可能にしてくれるような訳を切に求めるものである。3:26 わたしがあなたの舌を上あごに付かせるので、あなたは話せなくなり、あなたは彼らにとって責める者ではなくなる。彼らは反逆の家なのだから。→ 「彼らに何を言っても無駄だから、もうあなたの役目は終わらせる」と神は言いたいのだろうが、この文章からそれが読み取れるだろうか。8:3 すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす「ねたみ」という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。→ 神はエゼキエルに「ねたみを引き起こす像」を見せるためにそこへ連れて行かれたのだろうが、情景から言うと、神がエゼキエルを連れて行かれたその場所には、なんと「ねたみを引き起こす像」があった。という方が現実的であろう。8:6 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。あなたはなおもまた、大きな忌み嫌うべきことを見る。」→ 彼らがしているのは、神を聖所から離そうとしているのであり、自分が離れることではない。彼らはまさに聖所でそれを行なっているのだから。8:13 また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」→ 「大きな」は、「忌み嫌う」の装飾語としては抽象的過ぎて不適切だろう。「甚だしく」等の方が良い。21:3 イスラエルの地に言え。『主はこう言われる。今、わたしはおまえを敵とする。わたしは剣をさやから抜き、おまえのうちの、正しい者も悪い者も絶ち滅ぼす。→ 聖書によれば、神は、「正しい者も悪い者も」同じように滅ぼされるようなお方ではない。21:10 虐殺のために研がれ、稲妻のようにそれは磨かれた。それと

  • 新改訳2017に関する疑問:哀歌

    1:1 ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。→ 「国々の間で力に満ちていた」エルサレム(シオン)をなぜ「もろもろの州の女王」と言い直しているのだろうか。2:7 主は、その祭壇を拒み、聖所を退け、その宮殿の城壁を敵の手に引き渡された。例祭の日のように、彼らは主の宮で声をあげた。→ 「例祭の日のように声をあげた」のが彼らの敵であることを明確に伝えられないか。例えば「彼らは」ではなく、「敵は」としたらどうだろうか。4:20 私たちの鼻の息、主に油注がれた者が、彼らの落とし穴で捕らえられた。私たちは「この方の陰なら、国々の中でも生き延びられる」と思っていた。→ 問題は、「その人が捕らえられたこと」なのか、いやそれは、大いなる悲惨の中の一つの出来事に過ぎない。...

  • 新改訳2017に関する疑問:エレミヤ書

    5:26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。→ 神は、「民のうちの悪しき者」を責めておられるのではなく、ユダの民全体ではないのだろうか。5:31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。→ その前までの節で「わたしが罰しないだろうか」、「わたしが復習しないだろうか」と言われている神が、また「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」というような呑気なことを言われるだろうか。7:21 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの全焼のささげ物を、いけにえに加え、その肉を食べよ。→ それは堅く禁じられていることであり、何ゆえ神は、このようなことを言われたのかを考えさせる訳にすべきだと思う。11:16 主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。→ この文章は、何を言いたいのか分からない。因みに口語訳では、「主はあなたを、かつては『良い実のなる青々としたオリブの木』と呼ばれたが、激しい暴風のとどろきと共に、主はそれに火をかけ、その枝を焼き払われるのである。」となっている。14:7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。→ エレミヤは神に、「私たちを裁いてください」と言っているのか、それとも「私たちを贖ってください」と言っているのか。後者だと思うのだが、この訳では、前者になってしまう。23:23 わたしは近くにいれば、神なのか。──主のことば──遠くにいれば、神ではないのか。→ 「神であるかどうか」が「近くにいる」か「遠くにいるか」の問題として取り扱われている。25:6 ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そのようにすれば、わたしも、あなたがたにわざわいを下さない。→ 正しくは「そのようにしなければ」ではないだろうか。38:22 『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される。聞け。彼女たちは言う。あなたの親しい友

  • 新改訳2017に関する疑問:イザヤ書

    イザヤ書は、私にとって一つの驚異である。それは、旧約と新約の架け橋のように思われる。 旧約においては、異邦人であった私たちは、新約になって、主イエスにより神の子とされ、イスラエルのすべての恵みに与れるようになった。「66:21 わたしは彼らの中からも、ある者を選んで祭司とし、レビ人とする」と言われている通りである。しかし、今日のキリスト教会には、なぜかそのような力、知識、恵み等々が不足しているように思えてならない。いったいどこに原因があるのだろうか。 イザヤ書を読んでいると、そのことが書かれているように思える。しかし、それをつかむためには、正しい翻訳が必要となる。神が語っておられることの意味を真に伝える翻訳が必要なのである。 まず基本的なこととして、文脈が正しいことが必要である。3:14 主は、ご自分の民の長老たちや君主たちと、さばきの座に入られる。「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせた。貧しい者からかすめた物が自分たちの家にある。→ 長老たちや君主たちは、「裁く方の者」なのか、それとも「裁かれるべき者」なのか。後者に違いないのだが。6:2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、→ セラフィムは立っていたのか、それとも飛んでいたのか。62:5 若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。→ 「息子たち」とは、何かの比喩ではないのだろうか。8:6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水を拒み、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。→ レツィンとレマルヤの子は、ユダを攻撃してきているのに、どうしてそれを喜べるのだろうか。 それから、次に必要なのは、神の語っておられることの意味を正しく伝えることである。誤解を恐れずに言えば、神の立場にたち、神の気持ちに成り代わって語るくらいの深い理解と情熱が要求されると思う。58:2 このわたしを、彼らは日ごとに求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。→ その前の節には、「わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ」とあるのだが。64:5 あなたは会ってくださいます。喜び、正義を行う者たちに。彼らは、あなた

  • 新改訳2017に関する疑問:箴言、伝道の書、雅歌、まとめて

    これらの3つの書は、概して文脈が短く切れており、新改訳2017を読んでいてもあまり違和感は感じられない。しかし、箴言においては、 3:3 恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。 8:8 これらはみな、悟る者には当然のこと。 等々に見られるように、神との上下関係というか、力関係というか、そういう力学的な観点から、「どうもこれは・・・」と思う表現が目につく。箴言においては、「神の知恵」が語っているのであり、「神の知恵」は、どのような時にも「コントロールできるもの」や「当然のこと」または「すでに知っていること」などではなく、常に新しいことである。それは、単なる知識ではなく、神ご自身の臨在ですらあるのであり、そのように受け取る魂に、神は真理を語られるのである。 伝道の書は、他の2書に比べて、幾分か文脈的には長い文章が少なくない。しかしこれは、人生の深い悲哀を言い表しているものであり、軽率な表現は極力控えるべきだと思う。 2:10 自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。 → 「労苦」は、一貫して辛いものとして認識されており、「楽しみ(快楽)」と軽率に同列に置く表現は好ましくない。 2:14 知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。 → 「知者は、頭で考えることにより見分けるが愚か者は考えないので、その歩みは闇の中のようだ」というような意味ではないのか。 3:15 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。 → 神はそのような単純なことはなさらない。キリストが生きられたように「追いやられたもの」を求められるのである。 雅歌は、全体的によく分からない。しかし、個々の文章の意味は、完結すべきものであり、唐突であってはならないだろう。 5:1 わが妹、花嫁よ、私は私の庭に入った。私の没薬を、私の香料とともに集め、私の蜂の巣を、私の蜂蜜とともに食べ、私のぶどう酒を、私の乳とともに飲んだ。食べよ。友たちよ、飲め。愛に酔え。...

  • 新改訳2017に関する疑問:詩篇

    今日は、詩篇1〜150篇を通して読む日だったので、読んでいて気になった節もあったのだが、それらを一々他の訳と比較して読み比べるような時間は取れなかった。幸いこの詩篇においては、新改訳2017を読んでいて、全体を通して、あまり違和感はなく、みことばの恵みに浴することができた。それは多分、詩篇では多くの文章の文脈が、どれも細かく区切れていることが多いことによるものだと思う。しかし、中には、少し長い文脈で理解することが必要な作品もある。例えば、詩篇107篇である。 この詩篇にたびたび出てくる「彼ら」とは、「神の民イスラエル」と捉えるのが適切であろう。最初に「主に感謝せよ。主は誠にいつくしみ深い。その恵はとこしえまで。」とある。神の恵を「とこしえまで」受ける人々、それこそが「神の民イスラエル」であり、「彼ら」こそが、この時点における「主に贖われた者」なのである。そのような文脈から、この記事は、「バビロン捕囚からの帰還」の出来事を示唆しているのであり、何度も繰り返して出てくる「彼ら」をそのように理解しなければならない。 しかし、新改訳2017では、10節では「彼ら」を「闇と死の陰に座す者」と言い表しており、これは「そのような境遇にある人々」つまり異邦人として一般化し、神の恵みは、そのような人々にも豊かに及ぶということにより、神に栄光を帰そうとしているかのようである。これは、あたかも「ヤベツの祈り」に神が応えられ、彼を祝福したことに過度に意味を付加したがる方々を彷彿とさせるのだが、そのような浅薄な配慮が果たして本当に神の栄光となるかどうか疑問である。 同じように17節には、「愚か者は、自分の背きの道のため、また、咎のために苦しみを受けた。」とあり、これも上と同様の一般化ではあるが、正しくは「彼ら(イスラエル民族)は背きの歩みのゆえに愚か者となり、過ちのゆえに苦しむことになった。」と訳すべきである。つまり、この詩篇を訳すためには、ただ個々の文章に含まれる語句を日本語に置き換えてから、文章全体を調整するというような単純作業では足らず、107篇が書かれた時代背景とか、個々の文章の107篇全体における位置付けを汲み取りながら訳さなければならないということである。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨブ記

    2:5 しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」→ 前の節との論理関係からは、「しかし」という言葉は、決して出てこないはずである。3:4 その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。→ やはり神に対して命令するような表現は、避けるべきであろう。3:5 闇と暗黒がその日を取り戻し、雲がその上にとどまれ。昼を薄暗くするものも、その日を脅かせ。→ 「昼を薄暗くするもの」とは何か、あえてそのように呼ぶ必要があるのか。6:25 真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。→ ヨブは、労わってくれと言っているのではなく、率直に議論し合おうと言っているのではないか。8:19 見よ、これこそが彼の道の喜びである。その土からは、ほかのものが生え出る。→ 前節との関係において、「喜び」という言葉が出るはずはない。9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。→ 神と自分を指して「私たち二人」と、言うべきではない。10:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。→ 2節以下のヨブの言葉には、「不平をぶちまけ」ている部分はない。10:15 もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。→ ヨブは、自分の醜さを恥じているのではなく、神に抗議しているのである。11:16 こうしてあなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。→ 「流れ去った水」は、思い出さないことの象徴である。12:6 荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。神がご自分の手でそうさせる者は。→ 荒らす者の天幕に安らぎがあるはずはない。16:4 私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くのことばを連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。→ 文脈からは、ヨブは、自分が決してそのようなことはしないと言っているのである。20:3 私は自分への侮辱となる訓戒を聞く。だから、悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。→ このような周りくどく、わかりにくい言い方

  • 新改訳2017に関する疑問:エステル記

    1:5 この期間が終わると、王は、スサの城にいた身分の高い者から低い者に至るまでのすべての民のために、七日間、王宮の園の庭で宴会を催した。→ 「すべての民」のために宴会を催すことは不可能であろう。訳者の言わんとすることは、分からないではないが、やはり読んだときに心のどこかで「あり得ない」と思ってしまう。2:1 これらの出来事の後、クセルクセス王の憤りが収まると、王はワシュティのこと、彼女のしたこと、彼女について決められたことを思い出した。→ それらのことを忘れていたはずはない。話題にしなかっただけではないだろうか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ネヘミヤ記

    1:11 ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。→ 「喜ぶこと」と「恐れる」ことは、一緒にすべきではない。神は、本心から恐れなければならない。それが信仰の真剣さである。2:1 アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私はぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった。→ たぶん気持ちが沈んでいたこともあったに違いない。でもそれを顔に出さなかっただけではないのだろうか。人間なんだから。2:14 さらに、泉の門と王の池の方へ進んで行ったが、私が乗っていた動物の通れる場所がなかった。→ 動物が通れたからネヘミヤは行って帰れたのだろう。「通れる場所がないほどであった」くらいの表現にできないものか。3:16 その向こうでは、ベテ・ツル地区の半区の長、アズブクの子ネヘミヤが、ダビデの墓地のそばまでと、人工貯水池までと、勇士たちの家のところまでを修復した。→ 貯水池は、人工物であることがほとんどではないだろうか。「貯水池」だけではいけないのか。3:21 その向こうでは、ハ・コツの子ウリヤの子メレモテが続きの部分を、エルヤシブの家の門からエルヤシブの家の端まで、修復を行った。→ なぜいちいち「エリヤシブ」を2回も付けるのか。この2人は、別人か。ユダヤではあり得ることではあるが。4:5 彼らの咎をおおい隠すことなく、彼らの罪を御前から消し去らないでください。彼らが、建て直している者たちを憤慨させたからです。」→ 建て直している者たちが憤慨させたこと自体は、罪ではないと思うのだが。本当の理由な何なのか。4:12 そのため、彼らの近くに住んでいたユダヤ人たちはやって来て、四方八方から十回も私たちに言った。「私たちのところに戻って来てください。」→ 神殿を建てている者たちは、近くに住んでいたユダヤ人のところから出て行ったのではない。最初からそこで作業していたのであろう。5:11 だから、あなたがたも今日、彼らの畑、ぶどう畑、オリーブ畑、家、それに、あなたがたが彼らに貸していた金や穀物、新しいぶどう酒、油などの利息分を彼らに返してやりなさい。」→ 前後の分を読んでみれば分かるが、利息分だけ返してもらっても何にもならない状況にある。5:13 私はまた、衣の裾を振って言った。「この約束を果たさない

  • 「新改訳2017」よ、お前もか?

    以前、「最近の聖書事情」と言う記事で、新改訳2017を褒めちぎったのだったが、それは浅はかな洞察であったことが明らかになった。というのも、今年から「聖書1ヶ月通読表」に従って聖書を読んでいるのだが、それも3回目に入ったころ、「どうもおかしい」と思うようになった。ワクワク感がプッツリと消えてしまったのである。聖書というものは、読めば読むほど、ますますそのすばらしさが実感されるものと信じていた。しかし、そうなって来ない。どうしてだろうかと考えながら読んでいたら、やはり新改訳2017には、おかしいところが随所にあることに気がついてしまった。 例えば、レビ記の1章5節、「その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。」とあるが、いったい誰が牛を屠るのか。新共同訳には、「奉納者がその牛を主の御前で屠ると」とある。もっとも、新改訳2017でも、少し前の3節に「その人は」とあるので、牛を屠るのは「奉納者」であることにはなるのだが、どうも読んでいるとその印象が薄く、「要するに、牛が屠られればいいんでしょ」みたいな感触を受けてしまう。つまり、この「誰が」ということには、訳者は「関心がない」のである。でも新共同訳では、「その人は」ではなく「奉納者は」と6節までに実に3回も重ねて記しているのである。これは、大きなことである。つまり、牛を屠るのは。「その人」ではなく「奉納者」でなければならず、自分が手塩にかけて育ててきた、家族のように可愛い牛に自ら手を下して殺さなければならないという衝撃的な儀式なのであり、そこに「御子キリストの受難と父なる神の愛」が表されているのであり、これを平然と記述することは許されざることなのである。 また、ヨシュア記6章8節に「七人の祭司たちは、7つの雄羊の角笛を持って主の前を進み」とあり、9節には「しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ」とあるので、角笛は全部で7本以上あったことになる。でも新共同訳では、9節は「行進中、角笛は鳴り渡っていた」とあり、しんがりは角笛を吹いていない。この情景においても、新改訳2017の訳者にとっては、角笛は何本あっても問題ではないのだ。 さらに、ヨシュア記の22章27節に「それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけ

  • 経験と教え

    最近、自分の中のあちこちでパラダイムシフトのようなことが起きている。その一つが、バイオリンの練習である。今まで一度も先生についたことはなく、ただ気の向くままに練習していた。大学のクラブ活動で4年間、いや5年間?練習したので、自分が楽しむ程度には弾けるつもりだったのだが、どうもあるところまで来ると壁にぶち当たり、それ以上先に行けずに、弾き方を何度も変えてみたがやはり壁は越えられなかった。しかし、ここにきてクロイツェルの2番を狂ったように何ヶ月もやっている。自分が学んできた自己流の弾き方は意味がなかったと感じて、一からやり直していると、オーソドックスな弾き方には深い意味があり、その先人の技を習得しないと何も弾いていることにならないことが分かった。弓の返し一つ取ってみても、そこから出てくる音に、これまで得られなかった美しさを見るようになった。 信仰についても、似たような体験をしている。これまでは、聖書を良く読み、自分なりに良く考え、それをどのように自分の人生に適用するかが重要なことのように思えていた。しかし、1ヶ月聖書通読を始めてからは、そんな悠長なことは言っていられなくなり、考える暇なく、とにかく味わいながら読み終わること最優先になった。そうしていたら、自分の中に、何かが形成されていっているように思えてきた。その何かとは、「オーソドックスな神の恵み」とでも言うようなものなのだが。 ちょうどバイオリンのように、それを知らなかった時には、どうやって神様と関わっていいのか良くわからなかった。でも、自分の中にその「オーソドックスな恵み」が入ってくると、それ自体が、純粋に神様からのものであり、もちろん私のものではないゆえに、私があれこれ努力して、神様と関わる必要はないことが分かった。もしかしたら、これが今まで私が探していたものではないのだろうか。 もしそうなら、私がこれからやることは、とても多くあることになる。神様ともっともっと親密になるために、自分のうちにもっともっと蓄えるべきものがあり、それが目下の目標となる。それは、とても膨大なのだが、方法は簡単である。自分は、提供される神様からの恵みを吸収すれば良いのだ。そして、吸収したものは、それぞれが私の中で神様との繋がりとなる。そこに自分の考えは一切入って来ない。バイオリンの練習のように、晴れ晴れした日課が続いていくことになる。そして、分からないことは、聖霊が教え導いてくださる

  • 行動的な信仰

    実存主義キリスト者のキルケゴールは、その著書「死に至る病」の中で、次のように書いている。 『絶望せる自己が行動的なものである場合には、それは本来いつも単に実験的にのみ自己自身に関係している、たとい自己がどのように大規模なまた驚嘆すべきことに着手していようとも、またどのような根気をもって行動していようとも実はそうである。』 彼が言いたいことは、このようなことだと思う。つまり、ある人が「キリスト教こそ真の宗教だ」と思い至り、あるいは、「イエス・キリストこそ、真の救い主」だと思い至り、「それゆえ、私は、キリスト教を信じることにする」と一生一度の決心をして入信したとしても、それだけでは、何も信じたことにはならないということである。その理由として、キルケゴールは、次のように述べる。 『(その場合)自己は自己以上のいかなる力をも知らない、それ故に自己には結局のところ真剣さが欠けているのである。それはただ自己自身との実験に自分で最大の注意を向けることによって真剣なように見せかけることができるだけである。』 そして、そのような信仰者の地位(キルケゴール的な言い方)について、キルケゴールはさらに次のように残酷な評価をする。 『彼の地位、彼の支配は、反乱がいかなる瞬間にも合法的であるといったような弁証法に支配されている。それというのも結局すべては自己の悠意のせいなのである、ーーなぜというに自己はその独裁的な悠意のなかで自らまた別のことを意思するに至るのだから』と。 それでは、人はどうなれば本物の信仰に到達できるのだろうか。 それは、イエス・キリストが教えている。すなわち、 『誰でも、私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、そして私に従って来なさい。』 結局は、これしか無いのだ。自分で判断することをやめ、主イエスの御心を行うことのみを追求し、信仰から迷い出ることのないように、いつもいつも神に願い祈りつつ歩む生活。これを主イエスは、教えられた。その教えは、彼の教えてくれた「祈り」に凝縮されている。 すなわち、 『天にまします私たちの父よ。 御名が崇められますように。 御国が来ますように。 御心が天で行われるように、地でも行われますように。 私たちの日毎の糧を今日もお与えください。 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに罪を犯す者を赦しました。 私たちを試みに遭わせないで、悪からお救いください。 国

  • 聖書1ヶ月通読表

    1ヶ月程前に「聖書30日通読表」を作成したが、実行する段階で修正があったので、修正したものを提示する。主旨はまず、内容を味わって読めること、それから流れを妨げないこと、30日ではどうしても収まりきれないので、31日にしたこと、である。 一番きつかったのは、やはり詩篇150篇であった。次に大変だったのは、エレミヤ書と哀歌を一緒に読んだこと。でも、素晴らしい体験だった。明日から、また創世記から読み直すことになる。それにしても、イザヤ書66章は、やはり聖書66巻に対応しているとしか思えない。39章が終わり、40章に入ると「慰めよ、慰めよ、我が民を」となり、あとは新約以後の預言一色としか思えない。一気に読まなければ感じられないようなことが、確かにあることが分かった。ダウンロード - 聖書1ヶ月通読表...

  • ちょっとそこまで

    ちょっとそこまでで帰るつもりが、山の中の湖まで来てしまった。岸辺にしばらく座ったままぼうっとしていた。何かが心に語りかけられているように思えて。最近、一つの言葉がいつも心から離れない。「信じる」と言う言葉だ。そして「信じることは、最大の武器だ」と語りかけてくる。どのようにして?「最初からそうだよ。そして、いまも変わっちゃいない。」何を言いたいのか。「そんなこと関係ないさ。お前がどう考えようと。現実がどう見えようと。この世界は、そういう風にできているんだ。」 もう少し、もう少しでそこへ行き着けるかも知れない。これまで生きてきた、その目指していた目的地に。そのためには、何も必要ない。待つこと、受け取ること、そして「信じる」こと。...

  • 信じられるもの

    昨年は、本当に激動の1年だったように思う。私の関わっているビジネスもかなりひどい状態ではあるが、何よりも世界が大変なことになってしまった。パンデミックによる感染者や死者もさることながら、経済的なダメージがどれほどなのか。その影響がこれからどのように出てくるのか。そもそも世界の現実は、どうなっているのか。自然環境に対するダメージはどうなのか。例えば、ワクチンの輸送にしても、大量のドライアイスが消費されることになり、それによりまた大量の二酸化炭素が放出されることになるのだろう。レジ袋の削減とか言っていたが、医療用防御服、マスクの不織布等々、プラスチックの消費は大幅に増えているはずだ。トヨタの社長も言っていたが、電気自動車の電気を作るためには、大量の二酸化炭素が排出されざるを得ない。そして、最も分からないのが政治の世界である。アメリカ大統領選挙然り、ヨーロッパとイギリスの関係、イスラエルと中東の問題、中国の世界戦略等々。 これらを背景に、様々な人がこれまた様々なことを言い回っており、どれが本当なのか皆目見当がつかない。そもそも私たち国民の現状は、社会活動の自然な帰結なのだろうか、それとも、人為的に作り出されたものなのだろうか。 今から20年くらい以前、ある大学の教授が24時間、ヘッドマウントディスプレイ(ドラゴンボールのスタウターのようなもの)を着けて生活し、今後の国民生活におけるコンピュータの理想的な活用形態を模索して地道な実証実験を続けていた。それが後になって、スマートフォンという形で具現化するとは、そのころには誰にも想像できなかった。そのスマートフォンは、現在、多くの若者の目をゲームに釘付けにし、生涯の多くの時間を浪費させるツールとなっている。フェイスブック、ツイッター、インスタグラム、YouTube等々、SNSでは「いいね」の一言を生産するために、多くの時間と労力、頭脳、技術が浪費される。テレビをつければ、スポーツ、クイズ、料理の番組が氾濫しており、ニュースでは毎日コロナのことばかり。これが操作され、作り出された世界でないと誰が断言できるのだろうか。マタイの福音書で悪魔がイエス様に「私を拝むなら、この世界のすべてを与えよう」と誘惑しているが、GAFA等現代において巨額な富を持つものが悪魔と契約を結んでいるのだとしたら。 いずれにしても、現代の私たちに最も必要とされているものは、私は「信じられるもの」であると思

  • 聖書の通読

    昨年までは、聖書を1日に16章(箴言1章、詩篇5篇、旧約5章、新約5章)読んでいたのだが、今年の4日からは、旧新約聖書66巻を1日に1巻以上づつ読むことにした。1日16章通読表のダウンロード - tudoku_j.pdf これは、かなり大変なことだと思っていたが、1日目に創世記を読み通してみて、まあ確かに大変ではあったが、「これは、できる」と思った。そればかりか、「これは、何と素晴らしいことだろうか」とも思った。というのも、まるで自分が聖書の中に入り込んでしまったかように、聖書がリアルに迫ってきたからだ。30日間聖書通読表ダウンロード - tsudoku.pdf そして、今まで気がつかなかった様々なことに気がついた。まず、創世記は、「アブラハム、イサク、ヤコブの物語」だということだ。神ご自身が「私は、アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言っておられるのであり、確かに後ろの方は、ヨセフの壮大な物語になってはいるが、それは、ヤコブ(イスラエル)の生涯が完結するためであり、そのようにしてイスラエルがエジプトに定住するまでのことが書かれているのである。そして、次の出エジプト記は、まさにその続きであり、それはエジプトを出たイスラエルが荒野の旅の中で、幕屋を建設するまでのことであり、それゆえ出エジプト記の中には、捧げ物等に関する、つまり幕屋に関する律法は書かれておらず、神と人、人と人とに関わる戒めが書かれているのである。そしてさらに、次のレビ記は、さらにその続きなのであり、そこに初めて、捧げ物や贖い等、幕屋に関する律法が書かれるのである。 新改訳聖書2017においては、「幕屋」のことを「会見の天幕」と言っており、これにはかなり違和感を覚えた。というのも、「会見の天幕」は、イスラエルの民がモーセの留守中に金の子牛を作って神を怒らせ、神が「もはや私はあなた方と共に行かない」と言われた後で、モーセが一人で神と会見するために宿営の外に作った天幕だったからである。そこで、イスラエルの民が神を怒らせて神がイスラエルの宿営から出て行かれることがなければ、会見の天幕も、そして幕屋もなかったのかも知れないとも思った。そうしたら、神は、以前通りイスラエルの宿営の中を歩まれる神であられたのかも知れない。そして、正にパウロが言っていた「人を生かす律法」が与えられていたのかもしれない。 まあ、ちょっと考え過ぎかも知れないが、そんな考えが次から次と湧い

  • 「はじめて読む聖書」という本を読んで

    この本を読んでみて、これは「特別な本」、いや「特殊な本」だと思った。「はじめて読む聖書」というタイトルがついているのに、決して「聖書を初めて読む人」のための本ではない。というのも、宗教人類学者とか、古代イスラエル宗教史研究者とか、どこそこの大学教授、聖書学者、作家、詩人、評論家、文筆家、等々が聖書に関する持論を展開しているからである。 そこで、このタイトル「はじめて読む聖書」についてなのだが、それは、例えば新約聖書学者の田川健三にとっては、当時の大学等における「研究テーマとして不足である」というような風潮をものともせずに「自分がはじめて」大上段に取り組んだ「書物」であり、また詩人で評論家の吉本隆明にとっては、敗戦における大きな失意の中で「はじめて」藁にもすがる思いで読んだ「書」という意味であった。もっともそれは「救いを求めて」ということではなかったのだが。さらに、凱旋館館長の内田樹に至っては、何千年という歴史を通じて、常に新しく生み出され続ける、タルムードを背景とした深淵なユダヤ思想の中に神の存在を探究するという意味で「つねにはじめて読む聖書」とでも言うようなものなのである。 読み進みながら、大いに当惑しながらも一つのことに気がついた。それは、例えば吉本隆明が、「こういう圧倒的な言葉が、マタイ伝にはいたるところに出てくるわけです。ペシャンコになった自分に音を立ててぶつかってくるような言葉が、つぎつぎに現れる。衝撃を受けながら繰り返し読んでいると、イエス・キリストという人間が、千年、二千年にひとり、現れるか現れないかと言うくらいの思想家だと言うことを、聖書ははっきりと示していると思いました」と言っているように、学者であっても思想家であっても、果てまた陰謀論者でさえあっても、こと「イエス・キリスト」のことは、「偉大な人」だという点で、完全に一致しているということなのである。たとえ、聖書の原本がいまは失われており、その代わりに写本が山ほどあって、それらのどれをいったい信頼したら良いか分からず、それぞれの立場の人がそれぞれに自分の都合の良いところを引いてきているだけだとしても、そんなこととは関係なく、それらの写本のどれからでも、イエス・キリストという人の存在が読む人に迫って来て、もはや「そのように語った人が存在したことは否定のしようがない」、「そして、それがイエス・キリストなのだ」と公言せざるを得なくなる。そういう意味

  • 新しい年に思うこと

    明日からまた新しい年の仕事が始まる。今年は、どんな年になるのだろうか。定年直後に事務所を開業して7年が過ぎようとしている。これまで何をしてきたのだろうか。今に至っても、目立った業績もなく、定例業務もメイン商品もない。毎月9万円ほどの家賃を払い続け、この街中に陣取っていられるのが全く不思議でならない。これは絶対に私の力ではなく、神の恵み以外に考えられない。神様は、なぜ私をここに置いていて下さるのだろうか。 最近思っているのは、「これはもしかしたら、神様の道楽などではないのかも知れない」ということである。でもなぜ、こんな一見無駄のようなことをなさるのか。いや、もしかしたら、この私が神様の邪魔をしているのではないだろうか。 神様は、私を通してなさりたいことを明確に持っておられて、そのために私をここに置いておられるのだが、私がどうも自分の思いで仕事をするばかりで、一向に成果が出ない。そして、とうとう7年も経ってしまったということなのかも知れない。それでは、神様はあとどれくらい待たれるつもりなのだろうか。私が神様の思いを知り、それを実行できるようになるまでだろうか。 神様は、1996年に預言者を通して、私にこう語られた。「あなたは私のために戦うべき者です・・・・私があなたを誉れになる、私の栄光を見せる器として、あなたを用意するから」と。その「誉になる、私の栄光を見せる」とは、一体どういうことなのだろうか。私としては、早くそれを実現したい、一日も早く。でも、どうしたら良いか分からない。ただ、これは必ず起こらなければならないことに違いない。これまでのすべてのことがそう叫んでいるようだ。そこで、もし起こらないのなら、それは私の責任なのだ。神様がすでにボールを投げておられるのだから。 そしてついに行き着いた到達点は、「神の前に消え去る」と言うことである。「ヨナのように」ではない。「自分を消す」、「自分を殺す」ということである。もし私が邪魔をしているのなら、その私が消え去ったなら、その代わりにきっと神の栄光が輝き出るに違いない。今まで本当に死に物狂いで働いてきた。でも、何も起こらなかった。そこで、次にやるべきことは、「自分の一切の考えを捨てる」と言うことである。そして、これがどのような力を持つかは、やがてその実践が証明するに違いない。 例えば、遅くまで起きている夜など、「今日は、自分は何をしただろうか。そして明日は何をしようか」な

  • 神の業をするために

    彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」ヨハネの福音書 6:28、29 弟子たちは、主イエスが何か修行のようなものを教えてくれることを期待していたのかも知れない。しかし主イエスは、信仰こそが神の業であると言われた。つまり「神の業」とは、それ自体一つの「努力」ではあるのだが、強いて言えば「何もしない努力」とでも言うようなものなのである。そして「神がお遣わしになった者を信じること」とは、もちろん「主イエスを信じること」なのだが、それは再び、「自分では何もせずに」、「神にすべてをお任せする」ということなのである。どのようにしたら、それができるようになるのだろうか。 私たちは、この世界を真剣に生きることにより、「神にすべてをお任せする」ことを学ぶのである。つまり、私たちがこの世界に生きているのは、「神にすべてをお任せすること」を学ぶためなのである。例えば、夜に夫婦二人でテレビを見ているときに、「今、みかんを食べようか」と言ったら、妻が「うん、食べようよ」と言ってくれるかどうか考えるということも、「真剣に生きる」ということの一つと言えるかも知れない。 神はかつてアブラハムに、「わたしがしようとしていることをアブラハムに知らせないでおくべきだろうか」と言われ、迫っているソドムとゴモラの裁きのことを打ち明けられた。このとき神は、アブラハムに「取り成し」を願っておられたのであリ、アブラハムはそれを察して、取り成しをしたのである。また、荒野で金の子牛を作って神を怒らせたイスラエルの民を神が「滅ぼす」と言われたとき、モーセが取り成しをしたが、それは正に神が願っておられたことだったのである。 さらに進んで、神がアブラハムに「あなたの一人子イサクを燔祭として捧げよ」と言われ、彼らがその場所まで歩いていく間に、息子イサクが、「お父さん、薪はここにありますが、燔祭の小羊はどこにあるのですか」と問うたとき、「息子よ、燔祭の小羊は、神ご自身が備えてくださる」と答えたのも、これと同じことだったのである。 ここに至っては、「神のみ心」と「私の願い」とが一つになっている。つまり信じる者にとって、「神のみ心」は、常に「私の願い」なのである。最初においては、まず「神のみ心」がある。しかし、それを私が「知り」、「信じた」後には、それが「私の願い

  • 神様は良いお方

    神様が「良いお方」ということは、どういうことだろうか。例えば、「私を助けてくださる」ということかも知れない。でも、それはいつも正しいだろうか。つまり、神様を信じていれば、全てがうまく行くのだろうか。そうではないだろう。神様を信じていても、失敗してしまうことは確かにある。でも、それではどうして「神様は良いお方」と言うことができるのだろうか。 神様は、「私にとって良いお方」なのではなく、「世界にとって良いお方」だとしてみようか。それなら、何となく頷けるかも知れない。でも、神様は「私にとっても、いつも良いお方」であって欲しい。そうでないとしたら、神さまを信じ続ける力が出てこないのではないだろうか。だから、神様はきっと「私にとって、いつも良いお方」なのである。でも、いかにしてそう言えるのだろうか。 もし、神様が「私にとって良いお方」でないのなら、私は神様に、これから「私にとって良いお方」になって欲しいと思う。どうしたら、そうなってもらえるのだろうか。神様は、永遠から永遠まで、決して変わらないお方である。そして、ここに転換点がある。というのは、変わるのは神様ではなく、私の方なのだからだ。私が変わることにより、神様が私にとって「良いお方」となるのである。なぜなら、神様は、「絶対的な良いお方」だからであり、神様は常に、全ての「賛美」、「栄光」、「誉れ」を受けるに相応しいお方だからである。 私が変わるとき、私は、神様に騙されているのでも、自分を騙しているのでも、妥協しているのでもない。なぜなら、「神様は、良いお方」だからである。変な譬えかも知れないが、「ちょうど、光がどのような状態のもの、つまり止まっている者に対しても、高速で走っている者に対しても、同じスピードであるように」、神様は、どのような人に対しても、常に「良いお方」なのである。 そこで、私が神に感謝するとき、その感謝は、常に「正しい」のであり、また「真実」なのであり、そのように「神様は、私にとって、いつも最高に良いお方」なのである。...

  • 一線を超える

    「一線を超える」ということは、どんな場合においても好ましいことではない。というのも、その一線を超えるや否や事態がそれまでとまるで異なる方向へと急展開し、思いもよらないような悪い結果をもたらすことが起こるからである。その昔、エデンの園において、アダムはこの「一線」を超えてしまった。つまり、神の戒めを破ってしまったのである。そして、それは無論、取り返しのつかないこととなった。つまり私は、ここで、「罪とは、一線を超えること」という定義をしたいのである。 何が一体、人間に、この「一線」を越えさせるのだろうか。それは、強いて言えば、ある「限定」である。つまり、「目眩し」であり、つまり「欺き」である。へびはエバに、「あなたは死ぬことはないでしょう」という「目眩し」を、つまり「欺き」を仕掛けた。神の戒めを「限定」したのである。 この「限定」という誘惑は、様々な形をとってやってくる。例えば、イスラエルの民はサムエルに、「我々に王を与えてください」と要求した。それは、神と自分たちの間に立つ「人間」であり、「限定的な存在」であり、そのようにして、神の人への介入を「限定」しようとしたのである。つまり、王の影に隠れようとしたのである。 また、モーセがシナイ山で神から十戒を書いた最初の石の板を授かったとき、イスラエル人がアロンの作った牛の像を拝んだために、モーセはその石の板を砕いてしまい、彼が再び40日40夜、神の前に平伏した末に授けられた2枚目の石の板には、1枚目と同じ文字が書かれていたらしいのだが、ここで異なっていたことは、神がモーセに、「私はもはやあなた方と一緒に行くことはしない。もし、そうするなら、私はあなた方を滅ぼしてしまうから」と語られたことである。つまり、イスラエルの民がここでも「一線」を超えてしまったため、イスラエルにおける神の臨在が「限定されて」しまったのである。そこでどうなったかというと、多分、神から与えられた「十戒」すなわち「律法」が限定されたものになってしまった。それはパウロが、ガラテヤ3:21において、「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら」と言っていることに関連していると思われるのである。つまりパウロが言っているように、律法が人を生かすのではなく、罪に定めるだけのものになってしまった。つまり、「神を愛するゆえに律法を守る」のではなく、「律法を犯さなければ良い」という態度になってしまった。つま

  • 「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。

    あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。(マタイ5:37) 主イエスは、「誓う」という行為を禁じた上で、上記のように命じられた。誓うことは、自己の言葉に全責任を負うことである。有限な存在である人間に、それがいかにして可能なのだろうか。例えば、「原発反対」でも「男女同権」でも、または「マイノリティー尊重」でも、その他何であっても、それらを社会に対して効力を持って主張するには、私たちは、何某かのイデオロギーの元に立たなければならない。というのも、ひとりぼっちでは、例えば「原発反対」と叫んだとしても、「なぜ?」と聞かれたときの説得力が無いからである。デモをするにしても、たった一人では、さびしい感覚しかない。しかし、大勢の人が旗を振って練り歩けば、それは大きな力にもなってくる。しかし、それらの大勢が一致するためには、ある種のイデオロギーが必要なのであり、それゆえ、私たちが社会に対して責任ある行動をするときには、いつもその背景となるコミュニティーが存在することになる。 しかし「誓う」という行為には、このコミュニティーが想定されていない。とにかく、理由なく、何の前提もなく、背景となる組織もなく、一個人が自己の言葉に全責任を持って立つのである。それゆえこれは、自己をコミュニティーの産物としてのイデオロギーの上に立たせるものであり、つまり「善悪を自らの責任において判断する」ことである。 この「善悪の判断」は、人間がエデンの園において神から奪い取ったものであり、それにより自ら死ぬべき存在と化したところのものである。それゆえ、この世界に存在するどのようなイデオロギーも、生命を持ったものではあり得ない。民主主義にしても、社会主義にしても、あるいは宗教にしても、哲学、芸術、それらすべてが、ある高尚な理想を追求するための判断基準なのではあるが、人間はそれらを用いて、やがて悪いことを考え始めるからであり、彼の人生には、2つの可能性しか存在しない。1つは、組織に従属し、その奴隷となること。そのようにして、あるイデオロギーに反しない範囲で、あるいはあえて反するという危険を冒してまで、最大限に自己実現をすること、つまり私腹を肥やすことである。そしてもう一つの可能性は、彼が従属するイデオロギーを打ち破り、その上に立とうとすることであり、その目的もまた、彼の野心の実現に

  • 幼な子のような者に

    そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25〜30) 主イエスは、誰を指して「幼な子のような者」と言われたのだろうか。上記からすると、たぶんイエスご自身と弟子たち及び主イエスを信じる者たちのことだと思われる。そして、知恵者や賢者にではなく、幼な子に示される「これらのこと」とは、それ以前の節で言われていることに違いないのだが。そこではまず、救い主到来の時を知らせる洗礼者ヨハネばかりか、救い主をさえ軽視する民衆、そして神の裁きの日に、それが来ることを知らずに悔い改めなかった町々の裁きが語られている。世の知恵者や賢者には、これらのことが隠され、返って「幼な子」に示されたというのである。 主イエスはまた別のところで「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:3〜4)と言っておられる。 この世にあって、私たち一人一人には、社会的な責任というものがある。それを果たすためには、様々な知識を日々獲得し続けなければならない。そうして初めて、大局的な方針立案や個々の事柄に対する適切な判断ができる。誰もがそのように考え、毎日新聞やニュースを見たり、書物を読み漁ったり、色々な人の話を聞いたり、議論し合ったりしている。しかし、本当にそうなのだろうか。そのようにして、私たちは、本当に正しい認識を手に入れ、それを保っていることができるのだろうか。 「決してそうではない」と主イエスは、ここで言われているのである。今日において、新聞、テレビ、出版等のメディアがどれほど本当のことを伝えているだろうか。SNS等、インターネットを通じて取得する情報もまたしかりである。むしろ、私た

  • アダムへの回帰

    キリストは、「第二のアダム」と呼ばれる。キリストを信じる者は、堕罪によって失われたアダムの祝福を、彼によって回復されるのである。 どのようにしてであろうか。 まず、「神の戒めを破って善悪の木の実を食べてしまった」という、もはや取り消すことのできない事実については、キリストの身代わりの死により、完全な赦しが与えられることで、すでに処理された。 次に、私たちの心の状態が堕罪前のアダムの状態、すなわち「無垢」な状態に戻らなければならない。これについては、新しい戒めとしてのキリストの教えが効力を持つのである。 まず前提として、無垢な状態とは、「善悪を知らない状態」つまり「自分で善悪を判断しない状態」と定義されなければならない。それは、妥当な定義だと思う。というのも聖書によれば、アダムが「無垢を失った」とは、彼が「善悪の木の実」を食べて、「善悪を知る者となった」ことだからである。それゆえ、私たちが「無垢を取り戻す」とは、もはや「善悪を判断しなくても良い状態」になることである。 どのようにして、そうなるのであろうか。 その前にまず、「善悪」とは何かというと、「為すべきか、為さざるべきかを判断する根拠」と定義される。つまり、「善悪の基準」は、その時々、場合々々により変わるのである。そして、それを判断するには、十分な前提知識と状況知識が必要となる。しかし、私たち人間は、通常それらを十分に持ち合わせていない故に、常に判断を誤るリスクを抱えながら判断をしているのである。 そこで、キリストの教えであるが、まず彼は「思い煩うな」と言われる。天の父は、空の鳥、野の花さえ御心にとめられ、命を与え、装ってくださる。まして、私たち人間には、もっと良くしてくださるに違いない。つまり、 第一に、「外から私たちに来るものは、すべて良いものだ」ということである。だから私たちは、「運命」、「境遇」、「経験」等々、すなわち「外から来るもの」について、「善悪の判断」をする必要がない。つまり、それらから開放されたのである。 それからキリストは、「人を裁くな」と言われた。そしてこれは、新しい「戒め」である。つまり私たちは、これを「命じられている」のであり、キリストを信じる私たちは、もはや「人を裁いてはならない」のである。つまり、 第二に「私たちの内から出るもの」に関しても、私たちは、「善悪の判断」をしてはいけないのであり、そのようにして、私たちは、それから開放

  • 再び「携挙の時期」について

    インターネット上の情報では、多くが「携挙の時期」について、「大患難時代の前」と言っているので、いまでもまだ気になってはいたのだが。いろいろとYouTubeを見たり、ホームページの記事を読んだりしていても、どうも判然としない。 私は、ディスペンセーショナリズムの考えは、やはり間違っているとしか思えないのだが。彼らが「患難前携挙説」を唱える理由として挙げているのは、一様に、「神様は、正しい人を正しくない人と同じように患難に遭わせることをなさるはずがない」というただ一点である。そして、その理由に、あの「ノアの箱舟」や「ロトの救出」等々を持ち出してくるのだが。これは、ディスペンセーショナリストとしては、あるまじき行為と言えよう。なぜなら、ノアやロトの時代と患難時代は、異なるディスペンセーションに属しているからである。そこで、ディスペンセーショナリズムに照らして考えてみても、これから来る患難時代に、携挙も含めて、クリスチャンが守られるという保証は一切無いと言えよう。なぜなら、これまでの宣教の歴史の中で、多くの殉教者が出て(神は彼らを守られなかった)、彼らの血が「キリスト者の種子」と呼ばれているほど、宣教になくてはならないものだったように、これからの魂の大収穫と言われる時代においては、さらにそれが重要なものになると思われるからである。 加うるに、大患難時代を描写する黙示録の14章13節には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と記されており、またその前の12節には、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と記されている。つまり、クリスチャンにとって安らぎは、患難時代の前にも後にもなく、患難の只中にあるということである。それは、主イエスがすでに死に勝利し、私たちも主イエスと共に、すでに勝利者となっているからである。 以上から言えることは、この終わりの時代に、私たちクリスチャンは、決して、決して、「携挙を待ち望む」ということなどがあってはならないということだ。例え、テサロニケ人への手紙に、「今述べた言葉によって励まし合いなさい」と携挙について書かれていたとしてもである。というのも、その言葉の目的は、13節にあるように、「既に眠りについた人たちについて、嘆き悲しまないため」なのであり、「どうせ携挙がくるから、大丈夫」という意味では、まったくないからである。そんな考えは、この終

  • 善悪を知る木

    アダムが罪を犯す以前、彼は神のロボットのような存在ではなかった。彼は、エデンの園の管理者であった。神はまた彼に非常に重要な役目を与えられた。それは、神が創造した動物たちのすべてに相応しい名前をつけることであった。「人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった」と記されている。神は、アダムを信頼し、そのような仕事を彼に任せられたのであり、そのようにアダムは、高度の知恵と判断力を神から与えられていた。しかし、神は彼に言われた、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と。 アダムが持っていなかったただ一つのもの、それは「善悪の判断能力」であった。神は、それをアダムに与えられなかった。しかし神は、アダムがその能力を得る可能性をエデンの園に置かれ、そうしておいて、アダムにそれを禁じられたのである。それは、アダム自らがその能力すなわち「善悪の判断」を神に委ねることを望んでおられたからである。 キリスト信者は、聖書を自分の手に取って読み、それを理解し、それが神の言葉だと確信したゆえに、そこに書かれていることを信じた者たちである。しかしもし彼がその後、そこから一歩も先へ進まないならば、つまりもし彼が、その最初の状態、すなわち彼が最初に信仰を得たときのように、聖書に書かれていることを理解し、それに心から喜んで同意することにより、信仰を保ち続けているとするならば、彼は、罪を犯した後のアダムと何ら変わるところがないと私は言いたい。神は彼から、エデンの園の祝福を取り去り、彼の信仰は、命の無いものとなるに違いない。それは神が、「あなたは必ず死ぬ」と言われたからである。 だから私たちが真の信仰者となるためには、神に「善悪の判断」をお返しする必要がある。つまり、彼が信仰者である理由はもはや、彼のものではなく、神のものである。神が彼を選ばれた(新しく創造された)からである。それゆえ今後、どのような新たな事実の出現も、彼の信仰を揺るがすものとは成り得ない。彼は、もはや「善悪の判断」をしないと決めたからである。ここに至って、彼は真のキリスト者となるのであり、それ以外に彼が自分の信仰の内に安らぐ術はないのである。 そして、彼が「善悪の判断」を放棄することは、彼の人生における彼の可能性の芽を摘み取るものでは決してない。堕罪前のアダムが神から豊

  • 思考の迷宮

    キリスト教は、「啓示宗教」と言われ、「人間は、自らの知恵や力では神を知り得ず、ただ神からの一方的な啓示によるしかない」と主張する。それはユダヤ人から始まり、異邦人へと拡大して行った。新約聖書はギリシャ語で記されたが、パウロが「ギリシャ人は知恵を求め・・・」と言ったように、彼らの中には人間の知恵によってこの教えを理解しようとした者たちもいて、いくつかの異端が出現してきた。そこで、正統な信仰を守るために、神学が必要になった。神学は、聖書を体系的に整理し、それが何を教えているか、また何を教えていないかを明らかにした。つまり、神が人間に何を真理として啓示しておられるかを明らかにすることにより、キリスト教信仰を守ろうとしたのである。しかしそのためには、「三位一体」に代表されるような、聖書に直接的には記されていないような概念をも導入することが必要とされ、その延長として「救済論」、「終末論」、「予定論」等々における分岐へと進ませざるを得なくなってしまった。 つまり、この「神学」というものが出現するやいなや、またしても「神学とは?」という考えが人々の心に頭をもたげてきて、それを人の知恵で取り扱おうという歴史が始まったのであった。多くの神学が出現し、それに応じて多くの教派が生まれた。そして、多くの聖書翻訳も。そして、それが再び多くの教派を生み出すということが繰り返されてきた。神学の中には、やはり「キリスト教は、啓示宗教である」との最初の命題に戻ろうというものもあったが、それと反対に、科学や哲学と結びつき、その知識体系によって神を認識しようとするものも現れた。 それに対して、教会生活を送る信徒たちは、一般的にはそのようなことにはまったく関心がなく、教会内の人間関係や社会における地位、会社生活との両立、家庭の存続、子供への信仰の継承、その果ては、世の人に等しい生活の悩みに一喜一憂し、それらに翻弄されながら、上記のこととはおよそ無縁の生活を送ってきた。 キリスト教界における比較的最近の傾向の一つは、壮大な聖書の歴史を一気通貫で理解するために、あえてそれをいくつかの「神と人との契約期間」に分割し、それらの期間内で、啓示されている事柄を実際の歴史に照らして、字義通りに簡潔明瞭に理解した上で全体を統合しようという考え、つまり「ディスペンセーショナリズム」である。これは、すでに世界中に蔓延してしまっていて、もはや後戻りできない様相を呈している

  • 神を褒め称える

    「神の人となる」ための最良の方法が「神を褒め称える」ことだとしたらどうだろう。でも、それには十分な理由がある。以下にそれを述べよう。1.それは、私たちが何を置いてもまず成すべきことである。 それは、決して当を得ないことではなく、むしろ神を信じる者にとって最善のことである。かつそれは、完全に正しいこと、すぐにもやらなければならないことであり、他のどんなことが相応しくない場合にも、常に適切で、また永遠に成すに値することである。神は、そうされるに相応しいお方なのである。2.それは、すべての始まりである。 「神を褒め称える」ことにより、結果的に私たちは、神に最大限に耳を傾けることになる。私たちの全関心が神のすばらしさに向かうようになるからである。そして、神は実際にすばらしい方であり、その成されること、ご計画のすべてが常にすばらしいことである故に、私たちは「神を褒め称える」ことにより、神からそのすばらしさのすべてに関する知識を受け取ることにもなるのである。それは実に、私たちの心が神ご自身に近づけられることになり、そこからこそすべての良きことが実際に始まるのである。3.それを神が喜ばれるから。 神は、神の子供たちがご自身を褒め称えることを喜ばれる。彼らを真に愛されるからである。このことこそ、実に私たちが神を褒め称えるべき確固たる理由なのであり、このある意味単純な行為により、愛すべき神は、主イエス・キリストの贖いにより、私たちにご自身の友としての地位を気前よく与えて下さるのである。4.それは、神の前に完全な行為である。 「神を褒め称える」ことを行っている間、私たちは、神の前に完全な良い行いをしていることになる。そこには、どのような間違えも入り込む余地はない。神の前に完全でありたいと思うなら、永遠に「神を褒め称える」ことによりそれが可能なのであり、完全な行為は、私たちを完全な者と変え続けるのである。5.それは、最も賢く、創造的な行為である。 「神を褒め称える」ことは、どのような神学よりも正しく、どのような施しよりも高貴で、どのような慈善や奉仕よりも何倍も生産的な行為である。なぜなら、それなくしては、どのような良きことも始まらないからである。反対に、私たちが「神を褒め称える」やいなや、神から私たちの心に成すべき良きことが示される。この生産的な啓示により、私たちは真に生産的な奉仕をすることができる。神への賛美から始まらないすべての

  • 陰謀論者たちについて

    最近 ユーチューブを見ていて、「陰謀論」に関するものがとても目に付く。例えば、「NASAは、宇宙に関する間違った概念を人々に信じ込ませるために設立された」とか、「世界の中で1%の人々が8割以上の富を握り、世界征服を目論んでいる」とか、「アメリカが地震や気象を自由に操作する科学兵器を開発している」とか、「ナチスドイツは、まだ南極の地下に潜んでおり、再び世界に台頭しようと時を待っている」とか、その他たくさんの「本当か〜?」と思えるような話がまことしやかに語られているようだ。そして、このコロナ禍もその陰謀の一環であり、世界人口の削減を目論んでいる者たちの成せる業だという人もいる。それら諸々は、たぶん私たちが信じている神に対抗するものであり、このままでは、やがて大変なことになってしまうという危機感を持つに十分であるようにも思える。 しかし例えば、1948年にイスラエルが建国されたのは、聖書の預言の成就なのかそれとも陰謀の実現なのか、については本当にはよく分からない。実際、現在のイスラエル国民の多くは、古来のヘブル人ではなく、ユダヤ教に改宗した外国人たちであるとの情報もある。そういえば、かつて家族でイスラエルに行ったときにも、そこに住んでいた人々は白人であり、とても中東の人種とは思われなかった。陰謀論者によれば、世界征服を企てる者たちは、あたかも聖書の預言が成就したように見せかけて、実は自分の計画を実行しているということである。ある説によると「ブルービーム計画」というものがあり、それは、聖書に書かれている終末の様々な現象を空にリアルな3次元画像として映し出すことにより、人類に危機感を与え、自分たちの野望を実現しようとするものということである。 ああしかし、たとえそれらの陰謀論が、いくらか当を得たものであったとしても、それで神のご計画が変更されるということはあり得ない。むしろ神は、それらの陰謀をも用いて、ご計画を実現なさるのである。「主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。」(箴言16:4)と言われている。だから、私たちは、何も心配したり恐れたりする必要はない。神のご計画は、誰にも変更できない。そして、神は良いお方であり、私たちの父なのである。 だから、聖書を良く研究して、これから起こることが神の御旨なのか、それとも国際的な陰謀なのかをよく見極める必要があるということもない。すべては例外な

  • 再び、聖書は何のためにあるのか。

    最近、つらつらといろんなことを考えていた。なぜ、こんなにも聖書に対する沢山の考え方があるのだろうかと。どの考え方も、ちょっとかじっただけでは、本当の意味や背景等が分からないように思える。いったい、それらのどれが本当なのだろう。また、どれが間違っているのだろうか。それに対して、一般の信徒たちは、私も含めてかも知れないが、そんなことの違いなど全く気にしておらず、どうでも良いことのようにして、信仰生活を送っている。他方、ある人から見ると、それらの中のある考え方などは、まるで悪魔が作り出したもの、つまり異端的であり、その誘惑から逃れ出る必要のあるものであったりするのだから。まったく、聖書というものは、奥が深く、人間の思いを遥かに超えていて、捉え所がないように見える。それにしても、「聖書は、いったい何のためにあるのか」、これは、人類の、いやクリスチャンの永遠の謎なのだろうか。 「いや、そうではない」と最近思い至った。つまり、もっと単純に考えるべきではないだろうか。「それは、神様のことを知るためにあるのだ」と。聖書を知ろうとするから面倒なことになる。時代区分だとか、写本の信憑性だとか、そういうものは、聖書を人間の頭の中に押し込むために人間が作り出したものであり、そんなこと考えているうちは、神様のことは分からないし、聖書も理解できないことになる。確かに聖書に書かれていることは、みな実現してきた。だからと言って、聖書を研究して、将来のことを知ろうとすることが正しい姿勢と言えるだろうか。「神は、それとこれとを等しく造られた」とある。神様が「目を覚ましていなさい」と言っているのに、「そのことはこのとき起こるはずだ」とか、「こうなるまでは起こらない」とか考えるのは、ちょっと違うのではないだろうか。また、「旧約聖書にこう書かれているのは、現代の私たちにはあてはまらない」とか言うのは、何か聖書の中に一つの原理を見つけたがっているとは言えないだろうか。もしそれが見つかったら、安心できるというか、それまでは安心して過ごせないような、何か神様との一定の距離を保ちたいような何か、昔のイスラエル人が神様との間に王を求めたような、そんな距離感を感じてしまうのだが。 だから、ここでもう一度スタートに戻って考え直してみたいのは、「聖書の目的は、神様がどういうお方かを知るため」であるということなのである。この一文ですべてを解決するわけにはいかないものだろ

  • 預言の定義

    「預言」というものを取り扱う神学を私はまだ見たことがない。あるのかも知れないが、オーソドックスなものには見当たらない。それにもかかわらず、旧約聖書の多くの部分を占めるのは、預言書である。使徒行伝にも「預言」という言葉は出てくるし、パウロも「預言を禁じてはいけない」と言っている。ここで、「預言の定義」というタイトルにしたのは、この「預言」という捉え難いもののイメージを少しでも明確にしたかったからだ。 私の聞いたところによると、「預言」とは、最初は、心の中に湧き起こる短い一つの言葉である。それ自体は、預言ではないかもしれない。例えば、「私の子よ」とか、「私はあなたを愛している」とか、月並みな言葉かも知れない。しかし、預言している者の口からそれが語られるやいなや、彼の心の中に、次に語るべき短い言葉が与えられる。そして、それを口にしている間に、さらに次の言葉が与えられる。そのようにして、一連の預言の言葉が完結して行くというのである。それは、信仰による語り出しとも言えるし、どことなく異言にも似ている。 しかし、ここで取り上げたいのは、このような預言の現象的な側面ではない。つまり、どういうのが預言であり、どういうのが預言ではないという区別がしたいのであるが、残念ながらそのようなことは、ついぞ聞いたことがない。そこで、ここで述べることは、私のオリジナルである。だからといって、でたらめだとも言えないと思う。要は、これを読んでくれる人が同意してくれるかどうかということである。そして、何よりも、私自身が「神の人となる」ための一つの足がかりにしたいのである。それでは、始めよう。 まず、「預言」とは、「未来に関する言葉」である。そして、それは「断定的な言葉」であり、「神から来る言葉」である。だから、神への感謝とか、懺悔とか、願いとかは預言ではない。次にそれは、「今まで無かった新しい言葉」である。そのような言葉が、例えば祈りの中ででも与えられるなら、私はそれは「預言」だと思う。 例えば、祈りにおいて、道が示されるということも確かにあるが、それは、往々にして、いくつかの選択肢の中で迷っている状態のときに、そのどれを選ぶかが確信されるというようなことであり、上の私の定義には当てはまらないので、それは預言ではないと言いたい。それでは、預言とはどういうものか。 スタートは、同じとしよう。つまり、いくつかの選択肢の中で迷っている状態にある人がいた

  • 預言の必要性

    「預言」と言うと、たぶん多くの人が、心中穏やかならざるものを感じかも知れない。しかし預言は、教会を建て上げるために神から与えられた賜物の一つである。だから、今日の教会が弱体化し、宣教においても力がなく、世界に有益なメッセージを発信できずにいるのは、預言の賜物を使うことができないからだと思う。 しかし、今日の教会では、「預言の賜物はすでに終わった」というのが主流の定説になっているようだ。それには、ディスペンセーショナリズムの影響が大きいと思う。これは、教会を弱体化させるため悪魔が考え出した策略だと思う。それにより、教会は翼をもがれ、空に舞い上がることがもはやできなくなってしまった。たぶん、ディスペンセーショナリズムは、シオニズムと関連しており、シオニストは、置換神学に対抗するためにこれを考え出したのかも知れない。そして今日の教会は、不用意にそれを受け入れ、頭でっかちになり、この聖霊の重要な賜物と引き換えに、力のない神学や哲学を手に異端と戦おうとしているが、自らが異端(熱くも冷たくも無い者)になっていることに気が付いていないのだ。さらに、教会を軽視する、一匹狼的な宣教者たちが、教会の人間関係等で傷ついた弱い信徒たちの注目を買おうとして、この異端神学を利用していると思われるのである。 今日、悪魔の策略に対抗するためには、預言は必須だと思うのだ。かといって、悪魔のことに興味があるというのでも、悪霊たちを追い出すために、何かミニストリーを立ち上げたいというのでもない。そうではなく、今日の教会は、悪魔の策略に散々にやられてしまっているので、そこから何としても巻き返して、悪魔から恐れられるような、神様の権威のある存在に戻る方法を模索したいのである。それも、一信徒として何ができるかを考えているのである。それが、このカテゴリー「神の人となる」の目的なのである。 そこで本題に入るが、「預言」は、新約聖書が完成したので、もはや必要がなくなったようなものではない。いったい誰が、新約聖書が完成したと言ったのだろうか。どこからそんな考えが出てくるのだろうか。百歩譲って、聖書が完成したとしても、そのために預言がいらなくなったとは言えない。かえってそれにより、預言に必須であるところの「吟味」をするための準備が整ったのである。 預言を嫌う人たちの意見として、「それにより信徒が心に傷を負ってしまう危険性があるから」というのがあるが、今日の教会にお

  • 神の怒り

    私たちが今日、殆ど神の声を聞くことがないのはなぜであろうか。なぜ神は、現代において沈黙なさっておられるのだろうか。ディスペンセーション主義の人は言うかも知れない、「それは、聖書が完成したので、私たちは聖書からすべてのことを受け取ることができるようになった。それゆえ、もはや神は、個々の事柄について語る必要はないのだ。」と。彼らは、神が語られるのは、私たちに何かを示したり命令したりするためだと思っているのだろう。でも神は、そのような一方的なお方ではないと私は信じている。神様は、私たちに何でも語りたいと思っていると。 神は聖書の中で言っている、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」と。パウロも言っている、『「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』と。主イエスも言っている、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と。創世記においても、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」とある。またイザヤ書にも、「論じ合おうではないか、と主は言われる。」とある。 神様は、ご自身の考えを人間に語り、それに対する人間の考えを聞きたい、つまり会話や協議をしたいと考えておられるのだ。そんな神様なのに、なぜ今日、沈黙を守っておられるのだろうか。それは、神が怒っておられるからに違いない。 人間的には、「怒る」か「喜ぶ」かどちらかにして欲しいと誰しも思うだろう。でも、神様は、そのようなお方ではない。例えば、あなたに子供がいたとする。その子があなたの誕生日に、とてもすてきなプレゼントをくれたとしよう。しかし、それが実は、お店から黙って持って来てしまったものだということが分かったらどうだろう。あなたの心には、実に複雑な感情が渦巻くのではないだろうか。今日、神様の心にも、そのような複雑な感情が渦巻いているのかも知れない。 主イエス・キリストの十字架により、救いは完成した。誰であっても、例外なく、イエス・キリストを主と告白することにより、この救いに入ることができる。神の怒りは、すべて彼の上に注がれ、もはやあなたの罪は完全に贖われた。そして、神の愛は余す

  • 神への接近

    神の人になるためには、私たちは、神に近く必要があるだろう。聖書に、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」とある。つまり、神に近づいてもらうためには、まず私たちの方から神に近く必要があるのである。しかし、「神に近く」とは、どういうことだろうか。どうすれば、神に近くことになるのだろうか。 私は、旧約聖書の記事は、すべて今日の私たちの状況の比喩でもあると信じている。例えば、シナイ山に神が天から降りて来られたとき、イスラエルの民は恐れ、「これ以上神の声を聞いたら、私たちは死んでしまう」と言い、モーセに「あなた一人が代表して神から言葉を聞いて、私たちに伝えてください」と言った。つまりモーセは、民を神に近づけようとしたのだが、民はそれを拒み、モーセに間に入ってくれるように頼んだのであった。また、サムエルに対してもイスラエルの民は、「私たちに先立って進む王を立ててください」と要求した。彼らは、神と自分たちの間に人間を立て、その影に隠れようとしたのであった。 私たちの場合は、どうだろうか。聖書を読み、み言葉を暗唱し、それに従って生活しようとはするが、自分の一挙一動を神に従うようにしたいとは考えない。「そんなことしたら、死んでしまう」と考えるのではないだろうか。そして、それが正にシナイ山におけるイスラエルの民の心境なのであり、み言葉に準拠していさえすれば、それ以外のことは、自分の自由に生活しても良いというお墨付きを得ていることに案じているのではないだろうか。そして、今の生活のささやかな喜びを、天国にもきっと持って行けると考えているのではないだろうか。 でも、もし仮に、「そうではない」ということだったらどうだろう。私たちの一挙一動を神に捧げなければならないとしたら。それが、「神の人」になることの代償だとしたら。それは、大いにあり得ることではないだろうか。旧約聖書の神の人と言えば、まずモーセ、サムエル、エリア、エリシャ、等々が思い浮かぶが、彼らの人生はどうだっただろうか。また、イエス・キリストの人生は、どうだっただろうか。 私たちは、どうしたら、神に近づいていただけるだろうか。それを毎日考えていようではないか。...

  • 何を祈るべきか。

    神の人になるために、何を祈るべきだろうか。「神様、私を神の人にしてください。」と祈るべきだろうか。しかし、祈りの目的は、「神の御心を知ること」である。それでは、「神様、私が神の人になるのは、あなたの御心でしょうか。」と祈るべきだろうか。否、それが神の御心であるというのがこのカテゴリーの確信である。 それでは、どのように祈るべきだろうか。強いて言えば、「神様、私に何をお望みですか。」と祈るべきかも知れない。でも、私はそのようには祈らない。というのも、まず何をおいても、神を賛美すべきだと思うからだ。なぜなら、神はそのようにされるに相応しいお方だからである。そして、ひとしきり賛美した後で、何を祈るべきかを考える。通常、それは自然に与えられるように思う。例えば、友達から聞いた祈りの課題が思い出されることがあるかも知れない。 でも、それについても、何から祈るのかに気を付けるべきだと思う。例えば、その友が受験勉強中だったとしよう。「神様、彼が目指す医科大学に合格しますように。」と祈るべきかも知れない。しかし、もしかすると彼の家庭は、それほど裕福ではないかも知れない。また、難病を抱えた家族がいたりするかも知れない。その他、彼がどんな環境にいるか、私には分からないのに、どうしたら彼のために最善の祈りができるだろうか。そこで、「神様、彼を祝福してください。」と祈るべきではないだろうか。そして、彼について私が知っている限りの状況を神にお話しすべきだろう。そして、神に対して、真剣に心を傾ける必要がある。そして、神が私に祈るべきことを語ってくださるように期待しよう。神は、必ず私に、祈るべきことを教えてくださる、というのが私の確信であり、もし私がそれをつかむことができるなら、そのとき、私は神の人に、本の少しだけ近づいたと言えるのかも知れない。...

  • ものごとの順番と限界

    普通のクリスチャンが「神の人」へと到達するのには、どのような道筋をとるのだろうか。 まず第一に必要なのは、「祈り」だと思われる。そもそも「祈り」とは、何だろうか。それは、「神へのお願い」だろうか。私は、そうは思わない。それは、「神との会話」だと思う。それは、神という相手がある行為なのである。ここで「祈り」ということへ深入りするつもりはないのだが、要するに言いたいことは、まず最初に「神の御心を知る」ということが来るべきだと思うのだ。 万一、神が、私が「神の人」になることを望んでいなかったら、それから先は、もう何もする必要はないだろう。だから、まず何をおいても、自分に対する神のご計画を知る必要がある。しかし、果たして神がそれを私に開示されるだろうか。それは、実際に祈ってみないと分からない。しかし、主イエス・キリストの恵みゆえに、神が私に、理由なく沈黙を続けられることは無いと確信する。実際、これまでも、神はいつでも必ず、私の心に答えを下さった。もっとも、涙を流して祈っても、神が沈黙されているように思えたことは確かにあった。でも、今から考えてみると、あのときも神は、やはり語っておられたのに、私は聞こうとしていなかったのだと思う。今では、そんな風に思われるのである。 いずれにしても、まず最初に「祈り」が来る。そして、祈りとは神との会話である。そして、その中で私は神からある言葉を受け取ることになる。そして、それから後の私は、この「神から受け取った言葉」によって絶対的な制限を受けることになる。そこから、私は一歩も外へ出ることが許されない。 だから、この「神との最初の会話」の範囲は、あまり狭くしない方が良いだろう。神が自由にあなたに語ることができるように、その会話の範囲は、考えられる限り広く設定するべきだろう。そして、神が語られることは、すべて時に適って美しいのである。あなたは、それに驚嘆し、神を賛美する。それ以外にはない。 そして次に、神はあなたに、その語られた言葉を実行する力を下さる。あなたは、出て行ってそれを実行する。すると、そこに神が働いて下さる。以上が「ものごとの順序と限界」である。 しかし、そんなにうまく行くのだろうか。私はいま、なぜ、このようなことを書いているのだろうか。それは、もちろん自分の経験(その一部は、このブログの「キリスト信仰の体験記」というカテゴリーで書いているが)から述べているのである。しかしもちろ

  • 神の人の資格

    それにしても、現代のクリスチャンは、神の人になる資格、あるいは可能性を持っているのだろうか。 もちろん持っている、と私は確信している。それは、キリストの尊い血がすでに流され、それにより私たちは、買い戻されたからである。これ以上の保証はない。そしてまた、それ以外に、何の可能性もあり得ないのである。 それゆえに、すべてのクリスチャンは、神の人となる資格と可能性を持っている。しかし、現実を見ると、そのようになっていないことが一目で分かる。それはなぜなのか。これが大いなる疑問である。先の記事でも書いたように、神の恵みは、一人ひとりに与えられていると同時に、キリストの体としての教会を通して一人ひとりに与えられてくる。そのどこかの過程に問題があるのだろうか。 一つ言えることは、私たちに自由意志が与えられており、神はそれを尊重される方だということである。つまり、私たち自身が神の人となる可能性を拒んでいるのかもしれない。 最近私は、どのような人に対しても、清い心を持って接せられるようになることを願い求めた。そのとき神は、次の聖書の言葉を思い出させてくださった。つまり、「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」とある。私がそのことを心に刻み、努力し始めたとき、神は新しい思いを私の心に与えられた。神は、少しでも努力して、神に近づこうと思う者に、即座に助けを与えてくださるのである。私は、そのことを何度となく経験して来た。そして、神が示されたこととは、上記の聖句は、神へ近づくための入り口であるということである。つまり、この聖句を実行に移す者の心に、神はその人がどのような状態であったかを示される。つまり、問題は、彼が神から心を逸らせていたことなのである。つまり、彼の心の日常は、実際に気散じの連続であった。その只中にあるうちは、彼がその自分の意識状態に気づくことはない。しかし、彼が神の戒めに従い始めたとき、その気散じの状態に気づくのである。 もし彼が、そのような気散じの日常から抜け出て、真に神に心を向け、日々その助けを願い求めつつ生きることを始めるなら、キリストの贖いと恵みは、即座に彼をして、神の子としての身分を得させ、神の語りかけは日常的なこととなるだろう。 だから、私たちは、このことをまず第一に願い求めなければならない。私たちの心が日常的な気散じから解放され、ただ神にだけ集中

  • 「神の人」のイメージ

    現代人がもし神の人になれるとしたら、それはどんなイメージだろうか。 聖書にある神の人の特徴に関するリストは、以下のようである。「知恵の言葉」を持つ人、「知識の言葉」を語る人、「信仰」が強い人、「病気をいやす力」のある人、「奇跡を行う力」のある人、「預言する力」のある人、「霊を見分ける力」のある人、「種々の異言を語る力」のある人、「異言を解釈する力」のある人である。 ただここで注意すべきは、神はこれらの賜物をすべて一人の人に与えられるのではなく、「御心のままに一人一人に分け与えられる」と書かれていることである。ここに教会という概念の大切さがある。私たちは、それぞれがキリストの体の一部なのであり、それを実感するために、みんながそれぞれ賜物を与えられ、神の働きをするのである。かつてモーセは、「私は、神の民一人一人が私のような預言者になることを切望している」と願ったが、それがキリストにおいて実現しているのである。 それでは、今日の教会において、そのようなことが体現されているだろうか。否、もしそうなっていないなら、そこに何か原因があるに違いないのである。そして、このブログのこのカテゴリーの目的は、まさにその原因を追求することにあるのである。 しかし、あるキリスト者が受けている賜物がどのようなものであれ、私はそこに一つの傾向を見出したいのである。それは、その賜物により、神が確かにその人と共におられることが明らかとなり、それを通じて、神が教会に御臨在されることが誰の目にも明らかになることである。そのようにして、神の御名が崇められることなのである。...

  • 意図と構想

    また新しいカテゴリーを始めてしまったわけだが、その意図と構想を最初に書いておきたい。 発端は、自分が今日まで育ててきた教会観の整理への欲求である。自分は、クリスチャンとして何のために生きているのか。ということをいつも考えているのだが、最近特に気になっている「ディスペンセーション主義」との関係と、今日の教会の弱体化を痛感する中で、やはりこれではいけないのではないかという考えになってきている。つまり、クリスチャンは、神を礼拝し、ただただ福音を宣べ伝えているだけでは、やはり不足なのではないか。ディスペンセーショナリストが言うように、教会は単に、ユダヤ人がキリストを拒んだために歴史に挿入されたものなのではなく、神の歴史の集大成であり、大目的なのではないかということなのである。それなら、これまでのイスラエルの歴史における神殿礼拝等の律法が教会の中に体現しているべきであり、また、預言者や王としての神の栄光も現代のクリスチャンの姿の中に燦然と輝いているべきだと思うのである。そして、それこそが、「神の人」としてのクリスチャンのあるべき姿と言えるのではないかと思ったのである。キリストは、「律法の一点一角も失われることはない」と言われれ、さらに「わたしは律法を完成させるために来た」と言われたのである。 そのように、すべてがキリストにあって完成されるのだとすれば、今日の教会時代こそが、過去のイスラエルの時代を含めて、これまでの最高の時代であり、クリスチャンこそが、キリストが言われた通り、預言者以上の者であり、神の栄光を最大限に表す、「神の人」であるべきだと思うのである。そして、そうなるためにこそ「恵み」が必要なのであり、今は「恵みの時」であるゆえにそれが可能なのである。 この観点に立つなら、原始キリスト教会における使徒たちやキリストご自身のように、私たちも超自然的な働きにより、強力な伝道を展開する力を持っているはずであり、もしそうなら、その力を使わないということは、キリストの語った譬えで言えば、与えられたタラントを地に埋めておいた僕になぞらえられるのではないだろうか。 しかし、この説を展開するためには、やはり、厳密に聖書的な考察に依らなければならないと思う。そうでないと、ただ豪語するだけで、実際の力が生まれてこないし、方法論もないただの空論に終わってしまうから。それゆえ、このカテゴリーは、単なる議論や提案、仮説等々であってはならない

  • 遅れる傾向

    聖書を読んでいて、一つの傾向に気づいた。それは、「遅れる傾向」である。 まず、創世記の始めの方では、神様が天地を作ってから一休みし、それからエデンの園を出て、どこかへ行かれたようなのだが、戻ってきたときには、アダムとエバがすでに罪を犯した後であった。もう少し早く戻って来ていたら、止められたかもしれなかったのに。 それから、アブラハムにしても、神様が子孫を空の星のように多く与えると約束しておきながら、彼がもうすぐ100歳になろうというのに、まだ子供を下さらなかった。これも、大いに遅れたと言うべきだろう。 それから、イスラエル民族がエジプトを脱出してから、約束の地に入るまで、通常なら10日かそこいらで行けるところを40年以上もかかってしまった。彼らが神のご計画を疑ったので、当初の計画が変更されてしまったのである。 また、小さなこととしては、サムエルの来るのが遅れたので、サウルが自分で生贄を捧げるという罪を犯してしまった。それからそれから、数え上げたら、まだまだたくさんの事例が出て来るに違いない。 新約聖書においても、ペテロが手紙の中で、主の来臨の約束を神様が遅らせておられるのではなく、すべての人が悔い改めるまで忍耐して待っておられるのだと言っているが、これもやはり遅れていると言わざるを得ない。何しろイエス様は、「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」と言っておられたのに、あれから2000年以上たった今に至っても、まだその日が来ていないのだから。 これらのことから、「聖書は正しくない」、あるいは「正確でない」と考えることもできるかも知れないが、もしかしたらそれが神様の当初からのご計画だったとも言えるのではないだろうか。そのおかげでアブラハムは信仰の父となり、またパウロが言っているように、イスラエル民族の救いが、全世界の救いにまで拡大されたとも言えるのだから。 ようやく、わたしがこの「とりとめのない話」で言いたいことに近づいてきたのだが、それは、「どうして主の来臨が遅れているのか」ということである。私は、それはやはり、何かが悪かったために、神の当初のご計画が変更されてしまったのだと思うようになった。その「当初の計画」とは、上で述べた、主イエスの「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」という約束である。 それでは、何が悪かったのか。いろいろと考えてみるに、以下のこと

  • 聖書は、何のためにあるのか

    聖書は、いったい何のためにあるのだろう。この分厚い書物を前にしては、誰しもたじろがざるを得ないようだが、きっと目的があるに違いない。「人間の救いのため」、と答える人もいるかも知れないが、聖書には口がないので、自分で福音を語ることはできない。だから、あるとすれば、「人間の救いのために働く人を教えるため」とは言えるかもしれない。そういえば、私もギデオン協会の会員である。これは、聖書をひたすら配ることに情熱を燃やしている。聖書自身が伝道すると信じているのだ。もちろん私もそう信じている。でも、そのためには、手渡してもらわなければならない。この「手渡す人」がまず情熱を受けなければならないのだ。聖書は、そのためにあるのかもしれない。そう「情熱」を。 どうしたら聖書から情熱を得られるだろうか。それには、聖書を通して、神が語っておられるというか、語りたいと思っておられることを自分なりに受け取る必要があると思う。たとえば、私の場合には、旧約聖書はこんな風な解釈になる。1.創世記:世界と人の創造と堕落、回復への道備え2.出エジプト記:世界と人類の救済のために形成された選民イスラエル3.レビ記:神の掟と戒め(聖と俗の区別)4.民数記:荒野の旅の護りと導き(約束の地への旅)5.申命記:神の祝福と呪い6.ヨシュア記:約束の地の獲得7.士師記:堕落の始まりと祝福の喪失8.ルツ記:恵みの継続9.サムエル記上:王制の樹立(サムエル、サウル)10.サムエル記下:王による統治(ダビデ)11.列王記上:王制の崩壊と分裂(ソロモン)12.列王記下:王国の乱れと破滅13.歴代誌上:アダムからダビデまで14:歴代誌下:ソロモンから捕囚の終わりまで15:エズラ記:捕囚からの帰還と神殿の再建16:ネヘミヤ記:再度の衰退と城壁(街)の再建17:エステル記:捕囚の地における選民存亡の危機と救済 神様は、これらを通じて、何を語りたかったのだろうか。これらから何を受け取るべきだろうか。 一つは、必然性だ。これしかなかったのである。次に類比性だ。これは、私の人生でもあるのだ。私は、自分の一生において、この歴史を生きているのである。私が生まれてから物心ついて、神を知り、心に王国を樹立し、そこを治め、神殿を作り、街を作り、その間に何度も敵からの誘惑や侵略を受けて神に背き、再建し、そして完全な救いに至るまで、その旅と戦いは続く。神は、その私の生涯を通じて、私を導き、助け、そ

  • ストームグラス

    これは、かつて開所祝いに娘がくれたもの。天気が分かるはずなのだが、まったく信用できない。第一、寒いと真っ白に結晶してしまって、何がなんだか分からなくなる。でもときどきは、条件が重なったのか、こんな風に面白い結晶ができることがある。そんな気まぐれさが気に入っている。私の事務所には、他にも意味のないものがたくさん置いてある。それは、なんとなくリラックスできるから。そうでないと仕事もはかどらない。サボテンなんかは、何度か育て始めたが、ことごとく枯らしてしまったので、いまあるのは草花も含めて、すべてフェイクである。でも、最近のは、わりと良くできている。...

  • ニーグリップ

    バイクに乗るようになってからもう8年、これまでに走った距離は、約8万キロ、つまり地球を2周り。それでも、ニーグリップができるようになったのは、ごく最近のことである。ニーグリップとは、両足でしっかりバイクに捉まることで、基本中の基本なのだが、その習得にこれほどの時間を要したのだった。人生とは、そういうものかも知れない。そして、これからまた、曲がることを学び直そうかと思っている。そういえば、逆操舵というものを初めて体験したときは感動的だった。バイクは、ハンドルを右に切ると左に曲がると聞いてはいたが、ある日、道を走っていて、勇気を出して思い切って右に切ってみた。そうしたら、本当に左にカクッと曲がるではないか。これには驚いた。でも、それをどんなときに使ったら良いのか、いまだに分からない。最近覚えたのは、左カーブのときは、その直前で右足でステップを前に蹴ること。すると体重が後ろの車輪にうまいこと乗りながら、自然に車体が傾いてカーブを曲がれること。それから、止まる時は、完全に停止してから足を着くこと。また、足を上げてから発進すること。左手を完全に離したままでも止まれるようにすること。その他いろいろ。 でも、何のためにそんなことを練習しているのかと言えば、すべては安全に走るためである。この「良い目的」に向けて、すべてが訓練されるということは、何と清々しいことだろう。他に理由など必要ない。この感触が、教習所時代からずっと続いている凛々しさなのである。...

  • シンギュラリティは、やって来るのか

    シンギュラリティとは、「人工知能の能力が人間を超える時点」と言われており、2045年にそれが起こると言われている。これは、人間が神の領域を犯すことであり、クリスチャンにとっても大きな脅威である。 私は、そんなことは決して起こるはずがないとこれまで思っていたが、最近になって、起こるかも知れないと考えるようになった。今の人工知能には、まだまだ限界的な要素も少なくないが、遺伝子工学といい、宇宙工学、ロボット工学等々の進展を考え合わせると、やはりそれはやってくると考えられるのではないかと思う。しかも、2045年より早く。 仮にシンギュラリティが来たときに、この世界はどうなってしまうのだろうか。まず言われることは、私たち人間が現在している仕事の多くが、ロボットに取って代られ、多くの失業者が出るだろうということだ。そして、反対に人間がロボットに支配される時代になると言う人もいるようだ。 しかし一方で、国がこれからやろうとしている施策には、そのようなことは考慮されていない。返って、身体障害等でこれまで働くことができなかった多くの人の体や能力の代わりをロボットがやってくれることにより、たとえ寝たきりでも就労の機会が十分与えられる社会、そればかりでなく、旅行やスポーツ、芸能等も、能力と関係なく自由にできる社会、そんなことを国は実現しようとしているらしいのだ。 シンギュラリティの到来による、この2つの両極端の社会像のどちらが実際に実現するかは、誰も分からないだろうが、どちらにしても、人間がロボット以下の存在になりかねないということは言えるのではないだろうか。 そこで、シンギュラリティとは何かというと、私はこれは、「神さまの人間への再チャレンジ」または、「最後のチャレンジ」と思われるのである。神さまは人間に、「しっかりしなさい」、「もう一度チャンスを与えるから、あなたの本当の能力を取り戻しなさい」、「ロボットに負けないように頑張りなさい」と言っておられるように思えるのである。 聖書を読むと、そこに人間のすばらしい能力がたくさん記されている。いま、それらを列挙してみよう。1.神様から語り掛けられること。2.神様にお祈りやお願いをすること。3.病気を癒すこと。4.預言をすること。5.奇跡を行うこと。6.人を教え、導くこと。7.罪の告知とその赦しを伝えること。8.神様のすばらしさを表現すること。9.夢を見、希望を語ること。10,天国の言葉

  • 神様のセキュリティ

    最近は、コロナの影響もあり、ますますネット環境が重要になってきているようだ。となるとセキュリティにも気を配る必要が出てくる。テレワークの場合には、会社の情報を家庭に持って来ていることもあり、特に気を付けなければならないだろう。 今日は、商店街の花壇の植え替え作業を行った。花壇の土を小さなシャベルで掘り返していると、いろんなものが出てくる。最初に出てきたのは、小さな芋虫、それからコガネムシの幼虫、それから、誰かが捨てて行ったタバコの吸い殻にビニールの切れ端等々。作業している側にとっては、とても気になるものだ。これをここに捨てて行った人は、どういう人だろうか。作業しながら、いろいろなことを考えた。この世界には、なんだかずるい人、自分だけ得したい人、人の不幸を喜ぶ人、やむにやまれず人を騙してしまう人、故意に悪いことをする人等々、いろいろな人がいる。神様は、そんな人について、どう対処しておられるのだろうか。 さっきのタバコの吸い殻をつまんでしみじみと見ながら、神様は、この人をすでにさばいておられると思った。というのは、神様がその人に何か悪い事が起こるようにされるというのではなく、死後裁きに遭わせるというのでもなく、そのちょっとした出来心がすでに裁きになっているということである。その人は、すでに大きな報いを受けているのである。 聖書に、「聖くなければ、神を見ることはできない」と記されている。人は、聖い心でなければ、決して神様のことが分からないのである。そして、その「聖さ」とは、「神様の目から見た聖さ」、「神様が与えてくださる聖さ」ということである。いったい誰がその聖さに与れるだろうか。人にはできない。それは、この世界には無く、天から来るのである。どうしたらそれに与れるのだろうか。それには、まず「一生懸命に生きること」が必要である。そして、その報酬として、神様が「目に適う人」にその「聖さ」を下さる。そうすると、その人に、神様のことが分かるのである。 これが、神様の世界、すなわち「天国」へのパスワードであり、「神様のセキュリティ」なのである。...

  • コロナ禍の中で

    最近は、もっぱらテレワークの毎日である。 仕事の性質上、どこにいても出来てしまうので、ほとんど不自由はない。昼食後に家内と散歩するのも日課になった。そんな中で、聖書を読んだり、信仰のことを考えたり、神様との関係も改めて考えたりと、なんだか特別な時を過ごしているように思う。 そんな中、ふと考えたのが「第3の人生」ということだ。「第1の人生」は、生まれてから自分のために生き、歩んだ人生だった。そして信仰を得て、「第2の人生」は、求め続けた人生だった。現役時代は、信仰者として社会でいかに生きるべきか、父親として家庭でどのように生きるべきか、役員として教会でどのように生きるべきか、また定年して事業を初めてからは、神様だけにいかにして頼るか、等々を求めつつ歩んだ人生だった。そして、「第3の人生」とは、それはこれから始まるのだが、「神様に働いていただく人生」である。そんな考えが、このしばらくの静粛の中で、心に湧き起こってきたようなのである。 「私は決して、私の家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみさえ。主のために、一つの場所を、ヤコブの力強き方のために、御住まいを私が見出すまでは。」 詩篇132篇 3〜5節 定年後に事務所を開いてから、これまでは試練の連続だった。本当にこの6年間は、自分の力では決してやってこれなかった。そんな中で、神に頼ることだけが望みだということを思い知らされてきた。そして今、「それこそが鍵だった」ということに気がついた。それはつまり「待つ」ということだ。 「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」出エジプト記14章13節 「神が働かれなければどうしようもない」という状況に自分を置くこと。これがこれまでの私の人生の結論である。そして、私にはやるべきことはたくさんある。神が備えてださったこと。「喜ぶこと」、「賛美すること」、「感謝すること」、「祈ること」、これらは、完璧な戦いの武器であり、そこにはもはや不足は何もない。そして、神が働いてくださるのを「待つ」ことである。 主はエリヤに言われた。 「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。」列王記上19章15節 神は、聞く姿勢を持つ者に語ってくださる。それは、命令であり、それは神の戦いである故に、必ず勝利が与えられる。それは、最

  • 携挙は、いつ起こるのだろう。

    「携挙」とは、イエス・キリストが天に挙げられる前に約束されたように、もう一度天からやって来られて、ご自身を信じる者たちを空中に引き上げられるということであるが、それは、いつ起こるのだろうか。聖書を読むと分かってくることがある。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがひそかにイエスに尋ねた。「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」(マルコ13:3,4)弟子たちが尋ねた「そのようなことが起こるとき」とは、聖書で「終わりの日」といわれているときのことであり、主イエスは、そのときの前兆を含めて、そのときの様子を克明に彼らに語って聞かせられた。それによると、この「終わりの日」の前に「大患難時代」と言われる恐ろしい時代を通らなければならないのだが。そしてその後でこう言われた。「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。」(マルコ13:32)と。だから聖書によれば、「大患難時代」を経た「終わりの日」がいつかということは、だれにも分からない。しかし、再び聖書によれば、「携挙」と「大患難時代」、「終わりの日」との関係については、主イエスが明確に語っておられるのである。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。(マルコ13章20節)つまり、神は「大患難時代」を生きるクリスチャンのために、その日数を少なくされたということであり、クリスチャンは、世の人々と共にこの苦難の中を生きるということである。しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。(マルコ3:24~26)つまり、イエス・キリストが再び天から来られるのは、「大患難時代」の最後、「終わりの日」の前(あるいは当日)であり、このときに「携挙」があるということである。 これは、ショッキングなこ

  • 春の気配

      ちょっと汗ばむ日があったかと思うと、また急に寒々しい日に逆戻りしたりする今日この頃。久しぶりにまた名栗まで出かけてみた。下界では、ちらほらと新芽も出だしたので、少し期待して行ったのだが、山村の木々は、まだ眠りから覚めていない感じであった。 その代わりに、桜がちょうど見頃を終ろうとしている段階で、それに輪をかけて、寒桜が咲き誇っていた。このハーモニーは、何か朗らかで、最近の緊張した心を癒されるに十分であった。それからついでに、名栗湖畔まで行ってみた。ここは、バイカーが集うところであるが、今日はあまり多くはなかった。しばしの間湖面を見つめて深呼吸し、ぼんやりとしてからそこを後にした。 ここ埼玉は、余生を過ごすには、本当にぴったりの場所だと思う。今までの人生では、信州で生まれて、横浜、川崎、神奈川と動いてきたが、その終着点(?たぶん)がこの埼玉ということは、何か最近では、とてもうれしく思うようになってきている。観光地じゃないこともあり、とても静かで人の手が入っていない。空気も水も良く、野菜もおいしい。小さな冒険がたくさんできるところ。最初は、「埼玉なんて」って思ったけど、今では、「彩の国、なるほど」と思っている。...

  • 最近の聖書事情

    最近、キリスト書店に行ったときに、新共同訳聖書の新版が出ているのに気づいた。そこで、その内容を新改訳2017版と比較してみて、大いに驚いた。以下がその対照結果である。【出エジプト記6章1節】① 新改訳第3版 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」② 新改訳2017 主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」 これには、本当にびっくりした。大幅に改善されている。一見、非の打ち所がないほどの出来栄えだと思う。それに比べて、第3版は、なんと貧弱だったことだろう。この対比には、驚くべきものがある。そこで、今度は、新共同訳の方を見てみた。③ 新共同訳 主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」④ 聖書協会共同訳 さて、主はモーセに言われた。「私がファラオに行うことを、今こそあなたは見るだろう。すなわち、力強い手によってファラオは彼らを去らせ、力強い手によってファラオは彼らをその地から追い出すことになる。」 これにもとてもびっくりした。「わたしの」という言葉が削除され、「強い手」の主体が曖昧になっており、これはむしろ新改訳聖書の翻訳姿勢に近づいたようにも思えたからだ。総じて言うと、たぶん、原文には「わたしの」という言葉は無かったのかも知れない。つまり新共同訳が意訳し過ぎていたのかもしれない。聖書協会共同訳では、その反省から「わたしの」を削除して、原文に忠実になろうとの姿勢が強調されたのではないだろうか。ちなみに、口語訳はこうである。 主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。 つまり、新改訳聖書は、様々な遠回りして、結局この口語訳に戻ったということである。やはり口語訳のすばらしさは、今も失われていないのだ。しかも、版権はすでにフリーになって

  • 恵みに留まり続けるために

    主イエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:25)と言われた。エックハルトは、ここで言われている「命」とは「魂」のことだと言う。つまり、ここで言われている「愛」の対象は、律法が命じる「自分を愛するように、隣人を愛せよ」というときの対象とは異なるものなのであり、それゆえ、これらの言葉は互いに矛盾しないのである。 ところで「魂」とは、何であろうか。エックハルトは、「魂という言葉は、魂の根底を意味するものでもなく、魂の本性を言い当てているものでもない」と言っている。魂とは、それほどに捉えどころのないものなのであり、それゆえに魂を、すなわち自分を愛するということもまた捉えどころのないものであり得るのである。そのように捉えどころのない魂を(すなわち自分を)無防備に愛することは、かえって自分を甘やかしてしまい、真理や正義から目を逸らせてしまうことにもなりかねない。そうなったら、むしろ自分の命を損なうことになる危険性があるというのが主イエスの言わんとするところであろう。 「魂を憎まなければならない」もう一つの理由は、魂が未完成なものであることである。しかもそれは、人が生涯を賭けて作り上げる作品などではなく、実に彼自身なのである。それゆえ、そこにはほんの少しの妥協も許されない。彼が神に想像されたあるべき姿に達するまで、どのような妥協もすべきではないのであり、彼は、彼自身の完成に向けて、自分の生涯をひた走らなければならないのである。 以上のことの他に、もう一つ忘れてはならないことは「魂と神との関係」である。つまり、魂は神との関係において完成を目指しているということである。そして、それは再び、上記のこと、すなわち「自分の魂を憎む」ということは、「自分を正しく裁くこと」に他ならないということであり、これこそがカリスマ信仰の真髄と言えるだろう。...

  • 神と似た者となるために

    主イエスは、「私を見た者は、父を見たのである。」と言われた。そして、クリスチャンにとって主イエスは、一つの究極的な目標であり、彼は私たちの霊的な長子でもある。私たちは、日々主の御姿に、聖霊によって変えられていくのであり、それが願いでもある。これらを言い換えると、私たちの究極目標は神であり、神に似る者とされることが私たちの願いだと言える。つまり、私たちが長子である主イエスを目指すのは、父なる神に似た者とされるためなのであり、そのために神は、御子を私たちに与えられたのである。 エックハルトは語る、「神がなすわざのすべては、わたしたちが独り子となるためのものなのである」と。そして、「わたしたちが独り子となっているのを神が見るや、神は激しくわたしたちへと迫り来る。神がわたしたちに神の神性のすべての深淵と、神の有と本性との豊かさとを顕そうとして、あたかも神の神的有が神から砕けて、みずから無に帰そうとするかのように、急ぎ迫り来るのである」と。このことから、エックハルトがカリスマ信仰だったことが明確に分かる。彼は、神から来る電気のような力に触れられ、その場に倒れ伏したのに違いない。しかし彼はまた、その陶酔の中に決して留まってはいなかった。そして、さらに次の段階へと突き進み、「神は等しさそのものである」と語るのである。それゆえ神は、御子においてご自身を私たちに分け与えられた、いや、ご自身のすべてを私たちに与えられたのである。御子は神にとってすべてのすべてだからであり、そして、その御子と私たちが等しくなることを切に願っておられるのである。 しかし、エックハルトはさらに先へ進みゆく。彼は、「神の愛に報いるために何をすべきか」と考えるのである。私たちをご自身と等しくするために、大きな犠牲を払われた神に報いることなど、とうてい出来そうにないのだが。というのも、私たちが譬えどんな努力をしたとしても、神はそのようなことを期待してはおられないはずである。なぜなら、神の願いが、ご自身を私たちに与え尽くすことならば、私たちがそれに対して、何かをすることは、その神の願いに抵抗することになるからである。それでは、どうすれば良いのか。エックハルトは、実に「私たちに何か他に成すべきことがあるとすれば、それは、私たちが神を捨て去ることだ」と語るのである。 それは、いったいどういうことか。「神を捨て去る」とは、「神から何も望まない。受け取らない。」というこ

  • 神の恩寵を受けるために

    もちろん人は、イエス・キリストを救い主と信じれば、誰でも天国へ入れるのであり、それ以上の恵みはない。しかし、私たちがこの世界で生きる上で、神の特別な守りと助けが必要となることがあり、それを受けられるかどうかは、また別問題なのである。つまり、例えそれを受けられなくても、私たちの救いには、何の問題もないのだから、それを受けられる場合と受けられない場合があり得るのであり、そのことをここで問題にしているのである。 エックハルトは、それを「恩寵」と呼んでおり、神は御心のままにそれを特定の人に注がれるのである。しかし、「御心のままに」と言っても、それは神の気まぐれではなく、そこにある原則がある。神は、正しいお方だから、正しい判断によりそれを与えられるのであり、それゆえ、誤解を恐れずに言えば、それはある程度予測がつくものなのである。 では、神はどのような人に恩寵を注がれるのかと言うと、一言で言えば、「御子に似ている人」である。神は、この世界を救うために御子を遣わされたのであり、また私たちに、すべてを御子を通して与えられるからである。そして、エックハルトによれば、私たちが御子に似るためには、完全に自己を放棄しなければならない。そのようにして、神が御子を通して与えてくださる恵みのみに自分をゆだねるのである。もし私たちが、何かこの世のものに心を引かれるなら、そのとき私たちは、神が御子を通して与えてくださっている恵みを受け損なうことになり、その部分だけ御子と似ない存在となる。逆に、私たちが自分のすべてを明け渡して、神の恵みを完全に受け取るなら、私たちは御子に似たものとされるのであり、神は、その御子に似た私たちに、完全に恩寵を注がれるのである。 そのように、エックハルトによれば、私たちが神から恩寵を受けられるかどうかは、私たちの行う修行や修練、勉強等々の努力によるのではなく、自己をいかに放棄し、御子に似た者にされるかに掛かっているのである。つまり、私たちの側からの「神に気に入られるような努力」は、一切無駄であり、この世界には、神の気に入るものは、「御子」以外にはないということである。そして、神はこの「御子」に一切を与えられたのであり、私たちも神の愛される「御子」として、その一切を受け取れるのである。このように言い切るところがエックハルトの少し異端的と言われ得るところでもあるが、それは徹底した論法である。彼によれば、実に「聖霊」さえもこ

  • 神の心にかなう者となるために

    エックハルトは、この説教を「魂と神の類似性に関する言及」から始めているように見える。彼は、「まことに、神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである」と言う。衝撃的な言葉ではあるが、彼は実はこの言葉で「魂と神の類似性」を言っているのではなく、文字通り「魂と神の近さ」を言っているのである。しかしその次に彼は、「神がみずからを認識するときのその同じ認識が、自由となったおのおのの精神のなす認識なのであり、これらはけっして別なものではない」と続ける。そして、これもまた「魂と神の類似性」を意味するものではなく、「魂と神、双方の認識という働きの類似性」を言っているのである。そして次には、「神的光」というものに触れ、「それが魂の諸力の内に射しこむことはありえない」と語り、魂と神とを完全に遮断するのである。しかしまた次で、「修練と浄化によっては、それらは受容するようにもなりえるのである」と言う。そして最後に再び、「なるほどその光は内面の光に等しいのではあるが、しかし内面の光ではない」と両者の区別を明確にするのである。エックハルトの言葉は、細心の注意を払って理解しなければならない。つまり彼は、ここで彼の説教を実は「魂と神の類似性」で始めているのではなく、「魂と神の区別性」で始めているということなのである。 そのひとつの意図は、恵みにおける御子の役割の強調である。「さて、子を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と彼は言う。そしてまた、「神の独り子と魂との間にはいかなる区別もない」と語る。これをもってして、安易な神学と早合点する必要はない。「区別がない」と言っているのであり、「同じもの」と言っているのではないのだから。 エックハルトにおいては、まったく同じにできている2つのものがあったとしても、それらは同じものなのではなく、たまたま似ている2つの異なるものなのである。しかし、また同時に、それらの似ている2つのものは、「似ている」ということにより、同じように動くことが保証されている。そこで、それら「瓜二つに似ているが、まったく個別である2つのもの」の間には、非常に緊密な関係が存在することになるのであり、その似ている2つのものが、「魂と神」ということなのである。 そのように魂にとって、複雑に近くて遠い、神という存在の心にかなう者となるために、エックハルトは、一つの方法論を提唱する。それは、「自分自身の内に鍵をかけ

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