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joseph
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2007/08/11

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  • 新改訳2017に関する疑問:全体のまとめ

    新改訳2017に関する疑問:全体のまとめ

    新改訳2017に関する疑問:まとめ この一ヶ月にわたり、新改訳2017を読んでみて、なんだかおかしいと思われる部分を書き出してみた。このブログで紹介した「聖書一ヶ月通読表」に基づいて行ったが、やり始めたのが、「エズラ記」からであったため、本日の「列王記 第二」において一通り終えたことになる。 ここにまとめとして、いくつか取り上げてみたい。1.致命的な間違えサムエル記 第一13:1 サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。→ 「ある年齢」とは、何歳のときだろうか。また、「二年間」だけのはずはない。サムエル記 第二1:18 これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。→ 歌の内容から、「弓を教えるためのもの」であるはずがない。列王記 第一3:26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。→ 「あなたのものにもしないで」とは、「ソロモン王のものにもしないで」という意味になるが。列王記 第二9:12 彼らは言った。「噓でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」→ 「噓でしょう。」とは、普通、聖書の中で使わないのではないか。歴代誌 第二13:18 イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。→ 「イスラエル人」には、ユダ族も含まれる。さらに「ユダ人」とは、なんだろうか。エズラ記4:10 その他、偉大にして高貴なアッシュルバニパルが、サマリアの町々とユーフラテス川西方のほかの地に引いて行って住まわせた諸民族からであった。→ 多分、異教の神を信じていたであろうアッシュルバニパルを「偉大にして高貴」と聖書の著者が讃えているのは、どうしてもあり得ないことだ。8:29 あなたがたは、エルサレムの主の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」→ 彼らがペルシャを出て、エルサ

  • 新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第二

    新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第二

    2:15 今、私の主が語られた小麦と大麦、油とぶどう酒を、私のしもべたちにお送りください。→ 「私の主」とは、誰で、その「主」が「小麦と大麦、油とぶどう酒」のことを語られたのだろうか。 3:5 この広間はもみの木の板を張り、良質の金でおおい、さらにその上になつめ椰子の木の彫刻と鎖を置き、→ 「鎖」は、ここにはなかったであろう。 3:13 これらのケルビムの翼は広げられていて、二十キュビトあった。これらはその足で立ち、その顔は神殿の方に向いていた。→ 「ケルビム」は、神殿の中に置かれていたのではないのか。 3:16 彼は内殿の鎖を作り、柱の頂に取り付けた。また、ざくろを百個作って、鎖に取り付けた。→ 「鎖」は、ここにもなかったであろう。 7:9 彼らは八日目にきよめの集会を開いた。七日間、祭壇の奉献を行い、七日間、祭りを行ったからである。→ 「集会を開いた」ことの理由が「七日間、祭壇の奉献」をしたことなのだろうか。 9:22 しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊や騎兵隊の長だったからである。→ 「ソロモンがイスラエル人を奴隷にしなかった」その理由が、「彼らが戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊や騎兵隊の長」だったことなのだろうか。 8:12 それからソロモンは、玄関の前に築いた主の祭壇の上に、主のために全焼のささげ物を献げた。→ どこの「玄関」だろうか。 12:16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。→ 「あなたの家を見」てどうするのだろうか。 13:18 イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。→ 「イスラエル人」には、ユダ族も含まれる。さらに「ユダ人」とは、なんだろうか。 14:13 アサおよび彼とともにいた兵は、彼らをゲラルまで追撃した。クシュ人は倒れ、生きている者はいなかった。主とその陣営の前に打ち砕かれたからである。兵たちは非常に多くの分捕り物を持ち帰った

  • 新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第一

    新改訳2017に関する疑問:歴代誌 第一

    この書の翻訳に関しては、違和感は特に感じられなかった。...

  • 新改訳2017に関する疑問:列王記 第二

    新改訳2017に関する疑問:列王記 第二

    9:12 彼らは言った。「噓でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」→ 「噓でしょう。」とは、普通、聖書の中で使わないのではないか。...

  • 本来のキリスト教会

    本来のキリスト教会

    現在のキリスト教会の多くが「預言」や「異言」を禁じていることには、明らかにディスペンセーショナリズムの影響がある。それによると、今の時代は、「恵みの時代」であり、「聖霊の賜物」特に「預言」は、新約聖書の完成により、役目を終えたとされる傾向にあるからである。 たとえ、今日のキリスト教会で、「ディスペンセーション」を全面に打ち出した説教や議論を聞くことはほとんど無いとしても、上記のように教会の運営方針、牧会方針の中にそれは根強く尾を引いていると言わざるを得ない。 しかるに、一昨日の投稿でも触れたが、「預言」は、キリスト者が神から自分という一個人に対する特別なメッセージを聞くための唯一の方法である。というのも、神との会話は、ある意味で非常に危険な行為であり、それには、ともすると神を人間のレベルまで引き下げてしまうか、または逆に、自分を何か不可解な世界に紛れ込ませるリスクが伴うからである。つまり、神そのものを自分の意識の中に持ち込むということは、実際にはできないことであり、それを無理にやろうとすると、悪霊につけこむ余地を与えてしまう可能性があるのである。 そこで神は、「預言の賜物」を与えられたのだと思う。「預言の賜物」は、パウロが言っているように、一般信徒が用いるものである。それは、自分を相手の上に置くような行為ではなく、現象的には、神からの最初のインスピレーションを信仰により、「言葉」として語り出すことにより、それに「次に与えられる言葉」が続き、そのようにして、一塊の「預言の言葉」が完成するものである。そこには、人の創作、知恵、知識等は介在する余地がない。そして、その「一塊の言葉」を数人で吟味するというステップが次に確保されている。そのようにして、教会に連なる兄弟姉妹が、共に「神からのメッセージの取り次ぎ」に有効に関与することになる。これら「一連のステップのすべて」がキリスト教会の「預言」なのである。そして、このようなステップを経て、初めて神からのメッセージを安全に聞くことができるのであり、それに対して、これら一連のステップを一人で行うということは、端的に「危険」であるということが納得されるであろう。 ああしかし、今日の教会は、このような認識をどこかへ忘れてきてしまった。それは、翼をもがれた鳥と同じである。かろうじて、「異言」が生きてはいるが、その深い意味は、封じられているようだ。しかしこの「異言」こそが、「神との安

  • 新改訳2017に関する疑問:列王記 第一

    新改訳2017に関する疑問:列王記 第一

    3:26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。→ 「あなたのものにもしないで」とは、「ソロモン王のものにもしないで」という意味になるが。12:16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。→ 「あなたよ家を見よ。」とは、どういう意味か。14:5 しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が来て、子どものことをあなたに尋ねようとしている。その子が病気だからだ。あなたは、これこれのことを彼女に告げなければならない。入って来るときには、彼女はほかの女のようなふりをしている。」→ 単に「ほかの女のような」と言っても分からない。誰のようなのか。20:10 するとベン・ハダドは、彼のところに人を遣わして言った。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」→ サマリアには、きっとそれ以上のちりがあるに違いないのだが。22:10 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にある打ち場の王の座に着いていた。預言者はみな、彼らの前で預言していた。→ 「打ち場の王の座」とは、どういう座なのか。...

  • 新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第二

    新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第二

    この書の翻訳は、かなりひどい。支離滅裂としか言いようがない。1:9 『さあ、近寄って、私を殺してくれ。激しいけいれんが起こっているが、息はまだ十分あるから』と言いました。→ 「息はまだ十分あるから、殺してくれ。」とは、理解し難い言葉である。1:18 これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。→ 歌の内容から、「弓を教えるためのもの」であるはずがない。3:27 アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。→ そうではなく、ヨアブが彼を殺したのである。6:10 ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。→ ダビデは、主の箱を「ダビデの町に移したくて」苦闘しているのだというのに。13:39 アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。→ 何のことやら分からない文章である。14:9 テコアの女は王に言った。「王様。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位は罰を免れますように。」→ 「王様と王位」にいかにして刑罰が下るのだろうか。15:17 王と、王に従うすべての民は、出て行って町外れの家にとどまった。→ 「町外れの家」とは、誰の家だろうか。17:7 フシャイはアブサロムに言った。「このたびアヒトフェルの進言した助言は良くありません。」→ 「進言した助言」とは、妙な言い方である。17:29 蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデと彼とともにいた民の食糧として持って来た。彼らが「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからである。→ 「言った」のが聞こえたのだろうか。19:26 彼は言った。「わが君、王様。家来が私をたぶらかしたのです。このしもべは『ろばに鞍を置き、それに乗って、王と一緒に行こう』と言ったのです。しもべは足の萎えた者ですから。→ 「たぶらかした」とは、「迷わせ、誘惑する」ようなことであり、メフィボシェテは、「出し抜かれた」のである。21:4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すこ

  • 神と話すことの危険性

    神と話すことの危険性

    ニール・ドナルド ウォルシュ著の「神との対話」という本(シリーズ)がある。これは、明らかに異教の怪しい本であり、ニューエイジ的な感触を受ける。また、マーク・ヴァークラー著の「神の声を聞くための4つの鍵」という作品もある。彼は、カリスマ系の神学教授のようなのだが、この書については、多くの批判があるようだ。その他にも、「神と会話する方法」というような内容の書物はいくつか存在するようで、それらに共通しているのは、「神に話しかけ、答えてもらう」ことが可能であるとしていることである。 しかし、聖書の中には、そのようなアプローチは出てこない。もっとも、聖書の中にも「預言者」という、神からの言葉を取り次ぐ人が存在するし、また「預言の賜物」というものが確かにある。しかしこれは、「神との会話」でも「対話」でもない。つまり「一方通行」なのである。キリスト教の場合、「預言」とは、「神からの言葉を取り次ぐ」ことであり、預言者自身は、神と会話しているのではなく、「神の言葉の通り道」になっているに過ぎない。つまり、それは「奉仕」なのであり、「ミニストリー」なのである。 ところが「神と会話する」ということになると、その対象が自分自身に向けられることになる。それは、「神を直に見る」ことになるのである。そして、聖書はそれを禁じている。キリストは、「わたしに依らなければ、誰も父のみもとへ行くことはできない」と言われた。キリストは、神への唯一の道なのである。それゆえ、キリストを通らずに神に行くことはできない。つまり、キリストを通さずに神を見ることはできないし、キリストを通らずに神と会話することはできない。「わたしを見た者は、父を見たのである」とキリストが言われたのは、そういう意味であった。 これは、徹底したことである。「預言」については、上で述べた通り、「直接的に神を見ること」から隔絶されている。それでは、キリスト者は、神と直接会話する方法を持たないのか。あえて言えば、一つだけ方法がある。それは、「異言」によってである。預言が人や教会の徳を高めるためのものであるのに対して、異言は、自分を高めるためのものとされている。そこで、異言は神との会話である。しかし、その内容は、自分には分からない。通常、第三者に解き明かしの賜物が与えられる。たとえ、自分で解き明かしをする場合があっても、それは、同時ではない。そのようにして、語るものは、神を直接に見ることから、

  • 新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第一

    新改訳2017に関する疑問:サムエル記 第一

    1:4 そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、→ 「そのようなある日」とは、抽象的な言い方である。1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」→ 「一生の間、主にお渡しします。」とは、不自然な言い方である。2:27 神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。→ 「ファラオの家に属する」とは、どういう意味だろうか。2:32 イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。→ 「わたし(主)の住まいの衰退を見る」とは、どういう意味だろうか。2:33 わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。→ 「人の手によって死ぬ」とは、奇妙な言い方である。2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。→ 「わたしの心と思いの通り」ではないだろうか。3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。→ これから告げるのではなく、すでに告げたのではないだろうか。4:13 彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。→ 目の見えないエリは、何を見張っていたのであろうか。4:16 男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。→ 二度、同じことを言っている。8:7 主は

  • 新改訳2017に関する疑問:ルツ記

    新改訳2017に関する疑問:ルツ記

    1:22 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。→ ルツは、モアブの野から初めてイスラエルへやってきたのだった。2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」→ 休むために、いちいち家へ戻るとは思えない。2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。→ 「ほかの畑に落ち穂を拾いに行く」ことと「ここから移る」ことは、同じことである。3:14 ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、→ ルツのことを言っていて、急に「彼は」とは、唐突である。...

  • 新改訳2017に関する疑問:士師記

    新改訳2017に関する疑問:士師記

    2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ土地を占領しようと、自分の相続する地へ出て行った。→ 1章1節に「ヨシュアの死後」とあるので、この節の記述は、ちょっと不自然である。3:23 エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。→ どのようにして「かんぬき」をかけたのか、想像できない。...

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨシュア記

    新改訳2017に関する疑問:ヨシュア記

    6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ。→ 祭司たちは、7つの角笛を吹き鳴らしていた。しんがりも吹き鳴らしているとすると、合計7本以上になってしまうのだが。10:12 主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」→ ヨシュアが語っていることは、命令形であり、「主に語り」という表現には、ふさわしくない。19:47 ダン族の地域は彼らから失われたので、ダン族は上って行き、レシェムと戦った。彼らはそこを取り、剣の刃で討つと、これを占領してそこに住み、自分たちの先祖ダンの名にちなんでレシェムをダンと呼んだ。→ 「ダン族の地域は彼らから失われた」とは、「強奪された」、「奪還された」、「奪われた」という意味だろうか。それなら、そのように書けば良いのではないだろうか。この表現では、意味が伝わらない。22:27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で主への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは主のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。→ その前の26節には、「22:26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。」とあり、この2つの節は、矛盾している。...

  • 神のプロトコル

    神のプロトコル

    情報用語でプロトコルとは「通信規約」といって、情報を送る側と受け取る側で、どのように受け渡しをするかを定める「取り決め(規則)」のことである。 かつて神は、アダムにご自身のプロトコルで一つの命令を発せられた、「この木からだけは取って食べてはならない」と。それは、何の前提もない、絶対的な命令であった。エバは、その命令を直接聞かなかったが、悪魔がそれを取り次いだときに、プロトコルが変わってしまった。「園のどの木からも取って食べてはいけないと神は本当に言われたのか。」絶対命令には、条件などない。それゆえ、判断の余地もない。しかし、悪魔は、プロトコルの変更によって、判断の余地を挿入してしまった。「自分でよく考えてごらんよ。」これが悪魔のプロトコルである。 今日でもこのプロトコルは生きている。しかも、キリスト教会の中で。というのも、ほとんどのクリスチャンは、聖書を読んで、自分の頭で考えて、「なるほど、これは、すばらしい書だ。ここに真理がある。」と言っているからである。しかし、聖書は、それを読む人が「これは神の言葉だ」と判断するような書物ではない。それは、読む人がどう受け取るかによらず、最初から神の言葉なのである。 聖書を神のプロトコルで受け取りたいと思ったら、まず、考えることをやめなければならない。でも、それでは、神が語っておられること、導いておられること、恵んでおられること、与えておられること、等々をどうやって受け取れば良いのか、と思うかも知れない。答えは簡単である。「直接に受け取る」ことである。それは、神から直接にやってくる。何の前提もなく、理由もなく、前触れもなく、それはやって来なければならない。主イエスは、そのようにして、神の言葉を受け取っておられた。「町に入ると、水瓶を運んでいる男に出会うだろう。彼について行くと、準備が整った二回の広間を見せてくれるから、そこに過越の食事の準備をしなさい。」、「海に行って釣り糸を垂れなさい。そして、最初に釣れた魚の口を開けると、銀貨が見つかるから、それをあなたとわたしの分として納めなさい。」、「村に入ると、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるので、わたしのところへ引いてきなさい。」これらの主イエスの言葉が、それが神から直接来たことを示している。そこには、この世界との接点は、1点しかない。つまり、最後の到達点であリ、神の言葉はそこに焦点を結んで、現実となるのである。しかし、人間

  • 新改訳2017に関する疑問:申命記

    新改訳2017に関する疑問:申命記

    25:7 しかし、もしその人が自分の兄弟の妻を妻としたくないなら、その兄弟の妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」→ この命令は、「兄弟の妻」に対して言っているのであるから、「妻としたくないなら」ではなく、「妻としたくないと言うなら」であろう。26:5 あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。→ 「私の父は」ではなく、「私たちの父は」、さらに適切には「私たちの先祖は」であろう。...

  • 再び299を

    再び299を

      8年くらい前だろうか、一度ここにきたことがあった。それ以来だったが、今日は、思い切って299を下ってみた。走っていて、あの頃のことが色々思い出された。それはきっと、同じ季節だったこともあり、山の若葉の色や景色が同じだったからだと思う。それほど、ここ埼玉は、時が経っても一向に変わらないところが多い。まるで、時が止まってしまったようだ。 でも今乗っているのは、あの頃と違い、1100ccなので、ちょっと情緒的には異なり、景色が走馬灯のように過ぎて行ってしまう。それは、今日の出だしが遅れ、ガソリンを入れたこともあり、出発が午後1時半くらいになってしまったこともある。これから、秩父を抜けて、志賀坂峠を超えて群馬へ入り、神流湖の縁を通って再び埼玉へ入り、本庄、寄居、小川、嵐山、東松山を経て川越に戻ろうというのだから。 結局、神流町恐竜センターを15分くらい見学した他は、トイレ休憩と本庄のマックでコーヒーとハンバーガーを食べたくらいであとは走りっぱなしで、家に着いたのは午後7時10分だった。夕食に間に合って良かった。...

  • 新改訳2017に関する疑問:民数記

    新改訳2017に関する疑問:民数記

    1:1 エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。→ 「会見の天幕」と言う呼び名は、かつてイスラエルの民が荒野で金の子牛を作ったことに主が怒られ、もはやイスラエルの民と共に歩まないと言われたことに対して、モーセが宿営の外に幕屋を張り、そこで主と会見したことを思わせる。聖書では、そのモーセの個人的な幕屋と契約の箱が収納された幕屋を同じ呼び名で呼んでいるようで、翻訳においても、それらを共に「臨在の幕屋」と言ったり、「会見の天幕」と言ったりしているが、それらを混同しないように、別の呼び名で呼ぶ方が良いように思える。つまり、モーセの個人的な天幕を「会見の天幕」と呼び、契約の箱を納めた天幕を「臨在の幕屋」と呼べば、さらに相応しい表現となると思う。最も、契約の箱を納めた至聖所である場所にアロンは、年に一回だけ入ることを許され、その場合にも、体を洗い、聖なる装束を着けて自身を聖別しなければならなかった。そこへ、モーセはいつでも言うなれば土足で踏み込むことを許されていたのであり、これらのことから、この2つを同じ呼び名で呼ぶことの主旨も分からないわけではないが、私としては、これらを分けて命名して欲しい。と言うのは、モーセが神の前で特別な存在ではあったが、それ以上に、神はイスラエルの民全体を特別な存在と見ておられ、彼らを約束の地に導き入れ、モーセはヨルダン川の東側に留め置かれたのだから。しかし、それにしても、ヨルダン川の東側もルベン、ガド、マナセの半部族に相続された約束の地であり、モーセはすでにその只中にいたとも言えるのである。4:7 また、臨在の机の上に青色の布を広げ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のための瓶を載せ、またその上に常供のパンを置く。→ 「臨在の机」とは、何だろうか。「パンの供物」を置く机なのに。5:18 祭司は女を主の前に立たせ、その女の髪の毛を乱れさせて、その両方の手のひらに、覚えの分としての穀物のささげ物、すなわち、ねたみのためのささげ物を置く。一方、祭司の手には、のろいをもたらす苦みの水があるようにする。→ 「髪の毛を乱れさせて」というのは、少々滑稽ではないか。5:24 のろいをもたらすこの苦みの水を彼女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って、苦くなる。→ なぜ、いちいち言い直すのか。12:4 主は突然、モーセとアロンとミリアムに、

  • 新改訳2017に関する疑問:レビ記

    新改訳2017に関する疑問:レビ記

    1:5 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。→ 誰が牛を屠るのか明確ではない。しかしそれは、祭儀上きわめて重要なことなので、一々明示する必要がある。1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。→ 誰が切り分けるのか明確ではない。4:2 「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──→ 「すべてのことから離れて」とあるので、彼は罪を犯していないのではないか。4:13 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、主がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、→ 「集会」とは何か。「conference」の意味で用いているのかも知れないが、読む人にはたぶん意味が伝わらないと思われる。10:3 モーセはアロンに言った。「主がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。→ 「わたしに近くある者たち」とは、「聖なる者たち」と取られる可能性が高い。「わたしに近づく者たち」の方が良いだろう。10:16 モーセは罪のきよめのささげ物の雄やぎを懸命に捜した。しかし、なんと、それは焼かれてしまっていた。モーセは、アロンの子で残っているエルアザルとイタマルに怒って言った。→ 狭い幕屋の中を「懸命に捜す」までもない。21:1 主はモーセに言われた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。→ 「言え。」、「言え。」と不自然な重複である。...

  • 新改訳2017に関する疑問:出エジプト記

    新改訳2017に関する疑問:出エジプト記

    30:6 それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。→ 香を焚く金の祭壇の位置なのだが、あかしの箱(ここではこう言っているので)の前、至聖所の中なのか、それとも至聖所に入る垂れ幕の前、つまり聖所の内部なのか、いま一つ判然としない。アロンが年に一回、至聖所に入って贖いをするときに、煙をたくさん漂わせて香を焚くことになっている。そのためには、金の祭壇は至聖所の中になければならない。しかし、「毎日香を焚く」と言われているところもあり、そのためには、至聖所の外になければならない。そこで、この箇所の訳が正しいのか、そうでないのか、私には判断できない。38:21 幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。→ 「~したことであった」という言い方は、牧師等が時々口にするのを聞くことがあるが、一般的にはそのような言い方をする人は、私の周りには皆無である。また、マスコミや出版されている書物等においても稀有である。正式な言い方とは思えない。しかしながら、この出エジプト記の翻訳は、ほぼ完璧に思える。なぜ、このように書によって大きな差があるのか。例えば、創世記と出エジプト記の訳者は、別人としか思えない。そして、編集者も別であろう。たぶん、翻訳にあたって、基本的な規則はあるのだと思うが、書き言葉にするときに、訳者の常識、文章力、構成力、理解力、判断力、表現力、そして神への愛、等々が大きく影響してくるものと思われる。...

  • 新改訳2017に関する疑問:創世記

    新改訳2017に関する疑問:創世記

    2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。→ 「やめられた」とは、否定的、消極的な言葉である。積極的に「休まれた」とすべきではないだろうか。2:20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。→ これまで「人」と訳してきて、急に何の前触れや説明もなく、「アダム」とすることは、得策ではない。4:11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。→ ここでは、まず「追い出される」ことの理由が述べられているのではないだろうか。5:32 ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。→ 「五百歳になった」ことと、「セム、ハム、ヤフェテを生んだ」ことがあまり関係していないような表現になっている。実際には、「ノアが五百歳になってから、生んだ」という意味ではないだろうか。6:8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。→ 前の節までに、神が地を滅ぼされようと決意されたことが書かれているので、「心にかなっていた」というよりも、「神の哀れみを得た」とかそういうことではないだろうか。8:6 四十日の終わりに、ノアは自分の造った箱舟の窓を開き、→ 一ヶ月には、30日しかないのに、この四十日とは、何を数えているのだろうか。8:13 六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた。→ 「六百一年目」とは、いつからのことだろうか。ノアの誕生からだとしたら、「六百一歳のとき」とかすべきではないだろうか。9:2 あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。→ 擬人化された表現であり、ここに相応しくない。18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。→ 「子を産めるだろうか」とは、子供を宿した人の言い草ではないだろうか。19:14 そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられる

  • 新改訳2017に関する疑問:ヨハネの黙示録

    新改訳2017に関する疑問:ヨハネの黙示録

    1:4 ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、→ 「七つの御霊」とは、聖霊ではないことは確かである。聖霊は唯一だからだ。それでは、何なのか。新改訳の訳者は、それについて言及することを避けているとしか思えない。元々「原語に忠実」を声高く主張しているのに、原語に「霊」とされている語を「聖霊」と訳したり、「御霊」と訳したり、また「霊」と訳したりしているのは、どう考えても「原語に忠実」だとは思えない。返って紛らわしくしているとしか言えない。その弊害を受けているのは、信徒である。牧師は、にやけながら原語を想像していればいいのだろうが。1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、→ 「その血」とは、ここでは「御子」であることは明白である。それなのに、他のところでは、「御子の血」と訳すと血相を変えて怒り散らすのは、どうも尋常ではない。2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』→ 「いのちの木」が「神のパラダイスにある」ことを、殊更別文章として強調する意味がどこにあるのだろうか。3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。→ 「少しばかりの力があって」とは、「あなたは力が弱かったのに」という意味ではないだろうか。4:5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。→ 「神の七つの御霊」、また出てきた。5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」→ 「ダビデの根」では、「ダビデの先祖」という意味にとられてしまう。「ダビデのひこばえ」とか訳しているものもあるのだが。5:6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠

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