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joseph
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2007/08/11

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  • 思考の迷宮

    キリスト教は、「啓示宗教」と言われ、「人間は、自らの知恵や力では神を知り得ず、ただ神からの一方的な啓示によるしかない」と主張する。それはユダヤ人から始まり、異邦人へと拡大して行った。新約聖書はギリシャ語で記されたが、パウロが「ギリシャ人は知恵を求め・・・」と言ったように、彼らの中には人間の知恵によってこの教えを理解しようとした者たちもいて、いくつかの異端が出現してきた。そこで、正統な信仰を守るために、神学が必要になった。神学は、聖書を体系的に整理し、それが何を教えているか、また何を教えていないかを明らかにした。つまり、神が人間に何を真理として啓示しておられるかを明らかにすることにより、キリスト教信仰を守ろうとしたのである。しかしそのためには、「三位一体」に代表されるような、聖書に直接的には記されていないような概念をも導入することが必要とされ、その延長として「救済論」、「終末論」、「予定論」等々における分岐へと進ませざるを得なくなってしまった。 つまり、この「神学」というものが出現するやいなや、またしても「神学とは?」という考えが人々の心に頭をもたげてきて、それを人の知恵で取り扱おうという歴史が始まったのであった。多くの神学が出現し、それに応じて多くの教派が生まれた。そして、多くの聖書翻訳も。そして、それが再び多くの教派を生み出すということが繰り返されてきた。神学の中には、やはり「キリスト教は、啓示宗教である」との最初の命題に戻ろうというものもあったが、それと反対に、科学や哲学と結びつき、その知識体系によって神を認識しようとするものも現れた。 それに対して、教会生活を送る信徒たちは、一般的にはそのようなことにはまったく関心がなく、教会内の人間関係や社会における地位、会社生活との両立、家庭の存続、子供への信仰の継承、その果ては、世の人に等しい生活の悩みに一喜一憂し、それらに翻弄されながら、上記のこととはおよそ無縁の生活を送ってきた。 キリスト教界における比較的最近の傾向の一つは、壮大な聖書の歴史を一気通貫で理解するために、あえてそれをいくつかの「神と人との契約期間」に分割し、それらの期間内で、啓示されている事柄を実際の歴史に照らして、字義通りに簡潔明瞭に理解した上で全体を統合しようという考え、つまり「ディスペンセーショナリズム」である。これは、すでに世界中に蔓延してしまっていて、もはや後戻りできない様相を呈している

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Testimony:キリスト信徒としての人生から
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