アダムへの回帰
キリストは、「第二のアダム」と呼ばれる。キリストを信じる者は、堕罪によって失われたアダムの祝福を、彼によって回復されるのである。 どのようにしてであろうか。 まず、「神の戒めを破って善悪の木の実を食べてしまった」という、もはや取り消すことのできない事実については、キリストの身代わりの死により、完全な赦しが与えられることで、すでに処理された。 次に、私たちの心の状態が堕罪前のアダムの状態、すなわち「無垢」な状態に戻らなければならない。これについては、新しい戒めとしてのキリストの教えが効力を持つのである。 まず前提として、無垢な状態とは、「善悪を知らない状態」つまり「自分で善悪を判断しない状態」と定義されなければならない。それは、妥当な定義だと思う。というのも聖書によれば、アダムが「無垢を失った」とは、彼が「善悪の木の実」を食べて、「善悪を知る者となった」ことだからである。それゆえ、私たちが「無垢を取り戻す」とは、もはや「善悪を判断しなくても良い状態」になることである。 どのようにして、そうなるのであろうか。 その前にまず、「善悪」とは何かというと、「為すべきか、為さざるべきかを判断する根拠」と定義される。つまり、「善悪の基準」は、その時々、場合々々により変わるのである。そして、それを判断するには、十分な前提知識と状況知識が必要となる。しかし、私たち人間は、通常それらを十分に持ち合わせていない故に、常に判断を誤るリスクを抱えながら判断をしているのである。 そこで、キリストの教えであるが、まず彼は「思い煩うな」と言われる。天の父は、空の鳥、野の花さえ御心にとめられ、命を与え、装ってくださる。まして、私たち人間には、もっと良くしてくださるに違いない。つまり、 第一に、「外から私たちに来るものは、すべて良いものだ」ということである。だから私たちは、「運命」、「境遇」、「経験」等々、すなわち「外から来るもの」について、「善悪の判断」をする必要がない。つまり、それらから開放されたのである。 それからキリストは、「人を裁くな」と言われた。そしてこれは、新しい「戒め」である。つまり私たちは、これを「命じられている」のであり、キリストを信じる私たちは、もはや「人を裁いてはならない」のである。つまり、 第二に「私たちの内から出るもの」に関しても、私たちは、「善悪の判断」をしてはいけないのであり、そのようにして、私たちは、それから開放
2020/11/28 22:39