2016年7月
タイミングのいいことに、この年8月、次のような朝命が出されていた。「諸大名ならびに諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」というものである。「幕譴」つまり幕府のあやまちによって、というのは井伊政権のことを指しているのだろうが、清河八郎自身、この大赦令の実行に期待をかけていた。12月26日、幕府は大赦の令を下し、志士の罪あるものを許した。清河八郎に連座して獄中にあった八郎の弟熊三郎と池田徳太郎を放免した。これを知った清河八郎は翌文久3年正月、浪士取扱の者に自訴し、宥免をかちとった。むろんお叱りをうけたが、浪士取扱の松平上総介(主税助)と鵜殿鳩翁に身柄を引き渡されたのであった。。浪士取扱の下の浪士取締役には山岡鉄太郎がいた。だが、これまでの関係から八郎の方が兄貴分である。事情を知らない浪士たちから見れば無...真相・浪士組結成と清河八郎完
松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する...真相・浪士組結成と清河八郎3
松平主税助は、光胤採用については、政治総裁松平春嶽と老中板倉勝静にも話して内諾を得ているからというふうに光胤を口説いたらしい。しかし光胤は、12月13日、飯田町に仮住まいの主税助の「屋敷へ参り馳走ニなりし上同務等を断り候」と日記に書いている。浪士取扱の話を断ったのである。別の個所で光胤は、主税助のことを「此人、佐幕乃人ニテ光胤等と同志にあらす」と評しているから、しょせん幕臣という身分を脱しきれない主税助を見限っていたのであろう。狂歌が歌われた。松平主税助、浪士取扱仰せ付けられけれバ、此節は浪人どもが流行でちからを入れて奉行勤めるむろん「ちから」に主税を掛けている。さて、ここで清河八郎の立場を確認しておかねばならない。彼は例の無礼討ち事件によって、幕府より指名手配されている、いわば「お尋ね者」である。その彼が、春...真相・浪士組結成と清河八郎2
清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河...真相・浪士組結成と清河八郎1
2016年7月
「ブログリーダー」を活用して、鏡川伊一郎さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。