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  • 真相・浪士組結成と清河八郎 完

    タイミングのいいことに、この年8月、次のような朝命が出されていた。「諸大名ならびに諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」というものである。「幕譴」つまり幕府のあやまちによって、というのは井伊政権のことを指しているのだろうが、清河八郎自身、この大赦令の実行に期待をかけていた。12月26日、幕府は大赦の令を下し、志士の罪あるものを許した。清河八郎に連座して獄中にあった八郎の弟熊三郎と池田徳太郎を放免した。これを知った清河八郎は翌文久3年正月、浪士取扱の者に自訴し、宥免をかちとった。むろんお叱りをうけたが、浪士取扱の松平上総介(主税助)と鵜殿鳩翁に身柄を引き渡されたのであった。。浪士取扱の下の浪士取締役には山岡鉄太郎がいた。だが、これまでの関係から八郎の方が兄貴分である。事情を知らない浪士たちから見れば無...真相・浪士組結成と清河八郎完

  • 真相・浪士組結成と清河八郎 3

    松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する...真相・浪士組結成と清河八郎3

  • 真相・浪士組結成と清河八郎 2

    松平主税助は、光胤採用については、政治総裁松平春嶽と老中板倉勝静にも話して内諾を得ているからというふうに光胤を口説いたらしい。しかし光胤は、12月13日、飯田町に仮住まいの主税助の「屋敷へ参り馳走ニなりし上同務等を断り候」と日記に書いている。浪士取扱の話を断ったのである。別の個所で光胤は、主税助のことを「此人、佐幕乃人ニテ光胤等と同志にあらす」と評しているから、しょせん幕臣という身分を脱しきれない主税助を見限っていたのであろう。狂歌が歌われた。松平主税助、浪士取扱仰せ付けられけれバ、此節は浪人どもが流行でちからを入れて奉行勤めるむろん「ちから」に主税を掛けている。さて、ここで清河八郎の立場を確認しておかねばならない。彼は例の無礼討ち事件によって、幕府より指名手配されている、いわば「お尋ね者」である。その彼が、春...真相・浪士組結成と清河八郎2

  • 真相・浪士組結成と清河八郎 1

    清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河...真相・浪士組結成と清河八郎1

  • 村上春樹新訳『高い窓』を読む

    チャンドラーの『高い窓』を村上春樹の新訳で読んだ。ほぼ50年ほど昔、たぶん清水俊二訳で読んでいるのだが、まるっきり筋立てを忘れていて、初めて読む本と同じだった。ところが妙なことに情景描写に既視感があった。たとえば次のような箇所。「外はもう暗くなり始めていた。ラッシュ時の車の騒音はやや静まったものの、開けた窓から入ってくる風は、まだ涼しい夜風とは言いがたく、そこには一日の終わりにつきものの埃っぽい、くたびれた匂いが含まれていた。自動車の排気ガス、壁や歩道から放射される陽光の余韻、無数のレストランから立ち上る料理の匂い(略)温かい気候の中でユーカリの木が発する雄猫のような、あの独特の匂いだ」この描写はハリウッドの丘の住宅地のことである。私が初めてアメリカ西海岸を旅し、ハリウッドの安ホテルに泊まっていたとき、どこかで...村上春樹新訳『高い窓』を読む

  • 佐々木克『幕末史』(ちくま新書)批判

    幕末の通史を一冊の新書で叙述するためには、どうしても割愛、あるいは捨象されることがらのあるのはわかる。しかし本書には捨象されたことがらが大きすぎて、そこに著者の歴史学者としてのあざとい立ち位置があらわれている。たとえば、浪士組と清河八郎に関する記述はいっさいない。天誅組と生野の蜂起への言及もない。それどころか戊辰戦争への論及がまったくない。王政復古のクーデターから、戊辰戦争をカットして、いきなり最終章が「明治国家の課題」なのである。どうやら本書に伏流しているのは、言わば、討幕のエートスの減殺である。「あとがき」に著者は書いている。「討幕あるいは倒幕運動の歴史として書かれる幕末史には、かなり早くから違和感をもっていた」と。ここで討幕と倒幕の用語の概念はこう違うなどと、言葉遊びをしている一部の論者につきあっている暇...佐々木克『幕末史』(ちくま新書)批判

  • 赤松小三郎研究会にて講演の記事

    朝日新聞10月18日付朝刊(都内版)の28面に写真のような記事が掲載された。そうなのだ、21日に「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたか」と題して講演することになっている。四谷の某酒場で月一回開かれている幕末の勉強会のような雰囲気を想像して、軽い気持ちで講演をおひきうけしたのだが、なんだかおおがかりなことになってきた。赤松小三郎研究会にて講演の記事

  • 芭蕉『奥の細道』出発日の謎

    暦の小の月のことを、子供の頃「にしむくさむらい」とおぼえた。2、4、6、9月と11月(士)で、「西向くさむらい」である。つまり私たちが慣れ親しんでいる暦では、小の月は固定化されているのだが、陰暦ではそうではなかった。年ごとに大小の月が違っていて、小の月も太陽暦のように30日以下ではなく29日以下であった。さて、元禄2年3月は小の月であった。3月は29日で終わっていた。ところが次のような記事がある。卅日(みそか)日光山の麓に泊る。(以下文章が続く)記述者は松尾芭蕉である。「おくのほそ道」の元禄2年3月30日というありえない日付の項である。実は旅の同行者の曽良の日記から、日光に泊ったのは、4月1日だったことがわかっている。それはそうだろう、3月30日という日付はないのだから。なにが言いたいかといえば、「おくのほそ道...芭蕉『奥の細道』出発日の謎

  • おススメ本・徳田武「幕末維新の文人と志士たち』

    この本はもっと早く読んでおくべきだった。第3章の清河八郎の項目で、八郎と土佐の間崎滄浪との交流の、その親密さを検証した記述の新鮮さに、そう思ったのである。あと注目すべきは、大庭松斎の生涯をたどった第6章と7章である。大庭は会津藩が尊攘派志士のグループに潜入させたスパイ(とみなされている)の会津藩下士大庭恭平のことである。明治まで生きて、役人にもなったが、飲んだくれて鬱屈した晩年であったらしい。第5章の「大橋訥庵逮捕一件」はざっと斜めよみしただけだが、第4章の『町井台水の「南封紀略」も注目すべき記事だった。天誅組を逮捕者側からみた貴重な史料が紹介されている。なんと安積五郎の逮捕時の様子がわかるのである。あらためて安積五郎はいい男だと感じた。幕末維新の文人と志士たち徳田武ゆまに書房おススメ本・徳田武「幕末維新の文人と志士たち』

  • 路通という俳人

    芭蕉の「奥の細道」紀行の随伴者は、よく知られているように曽良であったが、実は当初に予定されていたのは路通であった。路通と曽良が入れ替わったのである。この路通には謎が多い。まず出身地に定説がない。美濃、京都、筑紫と諸説ある。本名は八十村与次右衛門とされているが、齋部(忌部)姓だともいう。いずれにせよ教養があって、三井寺育ちだったという説もある。元禄2年12月5日付で、芭蕉が大津の医者で俳人の尚白に宛てた手紙で、路通の俳句を紹介している。火桶抱(い)てをとがい臍(ほぞ)をかくしけりそして芭蕉は、「此作者は松もとにてつれづれ読みたる狂隠者。今我隣庵に有。俳作妙を得たり」と書きつけている。「松もと」というのは現大津市の松本のことらしい。大津で徒然草の講義をしている狂隠者が路通だった。注目されるのは今は路通は江戸に出て、...路通という俳人

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