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smgrh1992
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2005/09/15

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  • 般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

    さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私...般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

  • 般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

    しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である...般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

  • 世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4 再掲と現時点の修正とコメント

    *筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。*例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってし...世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4再掲と現時点の修正とコメント

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伝えたい!いのちの意味―岡野守也の公開授業+α
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