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  • 219 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog藺の花の上漕ぐ船や五月雨 高浜虚子    藺の花はイグサ科の多年草で山野、湿地に自生するが水田でも栽培されるそうである。そういう川か湿地を、船で巡るところがあってそこで詠まれたようである。完全に水没している藺の花ということでなく、藺の

  • 23 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog島の教会かとりせんかう置くあはれ 小澤實 前書に長崎とある一連の一句である。多勢の人がお参りされていたのかどうか、定かではないが蚊取り線香が置かれている。下五「あはれ」喜び、悲しみ、同情など心にジーンとくる情感とある。お参りする人への

  • 191 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

     Ryo Daimonji Blog玉祭りけふも焼場のけぶり哉 松尾芭蕉 玉祭りと、一気に秋へ飛んでしまう。盆の義仲寺内の無名庵の竜が丘墓地での一句のようだ。こういう場面で思い出すのはネット動画のガンジス川の河畔での荼毘のシーンだ。河畔であっても荼毘に付されるのはまだ

  • 218 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog三味弾いて銭乞ふ船や涼み舟 高浜虚子 例えば川下りの屋形舟なぞに三味線弾きが乗り込み掲句のような巡りになったのかもしれない。わずかな銭、とは言えプロの技には憧れてしまうものである。私ごとで言えば、京都三条木屋町の高瀬川あたりで長渕剛を

  • 22 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog花冷えや都電と都電すれちがふ 小澤實 都電は1972年(昭和47年)末までに、荒川線以外の全路線が廃止されたそうですが、その都電が花冷えの頃すれちがった、という俳句です。私の京都でも昭和五十三年に廃止されたようですが、北大路を市電で移動する

  • 190 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog我に似るなふたつにわれし真桑瓜 松尾芭蕉 この一句、まづは上五「我に似るな」で俳句を志す若者に「私に似るな」と言っている、とわかるか。次に中七下五「ふたつにわれし真桑瓜」を「瓜を二つに割りたる如し」つまりうり二つにによく似ているとの俚

  • 217 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

      Ryo Daimonji Blog薮入のすこし覚えし京言葉 高浜虚子 私のような田舎に暮らす者は異文化にはとても敏感である。特に関東圏に暮らす人がペラペラと東京弁で仰ると殺される前の猫のようにじっと目をみはり聞いてしまうのである。薮入ですこし身についた京言葉で挨拶

  • 21 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog即死以外は死者に数へず御柱 小澤實 私を必要と思われるなら生かし、不必要と思われるなら殺してください。と、行に仕立てた人為がある。それが「行」なのだから致し方ないのである。こういう境地で人は死への恐怖を超えるのかもしれない。しかし、人

  • 189 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog京にても京なつかしやほととぎす 松尾芭蕉 ふるさとの原風景ってどこだろう、母なのか、父なのか竹馬の友なのか、というふうに自分の心の中の核心というものは、はっきりと掴めないものだ。この句にしても京にいるのに京が懐かしいとはなんぞ。そこに

  • 216 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog薔薇剪つて短き詩をぞ作りける 高浜虚子 存分に薔薇を見て、さらには剪りとっても見て俳句にされたのであろう。俳句と言わず短き詩と遠回しに言って美しすぎる語感をおさえられたのであろう、「をぞ」と意図してリズムに不調を入れるあたりさすがであ

  • 20 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog鳥海に田水張ればやはやさざなみ 小澤實 鳥海という姓の方が色々な分野に活躍されていることをネットで知った。なんとも素敵な姓名で羨ましく思う。が、この句の場合は地名のことと解する。山形県と秋田県を跨ぐ山に鳥海山があるが、秋田県南部に旧町

  • 188 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog橘やいつの野中の郭公 松尾芭蕉 こういう俳句は今日的にはどうなのだろうか。つまり、花橘も郭公もいつの野中のことであったことであろうか、と記憶をただ詠嘆して見せている。つまりはっきりしないのである。このはっきりしないところが、句会などで

  • 215 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

     Ryo Daimonji Blog夕歩き宿の団扇を背にして 高浜虚子 俳人というものはとにかく見なければいけない。上から下へ下から上へ、さらには背ろ、斜めといった具合である。この句は己の背景を気にしている。正確には「腰にして」であろうが背にしたごとくに詠んでいる。

  • 19 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog眠るなり囲炉裏に太き薪よこたへ 小澤實 冬の季語囲炉裏は知っているがこの句のように生活に根ざして使ったことはない。囲炉裏のそばに横たわったものか、座って居眠っているのかいずれにしてもこんな安息はなかなか得難い。その囲炉裏の中にふとい薪

  • 187 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog日の道や葵傾くさ月あめ 松尾芭蕉 上五、日の道とは、地球を中心に描く大円状の太陽の位置のことだそうな。その方向に葵の花が傾いている不思議。五月雨降る初夏のことである。

  • 214 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog蚤や蚊やわれ貧にして且つやめり 高浜虚子 明治に入ってホトトギスも順調でこの句にあるほど氏が貧していたとは思えないのだが、実際のところはわからない。どの程度に病んでいたのかも略年譜ではわからないのだが、貧乏の病気ぐらしに蚤や蚊が堪えた

  • 18 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog箱眼鏡流れに押すやすべてみどり 小澤實 腰から腹に水が来る渓流である。鮎、山女などを採るために箱眼鏡を覗き続けている。そこそこの深さがあるので箱眼鏡を押し続けなければ流されてしまう。箱眼鏡は流れを切っているので覗くと時折水泡が見えるが

  • 186 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

     Ryo Daimonji Blog猪もともに吹るゝ野分かな 松尾芭蕉 老年期とは言え家族とともにいるわたにしても、秋も台風に直撃されると心細く気弱になってしまうものである。一人暮らしの芭蕉翁にしてみればその侘しさも一入であるのであろう。ついつい強風に煽られているであ

  • 213 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog宮柱太しく立ちて神無月 高浜虚子 ときは神無月、出雲へ行かれて神様はいらっしゃらない。そんな社の柱は変わらず太く堂々と立っている。静寂が逆に神の存在を感じさせることもある。清い世界である。

  • 17 『澤』(著:小澤實)を読む

    Ryo Daimonji Blog雨後の道まだら乾きや燕 小澤實 燕が飛来する頃の雨後である。何気ない景に燕を認め句とした。梅雨前の初夏のひと日。まだら乾きの道を行くにあてもない。

  • 185 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog夏艸に富貴を飾れ蛇の衣 松尾芭蕉 夏草が貧乏くさく生い茂ることだが、せめて蛇の衣なと富貴をまして飾って欲しいものだ。芭蕉翁も蛇は嫌いであったようだが、その皮には富貴を認めていたようである。酒堂との書簡での愚痴のやりとりの一句であったよ

  • 212 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog昼過ぎの炬燵ある間を煤払 高浜虚子 この句十一月二十五日の句会での作、とある。二十三人の名の記録がある。家の中で冬場炬燵のある間といえば、家族がくつろぐ大きい間を想像する。昼過ぎとあるので家族もそれぞれに、その間も空いていることなのだ

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