小田香監督による2015年作『鉱 ARAGANE』について。 『伯林』『カメラを持った男』のような都市映画の形式をもった映画だが、それら映画とは真逆に、機械の運動はリズミカルではなく痙攣的。人間は機械の一部のように同期して動くのではなく、機械に対して外部の存在としておかれている。鳴る音は不快で、特に労働者の振り下ろすハンマーの打音、ダイナマイトによる爆破音は身体的な拒否感を伴って響く。 炭鉱の地上から、労働者と共にその地下へと侵入し、そして出てくるという構成。機械が炭鉱の一部のように撮られており、炭鉱があたかも人間によって一部機械化された一つの生き物であるように感じられる。人間はその生き物のよ…
マックス・オフュルス(Max Ophuls)による1948年作『忘れじの面影(Letter from an Unknown Woman)』について。 シュテファン・ツヴァイクの同名小説を原作とした映画。原作において、手紙を読む男は R. という名前で小説家という設定だが、この映画ではピアニストとなっていて、名前もシュテファンへと変えられている。シュテファン・ツヴァイクは、この映画のシュテファンと同じくウィーンを拠点としながら文化人としてヨーロッパの国々を転々とする生活を送っていて、『昨日の世界』という、幸福だった時代を描いた回想録を書き、1942年にヨーロッパの進む先に絶望し自殺したと言われて…
蜃気楼としての過去、砂漠としての未来 / 大いなる存在の介入 ー ジャン・ルノワール『ランジュ氏の犯罪』
ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1936年作『ランジュ氏の犯罪(Le crime de Monsieur Lange)』について。 出版業界の大物バタラは詐欺のような方法で人々から金を巻き上げている。バタラはフリッツ・ラングにとってのドクトル・マブゼのような、悪を象徴する存在となっている。同時に、バタラは魅力的な存在としても描かれていて、人々から女性をも奪っていく。そして、自分に惚れた女性を自身の利益のための道具として利用する。 舞台はアパートであり、そこにはランジュの務める出版社があり、ヴァレンティーナが洗濯業を営んでいる。殆どのシーンがアパート内部であり、基本的に空間が狭…
精神性を抜かれたフロンティアスピリット ー ジャン・ルノワール『南部の人』
ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1945年作『南部の人(The Southerner)』について。 精神性を抜かれたフロンティアスピリット 「こいつら嫌いだわー!」って思いながら嫌々撮ってる感が映像から溢れ出してるように感じたけど、どうなんだろう。映画全体が嫌味というか、表面的なメッセージとは真逆のことを言おうとしているように見える。映像、プロット共に表面だけ空虚になぞったフォード映画って感じ。精神性を抜かれたカウボーイ、フロンティアスピリット。 生き生きと撮られる動物達に対して、オブジェのように静的に撮られる俳優達。そのセリフも作り物のように棒読み。物語の展開も強引で、いく…
ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1946年作『浜辺の女(The Woman on the Beach)』について。 イメージと現実の狭間で 元海軍である主人公は魚雷で船を破壊される夢を見続けている。翻訳では省略されていたが、海沿いの町の警備隊員である主人公は自身のことをビーチカウボーイと自虐する。主人公は馬に乗り、その町の砂浜に打ち上げられた小さな難破船の元へと通い続けている。主人公は船を破壊され浜辺に打ち上げられてしまった海のカウボーイとして設定される。海軍にいた時の主人公にとっての馬は船であり、難破船は主人公と共に浜辺に打ち上げられたもののように見える。しかし、その夢が主…
アンドレ・テシネ(André Téchiné)による2007年作『証人たち(The Witnesses)』について。即興的に撮られたような映像とは対照的に、物語構造や人物設定は非常に構築的なものとなっている。 反復と不可逆な変化 この映画は、春から夏、秋から冬、マニュの死後の春から夏という3パートに分かれている。春から夏は幸福の時代としておかれていて、メディやアドリアン達のコミュニティにマニュが現れる。マニュはこのパートでは生を求め、性愛をもたらす存在となっている。秋から冬は戦争の時代としておかれていて、エイズが流行り始める。誰よりも早くエイズにかかったマニュは死を求め、エイズ=死の恐怖をもた…
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1945年作『偽れる装い(Falbalas)』について。 装うことと映画監督 ファッションデザイナーであるフィリップは彼にとってのミューズを探し続けている。ミューズと見做した女性を見る時、フィリップは現実世界のその女性を見ているのではなく、その向こうに存在するイデアを幻視している。そして、フィリップは理想世界にあるその存在を現実のものとして捉えようとするかのように服をデザインする。フィリップが服を作っていくに従い、ミューズは現実化されていく。フィリップの作った服を着た女性はミューズへと変容されていき、そしてフィリップを愛するようになる。し…
『エドワールとキャロリーヌ』の姉妹作としてのジャック・ベッケル『エストラパード街』
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1953年作『エストラパード街(Rue de l'Estrapade)』について。 『エドワールとキャロリーヌ』との比較 話の骨格や緩いリズム感含めて『エドワールとキャロリーヌ』とほとんど同じ映画。『エドワールとキャロリーヌ』では貧しい音楽家であるエドワールが上流階級出身のキャロリーヌと夫婦であり、そこに第三の男として上流階級の男であるアランが現れる。それに対して、この映画ではキャロリーヌ役だった俳優がおそらく同じく上流階級出身だろう他の男と結婚していて、そこにエドワール役だった俳優が現れるという設定になっている。『エドワールとキャロリー…
リズムのズレと断絶 ー ジャック・ベッケル『エドワールとキャロリーヌ』
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1951年作『エドワールとキャロリーヌ(Edward and Caroline)』について。 リズムのズレと断絶 上流階級出身のキャロリーヌと貧しいピアニストのエドワールは仲が良さそうに見えて、価値観が全く噛み合っていない。エドワールは物を必ず決められた場所に仕舞うが、キャロリーヌはその時々で仕舞う場所を変える。クラシック音楽を好み、服の好みも古いエドワールに対して、キャロリーヌはラジオから流れるポピュラー音楽、流行のファッションを好む。エドワールが大切にしまっている辞書は、キャロリーヌにとっては鏡で服装を確認するための踏み台となっている…
エリック・ロメール(Eric Rohmer)による1959年作『獅子座(The Sign of Leo)』について 迷宮、パリ、獅子座 音楽家志望で40歳を間近にした主人公は未だにモラトリアムにあり、自分から何かを解決しようとしない。それは主人公が占星術を信じその結果に従っているからで、出来ることは友人に頼ることだけであり、だからこそその人生の行き先は運、そして友人の行動によってのみ決まる。主人公は40歳になって初めて幸運か不運かがわかると占われている。 パリで生まれ育った主人公はパリを嫌っており、金が入れば田舎に住むことを決めている。パリを嫌うのは主人公の星座である獅子座が見えないからで、占…
「ブログリーダー」を活用して、structuredcinemaさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。