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  • 上演され続ける傷の記憶 ー アラン・レネ『メロ』

    アラン・レネ(alain resnais)による1986年作『メロ(melo)』について。 夫婦であるピエールとロメーヌの元にマルセルが訪れる。マルセルは有名なヴァイオリン演奏家で、同じくヴァイオリン演奏家であるピエールとは若い頃からの親友である。マルセルは二人に、自分が嘘に対するトラウマのようなものを持っていることを話す。それは過去、コンサートで恋人に向けて演奏しているその最中に、恋人が浮気しているところを見たが、恋人は浮気していないと嘘をついた経験によるもので、演奏中に浮気を目撃したマルセルは、そこから目を逸らすように音の中に沈み、盲目になろうとしたと語る。最後に現れるのがピエールの従姉妹…

  • 性愛の原風景、規範の確立 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアン・ナイト』

    生の三部作最終作として『デカメロン』『カンタベリー物語』に続く作品。これら前二作がイタリア、イギリスと舞台を変えつつも原作の書かれた時代、同じ14世紀を描いたものだったのに対して、この『アラビアン・ナイト』はその数世紀前が舞台となっている。これら三作が共通したテーマを描いていることを考えれば、これは『デカメロン』『カンタベリー物語』で描かれた状況の前日譚のような作品となっている。 作品を遡れば、パゾリーニは『愛の集会』において、カトリック社会は家族を最小単位として構成されていること、そしてその家族に対してカトリック的な性規範、姦淫の禁止を課し同質化することで成立していることを性についてのインタ…

  • 苛烈化する支配、フィクションによる復讐 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『カンタベリー物語』

    ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』をベースとした映画で、『デカメロン』に続く生の三部作二作目。 イギリス、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼旅行、旅行を楽しむために参加者達が語った話を、そこに居合わせたパゾリーニ演じるジェフリー・チョーサーが、自室で物語として書き起こしていく。パゾリーニ=チョーサーが「冗談が真実を含むこともある」と話すように、『デカメロン』と同じくコメディックな物語のコンピレーションのようでありつつ全体として現代社会を描いたものにもなっている。原作はボッカチオ『デカメロン』に着想を受けて書かれたものらしく、途中チョーサーがデカメロンを読んでサボっているシーンはそれを表して…

  • 性愛の抑圧、フィクションによる解放 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『デカメロン』

    ボッカチオ『デカメロン』を下敷きにした生の三部作一作目。 時代は原作と変わらず14世紀のまま、舞台はナポリに変更されている。ナポリは『愛の集会』で描かれたように、貧困層が多くを占めイタリア・カトリック社会によって搾取されてきた土地だ。『愛の集会』では彼らがカトリック社会による性の抑圧から解放されることを望む姿が描かれるが、この映画におけるナポリの人々もまた、カトリック教会によって搾取され性を抑圧されている。この映画は『愛の集会』において描かれた現実のナポリの人々を、時代を14世紀に移し現実ではなくフィクションの中で語り直そうとしたものだと考えられる。時代設定としてはジョットの生きた時代、つまり…

  • フレームの外へ向かう運動 / 内からの祈り ー 山崎樹一郎『やまぶき』

    冒頭、黒い画面にやまぶきの花が咲くように描かれる。その絵に重なるように山が映されるが、その山は開発されやまぶきは枯れている。劇中語られる通り、やまぶきは田舎にしか咲いていないような日陰でしか育たない花であり、一面砂と石の広がる、日光を遮るもののない開発された土地では育つことができない。警察官の父親と二人で暮らす女子高生、やまぶきもまた田舎の日陰でしか生きることのできない存在となっている。 舞台は岡山の田舎町であり、この映画のフレーミングは常にそれを表すように窮屈で狭い。そして、町の外で起きることは決してフレームの内には映されず、その外の話として登場人物から言及されるのみだ。いわば、この映画のフ…

  • アメリカ文化、工業化とイタリア社会『イタリア式奇想曲』

    工業化が進み、イギリスを経由してアメリカ文化が若者を中心に受容された当時のイタリア社会についてのオムニバス。原題は「わがままなイタリア資質」みたいな意味になるんだろうか。パゾリーニの短編が非常に真っ直ぐに美しく、またトトの最後の出演作でもあるらしい。 マリオ・モニチェッリ『子守』 子守が子供達の読んでいたコミックを悪魔的、犯罪的であるという理由で取り上げ人食い鬼の童話を読み聞かせるが、童話の方が悪魔的、犯罪的で、その恐ろしさに子供達が泣いてしまうという作品。 ステーノ『日曜日の怪物』 トト演じる女性を欲望的に見る老人が主人公で、女性は主人公を選ばず若者は選ぶ。若い男性への嫉妬、そこからくる嫌悪…

  • 五月革命、そして愛の終わりについてのオムニバス『愛と怒り』

    五月革命、そして愛の終わりについてのオムニバス。最後に置かれたマルコ・ベロッキオの作品が直接的に五月革命渦中についてであり、その前のゴダールの作品が五月革命もしくは愛の終わる瞬間について、ベルトリッチがより大きく愛のある世界の終わりについて、パゾリーニとカルロ・リッツァーニはそれ以降の愛の失われた世界についてという形で、全体としてみれば作品が進むごとに五月革命に向けて時間を遡っていく構成となっている。五月革命=愛というわけではなく、愛、和解の可能性を信じられた最後、一つの理念に向けた団結の可能性が信じられた最後が五月革命の時期と言う方が近いのかもしれない。ゴダールの作品は『気狂いピエロ』の語り…

  • ゴダール、パゾリーニ、ロッセリーニ、そしてオーソン・ウェルズと世界の終わり『ロゴパグ』

    1963年作、世界の終わりについてのオムニバス映画『ロゴパグ(Ro.Go.Pa.G)』。物、機械として非人間化されていく人々という主題で共通し、扱われるテーマは精神分析、労働、核兵器、消費。ゴダールとグレゴッティの作品がシンプルで一つの問題意識に絞られ、それを始点として今後それが深められ複雑化されていくような印象なのに対して、パゾリーニのものはカオスで、複数の主題が同時に存在している印象がある。ロッセリーニのはその中間にある感覚。パゾリーニとロッセリーニは映画へのメタ的な言及で共通する。 ロベルト・ロッセリーニ『潔白』 アルフレッド・アドラーの、日常的に不安に直面する、愛含む個人性を失ってしま…

  • イタリア社会に関するオムニバス『華やかな魔女たち』において現代の魔女たちはどのように描かれたか

    中編の間に短編を挟み込んだ5話構成のオムニバス映画。全ての作品でシルヴァーナ・マンガーノが魔女として現れるが、魔女をどう解釈するかは作品によって違っている。おそらく魔法=アメリカとして、現代生活に適応した新しい女性像が魔女として置かれているのだろう。基本的にブラックコメディで、女性を軸とした現代社会批判のようになっている。5話全部面白く、特に短編二つの速度と密度が凄まじい。 ルキノ・ヴィスコンティ『疲れ切った魔女』 原題は『生きたまま焼かれた魔女』。魔女=セレブリティ=商品として、現代を舞台にして魔女裁判を描いたもの。人気モデルである主人公は、友人の婚約10周年のパーティに出席する。そこで主人…

  • カトリック社会による規範、その抑圧 ー ピエール・パオロ・パゾリーニ『愛の集会』

    ピエール・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)監督による1965年作『愛の集会(Love Meetings)』について。 この映画が公開された1965年時点、イタリアでは離婚が法的に認められておらず(制約の元認められるのが1970年)、1958年のメルリン法によって売春婦に対する搾取が犯罪になり、娼館が廃止されている。 イタリア社会はカトリック教会の影響を強く受けており、結婚する女性は処女でないといけない、結婚後は家の中にいて一人で外に出てはいけないといった、女性の自立を認めない社会通念、規範が存在する。離婚もまた、教会婚姻と矛盾するため認められない。その社会の在り方は…

  • 映画によって捉えられた虚構の死 ー ダニエル・シュミット『書かれた顔』

    ダニエル・シュミット(Daniel Schmid)による1995年作『書かれた顔(The Written Face)』について。 坂東玉三郎が歌舞伎の舞台裏へと入っていく、その舞台で演じている人物もまた玉三郎である。ここから舞台を終えた玉三郎の白塗りが落とされるまで、この映画の冒頭は溝口健二の残菊物語を模したものとなっている。それはあたかも、玉三郎が歌舞伎の世界に入り今の姿へと至るまで、残菊物語に重ねれば菊之助が父親のようになるまでを同じシークエンスの中で映し出したもののように見える。 玉三郎は女形を演じる男性であり、玉三郎は女性の身振りを客観的に観察しそれを体得することでそこに近づこうとした…

  • カルポ・ゴディナ『アイ・ミス・ソニア・へニー』監督達はどのようにソニア・へニーを撮ったか

    カルポ・ゴディナ(Karpo Acimovic-Godina)監督による『アイ・ミス・ソニア・へニー(I miss Sonja Henie)』(1971年 ユーゴスラビア) について。 カルポ・ゴディナが何人かのディレクターに「I miss Sonja Henie」というフレーズを含んでいる短編を、全員共通のアングル、ロケーション(画面の下半分を占めるベッドのある部屋、左側に玄関の見える廊下、右側にキッチンに続く窓)で3分以下という制約で撮らせて、それを繋ぎ合わせたもの。若い頃のフレデリック・ワイズマンも参加している。 「I miss Sonja Henie」は Peanuts のセリフからと…

  • まなざしについての物語『シー・ハルク:ザ・アトーニー』を読み解く / MCUはマルチバース・サーガで何を物語ろうとしているのか

    ※ 『シー・ハルク:ザ・アトーニー』『ロキ』のネタバレを含みます 舞台設定 視線の変容 ハッピーエンド / クライマックス カーン=KEVIN 関連記事 舞台設定 冒頭、初めての最終弁論を控えたジェニファー・ウォルターズ(ジェニファー)は「楽しい法廷ドラマに集中してもらうために」という前置きの元、第四の壁を越え、視聴者に向けて能力を得るに至った経緯を語り始める。ジェニファーは事故によって、従兄弟であるブルース・バナーのようにハルクへと変身する能力を得て、その後人々にシー・ハルクと呼ばれるようになる。しかし、彼女にとって大事なことはそれではない。彼女が視聴者に語りたいのは、遂に手に入れた弁護士と…

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