いつもブログを読んでいただきありがとうございます。私、持病悪化によりブログの更新が難しくなりまして、ここままブログ続けてもみなさまにご迷惑をおかけしてしまうと判断しました。ブログの更新を楽しみにしていたみなさまには申し訳ないのですが本日のお詫びとご報告を待ちまして本ブログの更新を最後にしたいと思います。 では、最後の記事です。自燈明。自分の心の明るさを頼りに進むことです。最後の投稿になります
心を落ち着かせるには、知恵が必要です。知恵とは、聖者の知恵の言葉です。もし、聖者の知恵の言葉と縁があれば、それを知ればよいのです。修行と称し、聖者と同じ修行を辿らなくてもいいのです。師匠も必要ありませんし、弟子も必要ありません。自分一人で行えることです。師を見たら師を殺せは本当のことです。私は、これに深く同意します。(しかし、本当に殺してはいけませんよ。心の中で師とは不干渉になるのです)師を見たら師を殺せ(実際には殺しませんが)
人の心とは、制御する必要があります。それは、屋根を固く葺く様にです。屋根に雨漏りがあれば室内を濡らします。それは、まるで、欲望という雨が、室内を汚染する様にです。逆に、屋根をしっかり固く葺けば欲望が入り込む余地がありません。この様に、人の心も屋根のように制御する必要があるでしょう。そして、日常に感謝をしつつ、生活努力をすれば、自分の日常生活が喜びになることでしょう。心の制御をする
万物とは成長し続けます。世界も成長し続け、宇宙も成長し続けます。赤ちゃんも、知識も、人も、動物も、大自然も成長し続けます。しかし、心もまた成長するように思えますが、心とは成長しきっているのです。ですから、心の良心を思い出すとは、人により目覚めると言ったり、覚醒と言ったり、思い出すといいます。なぜ、心が成長しているように感じるかといいますとエゴが絡んでいるからです。しかし、心はすでに成長しきっているのです。それが良心です。とは言っても、日常生活をする努力は必要です。そして努力の中にも感謝があればなお良いでしょう。全ては成長のために起こっている
心とは、無限から生まれます。その無限は、二つから生まれます。二つは、一つから生まれます。一つは、二つから生まれます。当たり前のように感じていますが、よく考えてみれば、子供が女性だけから生まれるのです。女性は男性とのペアです。女性と男性は、それぞれ一人の人間で一名ずつですが、ペアでは一組です。心とは、陰陽から生まれます。陰陽は、無限から生まれます。無限は、無限なる二つなるものから生まれます。私には、わかりませんが、無限を生み出している存在が心におられるようです。二つで一つ
その国が繁栄するかどうかはその国の住民が先祖供養をしているかどうかでわかります。先祖供養という弱者を忘れない行為が末長い繁栄をもたらします。しかし、これは自分だけが繁栄したいから先祖供養をするのではなくて、辛い思いをしているご先祖様を慰めてあげたい、助けてあげたいという気持ちが始まりです。ところが、人は現金なもので自分に得があると動くものです。ですから、先祖供養が続いていることを重視します。つまり、先祖供養をしたところで何の利益もない、先祖という忘れ去られた弱者を忘れない気持ちが続く行為とは本物ではないでしょうか。口ではなんとでも言えますが、その人の行為を見ます。そこに、行為が続くことに本心があるのです。先祖供養の徳
苦しんでいると苦しみがあります。しかし、苦しんでいないときには、苦しみはありません。その苦しみは100年後、1000年後にあるでしょうか?私たちとは、100年後、1000年後に存在するでしょうか?いつか消えていくものに寿命を削っています。もし、苦しみが青い色ならば、私は青い色だというでしょう。苦しみとは色であり、雲のようにいつか常に変化しており、雲のようにいつか消えていくものです。消えゆく雲に色を付けている
無限が有るという一つを生み出します。そして、その一つは二つの陰陽生み出します。陰陽は、二人の間に第三の子供を生み出します。そして、第三の子供がこの世の全てを生み出します。この三点により世の全てが安定します。普通の人は、自分を孤独な者、家族を亡くした者、役立たずな者と言われることを嫌がりますが、世の権力者は、そう自称します。ですから、ダメだと思われるものが逆に良く、良いものが逆にダメになるものです。世の人々が伝えることは、私も同様に伝えますが、つまり人を権力で無理矢理、強制することはいい死に方をしないということなのです。私は、私にこれを戒めます。無限=日常
お金のこと考えると明るく考えられることもあれば、暗く考えられることもあります。しかし、そんな喜怒哀楽を起きるお金とは「紙」であり「石」です。紙と石に人は、殺傷事件まで起こします。一体、何のための人生でしょうか。しかし、紙も石も舐めてもいけないし、疎かにしてもいけません。自分なりのバランスも持って静観します。仕事がなければ、それでも生かされる毎日に感謝をしつつ日常生活を正すことから始めます。布団の中から出られなければ、それでも生かされている毎日感謝をしつつ布団の中でできる養生をします。目線ははるか彼方ではなくて、人生を下から眺める徹底した視点です。お金が使えるのも、貯まるのも生きてこそです。生きてこそのお金
弱い人の人生とは、際限なく求めて執着が強いことを言います。弱い人とは、自分は強いと信じ、他人を打ち負かす人を言います。逆に、強く生きるとは、執着が少ないことを言います。逆に、強い人とは、自分が弱いと知っている人です。この世とは、人の目には、真実が逆に映ります。逆になる
他人のことよりも自分のことを知る者とは、他人を知るよりも強く、聡明です。どんなことにも満足する人は、幸福な人です。強すぎる願い、執着をしていますと生活のどこかに無理が生まれるでしょう。ですから、自分のペースでマイペースで生きる人とは長い距離を歩けます。そして、永遠を生きることでしょう。ほどほどで満足することは聡明です
私が信頼する言葉とは、素朴な言葉です。美しい言葉ではないのですが素直さがあります。いい民衆とは、言い訳が下手なものです。ですから、もし、私が信頼するのであれば口下手という雄弁な者を信頼するでしょう。多くを知っている人とは、一つのことを深くは知らないことでしょう。一つのことを深く知らないから、浅く広く知ることができるのです。聖人とは、溜め込まない人のことです。他に与えるのですが逆に与えられる者です。聖人とは、多くの持ち物を与えるのですが、逆に多くを与えられます。この世の真理とは、良いことを与え尽くすのですが、害にはなりません。真理を知る人とは、物事を成し遂げるのですが他と争うことがありません。真理の道=日常生活
犯罪などに巻き込まれますと、加害者に対して恨みを抱いたりするものです。しかし、「いつまでも」加害者に恨みを抱いておりますと自分の運が悪くなります。ですから、されたことは忘れなくてもいいですから心の中では相手を許すのです。加害者とは、距離を置いておくのも一つの手です。私が、加害者を死刑に命ずることは可能かもしれませんが、誰が進んで死刑の執行をするのでしょうか。それよりも、「このくらいですんでよかった」と感謝をしつつ、日常生活に戻ることです。誰かを恨んで自分の運が悪くなるほど損なことはありません。死を持って終わらせるのではなく、許しを持って終わらせる
自分に感謝をして生活をしておりますと他人にも感謝したくなるものです。その心とは、拝んでいるようなものです。それは、自分とは神であり、他人という神であることを知っているからです。自身(自神=じしん)ということを私たちは、忘れているだけなのです。感謝とは、自神(自身)に気づくことなのですね。自身(自神)に気づく
目覚めておりますと、誰もが見過ごしてしまうこの世の真理に気づきます。ですから、人は、このようなことに憧れて目覚めを目指すのでしょう。しかし、そもそもそんな遠回りは必要ないのです。日常生活ができること、生かされていることに感謝を続けていますと自然とこの世の真理に気づきます。感謝は続けていくと自然と自分の良心へと意識が向かいます。そして、自分を知っていくとこの世の真理がわかりはじめます。それは、言葉で語らず、それでいい、それでよかったという心境です。誰もが真理を見ている、聞いている、触れている
明るい時代というのは、世に求めることではありません。まず、一人一人の心の平和があり、一人一人が神柱となり明るい時代へとなるのです。つまり、世の中とは、一人一人の心の心境で変わるものです。他人に対して思うこととは、自分に対してであります。他人への悪口、愚痴、非難、などは自分へ行っているのです。ですから、できる範囲で他人という自分に与えてあげたいものです。それは、他人という自分を祝福することになるからです。他人とは自分である。他人にすることは自分に帰る
自分に、内在する神様には、素直でいるのが良いのです。その神様とは、良心呼ばれていますが、良心に歯向かう行いは避けた方がいいのです。むしろ、できる範囲でいいから自分の良心を大切にする。自分を育てるのです。あわてず、騒がずに、のんびりと育てます。自分が自分の親(母性)になるかのようなものです。そして、良心を育てて、やがて死を迎えて育て上げた良心を天にお返しする。つまり、良心とは、天からのお預かりしているものなのです。この世に生まれて、良心をお預かりして、やがて天に返すものです。少しでも良心のお世話ができれば幸いです。この良心とは、誰もがお預かりしているものです。良心のお世話をすることに遅い早いはありません。良心のお世話をする
世間では、春の宴の中、人が喜び、幸福そうです。しかし、私だけが家の中で孤独で、一人勉強をしております。家の外では、人々の笑い声が聞こえて楽しそうです。しかし、私は、笑顔を忘れたかの如く一人悶々としております。街を見ると、人々は裕福で幸運で仲間同士で仲睦まじそうです。しかし、私は、日に日に貧乏になっていくかのように感じております。しかし、私がだけがこの世の真理を理解して、自身の道を歩んでいるのです。それは、まるで。。。
文明や文化は、なんのためにあるのでしょうか。文明や文化が栄えても、弱い子供や女性や老人が犠牲になる世の中とは賢いのでしょうか。強いもの勝ちの世の中も栄華はあるかもしれませんが、心身の健康的な習慣を大切にして、弱者が上座に座るような世の中の方が賢明かもしれません。今は、強くても、やがて、誰もが弱者になっていくのです。大自然ですら春夏秋冬と変化するのですから、人間が変化しない方が不自然です。この世に母から産まれ出て、赤ちゃんの頃の体が自由にならない状態から、成長し体がある程度動くようになり、やがて老化して生きている誰もが、心身の自由が無くして、この世の未練を少なくします。弱者に優しいとは、やがて弱者になる自分自身への花束を贈ることになるでしょう。優しさの花束を私から私へ
攻めの一手を選ぶくらいならば守りを固めます。家庭の家計であれば、収入が入ってきたら、無駄遣いをできる範囲で減らします。そして、健康的な習慣を大切にします。確かに、お金は大切ですが、お金を持つことで知らずに罪を犯すくらいならば平凡を選ぶ方が賢明です。収入が上がると立場からの責任も増しますが、平社員であれば、管理職になって知らずに犯す罪を犯したくても犯せません。山の頂上とは、険しく高いので登れる人は、限られていますが、山から流れる湧水は、やがて全ての河川の王様の一番低い海へと流れ着きます。人とは、低い位置にある海のように、低い位置(平社員)にいる方がいいのかもしれません。守りを固める
最高の戦いとは、戦わないことです。そもそも、相手に戦う気すら持たせないことが良いのです。戦いに強そうに見えるより、水のように柔軟な姿勢が幸運を呼ぶかもしれません。しかし、それでも戦う時は、仕方がなかったと戦うのです。そして、戦って勝っても自慢も誇らしげにもしません。むしろ、相手に慈悲を抱きます。つまり、最高の戦いとは、水のように柔軟であるということです。戦上手とは、争わない
自分とは、この世の全ての所有者です。生まれては滅するこの世のありとあらゆるものは自分の心から生まれます。全ては、自分の心から生まれたものなので、この世の全ての所有者となります。ですから、所有者は、全てを持っているので、あえて持つ必要がありません。逆に、全てを持っているので、何も持ってないと言えるでしょう。全ての所有者
世の中を見回してみますと様々な人たちがいるものです。苦しんでいる人。楽しんでいる人。悲しんでいる人。喜んでいる人。そして、それでも生きている、それでも生かされている人です。生きているのが当たり前になりますと、人生の味がしなくなります。本来、生きるとは、生きるだけで歓喜のはずなのにです。しかし、歓喜にも慣れますと「歓喜の味」がしなくなります。すると、味なき味を楽しむ楽しみが出来ます。つまり、味のしない人生の味こそ美味であるのです。当たり前という贅沢、味がないという味わい
人間は、十分の三が人生を全う出来ます。そのうち、三人が人生の途中で死ぬことになります。そして、自ら望んで死ぬのが三人います。なぜ、こうなるかというと死ぬ因果を作らないからです。赤ちゃんは、骨は脆いのにもかかわらず握る力は強いです。そして、夜通し泣いても声が枯れることがありません。そして、毒蛇も猛禽類も赤ちゃんに害を与えることはしません。つまり、生きることに執着せず(自殺ではないです。自殺は否定します)、流れに身を任せる切ることです。そうしますと自然と最善(流れに乗る)になるでしょう。執着はしない、流していく
人の宝とは、一に慈悲の心。二に質素倹約。三に社会の先頭を歩かないということ。社会の先頭を歩かないから、陰から支えることが可能になります。三つの宝
一歩でも、二歩でも攻めるくらいならば、三分の一でも十分の一でも後退することが賢明です。例えば、バケツに水を注いでも、バケツに穴が空いていたら、水はバケツの穴から流れてこぼれてしまうでしょう。穴の空いたバケツに水を注ぐよりも、バケツの穴を塞ぐことです。これは、経営、家庭、国家に言えることです。そして、自身の、家族の健康を第一にした習慣を大切にすることです。守りに徹する
真に優れたお金の使い方とは、人知れずに使われます。次に、優れたお金の使い方とは、何に使ったのかが知られております。次に、優れたお金の使い方とは、何に使ったのかが知られており悪く言われております。次に、優れたお金の使い方とは、何に使ったのかが知られており陰口を言われることです。真に優れたお金の使い方とは、陰徳がなせることです。お金とは、もらうより、いただくより、お預かりする意識です。お金の使い方
自分以外の外に頼りましても不安はなくなりません。なぜかというと自分以外の外とは、いつか消えてしまうからです。だから不安が尽きません。ですから、自分の良心を信頼するのです。それは、まるで、自分の心の灯火を頼りに人生を生きていくようにです。進め進め。自分の心(良心)を頼りに生きていく
人は孤独です。なぜかというと、この世には自分しかいないからです
人は、孤独です。いえ、この世には自分一人(良心のこと)しかいないと言った方が正しいでしょう。ですから、群れの中にいても一人でも生きる覚悟を持ちます。社会の中にいても一人で生きる覚悟を持ちます。家庭の中にいても一人で生きる覚悟を持ちます。これは自分勝手になれと言っているのではなくて、自分の良心を信じながら他人を愛するということです。一緒に居て欲しいより一緒にいてあげる方が幸いでしょう。幸せにして欲しいより幸せにしてあげる方が幸いでしょう。進め、進め、自分(良心)という灯りを頼りに。人は孤独です。なぜかというと、この世には自分しかいないからです
食を少なくして、自分がこの世を生きた痕跡を消します。(自殺ではありません)鳥が空を飛ぶ跡が残らないように、この世で生きた痕跡が残らない生き方が最善かもしれません。無理に有名になるよりも、無名でいる気楽さがあります。そして、心は無であるように。この世を生きた痕跡を残さない
この世とは、まるで雲のようで掴み所がありません。異性も、お金も、肩書きも、全てがいつか消えます。自分が死んでも異性も、お金も、肩書きもあの世に持ってはいけないことでしょう。そんないつか消えるものに私たちは手に入れようと、寿命を削るかのように生き急いでいます。けど、現実問題、確かに便利な生活を送るためには物も必要でしょう。しかし、雲をどう所有するというのでしょうか。雲をどう自分の物だと主張するのでしょうか。所有はできなくても、お預かりしている物や家族や肉体への責任はあることでしょう。これは無責任になれというのではなくて、生きているあいだは、お預かりしているですから責任を持って、大切にして、いつかお返しするということです。お預かりしているだけ
足りるを知るとは、身の程を知るということです。ほどほどで満足するということです。そして、日常生活ができることに感謝をしながら、ほどほどで満足をしながら成長していくことです。それでも不満や不足は出るものですが、ほどほどでの満足を知らないと災いの元になります。ですから手元の道具とは、戦いに用いるのではなくて、人を助ける道具であるのです。良心がないと、道具とは、戦いに用いられます。そして、田畑が荒れ、民衆が作物の凶作に苦しむことでしょう。ほどほどを知るです。ほどほどでいい
天の声を聞いたことがありますか。それは、静寂です。小川の声を、木々の歯同士が擦れ合う音、風の時には荒く時には優しい感触。自分の肉体を通して、心で聞きます。あわただしいのは人だけかもしれません。しかし、本来、人生とは、人とは静寂であるものなのです。何かが「起こっている」という現象に名前がなければ何になりますか。人生は、静寂です。天の声とは静寂です
口、目、鼻、耳、肌の人間の機能を比べることにより問題が生まれます。やれ、自分の方が肉体の機能が優れている、劣っていると自分と他人を比べて優越感に浸り、劣等感を抱きます。しかし、弱者を作るような比較が果たして正しいのでしょうか。そうではなくて、優れていると劣っている、お金持ちと貧乏、自由と不自由、幸福と不幸は、二つが両方あって調和します。どちらか一つでは成り立たずバランスを失います。ですから、どちらかに偏るのではなくて、どちらにもなる可能性を秘めている。また、どちらもでもない。しかし、中道というバランスを不自然に意識しない生き方が最善です。つまり、謙虚に、日常生活に感謝しながら生きることになります。意識する時点で間違いです
優れた人とは、力で解決をしません。むしろ無理な力を加えずに、なるべく刺激しないものです。無理やり力で解決すれば、やがて自分に返ってきます。優れた人とは、自然の流れで事を成します。自分を主張しませんし、集団の先頭には立ちませんので煙たがれることもなく推薦されます。この世とは、無理やりすることは良くない結果を招くものです。自然の流れにまかせる
家族が繁栄するかどうかは、その人が自分なりの先祖供養をしてるかでわかります。町が繁栄するかどうかは、その町が全体で先祖供養しているかでわかります。国が木々が生い茂るように繁茂するかどうかは、その国の住民が先祖供養をしているかでわかります。つまり、弱い者を見捨てようとする社会、強いもの勝ちの社会は、100年の栄光はありますが早かれ遅かれ途絶えます。それよりも、自身の心身の健康を考えて、弱者に寄り添う1000年続く社会の方が賢いです。陰徳とは、その人の行い、言葉、心を見ます
人とは心であります。心とは良心であります。良心の住処は、天であります。天とは法則であります。よって、人という心は法則で動きます。地球も、太陽も、宇宙も法則です。その法則とは、愛です。全てに貫徹する法則
今ある健康に不満を持ち、感謝をしないならば、さらに健康を失くすかもしれません。しかし、多くの人は失くしてから気づきます。それのおかげだったと。けど、体や心に痛みがありますと不満もでてくることでしょう。ですから、生まれたときからの不足、不便、不満がいつものことだと思っていればちょっとしたことに感謝も生まれてくることでしょう。これは、貧乏にも、肩書きにも、家族にも、仕事にもいえるでしょう。天とは、無から有を生み出しました。その無も有から生み出されました。ないときの頃を、不足してた頃のことを、不便だった頃のことを、不満ばかりだった頃のことを思い出せば日常への感謝へと回帰するでしょう。つまり、謙虚になれということです。不便が当たり前であるという前提
人は、所有するほど問題が増えます。目、鼻、口、耳、皮膚、頭、感情。。。そのどれもに「私の」という所有がつきます。しかし、考えてもみれば、目も、鼻も、口も、耳も、皮膚も、頭も、感情も授かっているだけです。自分には親がおり、親には親がおります。代々、その人間の機能、器官を授かっているだけなのに、これは私のだ、私の方が優れていると思うものです。けど、親の親も元を辿ると地球です。地球に所有も、優劣があるでしょうか?*所有は、大切ですが責任がともないます。生活する上で所有も大切です。つまり、苦しむほどの所有の話です。私の。。。という所有が問題を産みます
物事は刺激を与えずに、脆い小魚を煮るようにじっくり煮詰めていきます。安定したものは続けやすいです。悪い前触れがないときは、対処はしやすいです。脆いものとは壊れやすく、細かいものほどちらしやすいのです。つまり、問題が起きていないうちに対処をします。刺激しない
河川の流れは一定ではありません。上流ほど急で、下流ほど穏やかです。社会も、上流に肩書やお金を用意してあります。しかし、急であるがゆえに誰もがその流れに身をゆだねることができません。ですから、下流の、あらゆる河川の王様であるたゆたう波の海に身を任せます。つまり、謙虚であれということです。天とこの世は逆にできている
何も持ってないという気楽。あれを持っているという慣れから失うことの苦悩。なにをしようとも苦しみはつきものです。ですから、何も持ってない気楽も、あれを持っているという慣れから失う苦悩も感謝で解きほぐします。それは、執着から生まれる苦悩だからです。気楽も苦悩もどちらも、自分にちょうどいいのです。今の生活は自分にちょうどいい
1円に満足すると2円でも満足します。しかし、100円を持っても満足しない人は101円もっても満足しません。単純な話、1円で満足する人は1円ずつ増えて100円持つ頃には、100倍の幸福があります。足りるを知るとは、足りるを知ると豊かになるとも言えるでしょう。豊かさは足りている
優れた計算とは、計算機で計算できるものではありません。真に優れた計算とは、良心でわかるものです。善人にとって、悪人とは師であり、悪人とは、善人にとって師であります。どんなことも自身の師として尊べは、迷いはなくなるでしょう。逆に、この志がないところに迷いが生じます。わが師=みんな自分の師匠
強くありたいなら、他人に勝つより、自分に勝つことです。聡明でありたいなら、他人より、自分を知ることです。不幸がいやなら、不足を考えるより、何事にも満足を知ることです。幸福でありたいなら、執着をすてることです。永遠でありたいなら、自分のペースで生きることです。逆の視点
あの人が持っているものが羨ましい。あの人の肉体が美しくて羨ましい。あの人の社会的な肩書が羨ましい。あの人は、持っているかもしれませんがあわてないことです。やがて、終わるこの身であり、この世に置いていく物であり、団体を抜けたらなくなる肩書です。いつかは無くなるものに執着してもしかたないです。しかし、生活を快適にするには、物も必要でしょう。やがて、誰もが死んでいくことを考えますと、勝者はいないことに気づきます。だからあわてない、あわてない。他人と比べてあわてるな
畏れるべきことは、真理から外れた生活をすることです。慈悲の心を忘れることを畏れます。質素倹約することを怠ることを畏れます。しかし、その中でも、味なき味を楽しむことを楽しみます。真理を忘れない
人は、他人の姿を見てあわてます。あの人は、自分には持っていない、あれを持っている。あの人は、自分には持っていない、こんな肩書を持っている。しかし、あわてることはないです。あの人の持っているものは、いつも幸福とは限りません。逆に、持っていない自分が不幸とも限りません。持ってないという味なき味を楽しむという楽しみ方もあります。他人と自分を比べてあわてるな
川のせせらぎが聞こえますか?木々の木漏れ日が見えますか?たんぽぽの若気の柔らかさがわかりますか?芳醇な香りの花が嗅げますか?素朴な自然の味がわかりますか?このように、神とは現れます。神の現れ
継続している物事の始まりは偽善だったかもしれません。しかし、その偽善が継続すれば本心であったのでしょう。もし、継続の中に真理を見つめる生活を送れば最善です。生かされていることへの感謝と自身の先祖への感謝があれば最善です。いつも真理を求める気持ちがあれば生活は、おのずと変わっていきます。継続にみる本心
私たちの中に、水の濁りが沈殿するまで待つことができる人がいるでしょうか。時を待つことができますか?ほどほど(足りる)を知っているから困難に打ち勝ちます。良心に沿った生活を心がけるから人生を平凡に過ごすことができます。良心から離れる生活を畏れます。何も起こらない幸運
信頼できる言葉とは美しくありません。信頼できない言葉とは美しいものです。民が飢えるのは、管理者が税金を取りすぎるからです。民の生活が荒れるのは、管理者が自分だけが生き残ればいいと考えて、間違った政策をするからです。民の命が粗末に扱われるのは、管理者が命を粗末に扱うからです。しかし、与え上手な人は、自分の物を与えますが、逆に、多くを与えられるものです。与え上手な人は、思いやりを配り、害は配りません。なにごとも執着しない方がうまくいくものです。逆もあるということ
自分が「お金持ちになった」と思った時点から貧乏は始まります。逆に自分は「貧乏の底の底だ」と思った時点からお金持ちになれる可能性が出てきます。しかし、これは両極端に振れており中道をいう意味では不自然です。ですから、お金持ちに「なった」ではなくて、お金持ちで「あり続ける」ことが成長になります。また、「あり続ける」も「どちらかに振れる」も意識しても不自然です。ですので「今(現在、最中)」という中が一番バランスがとられていることでしょう。なんとなくというのが最善かもしれません。その中(今)にいるから成長できる
この世は道から生まれます。心は、徳から生まれます。道は父から生まれます。徳は母から生まれます。心の良心を知れば、この世のことがわかります。それは、父を母を知るということです。深遠なる良心
見えないもの、聞こえないもの、触れないものがあります。それは無です。それぞれをそれぞれ理解しようとしても理解はできません。しかし、無をあえて説明しますと至福のことをいいます。無とは至福のことをいいます
本物とは、下座にいるものです。社会の下流におります。海も低き地にあるから、山頂から流れ着く川の王者です。弱とは強に打ち勝ちます。強張っているものは柔らかに勝てません。硬いものより、なめらかななんにでも合わせられる水の方が最強でしょう。こうして上座とは、下座と入れ替わるでしょう。強きものは、弱きものに勝てません
世の中に、強制させたり、無理をすることが増えるますと民衆の間で鋭利な刃物がちらつきます。なんにでも、強制したり、無理をすることは結果がよくありません。自然界では、若葉は、柔らかく、しなやかですが、死ぬときには硬く、強張っています。ですから、柔らかく、弱い者ほど強く、硬く、強張っている者ほど死に近いのです。柔らかく、弱い者を上にし、硬く、強張っているものを下にします。強い武器に頼る者ほど勝てません。若葉と死
私には、三つの大切なものがあります。一つ目は、慈悲の心です。二つ目は、質素倹約を心がけることです。三つ目は、世間の先頭を歩かないことです。慈悲の心を持てば攻めるより、守りに入った方が強固でしょう。質素倹約するから、活動の幅が広がります。世間の先頭を歩かないから、縁の下の力持ちであれるのです。天のお宝
世の人は、人からの評価を気にします。いい評価であれば喜び。悪い評価であれば落ち込みます。しかし、いい評価とは、本当にいい評価なのでしょうか?悪い、評価とは、本当に悪い評価なのでしょうか?人は、やがて死んでいきます。死んでいくわが身において人の評価がどれほど大切なのでしょうか?それよりも、自身の健康を大切にできる人の方が本当の意味で大切だと思います。いい評価、悪い評価
無と至福のことをいいます。もし、お金にお金という名前が付いていなければお金は、なんと呼ぶのでしょうか?もし、お金に形がなければそれはどんな形でしょうか?もし、世の中に、名前が付いていなければ世の中の全てをなんと呼ぶのでしょうか?もし、名前(言葉)がなければ考えることはできるのでしょうか?このようにして、名前と形に惑わされずにいれば、無という至福で生きることでしょう。無とは至福のことです
もし、世の中の物がすべて自分の持ち物だとしたら、誰が、その中の物を所有しようとするでしょうか。私たちが、あれが欲しい、これが欲しいといっているのは、物を所有したいのではなくて、「所有感」を満たしたいのです。ですから、もし、世の中の物をすべてを自分が産み、育てたと思えたらならば誰が所有感にこだわるでしょうか。地球は、私たちを産み育ててくれました。私たちの身勝手な環境破壊ですら、地球は何も言わずに黙って自身の運命を、私たちに預けれてくれています。これは、感謝をすると共畏れです。地球は、私たちを産み、育てていても何も見返りを求めないし、産み、育てたことの賞賛を強要しません。ずっと黙っています。つまり、私たちが何らかによって死ぬときもなんのためらいもないことでしょう。これは自由もありますが畏れるべきことです。期待しない愛情、自由。しかし、責任もある
人の人生とは平坦なものです。平坦だと思えないのは、誰にでも心への刺激があるものですが、その刺激を強く感じているからです。刺激を望んでいるとも言えます。心地よい刺激とは、気持ちの良いものであり、嫌な刺激は、嫌なものです。しかし、真理から外れる生活を恐れて、平凡な日常に感謝して生活することが喜びです。誰もが平坦な人生
少し地球を移動しますと、同じ地球上でありながら飢饉に苦しんだり、戦争の災禍で亡くなられている方がいます。それは、女性や子供、老人が真っ先に亡くなります。同じ地球上でありながらです。もし、世の中に余計な、礼節、道徳がなければ人は自然と家庭に帰ることでしょう。もし、世の中に争いの元となる経済(お金)がなければ争いは生まれようがありません。つまり、欲望は少なくし、自身の健康を自分の家庭を大切にする生き方、弱者(女性、子供、老人、ご先祖様など)を忘れない愛情の強さが自然なのかもしれません。自然に帰る
家庭での最上の人とは、その人がなにをしているかはわからないけれども、よく尊敬される人です。次によいのは、その人がなにをしているかがわかっており、大切にされる人です。次によいのは、その人の行いが陰で悪口を言われる人です。最低なのは、その人が恐怖と暴力で家族を縛る人のことをいいます。最上の人とは?
完成したものとは完成していないように見えます。いつもなにかが不足しており、物足りないものです。真に雄弁な者ほど、弁が立ちません。完成された文章とは、なにかが足りないような気がします。未完成と完成の間にいる「最中」が、もっとも完成していることでしょう。未完成とは完成していた
加工されて新しい名前が付くと、加工される前の元の姿は誰も想像つかない
お金の1円があります。これが100枚ありますと100円になります。この100円で100円の物を買います。100円の物を使い便利に、幸福に生活ができます。もう、この時点で100円を使ったときの気持ちや、100円の集まりの1円を集めていた時の気持ちは誰が想像できるでしょうか?それは、自分なら100円使った記憶があるかもしれませんが、他人ならどうでしょうか?または、50年前の他人気持ちは想像できるでしょうか?はたまた、100年の他人の気持ちは想像できるでしょうか?もっと、言いますと1円を作っている人の気持ち、1円の素材を生み出した鉱物の気持ちは誰が想像できますでしょうか?元の物から加工されて、新しい名前が付くと、加工される前の元の物は、誰も想像しえないのです。加工されて新しい名前が付くと、加工される前の元の姿は誰も想像つかない
お金を用いるときは、最後の手段とします。お金を使うまでは、質素倹約をして、日常の些細なことに感謝に気づきます。自分を見つめるとは、自分に母性を見出し、宇宙を見出し、永遠を見出します。そして、自分を見つめるとは、日常へと帰り、質素倹約の生活努力をしつつ感謝の道へとなります。それは、まるで〇(まる)のように循環します。〇(まる)という循環
高い山から流れ出る清流は、川を下り、低地の海に流れ出ます。高い山とは、人を遠ざける険しさがありますが、海には母性のようにすべてを受け入れる柔軟性があります。このように、海の母性のように下手にいることですべてが流れ着きます。それは、不要な争いを避けるかもしれません。相手を攻めるより、10分の1でも後退することが大切です。そのときの心には、悲しみを抱きながらも、慈悲も同居しています。母性の海は下手にいる
心とは、鋭利な刃物を無難にします。使い方によって、お金が凶器の元になるならば、心は、それを無難にするのです。心は、空・無ですと天から知恵が入ってきます。それは、心が「空・無(から・む)」だからです。もし、心になにかがいっぱい入っていたとしたら知恵が入るでしょうか?無心とは、最強でしょう。空・無(から・む)という器
幸福な人生とは、日常生活を続けられることかもしれません。日常で自分なりのできる生活努力を続けて、日常生活を送れることに感謝を奉納するのです。同じ地球上に生まれて、一方では飢餓に、病気に、戦争があるのに、今日も、安心して日常生活を送れるとは、、、奇跡です。安全な清潔な水を飲めて、安心して学校に通えて。。。しかし、その当たり前となる生活を人は刺激がないと、嫌だと、簡単に投げ捨てます。けど、同じ地球に生まれてこのような平凡な生活を送れるとは、なんと幸福なことでしょうか。平凡な、幸福な日常があるのに、その上でお金がある、ない、異性が、物がと言っています。中には、当たり前の幸福に気づかずに自死を選ぶ人もおられます。当たり前に感謝をできることが幸福なのです。これが、人の運命を別けるかもしれません。平凡な日常を送れるという幸福
真に心が幸福な人とは質素な生活をしているものです。見た目はボロを着ていましても心には錦があります。口下手ではありますが真に雄弁です。真理に沿った生活をする者とは、川の流れのように上流にいるのではなくて、川の流れの下流にいるものです。このように真理を知るものとは、意外なところにいるものです。真理を知る者とは、以外とお金持ちより貧乏な人に多いかもしれません。逆になる
世の中に、お金でなんでもできる、お金があれば許されるという風潮が広まると泥棒が増えることでしょう。世の中に、法で強制的に、無理やりすることが増えれば、逆に、治安が悪くなるでしょう。世の中に、法から逃れるための悪知恵が増えれば、凶悪な事件が増えることでしょう。ですから、上にいる者が無欲であれば、私たちは自ら努力します。上にいる者が純朴であれば、私たちはよけいな欲は持ちません。逆いうと
国を、社会を、家庭を、自分を治めるためには質素倹約が大切です。質素倹約を行いますと、日常の小さなことに気づき始めます。小さな気づきが感謝になります。その小さなありがとうございますは、日常を幸福へと導きます。そして、小さなありがとうございますは真理へと導きます。質素倹約に勝るものなし
生かされているうえで、という前提でおりますと、この世のものは預かりものです。命あっての健康であり、お金であり、物であり、異性であり、友達であり、家族です。もし、その命がなくなってしまったら、健康も、お金も、物も、異性も、友達も、家族のあらゆる悩み、喜び、悲しみ、楽しみが体験できません。このことからお金がある、ない悩みも、苦しみも、喜びも、楽しみも生かされているうえでの体験です。すべては、命あってです。預かっているだけ
お金は、なんのためにあるかと申しますと、弱者を守ったり、忘れさられた故人を供養するためです。お金はバカにはできませんが、お金を必要以上に求めると苦しむことになります。そのお金で、(予算内で)生活をよりよくする努力と、もしものときの、(災害など)に備えることは大切です。これは、日常の生活に満足していればこそかもしれません。日常の生活とは、生かされているうえ起こっているという気づきです。つまり日常生活に心の満足があるかどうかです。忘れ去られた人たちへの供養
いざ自分がお金持ちになりましても、人に自分がお金持ちだと自慢していれば、それは、自分の心が不幸で貧乏だと言いふらしているようなものです。しかし、貧乏でも、日常に満足をして感謝をして生活していれば、派手ではないですが心は満たされていることでしょう。世の中は、逆かもしれません。世に、平和が声高々に叫ばれるときそれは平和ではないかもしれません。世に、道徳が声高々に叫ばれるときそれは犯罪が多いのかもしれません。私たちが、お金が必要以上に欲しい、限りなく欲しいというとき、心は不幸で貧乏かもしれません。それは、まだまだ貧乏だよ
もし、五円玉、五十円玉の硬貨の真ん中に穴がなければ五円玉、五十円玉はなんと呼ばれるでしょうか?また、食欲がわくときというのは、胃の中が満腹でしょうか?今以上に、お金持ちになりたいと思うとき、今はお金が「ない」と思っていませんか?このように「ない」から「無」だから有るになるのです。車にしても同じです。車輪の真ん中に穴が開いてるから車輪として成り立ちます。貧乏にしてもそうです。始めに、貧乏という無があったからお金持ちになれたなら、それは無(貧乏)があったからなのです。無と有から生じ、有とは無から生じます。無(貧乏)だから、あとは有るだけ
人の不幸は喜んではいけません。仮に、今、自分のお金が「このくらい(今あるくらい)」あったとしても、自分より貧乏な人を馬鹿にしてはいけません。自分も、また、自分よりお金がある人より貧乏であり、自分よりお金がない人よりお金持ちであり、お金持ち貧乏と割り切れるものではありません。人は常に、お金持ちも貧乏も(幸福も不幸も)同時にあるものです。つまり、人は、自分ではお金持ちだ貧乏だと主張しますが、人は、同時にお金持ちは貧乏を持っており、貧乏はお金持ちを持っているものなのです。人の不幸を喜ぶのは、いつかの自分の不幸を喜ぶことであり、未来の自分を呪っていることだと思います。人の不幸を喜んではいけません
なんでも完成させようとすると衰退するものです。未完こそが完成であり、成長中だと思います。宇宙をみてみるとわかりやすいかもしれません。宇宙の果てとは、今も、広がり続けています。つまり、未完だから「続けている」のです。もし、宇宙が完成しますと、あとは縮小をすることでしょう。同じように、お金持ちに終わりはありません。お金持ちという数字、物質による満足に終わりはなく、満足するのは心だからです。つまり、1円持てば1円お金持ちであり、これを楽しめるかどうかです。だれもが「続けている」最中です。未完で完成だった
弱らせたいと思うなら、もっと強くさせておくとよいです。相手から衰退させたいと思うなら、逆に繁栄さえておくとよいです。なにかを奪おうと思うなら、逆に与えておくとよいです。魚は水の中から出てはいけません。だから、国、自分の利益となるものを明かしてはいけません。明知
今、所有しているお金が害になるか、利益になるかは誰にもわかりません。人にもわかりませんし、世間にもわかりませんし、社会にもわかりません。今、不正して得したと思っても、短い人生の間には、なにかしらで帳尻が合わされると想定します。悪人には、生きやすい世の中であり、善人には、生きにくい世の中であることでしょう。はた目には悪人が生きやすい世の中にみえるかもしれませんが、もし、世の中の全員が悪人だらけになってしまったら、誰が悪人を食べさせて、赤子を育てるのでしょうか?善人の真面目に働く人がいるから、畑を耕し、赤子を産み育てるのです。善人にとっては、悪人とは反省すべきことであり、悪人にとって善人は、お手本となります。それぞれが複雑に絡み合い、この世は成り立ちます。お金も同じです。害になる使い方もあれば、利益になる使い方もあ...人生は、取りこぼしがないようになっている
自分の心になにを映すかで心境というのはかわります。心に、信じる気持ちを持てば、人は信頼、信用できます。心に、疑いの気持ちを持てば、人は不信の対象です。例えば、心に、現状での収入に感謝と満足と努力を持てば、日常生活は感謝に溢れます。このように、自分の心になにを映すかが大事となります。心になにを映すのかを選んでいるのは他人ではなくて、自分自身です。心の鏡になにを映すのか
もし、経営者が、お金でなんでも解決できるという風潮を作らなければ、泥棒や詐欺は生まれないでしょう。もし、国の治める者たちが資格を基準に選ばれなければ、卑怯な行いや、人を蹴落とすことはないでしょう。100年だけの華やかな繁栄をするよりも、派手ではないのですが、1000年続く健康で安心な世の中であって欲しいと思います。世を治める者とは、自分自身の健康を第一に考えられる者が望ましいと思います。そして、国か自身の健康かを問われれば、自身の健康を取る者がなお望ましいです。派手という刺激はやがて飽きます。飽きればもっと、刺激を求めます。それを繰り返します。適度な競争は、楽しいものですが、過度な競争は、心身を病みます。しかし、味のしないものを味わえば(平凡な日常)心は安心のままです。1000年の健康と安心
貯金のコツとは、例えるならば、小魚の形が崩れないよう煮詰めるのです。少しずつ少しずつ、小魚の形が崩れないように。急に大金から貯金をしましても反動がなにかしら来るものです。ですので、ちょっとずつちょっとずつです。これは言い方を変えますと、自然な流れで、自然な形で行う貯金がいいと思います。どこかで無理がありますと、とたんにバランスを崩して、継続ができないものです。まるでそれは、小魚の形が崩れないように煮詰めるのです。貯金のコツ
小をなせない者は、大はなせません。例えば、1円を大切にできない人は、2円、10円、100円を大切にできません。それは、今ある生活費に感謝できない人は、いくらお金を持っても現在の生活に感謝して満足することはないでしょう。それは、小をなさない者は、大がなせないように。まずは、自身の健康であり、自身の日常生活であり、自身の家族から始まります。それを遠くの他人に求めてはいけません。まずは、自分自身から、自分の身の回りから始まります。まず自分から
生活水準を上げますと下げにくくなるものです。お金のある生活から、いきなり貧乏な生活には戻りにくいものです。初めは、楽しい目標で、夢が叶いましても、夢が叶った継続に「慣れ」が生じて、やがて、慣れたことを失うことに恐怖を感じます。あんなになりたかったお金持ちも、肩書きも、異性も手に入れた瞬間から失う恐怖の種を育てていたなんて思いもしません。しかし、誰もがこの世のものと死別して一人で自分も逝くのです。それを失くしても、また一からの青春を味わえるかもしれません。夢に破れたから新しい挑戦ができることもあるでしょう。変わるからこその楽しみです。変わることは誰にも止められないので変わることを受け入れる生き方もお得に感じます。やがて死んでいくこの身です。変化に巻き込まれるより、自ら変化を起こす人生も、また、楽しいのかもしれませ...いつからでも変わっていける
今、お金があります。そのお金に満足をします。しかし、やがて、今、持っているお金にも慣れて、不満を抱き、もっとお金が欲しいとなります。私も、気持ちはわかりますが感謝が抜けていると思います。今、持っているお金があるのも自身や家族の健康のおかげであり、家があるおかげであり、食事や、ご先祖様の存在のおかげです。不満を持つなとはいえませんが、今、それでもある生活費に感謝をすることはできると思います。その生活費で、今の生活ができているのですから。感謝を忘れた生活とは怖いですね。なにかを増やすことよりも、なにかを感謝しつつ守る視点も大切に思います。感謝できることがある
お金の使い道とはどんなことでしょうか?私は、数ある使い道の一つとして、身近な家族に、忘れ去れた弱者のための正しい先祖供養に、自分や家族の心身の健康のための食材やサプリ、病院用に使うのがいいと思います。世界平和とは、外の世界にあるのではなくて、まず自分の心にあり、そして家族にあります。そういう意味では、お金とは自身の、家族の平和を作る「予備」であると思います。また、本などを読んで自分を知るための「予備知識」も得る必要もあるでしょう。世界とは、自分を知るために存在するものです。自分を知るに従い、世界のことがわかります。自分を知ると家の中にいても世の中がわかるようになります。それは、自分を知っているからです。数ある中の一つのお金の使い方
子供から大人になり、やがて老人へと枯れていきます。子供の頃からの純朴さを失くさないまま成長できる人はどれだけいるか知っていますか?老人まで枯れていきますと、また、子供の頃のような純朴さに戻る人がおられます。つまり、純朴さとは人の完成でもあるのです。ならば、子供の頃から純朴であれば、それを失くさないように親が育てると、その人は、最後に人が行きつくところにおります。なにも、お金、肩書き、異性などが幸福の「絶対条件」ではないのです。純朴な子供とは、すでに幸福である条件が備わっているのかもしれません。純朴さとは「アホ」のことかもしれません。素朴さ、それはアホのこと
お金、お金、お金。。。とにかく、生活するにはお金は必要です。あの人のように、いい暮らしはしたいものですし、将来が不安ですので貯金もしたいです。では、お金は、誰が持っているのでしょうか。お金が欲しいといいましてもお金を所有しているのは人です。お金と人。この二つの関係を安定させるためには、もう一つ必要だと思います。それは、心でしょうか?感情でしょうか?確かに、お金を使いたくなる気持ちがあります。好きな人にはお金をあげたくなります。みなさまにとっての三位一体の「人と金と〇〇」はなんでしょうか?例えば、父と母をつなぎとめるものは第三の子供だったりします。参考になれば幸いです。第三の安定要素
原木を加工する新しい名前がつきます。その新しい名前の道具を使えば、また、新しい名前の道具が生み出されます。ここまで来ると、もう、元の原木を誰が想像し得るでしょうか?お金も加工されたものです。加工される時は、加工された物を使って加工されます。ここまで来ると、もう、お金の元の木や石を誰が想像し得るでしょうか?海には、海につながる細かい無数の川があります。清流には、流れ着く海があります。誰が清流から海まだ辿り着くことを想像しますか?誰が海に繋がる無数の川を想像しますか?名前が新たに名前を生み出します。
貧乏のいいところは、お金を持っていることにより、気づかずに犯す罪を犯せないところです。お金を持ちますと、物、肩書き(身分)、異性などに目をくらます人がいます。しかし、お金がないのでそれらをしたくてもできません。「ある」からではなくて「ない」から助かっているとも言えます。お金を持ち、社会的な地位が上がりますと、その一言で地位がなくなったり、人の人生を左右しかねない判断を下すこともあるでしょう。しかし、地位がないので地位をなくすこともありませんし、人事などで人の人生を左右したくてもできません。「ある」からではなくて「ない」から助かっているとも言えます。「ある」から、持っているからいいと言うわけではなくて、「ない」から悪いと言うわけではありません。「ない」とはありがたいこともしれません。持っているからいいとは限らない
あれが「もっと」欲しいだとか。これが「足りない」だとか。もっと、もっとと必要以上に求めると苦しくなるものです。それは、欲しいから、足りないからではなくて求めるから苦しくなるのです。あの人は、私より年収が多いから私もなろう。あの人は、私よりいいものを持っている、だから私も手に入れよう。生活を豊かにするのは、私もしたいと思いますが人の視線を基準にしていましたら、いつまでも苦しいのです。もし、無人島で一人で生活しておりましたら化粧を競い合ってするでしょうか?もし、無人島で一人で生活をしていましたら服は、見た目より機能性を大事にしませんか?私たちが求める基準とは、人の視線を基準にしているかもしれませんね。人の視線を基準に選んでいる可能性
自分が強いときというのは、弱い人の気持ちがわからないものです。やがて、強いときから弱くなりますと、当時の自分が驕り高ぶりが嫌でもわかります。強いときというのは、弱い人のおかげで強くあれたのだと思います。弱者を忘れない。世の中に弱者は、たくさんおられます。もっとも身近な弱者とは、自分の家系のご先祖さまだと思います。忘れ去られる存在だからです。この肉体は、ご先祖さまが生き抜いてくれたおかげです。ご先祖さまの中には、飢えで苦しかった方もおられるでしょう。無念の中亡くなれた方もいるでしょう。どれほどこの世を生きたかったでしょうか。そんなご先祖さまの思いを受け継いでいるのが今の私たちです。弱者を忘れた社会とはどうなるでしょうか?強い者だけが生き残る社会とは、殺伐としているかもしれません。強い者だけが生き残る社会とは、家庭...弱者を忘れない
世間のみなさまと同じように、私も、ある程度、お金が欲しいと思うものです。子供の時は100円が大金でした。学生になり1000円とは大金でした。社会人になり10000円では足りなくなりました。つまり、お金とは、どんなにあっても心とは満足しないものなのでしょう。お金で心は満足はしない。理由は、お金とは、形であり名前だからです。心が満足するのは生き物への思いやりであり、愛情だと思います。ところが、このお金を巡って、人は争います。歴史を見ましても戦争という、身近な愛する人がたくさん亡くなりました。ニュースも見ましても、毎日、お金がらみの他者を害することや、争いが日々起こります。お金とは、こういう面も引き起こしています。幸福への方法であるはずのお金なのに、不幸になるために使ってしまっている。なんのためのお金でしょうか。私は...これも経済(お金)の一つです
成功者にあこがれる人が多いです。成功して、お金持ちになったり、有名になったり、モテたりと想像するものです。ところが、そのような形あるものは永遠と言えるでしょうか?お金持ちになれるけどいつでも貧乏になる可能性があります。有名になれるけどいつでも落ちぶれる可能性があります。モテるかもしれないけど本当に大切な人に見向きもされない可能性があります。つまり、永遠ではない形には、簡単に変わるものには、永遠の幸福、永遠の成功はないものなのです。私の永遠の幸福、永遠の成功とは、今日も目の前の人に思いやりを持ってることです。これは体が動かなくなってもできます。「そんなことないです。体が動かなくなったらなにもできないですよ?」そうです。体は動きません。しかし、心の中で思いやりを持って人を褒めることができるかもしれません。心の中で思...成功者とはいるのでしょうか
お金持ちは、いつでも貧乏になる可能性を秘めています。貧乏な人は、いつでもお金持ちになる可能性を秘めています。どちらが悪くどちらがいいという話ではありません。お金持ちが貧乏になれば、また一からお金持ちになる青春を経験できるかもしれません。貧乏な人がお金持ちになれば、お金持ちになる楽しい体験ができるかもしれません。お金持ちだからよくて、貧乏だから悪いという話ではありません。どちらも体験です。また、大きく別けて、お金持ち、貧乏とありますがそれらを体験すれば、新たな体験が生まれます。自分が、自分より優れていると思っている他人と自分を比べますと自分に対して劣等感を抱きます。それもそのはずです。自分より優れていると思い込んでいる他人と、劣っていると思い込んでいる自分なのですから。自分は、普通くらいだと思っていればいいのです...経験できる可能性がある
お金がないとは幸福です。ないのですから、あとは満たされるだけです。初めから満たされているわけではなくて、「ない」という空(から)が最初にあったからです。初めから満たされておりますと空(から)を満たす楽しみがないでしょう。しかし、空ですから満たす楽しみが生まれます。コップに水を注げるのは、コップが空だからです。水筒に水を入れられるのは、水筒が空だからです。頭が空だから、天より知恵が入ってきます。空(から)とは本来、至福なのです。お金がないとは幸福です
谷の合間から水は湧き出ます。水は、川を流れて、大河になり、やがて海にたどり着きます。世のお金持ちを支えているのは、庶民です。庶民の生活が立いかなくなると、連鎖してお金持ちの生活も立いかなくなります。それは、庶民というのは、海という低き地位にいるからです。自分なりの健康な生活を送り、気楽に生活できる人生をどんな宝石よりお宝に見えます。それは、庶民というのは、底辺という地位にいるからです。その低き地位でも慈悲をもって生活できれば本物です。お金持ちの時、慈悲をもって質素倹約な生活できれば本当です。心は低きにある海のごとく。海とは、悪いこともいいことも、すべてが流れ着く場所です。低き海にいる
お金とは、名前と形です。お金は、名前です。お金という形です。お金には、お金という名前が付いていますが、その前に付いていた名前もあります。お札やコインという名前かもしれません。さらにもっと前に付いていた名前があります。お札であれば、木です。コインであれば石です。さらにさらに元を辿っていきましょう。木の元は、原木です。石の元は、地球です。そう、お金という名前が付いていますが、お札もコインも元は地球なのです。地球の一部を切り取り加工してお金という名前が付いたのです。お金というお札やコインを見て、誰が元の原木や石を想像できたでしょうか?そんなこと誰もできません。お金というお札やコインを見て、誰が地球と共に在ると感謝できたでしょうか?そんなこと誰もしません。では、さらに元を辿っていきましょう。このお金は、元は原木や石です...名前が付くと本質がわからなくなる
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