「禅の旅zenno-tabi」では「禅」を元に、人が生きるとはどういう事なのか、どのように生きれば人はより良く生きられるのかを考え、旅のように探求していく事を目的としております。
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑪お釈迦様が言われた「天上天下唯我独尊」の本当の意味とは?
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑩お釈迦様と同じ命を我々は生きている。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。 という部分に触れて、 前回のポイント 「祇園」とはお釈迦様の事を指す。お釈迦様を始め、我々人間はこの仏の体をもってして生まれながらに悟っている。お釈迦様の生涯を参考にはしてほしいいが、自分たちも何一つ無駄にならない一瞬一瞬を生きている。 以上の点をお伝えしました。 今回は前回の復習を皮切りに、お釈迦様がお生まれにな
「即心即仏」とは?「心」を耕すこと。大梅法常禅師と山本常朝の歌に学ぶ
この記事では「即心即仏(そくしんそくぶつ)」とは何かについていくつかの章にわけて解説していきます。 大変奥の深いワード、「即心即仏(そくしんそくぶつ)」。 早速、読み進めてみましょう。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 北海道を開拓した屯田兵 冒頭から余談をさせていただきます。 1800年後半から「北海道」の地に「屯田兵」が導入されました。 明治維新から間もなくの事です。 屯田兵とは 明治維新後、旧幕府側の武士たちは、禄を奪われ窮乏しました。屯田兵とは、そのような士族の救済と北
洞山良价が出会った「真実」。「宝鏡三昧」というお経はどのようにして生まれた?
今回は曹洞宗の開祖でもある「洞山良价(とうざんりょうかい)」というお方によってよまれた「宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)」というお経の、生まれたその経緯を解説いたします。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 「宝鏡三昧」とは? 宝鏡三昧① 宝鏡三昧② 宝鏡三昧③ 宝鏡三昧④ 宝鏡三昧⑤ 宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)は、曹洞宗の開祖とも言われる「洞山良价(とうざんりょうかい)」によって作成されたする中国の「漢詩」です。 いわば「歌」ですね。 「宝鏡」とは「至上の明鏡」という意味です
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑩お釈迦様と同じ命を我々は生きている。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑨仏法が説く本当の「心」とは?ストーブの音に学ぶでは、 『普勧坐禅儀』本文の、 直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。 という部分に触れて、 前回のポイント ストーブの音やカラスの鳴き声が聞こえてくる。「聞いている対象」と「聞かれている対象」という分け方はなく、「仏法」にお
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑨仏法が説く本当の「心」とは?ストーブの音に学ぶ
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑧「今、ここ、この命。」落ち込んだ時こそありがたい。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。」 という部分に触れて、 前回のポイント 我々の命は今立ちどころに仏の命を生きている寸分の狂いで、行き着く場所は天と地をほど違ってしまうのが我々の行い「思う」という行為は自分がやっていることではない本来の「命」からしてみれば「悟る」というのは余
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑧「今、ここ、この命。」落ち込んだ時こそありがたい。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑦自分からは一切逃れられない。雪峰義存と玄沙師備の話。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。」 という部分に触れて、 前回のポイント 親指を石ころにぶつければ「痛い。」これが全てである。外に求める必要は何もない今ここにある「自己」こそ真の仏法どんなに遠くに移動しようと、自分からは一切逃れる事は出来ない。つまり「仏」から逃れる事ができない。世界は「仏」。全ては仏。 以上の4ポイントをお伝えし
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑦自分からは一切逃れられない。雪峰義存と玄沙師備の話。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑥寒山拾得と麻浴宝徹禅師の話を参考に「塵」や「埃」は払わなければならない。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。」 という部分に触れて、 「塵」や「埃」を払う事で初めて、「塵」や「埃」の実物をとらえる事が出来る。「風」は至ることろにあるということを知っているが、仰いで初めて「風」が至る所にあるということを知れる。人間、誰しも「仏性」を持ち合わせているが、坐禅を実践することで初めて、「仏性」を持ち合わせているということを知れる
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑥寒山拾得と麻浴宝徹禅師の話を参考に「塵」や「埃」は払わなければならない。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑤慧能禅師の話を例に、「概念」の本質を探るでは、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。」 という部分に触れて、 「塵」や「埃」というものは人間の概念でしかなく、その「概念」も含めた、我々人間の命を行じるのが「坐禅」である。 であるという事をお伝えしました。 今回も前回と同様、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。」という前回の部分をもう少し深
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑤慧能禅師の話を例に、「概念」の本質を探る
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ④命の「全体」を行じる道元禅師の坐禅。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや全体逈(はる)かに」 という部分に触れて、 道元禅師のおすすめになる「坐禅」は転迷開悟の「手段」としての坐禅ではなく、「全体」の「坐禅」 であるという事をお伝えしました。 今回は、前回の内容も踏まえつつ、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。」という部分を読んでいきたいと思います。 それでは参りましょう。 別
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ④命の「全体」を行じる道元禅師の坐禅。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ③「仏法」とはみんなが乗ることの出来る乗り物では、 我々は生きながらに既にみな「仏(仏法)」という救いの世界にいるのにもかかわらず、何故、個人の救いを得ようとするのか。 という事をお伝えしました。 今回は、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに」という部分を読んでいきたいと思います。 それでは参りましょう。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』① 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』② 別冊太陽「道元」
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ③「仏法」とはみんなが乗ることの出来る乗り物
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ②人間が生きる事、それはつまり「坐禅」を行じることでは我々の生命やそれにかかわる出来事は全て「円通」であり、一切行き詰まりがない今を生きている。という事をお伝えしました。 また、その観点から「生きる事はつまり坐禅を行じること。」という内容をお伝えしました。 今回は、下の青いマーカー線で引いた「宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。」という部分をメインに読んでいきたいと思います。 それでは解説していきたいと思います。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀
「生きる」とは何か②「自由」とは何かについて「鈴木大拙」氏の観点で考察する。
ここでは「自由」とは何か臨済宗で有名な仏教学者の「鈴木大拙」氏の観点を参考に考えていきたいと思います。 我々は自由な命を生きているはずなのにいつも人間関係や仕事の問題で苦しんでしまう。 一体「自由」とは何なのか。 是非この記事を参考に、あなたが普段考える「自由」と比べて考察してみてください。 我々の「命」は大地と同時に救われている。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』 道元禅師のしるされた書物に「普勧坐禅儀」というものがあります。 その「普勧坐禅儀」本文の中に、 「宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。」 という文が出てきます。 その「宗
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ②人間が生きる事、それはつまり「坐禅」を行じること
本記事では道元禅師がしるされた「普勧坐禅儀」について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ①「普勧坐禅儀」の「普勧」とは?では冒頭の 「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」 の部分がこの「普勧坐禅儀」において非常に重要であるとお伝えしました。 そして今回も前回の引き続きとして、水色のマーカー線で引いた冒頭の「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」の部分を更に深堀りしていきたいと思います。 それでは早速まいりましょう。 普勧坐禅儀(訓読文) 原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。
道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ②人間が生きる事、それはつまり「坐禅」をじること
本記事では道元禅師がしるされた「普勧坐禅儀」について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ①「普勧坐禅儀」の「普勧」とは?では冒頭の 「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」 の部分がこの「普勧坐禅儀」において非常に重要であるとお伝えしました。 そして今回も前回の引き続きとして、水色のマーカー線で引いた冒頭の「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」の部分を更に深堀りしていきたいと思います。 それでは早速まいりましょう。 普勧坐禅儀(訓読文) 原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。
「ブログリーダー」を活用して、harusukeさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。