chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
目白の風景今昔 http://mejiro-now-then.blog.jp/

70年代を過ごした目白に40年ぶりに戻って来ました。写真を交えながら目白の今昔を綴って行きます。

タフちゃん
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/04/16

arrow_drop_down
  • 神田川の青大将

    桜の季節を終えた神田川は豊橋(ゆたかばし)にて先日、青大将に会いました。全長、約2メートルほどあったと思います。ヒトの気配に動ずるでもなく悠々と橋の手すりで遊んでいました。

  • 美貌の叔母の『記憶』に着色3

    (前回)からの続きです。美貌の叔母が単独で写っている写真3枚についても、Photoshop のニューラルフィルタによるカラー化を適用してみました。左のセピア調の写真が原画、右がカラー化後の写真です。カラー化することにより、いっそう目を引く写真になりますが、単色のまま

  • 美貌の叔母の『記憶』に着色2

    (前回)からの続きです。8年ほど前に、昔の白黒写真のカラー化に取り組んだことがありました。(「美貌の叔母の『記憶』に着色」参照)それは私の父とその家族の集合写真で、およそ100年前のセピア調の単色写真でした。ここに写っている人物のうちの一人、前列左端の叔母様

  • 山吹の里の少女が失踪?

    かつて「新緑の少女裸像」で紹介した裸婦像「真珠」が失踪してしまいました。このような姿で散歩中の私を和ませていたのに、もぬけの殻でした。一体どうしたのかと訝しんでいると、何ということはなく、10mほど北側に移動しただけでした。多分、玄関周りの整備のために移設さ

  • とんかつフジからタイ料理

    目白駅北側の山手線は、切通し(掘割)の底を走っています。その切通しの西側土手の上のちょっとさえない道路は、いつの頃からか、「フランク・ロイド・ライトの小径」と呼ばれているらしいです。これはもちろん、近くの「自由学園明日館」の設計者にちなんで名付けられた訳

  • 郵政宿舎から老人ホームへ

    半月ほど前のこと、入手したてのフィルムカメラ(ニコンNikon_F80)の試写を行いつつ、かつて住んでいた西池袋を散策していたところ、旧山紫町のあたりで、老人ホームの見学会をやっていました。「グランダ目白弐番館」というベネッセの介護付有料老人ホームだそうです。ここ

  • アンニュイな午後にクチーナカフェ目白

    特に急ぎの用事もなく、何となく怠惰に過ごしてしまう日の午後、「このまま一日中、家の中にこもっているのは良くないのでは?」という軽い罪悪感みたいなものに捕らわれ、お出かけすることがあります。たいしたところへ行くのではなく、例えば、読みかけの文庫本などを持っ

  • 目白駅西を散歩して思うこと

    二年前にペンタックス Pentax_MZ-5を安値で入手した際に、中古のズームレンズを着けて、目白駅周辺を試写したことがありました。中古並品同士を組み合わせた写りはやっぱり「並」とその時は感じました。ところが先日、その時の写真を見直してみたところ、何か良い雰囲気。僅

  • 下落合に階段状マンション

    おとめ山公園の南側を東西に走る新井薬師道を散歩していると、ちょっと広めの空地で、そこに来ると、ついカメラを向けてしまう、そんな土地がありました。そこで、いつの間にかマンション建設工事が始まっていました。敷地奥で「おとめ山公園」に接する高い場所から、手前の

  • 修正された記憶:目白の風景

    4年ほど前に「目白(上り屋敷)の入口」というタイトルで、上り屋敷の路地を取り上げたことがあります。40年前に撮影した一枚の路地の写真について、その撮影場所を特定する遊びです。この時は、確定的な判断材料をついに発見できず、「まあこの辺かな」と一応それらしい場所

  • 目白は自転車、OKストア

    3ヶ月ほど前に「ジョナサンからOKストアへ」を書いたら、"k"さんから「箱買いを考えると駐車場が大きいと良いなあ」とコメントをいただきました。それで、本日その前を通りがかったので、確認してみましたよ。新目白通り側の建物正面左端の車入口は、業務用車両の専用でした

  • ホテル「ロンドン」が「リンデン」に

    私の写真に何度も登場した西池袋の老舗ラブホ「ロンドン」、つい最近、建替え工事が完了し新装オープンしました。(この工事中に、「二つのラブホテル、今と昔」の記事を書きました)建替えついでにホテル名称も"London"から"Linden"になっていました。ちょっと古くさいネー

  • ジョナサンからOKストアへ

    昨年、「地震の時はジョナサン」という記事を書きました。新目白通り沿いにあり、1階がジョナサン、2階がバーミヤンだった次の写真の建物を覚えている方も多いでしょう。(12年09月26日撮影)それが閉店したと思ったら、建物も直ちに解体され、(14年07月19日撮影)その後は

  • 目白の「西池袋郵政宿舎」

    先日、目白の街を散歩していたら広大な空き地がありました。「またマンションでも建つのかな」地元の方達が「山紫町」と自称する閑静な住宅街です。「ここは確か、あの緑豊かな宿舎だったよな」ここで二枚の写真を見比べてみます。昔、西武池袋線の上り屋敷駅があった場所の

  • 中央図書館跡地に下落合図書館が着工!

    次の写真は、かつて下落合にあった「新宿区中央図書館」です。2013年7月に閉館した後の11月に撮影したものです。開設されたのは1972年ですから、約41年間も地域の方々に親しまれていたわけですね。私も何回か利用しましたが、以前このブログをご訪問くださったyumikoさんやモ

  • 雑司ヶ谷霊園40年前のプレイバック

    ここ数年、雑司ヶ谷霊園を訪れるたびに心がけていたことがあります。それは、次の写真の撮影場所を特定することです。丁度40年前の5月に撮影したこの写真が、霊園のどこの風景を切り取ったものなのか、そして、その場所が今はどのようになっているのか、ずーっと知りたいと思

  • 子から孫へのママタルト目白台

    椿山荘方面へ散歩した帰り道、「MAMATARTE ママタルト」でリンゴパイ(アップルパイ)を買いました。目白駅から目白通りをずーっと東へ進むと、椿山荘の少し手前にある小さなお店です。ここで話がとんでしまうのですが、40年以上前のこと、「アン・ノン世代」の女房にとって

  • よみがえる彩雲荘の思い出(2)

    (前回)からの続きです。40年前のアパートの隣人から頂戴した昔の写真三枚、最後の一枚は、雪の日の目白の写真でした。素晴らしい写真です。すっかり雪に覆われたこの屋根も、私が決して忘れることのない風景です。なぜなら、私も同じ屋根を何年も見続けて、撮影もしている

  • よみがえる彩雲荘の思い出(1)

    目白に何らかの思い出を持つ方達が、たまたまこのブログを見つけて立ち寄るついでに、ご感想や自らの思い出話などを残してくれたりします。それらを読むのも私の楽しみの一つです。でも、まさか、かつてのアパートの隣人が見つけてくれるなんて、まったく予想もしない感動の

  • 原っぱになった下落合公務員住宅

    (前回)からの続きです。おとめ山公園の拡張部分の大半は、元々「下落合公務員住宅」があったところです。その敷地を新宿区が買い取って、公園として整備したんですね。そして、昨年4月と今年の10月の二回に分けて開園しました。「みんなの原っぱ」「谷戸のもり」「水辺のも

  • 消えたブランコ、おとめ山公園

    (前回)からの続きです。おとめ山公園の今回の拡張整備工事によって、弁天池から敷地北端までの緩やかで広大な芝生斜面が誕生しました。この何もないって、本当に気持ち良いです。でも、これを実現するために、犠牲になったものもあるんです。弁天池の北側、子ども広場にあ

  • まだまだモノクロおとめ山公園

    おとめ山公園の拡張工事が終り、10/26に全面開園です。新しく整備されたエリアは、広く明るく健康的な空間になります。「みんなの原っぱ」「谷戸のもり」「ふれあい広場」「水辺のもり」と名付けられました。『未来の子どもたち』に誇りを持って継承できる公園だそうです。そ

  • 地震の時はジョナサン

    新目白通り沿い、山手線の高田ガード東に「ジョナサン高田馬場店」がありました。私は時々通っていたのですが、今はきれいさっぱり解体され跡形もありません。街路の奥からも新目白通りを走る車がよく見えるようになりました。道路向かい側の店舗の眩しいほどの光も良く見え

  • マルイシティ池袋が(井)だった頃(2)

    (前回)からの続きです。40年前の丸井は、今より駅に少し近い場所にありました。下の写真が池袋駅西口から撮った昔の丸井です。中央に、「丸井のクレジット」って袖看板がありますね。ロゴも「O O 」ではなくて、懐かしい「(井)」でしょう?このビルには、今はビックカメラ

  • マルイシティ池袋が(井)だった頃(1)

    40年前に池袋西口を撮った私の写真に「八十二銀行」という地銀支店が写っています。この写真で右手奥に見える八階建ての建物が、「八十二銀行池袋支店」です。写真が暗く、建物周辺に高い建物が無いので、荒野に一人立つ孤独な男って感じですね。きっと地価も安く、進出費用

  • 「目白台守屋ビル」の成長と終焉

    都電「学習院下」駅近く、明治通り沿いに「彩園」という上海料理のお店がありました。以前このブログでも取り上げた馴染みのお店なんですが、残念ながら閉店してしまいました。先日、この前を女房が通りかかったら、店内から什器類などを外に運び出していました。それで、女

  • 目白と柳原白蓮邸の屋根にさよならする日

    先日、愛知県津島市の料理店で与謝野晶子と「柳原白蓮」の直筆短歌が発見された、と新聞が報じていました。料理店の仏間にある棚を整理していて、紙の箱に入った短冊を発見したそうです。・かねの音にむかしのひひき聞ゆなり忘れしことを思ひいてよと・朝化粧五月となれは京

  • 吉祥寺で布団干し

    (前回)からの続きです。目白での快適な生活の後、80年代は吉祥寺で暮らしました。木造モルタルのアパートから、鉄骨ALC造のマンションへの引っ越しですから、住まいの『格』は上がったことになります。階も2階から、3階建ての3階へ上がりました。しかし、私の心配は「布団

  • 上り屋敷で布団干し

    先日夕方、上り屋敷周辺を散歩していたら、以前注目したマンションが完成間近でした。三井不動産の「パークホームズ目白ザ フォレスト」ですね。昨年の5月には、まだ次のような状態だったのです。それが今はこうです。外部は全て出来上がってます。5階建ての全71戸と規模は大

  • 目白の雪だるまは「雪丸」

    今日の大雪にもめげず雪だるまを作る子供。そして、雪だるまと一緒に記念写真を撮っていました。そういえば40年前、私のアパートの下の階にいた「ヨッちゃん」と言う名のちっちゃな男の子は、雪だるまを見て、「雪丸!ゆきまる!」と喜んでいました。どうしてそう呼ぶことに

  • 40年前の護国寺、豆をまく力士は誰?

    (前回)からの続きです。護国寺の今年の節分会のビラが貼ってありました。豆まき式は午後3時半からの開始です。40年前は、夜中に豆まきが始まりました。まず、傘を差し掛けられて登場したのは、貫首さまでしょうか。次に力士達が台に登りました。一人目は大銀杏を結っていな

  • 40年前の護国寺、節分の豆まきは夜だった

    節分が近づいてきました。豆まきをどうしようか?各家庭で、こんな青鬼を退治するのも良いかも知れませんが、例年、私は近くの鬼子母神などに行くことが多いです。大塚の「護国寺」でもやるようです。今年も議員、区長、関取衆、芸能人などを呼び、昼間の13時〜16時に開催さ

  • 鬼子母神 尻に敷かれた文化財

    (前回)からの続きです。 昔の写真を見ると、境内にはバラックが建っていたり、プロパンボンベやテレビが放置されていたり、まるで戦後の混乱期のようです。上の写真の中央のバラックなどは、ちょっと用途不明です。横から見ると、下の写真のように結構奥行きがあります。

  • 鬼子母神境内 この建物は?

    (前回)からの続きです昔の写真を改めて観察すると、「あれ〜、こうだったかな?」と思う事がありますよね。例えば次の写真です。ツインテール(って言うのか?)のそっくりな女の子が二人写っているでしょう。「あれ、はるみちゃんって双子だったかな?」と疑問になります

  • 鬼子母神の特定秘密「上川口屋」

    (前回)からの続きです鬼子母神境内にずーっと昔から駄菓子屋さんがあります。写真を拡大すると分かるように、創業1781年の「上川口屋」です。店主も名物おばあさんのようで、今回図書館で見つけた鬼子母神関連図書に、『鬼子母神の猫ばあば、上川口屋十三代目店主 内山雅代

  • へそとザクロの鬼子母神

    (前回)からの続きです。本堂の屋根を昭和50年代に瓦から銅板に葺き替えた鬼子母神。「確かにそれ以前の写真では、小さなお堂も瓦葺きだな」と思いつつ、昔の写真をHPの境内案内図と対比させて見ていました。すると、どうも辻褄の合わない部分がありました。下の写真で右上

  • 鬼子母神の屋根が瓦葺きだった頃

    この写真は昭和50年の鬼子母神堂です。屋根が瓦葺きで、二段に分かれています。そして勾配の途中に千鳥破風、軒先に唐破風が設けられています。現在は下の写真のように銅板葺きで一枚の大屋根です。こんなに印象が違うのに、昔の姿は忘れていました。この違いを思い出すきっ

  • 渡辺弘行さんの「忠犬ハチ公チョコレート」

    昨年、「新緑の少女裸像」と題して目白の特養ホーム「山吹の里」に設置してある彫刻を取り上げたことがありました。作品名は『真珠』、その作者は「渡辺弘行」さんという彫刻家なのですが、この名前をキーワードとして当ブログに来訪され、コメントも残して下さった方がいら

  • 下落合公務員住宅の売却

    おとめ山公園の周辺に「下落合公務員住宅」がありました。その敷地はいくつかに分かれていました。大半は新宿区に買い取られ、おとめ山公園の拡張エリアとして既に整備工事が進んでいます。上の鳥瞰写真に写っている「ゾーン」のうち、中央とCゾーンは整備&公開済み。AとBゾ

  • 聖母坂のお風呂屋さん:福の湯

    (前回)からの続きです。今回取り上げる地域の1974年の航空写真です。目白通りを目白駅からずーっと西へ歩いて行くと、山手通りの少し手前で、南へ緩く下って行く坂道と交差します。この坂道が「聖母坂通り」と呼ばれるのは、通りの途中に聖母病院があるからです。現在2歳半

  • 「目白の風」になったお風呂屋さん:目白浴場

    (前回)からの続きです。馴染みの金泉湯がお休みの時は、別のお風呂屋さんに行きました。一つは、先日紹介した「桃仙温泉」、ここは近いけど狭いです。もう一つは、目白通り近くの「目白浴場」です。こちらは、狭くはないけれども、遠かったです。昔の航空写真に、道筋を白

  • 丸井女子寮のお風呂屋さん:桃仙温泉

    (前回)からの続きです。40年前、普段利用していた「金泉湯」がお休みの時は別のお風呂屋さんに行きました。その一つが、アパート彩雲荘から200mほど北の「マンション桃仙」一階にあった「桃仙温泉」です。道順を1974年の航空写真で確認してみます。下の点線です。矢印部分

  • 森の中のお風呂屋さん:金泉湯

    航空写真を見るのは楽しいです。上の写真は1974年の目白周辺の航空写真です。国土画像情報システムから入手したものを繋ぎ合わせました。左端の山手通りから中央の山手線、右端の首都高速5号池袋線まで当時の私の生活圏がほとんどカバーされています。左の方の赤丸の1番が、

  • 上り屋敷の三井マンション

    1973年撮影の、私の住んでたアパート、いかにも木賃アパートという感じですね。今見ると、手摺の一部が開閉式になっていて、そこから錆びたタラップが降りている!そんな仕組みになっていたことを40年後の今日、始めて知りました。でも、通路のはじっこに普通の階段も、もち

  • 下落合公務員住宅

    下落合住宅の案内看板です。今は住む人もなく取り壊しを待っています。昨年初夏の写真です。大蔵省関東財務局下落合住宅。これが昔の名称でした。立地が良く、公務員の間でも人気だったため、弱小官庁の職員には高嶺の花だったそうです。新宿区が買い取って、その敷地のほと

  • ピーコックでお買い物(2)

    (前回)からの続きです。40年前、私は農林中金テニスコート(現:上り屋敷公園)南のアパートに住んでいました。このアパートからピーコックまで買物に行くのは、天気の良い日は本当にお散歩気分でした。下の写真は西武線の踏切を渡って、河合編物服飾学園前で西へ方向を変

  • ピーコックでお買い物(1)

    イオンがピーコックを買収するとニュースで言ってました。「えー!あの目白のピーコックも無くなっちゃうの?」と心配しましたが、ピーコックブランドは残るようですね。一安心。ピーコックは40年前から散歩&買物に行っていた大好きなお店です。1973年の店内の写真です。昔

  • 「ピンクのカーテン」(2)池袋編

    ---(前回)からの続きです。映画「ピンクのカーテン」の撮影は、池袋駅周辺でも行われています。何度も登場するのが「南池袋公園」です。次の場面は、悟と野理子が駅側から公園に入ってくる所です。公園中央にあった噴水越しに撮影されたようです。正面には西武百貨店の窓が

  • 「ピンクのカーテン」(1)目白、上り屋敷編

    これは1974年に撮影した西武池袋線の線路です。画面中ほどに、外部階段を持つ4階建てのアパート「メゾン目白」が写っています。ここが日活ロマンポルノ「ピンクのカーテン」の舞台です。という事を先日、偶然に知りました。このようないきさつです。ジョージ秋山の「銭ゲバ

  • 学習院下の薬品工場群

    学習院下に東西に伸びる新井薬師道があります。この周辺の風景ほどこの40年間で変わったものはありません。1974年の写真があります。この道の突き当たりが新井薬師道です。正面に見える小高い森は学習院です。その手前の白い外壁は運輸省の船舶技術研究所です。船の走行実験

  • 学習院下に親切を売るお店

    学習院下に新目白通りと交差する道があります。下の写真が交差部を東から見た写真です。元々この道路は西側の山手線近くまで伸びていたのですが、1970年頃に整備された新目白通りにより途中で斜めにカットされてしまったのです。そのため今では新目白通りの裏道扱いされてい

  • 目白(上り屋敷)の入口

    約40年前、池袋から目白のアパートへ帰る途中に、「ここからが目白」と感じる場所がありました。その手前とその先とでは、道路幅や街区の大きさが全く異なっているのです。まず、池袋に近い側を見てみます。次の写真は池袋駅の南西にある交差点「池袋警察署前」から、西側の

  • 池袋、風俗と芸術の街

    1970年代、池袋駅西口から目白の私のアパートまでの帰り道に広大な空地がありました。今の「東京芸術劇場」の敷地です。第二次大戦前後の地図を調べてみると、豊島師範学校および鉄道局教習所のそれぞれの敷地の一部を引き継いでいるようです。そこは打ち捨てられた公園とい

  • 池袋西口の風景:芳林堂

    上り屋敷のアパートに住んでいた頃、学校から帰るには丸ノ内線を使って池袋まで来て、駅西口からアパートまで歩くのが普通でした。1974年2月初旬のある日、池袋駅の西口を出ると、もう夕方でした。写真を撮るにはかなり暗めでしたが、ロータリー越しに繁華街を撮影しました。

  • 特徴のない風景だが(2)

    日本家屋の平均的な建替え年数は約30年だそうです。建物自体の耐用年数はもっと長いでしょうが、家族構成・生活様式の変化や転勤に伴う引っ越しとか相続問題などで、まだ住めるのに建替えられることもあるのだと思います。とすれば、30年から更に10年も経つと住宅地の景色が

  • 目白銀座のタタミ屋さん

    上り屋敷からおとめ山まで撮影散歩に出かけた時の写真に、畳屋さんを撮ったものがありました。店の奥での作業風景に心惹かれるものがあったのでしょう、思わずカメラを構えた私もシルエットで写っています。どこで撮影したか思い出せず、また、そのたたずまいから住宅地の作

  • 特徴のない風景だが(1)

    目白にも(一見)特徴のない道があります。というよりも、日本の街で普通の人が暮らしている所のほとんどは、特に目立つものもなく言わば「特徴のない場所」なのかも知れません。それが普通の人の日常生活の場ですから。下の2枚の写真は、それぞれ1974年と2012年に同じ場所か

  • ポンチョとカレー南蛮

    昔の写真でも撮影場所がすぐに特定できるものがあります。下の写真がそれで、電柱に貼付けられた住所を見れば、この場所が「豊島区高田三丁目29番地」である事が分かります。あとは光の射す方向に注意すればOKです。38年後の今年の状況を撮影してみました。ファミレスの「ジ

  • 清酒アパートと駐車場は天命?

    新目白通りは、東京都市計画道路放射第7号線の一部です。この7号線は戦後間もない1946年に都市計画決定されてから順調に施行され、1974年には山手線の下を通過する高田ガード部分も予定通り立派に拡幅されました。1969年に完成した高田ガードは、当初から十分な規格で造られ

  • 高田馬場住宅のキャッチボール

    新目白通りが山手線の下を通る所は「高田ガード」と呼ばれています。ガード壁面に標識が貼られており、その右横には「高田架道橋」と書かれてていた痕跡があります。こちらは多分昔の名称で、西武池袋線に同名の架道橋があるので混同を避けたものと思われます。ガード名と一

  • 下落合のどら焼と踏切と

    1974年1月25日の夕方、目白から下落合エリアは強風に見舞われていました。清水川橋公園から150mほど西に西武新宿線の踏切があり、そこで撮影された二枚続きの下の写真からその日の強風が確認できます。三人の子供を連れたお母さんが踏切を渡ろうとしています。1.線路の向こう

  • 懐かしの清水川橋公園

    目白駅と高田馬場駅の中間に不整形の空き地がありました。山手線と西武新宿線と新目白通りによって切り取られたくさび状の土地です。1989年の航空写真(下図)で、中央の点線部分の緑地がそれです。新宿から高田馬場までは山手線と並行して北上する西武新宿線が、山手線の下

  • 相馬坂の風景10年

    記事作成:2021年05月14日00.撮影位置01.坂の始まりを降り始める落合中学校の女子生徒。2014年02.落合第四小学校のグランド入り口。2015年03.切通しの坂であることが良くわかる。2015年04.新聞配達のバイク。2016年05.パトロールの自転車お巡りさん。2015年06.上りはきついな

  • 相馬坂から神田精養軒へ

    昔も今もよく訪れるおとめ山公園は、目白台地から神田川への傾斜地の中腹にある公園です。そのため南の高田馬場方面へ脚を延ばす時は必ずどこかの坂を下ります。公園の西側にある坂道は相馬坂と呼ばれています。なかなか趣きのある坂で、道沿いの住宅の意匠も傾斜地に良く馴

  • 武家屋敷から銀行社宅へ

    鬼子母神から雑司ヶ谷周辺を散歩した1975年の写真の中に、場所不明の切り通しの坂道の写真がありました。左側の石垣と右側の擁壁&万代塀に挟まれ、また両側からせり出した樹木の枝によって日光は遮られ、昼間でも薄暗い感じのする坂道です。この写真の撮影場所は簡単には見

  • 千登世橋と都電荒川線

    大鳥神社近くの都電沿線の風景は、都市計画道路(明治通りのバイパス)の工事のため驚くほど様変わりしていました。一方、その工事区間の南端ではちょっと面白くて昔懐かしい風景が見られます。明治通りが目白通りの下を通過している千登世橋で、都電も目白通りの下へ潜って

  • 大鳥神社近くの都電踏切

    鬼子母神や雑司ヶ谷霊園を散歩している1975年の写真の中に、都電荒川線の踏切の写真がありました。これを見て、いくつか思うことがあります。1.遮断機が無い。大変危険である!2.電車の屋根の上に載ってる集電装置が懐かしい! (これはビューゲル型と言い俗称は布団たたき

  • 長崎道踏切と高田架道橋

    約40年前、上り屋敷から雑司ヶ谷方面へ散歩に行く時には「踏切」と「トンネル」を通りました。下の写真は「高田架道橋」と呼ばれたトンネルです。レンガとコンクリート製の土台の上に鉄骨の橋が架かっているのが分かります。異種構造の僅かな隙間から光が漏れています。この

  • 近衛町からおとめ山公園へ(2)

    (前回)からの続きです。おとめ山公園は坂道を挟んで東と西に分かれています。日立目白クラブ側からアクセスすると、まず東側のエリアに入ります。こちらには弁天池があって、何十年も前から生息していたかのような亀もいます。東側のエリアを抜け西側へ入るには、管理棟に

  • 近衛町からおとめ山公園へ(1)

    目白駅の南西、住所で言うと新宿区下落合のあたりは「近衛町」と呼ばれています。道の真ん中に欅の大木がある所、と説明すると多くの人が「あそこか」と思いあたるようです。この辺りは「上り屋敷」よりも更に高級な住宅地です。約40年ほど前に「下落合シティハウス」なる低層

  • 上り屋敷駅と踏切(2)

    (前回)からの続きです。目白駅から上り屋敷公園へ向かう最短ルートに、西武池袋線の小さな踏切が一つあります。「上り屋敷駅」跡のすぐ東側になります。1970年代の私もこの踏切を毎日のように通っていました。住宅街にふさわしくヒューマンなスケールの踏切なのですが、通

  • 上り屋敷駅と踏切(1)

    40年前の私は、農林中金テニスコート(現在の上り屋敷公園)南の木造アパートに住んでいました。そこから目白通り沿いの洋菓子「ボストン」や、スーパー「ピーコック」へ買物に行く時に必ず通る踏切がありました。その踏切から西武池袋線の線路(池袋方向)を撮影した1974年

  • 目白駅、38年前と現在

    目白駅周辺には歓楽街もビジネス街もありません。駅の乗降客数もそれほど多くないでしょう。だから改札口も一つしかありません。そのかわり学校があるので学生さんはたくさん利用しています。これは1974年の目白駅ホーム中央部付近です。冬場の夕方、コートを着た女学生や詰

  • 目白五丁目で自分探し?(3)

    (前回)からの続きです。1972年の1月に私が住んでいた「石々荘」の窓から西方向を撮影した写真がありました。この写真から「石々荘」のあった場所を絞り込む事ができるでしょうか?まず、撮影場所を特定できるようなものが写ってないか子細に眺めてみたところ、左遠方に上半

  • 目白五丁目で自分探し?(2)

    (前回)からの続きです。目白五丁目付近で1971年頃に撮影した写真のうち、撮影場所を特定できる可能性の高い写真がありました。公園の写真です。民間の施設に比べると、神社・お寺や公共施設はその場所や用途が変わらずに残っている事が多いです。まず一枚目がこれです。写

  • 目白五丁目で自分探し?(1)

    目白通りと山手通りの交差点近くに「目白五丁目」というバス停があります。(写真の方は知らない方です)1971年の秋から半年ほどこの近くのアパートで暮らしていた時期があります。左:玄関。内階段が見える右:2階の私の部屋のドア。何故か天才バカボンのような顔が当時の木

  • ラブホの足もとの児童遊園

    私が「上り(あがり)屋敷」のアパートで暮らしていた頃、目白駅ではなく池袋駅から自宅まで歩く事がよくありました。その途中に小さな公園がありました。この写真を撮ったのは1974年の冬です。数日前に降った雪が残る公園に女の子がブランコなどして遊んでいました。見上げ

  • 新緑の少女裸像

    ■山吹の里に住む少女?昔、学習院の南東、面影橋という橋が神田川にかかるあたりは、山吹の咲き乱れる野原だったそうです。その自然にちなんで、「山吹の里」と名付けられた特養ホームが高田三丁目にあります。先日その前を通りかかったら、あるブロンズ彫刻が眼に入りまし

  • 自由学園明日館

    目白駅の北西、上り屋敷の一角に国の重要文化財指定を受けた「自由学園明日館」があります。フランク・ロイド・ライトの設計による建築として非常に名高いこの建物ですが、住宅街の中にすんなり納まっているので、地域の子供などは、これが偉大な建築とは思わないかも知れま

  • 目白駅前コマースの事

    チョット気になっていた目白駅前の雑居ビル「コマース」の建替えの件、おととい目白駅に行ったついでに現地を確認してみたら、もう全てのテナントが退去して解体工事を待つばかりになっていました。隣接区画の川村学園校舎から壊し始めて、コマースは8月頃から解体するよう

  • 上り屋敷の風景、今と昔(3)

    (前回)からの続きです。■消えてしまった懐かしの「スーパーダイコー」38年前の冬の日に撮影した写真が一枚あります。「上り屋敷(あがりやしき)公園」の東側を、立教大学方面へ北上して行く道を撮ったものです。道の突き当たりにお店が写っています。「スーパーダイコー

  • 上り屋敷の風景、今と昔(2)

    (前回)からの続きです。■上り屋敷(あがりやしき)の稲荷大明神上り屋敷公園の南西に稲荷大明神があります。小さな祠を二つ持っています。可愛い祠です。榊が供えられ、何と!小さな賽銭箱もあるんです。中央のコップの絵柄は「ポコちゃんペコちゃん」です。私が知らない

  • 上り屋敷の風景、今と昔(1)

    目白駅北西の住宅地を「上り屋敷(あがりやしき)」と呼びます。この言葉は江戸時代の狩り場の休憩所を意味する言葉で、この近くに幕府の狩猟地が広がっていた事に由来するそうです。その名前を冠した公園があります。豊島区立『上り屋敷公園』です。園の中央にあるムクノキ

  • 鬼子母神1975年(2)環境の変化

    (前回)からの続きです。おりにふれ訪れた鬼子母神。40年の間に周辺環境にはやはり変化がありました。1975年と2012年、主な視点からの比較写真を並べてみます。■東側には風情ある築地塀があった1975年。今はイトーピア目白に景観的には良くないけれど、可能ならば私もこの

  • トライXの魔力-鬼子母神の少女たち

    昨日、1975年の鬼子母神境内の風景をながめて懐古趣味に浸っていましたが、ふと、この気分が引き起こされるのは当時使用していたフィルムの特性によるのではないか、と気がつきました。それでフィルムスリーブに保管されている当該フィルムを確認したところ、やはり「KODAK T

  • 鬼子母神1975年(1)境内に遊ぶ少女たち

    おりにふれ訪れた鬼子母神。40年経って変わったところと変わらないところ。■1975年自転車で遊ぶ少女たち。『フランダースの犬』が好きと言っていた■2012年の境内。かつての少女とは別の人物と思います本堂西の渡り廊下と付属建家が建替えられてます。右手の樹木が太くなっ

  • 鬼子母神1974年

    おりにふれ訪れた鬼子母神。40年経って変わったところと変わらないところ。■1974年の参道。舗装材は何だったのかな? 左手前のマンホールに着目!電柱の縦書き広告に「キンカ堂麦香村」とある。キンカ堂が2010年に倒産した時には、閉鎖された池袋店のシャッターに閉店を惜

  • 都電学習院下と千登世橋

    目白から池袋にかけて、明治通りも随分と様変わりです。■1974年の都電学習院下駅歩道橋前にある広告塔、「おもかげ寿司」と読めます。西早稲田にあったこのお店は2008年頃まではネット上に出現しますが、その住所に今あるのは「焼肉韓家」。■現在の姿プラットホームが北側

  • 河合編物からピーコックへ

    かつてピーコックへ買物に行く時は、この道をよく通りました。40年経って改めて歩いてみると、変貌した風景の中に昔の景色の痕跡を見つける事が出来ます。というよりも、その痕跡を手がかりに昔の写真の撮影位置を確定する、いわば「ブラタモリ」的なゲームでした。■後方に

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、タフちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
タフちゃんさん
ブログタイトル
目白の風景今昔
フォロー
目白の風景今昔

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用