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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • 葛西城東まぽろし散歩#03/大島03

    番所跡のプレートがある旧中川岸から少し離れたところに「中川船番所資料館」がある。寄ってみた。 一階がエントラスと受付で2階3階が展示室である。入館料を払ってからエレベータで3階にあがった。 「もともと番所は小名木川の隅田川口あったんだ。その頃は"深川口人改之御番所"と呼ばれていた。それが中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移ったことは判っていた。寛文元(1661)年のころだ。でも実際に何処に移転したのかは杳として分からなかった。それが平成7年(1995)に同地の所有者である日本化学工業が拡張工事のための発掘をしたとき、続々と瓦片等が出土したんだ。どうやら此処が「中川船番所だったらし

  • 葛西城東まぽろし散歩#02/大島02

    「この辺は、あなたがよく言う"葦っ原"だったんでしょ?でも島があったの?それで大島?」 新宿線東大島ホームを出て旧中川沿いに歩きながら嫁さんが言った。 「いや、という訳でもないんだが・・大きな中州くらいは有ったのかもしれない。この辺りが開拓されたのは、家康さんが引っ越ししてきてから50年以上経ってからだ。正保(1644~47)の頃だ。『江戸町鑑(弘化四年改版)』には「大ジマ」と書かれている。あれはおそらく深川漁師町に有った大島と区別するためだな」 「深川漁師町の大島って、この間歩いた清洲橋の傍ね」 「おお、そうだ。よく憶えてるな。たいしたもンだ。大ジマ村が大島町になったのは宝永3年(1

  • コリョサラム#04/アゼルバイジャンのバクーにて#04

    会食が終わってホテルの部屋に戻ると、シンガポールからレポートが届いていた。 別添資料と合わせて50ページほどのレポートだった。僕はワイン片手にベランダへ出てこれを読んだ。 レポートは「スターリンの台頭」から始まっていた。いい切り口だな、と思った。 レーニンの死は1924年である。ソ連共産党はスターリンとトロツキーが拮抗した。トロツキーは世界革命論を説き革命の火ぶたを世界へ広げることを強く主張していた。それに対してスターリンは「まず自国から」を強く語り「一国社会主義論」を前面に押し出していた。この両者の対立は深刻な内抗争をもたらし社会主義体制そのものに崩壊の危機ところまでいっていた。

  • 戦争は儲からない

    ポール・ポーストを引用するならば「戦争は国家が行う最大の公共事業」です。先の大戦ではGDPの一年分を注ぎ込んだところが多出しました。結果はどうだったか? 勝敗に関係なく、戦争によって受けた人的/経済的傷の修復にはたくさんの時間を要した。つまり戦争は"成果"が"コスト"に見合わないのです。 戦争の経済学 www.amazon.co.jp 1,980円 (2023年02月16日 03:53時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 「戦争は儲かる」という輩がいますが、これは間違いです。正しく言うならば

  • 葛西城東まぽろし散歩#01/大島01

    嫁さんと二人で都営新宿線に乗った。行く先は東大島。都営線に乗ったのは、日本へ戻ってから初めてだった。 都営浅草線から乗り換えで地下通路を歩いているとき、嫁さんが「ここ、通ったことないわ」と言った。 「いやいや、何度もある。東銀座へ行くときはいつもここで乗り換えだった。 「東銀座へいくときは」というのは、竪川に住んでた頃の話で40年近い前の話だ。菊川駅から乗っていた。 ・・考えてみると我が家の結婚生活は、三つ目通りを南下する人生だった。竪川で最初の所帯を持って二人の天使を授かり、三好町の木場公園の隣へ越して。それから木場だった。ほぼ20年でこのコースを辿った。子供たちが二人ともサンフラン

  • 握り寿司ならぬ乗っけ寿司は初めて食べた

    有楽町に所用が有って(嫁さんの)出た。 その帰りに、某量販店ビルの上の階に回転寿司屋があるのに気が付いた。 「行きたい」と僕がいうと、嫁さんが露骨にイヤな顔をした。それでも無理やり行ったんだけど・・聞きしに勝るオートメ化だね。何もかも全部セルフサービスでびっくりした。店内は割と混んでいて、予約も席番号も全自動で、席に行ってパネルで注文。ベルトコンベアで送られてくる・・というモノだった。 皿の上に載ってるは、飴棒状に成型された飯の上に魚の切れ端が乗った「寿司によく似た食い物」だった。 箸で掴んだら、ぽろっと上の魚が落ちだ。どれ取ってもポロポロと上に乗ってる魚は落ちた。んんん、こいつは相当

  • コリョサラム#03/アゼルバイジャンのバクーにて#03

    アゼルバジャイ・バクーはカスピ海に突き出たアブセロン半島の南の根元にある新しくて旧い街だ。BAKUは「風の街」という意味だそうだ。カスピ海は渦巻く寒気と暖気のせいで黒海以上に気象の変化が激しい、その吹きすさむ風を古代の人々は"bād-kūbe"バード・クーベと云ったそうだ。これがバクーという街の名前になったと聞いた。 自分でも少し調べてみた。そしてサラ・ハヌム・バラベク・ギジ・アシュルバンリSara Ashurbeyliの著作に逢った。彼女の著作「バクー市の歴史」によると古ペルシャ語のBagavanが語源で「神の都市」という意味だという。他にもテュルク語の「丘」が語源であるという説もあ

  • コリョサラム#02/アゼルバイジャンのバクーにて#02

    スターリンがレーニンの信認を得てロシア共産党の書記長になったのは1922年である。その年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、極東共和国を併合、日本海に至る広大なソ連なる国が出来上がった。トロツキーとの対立しながらも、レーニンの死をきっかけにスターリンは権力掌握のため手段を択ばない王になっていった。・・おそらく彼ほど人を殺した男はないだろう。その数は100万人を下らないと言われている。 スターリンは何を見ていたのか?僕は、オノレをイワン雷帝の再来としたかったのではないか?そう思えてならない。強引な領土拡大と政敵粛清の嵐を見つめると、いつもイワン雷帝の亡霊を見つめるような気がするのだ

  • コリョサラム#01/アゼルバイジャン・バクーにて#01

    前職の頃、ある大きなプロジェクトのためのSPCでコリョサラムGoryeo saramの方とご一緒した。カシャガン油田に絡む案件だった。 ・・ここでは「姜さん」と呼ぼう。舞台はアゼルバイジャンのホテルのラウンジである。 姜さんは30歳半ばだろうか。グーブキン大学Gubkin Russian State University of Oil and Gas卒だとのこと。 「なぜ、金融の道にいったの?どちらかというと、そのまま技術者の道でしょう?」と僕が軽い気持ちで聞くと、彼が言った、 「父は鉱夫だったんです。その願いで行ったんですが、途中で気が変わりまして」と笑った「卒業後しばらくして転属を

  • おはぐろ蜻蛉: 東京日和7つめ/あっちゃこっちゃの旅日記

    おはぐろ蜻蛉: 東京日和7つめ/あっちゃこっちゃの旅日記2 www.amazon.co.jp 0円 (2023年02月03日 12:12時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 泉鏡花が『日本橋』を書いたのは41歳のときだ。大正3年である。装幀は小村雪岱だった。 雪岱は川越で生まれたが日本橋で育った人だ。残念ながら今の日本橋から小村雪岱を偲ぶ縁(よすが)は何もない。 なぜ唐突に小村雪岱の名前が浮かんだかというと・・資生堂パーラーである。 あスこは、ママと娘たちのお気に入りの店で何かと足繫く通っているよう

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