鎮痛・免疫力向上のお役に立ちます<br>takasaki@p1.cnh.ne.jpまでお気軽に(*^^*)
2021年9月
新日が主催した第2回ワールド・リーグ戦が昭和50年4月4日、蔵前国技館で開幕し、メインではA猪木対大木金太郎の公式戦が行われました。半年前の雪辱に燃える大木はスタートから大ラッシュし、ヘッドバッド4連発の猛攻を見せ、猪木をリング下に落とします。さらに大木自身も場外に下りて、ヘッドバッドをやめません。そして先にリングに戻り、遅れてエプロンに上がった猪木にとどめのヘッドバッドこれで猪木は再び転落し、計17発のヘッドバッドで1分16秒、大木がリングアウト勝利を収めたのです。裁定後、20カウント以内のリング生還をアピールするも判定は覆らず、レフェリーに「怒りの鉄拳」の猪木なのでした。プロレス興行の中で、特に勝敗が重視される祭典的な試合では、予選でエース級があっさり負ける秒殺結果もたまにありますが、決して安くない入場料を...A猪木対大木金太郎(1975.4.4)
昭和50年3月13日、広島県立体育館に於けるA猪木対T・J・シンこの対戦に至るまでの経緯を申しますと・・・前年6月26日の大阪大会で、猪木がシンの肘をへし折ったことにより、完全決着という事で、シンを新日マットから追放した形となりましたが、納得のいかないシンは肘が回復するのを待ち、NWF本部に再挑戦を直訴しました。しかしながら、猪木は「もうやる必要がない!」とばかり、この指令を拒否したものの、しつこいシンの再三の要求にキレて、ついにはタイトルそのものを返上したのです。慌てたNWF側は(当時の)会長が辞任し、暫定責任者として、K・ゴッチが一時的に就任しました。ゴッチは「王座決定戦」として、猪木対シンを提案した事で、弟子でもある猪木はこれを断れず「今回限り」という条件で、しぶしぶ了承…かなり回りくどい道のりを経て、結...A猪木対T・J・シン(1975.3.13)
馬場、猪木と共に「若手三羽烏」と言われた大木金太郎実際は1929年2月生まれ(*猪木より14歳上)で1959年(昭和34年)11月にデビューし、翌年9月30日にデビューした猪木の対戦相手を務め、逆腕固めで大木が勝利しました。時は14年経ち、昭和49年10月10日の新日興行、超満員に膨れあがった蔵前国技館において、NWF世界ヘビー級選手権、<王者>A猪木対<挑戦者>大木金太郎の一戦が行われたのです。何となんと試合開始前、いきなり猪木が大木に顔面パンチを放ったのでした。予想外の攻撃に、大木が一瞬ひるんだものの、試合が始まるや、先制のブレーンバスターを放ちます。ダブルアーム・スープレックスでお返しした猪木ですが、大木が得意のヘッドバッドをぶちかますと、あまりのダメージにダウンしました。更に大木は10連発の猛打すると顔...A猪木対大木金太郎(1974.10.10)
「全てが成功であった!」とは、決して申しませんが、日本人対決、異種格闘技戦、ⅠWGP…といった奇抜なアイデアで常に全日本プロレスの先手を取り、自らの体を張って、我々の心を熱くさせてくれたA猪木の闘いを、私は「やったモン勝ちプロレス」と勝手に名づけています。そんな新日マットに、あのタイガー・ジェット・シンが初登場したのは、昭和48年5月の事でした。興行開催中の川崎体育館に、突如乱入したシンは、試合中の山本小鉄をメッタ打ちにし、失神させるという暴挙に出たのです。そして、そのまま強引にシリーズに参戦し、猪木と血の抗争を繰り広げたのであります。そんなシンの行動は、来日する度にエスカレートしました。同年11月には、新宿伊勢丹へ入ろうとした猪木・倍賞美津子夫妻(*当時)と「偶然」遭遇した際、引き連れていた数人の外人レスラー...対T・J・シン(1974.6.26)
私のような80年代ファンにしてみたら、「巌流島の決闘」といえば、当然1987年10月4日に、当地で行われたA猪木対M斎藤そのものであります。しかし70年代の方々にしたら、昭和49年3月19日でのA猪木対S小林を思い浮かべるのではないでしょうか?国際プロレスを離脱し、エースの座も捨て、裸一貫で猪木に挑戦してきたストロング小林試合前のインタビューでは「とにかく試合を見てほしい!」とだけ、言い放ちました。一方、受けて立つ猪木も余裕の表情で、全く同じ言葉を発したのであります。北は北海道から南は沖縄まで、16000人の大観衆が集結した蔵前国技館で、いよいよNWF世界ヘビー級のタイトルマッチとして、世紀の一戦が始まったのです。試合は勢いに乗る小林がやや優勢にスタート、得意のベア・ハッグで猪木を苦しめると、更にお株を奪うグラ...A猪木対S小林(1974.3.19)
昭和47年3月6日に新日本プロレスを旗揚げしたA猪木が、ついにベルト獲りに乗り出しました。1年8ヶ月経った翌年12月10日、東京体育館において、J・パワーズが保持するNWF世界ヘビー級王座に挑戦したのです。60分3本勝負のこの試合、「死神」の異名を持つパワーズの試合運びに苦戦した猪木ですが、20分26秒、コブラ・ツイストで1本目を先制しました。後がないパワーズは手段を択ばず、レフェリーの目を盗んで急所攻撃を行い、そのまま得意の8の字固め(パワーズ・ロック)で5分49秒、猪木からギブアップを奪い、タイに持ち込みます。決勝ラウンドも王者優勢であり、再び8の字固めを狙おうと、スタンディングからグラウンドに持ち込もうとするもその瞬間、後頭部をセカンド・ロープに誤って激突しました。これを好機と見た猪木は卍固めをガッチリと...A猪木対J・パワーズ(1973.12.10)
以前、フェイスブックにおけるプロレス友人との会話で、「ストロング・スタイルって何か?」という話題になりました。色々考えた挙句、「アントニオ猪木から、エースの座を受け継いだ新日トップレスラーが行うべきスタイル」と言うのが率直な私の答えになったのですが、「では、それはどんなスタイルで、誰が受け継ぐのがふさわしかったか?」と更に考えると、すぐに答えが見つかりません。そこで答えを見つけるために、1972年3月6日、大田区体育館、新日本プロレス旗揚げ戦のメインエベントで行われたA猪木対K・ゴッチのビデオを観て、改めて考えました。この時、エースA猪木の付き人を務めるのは、若干18歳の藤波辰巳です。長い歴史に於いて、この両者も色々ありましたが、藤波が「師匠の背中を見て、育った」事は否定しようのない事実と言えましょう。両者ガッ...A猪木対K・ゴッチ(1972.3.
昭和45年8月2日、福岡スポーツセンターにおいて、NWA世界ヘビー級選手権、<王者>D・F・ジュニア対<挑戦者>A猪木の一戦が行われました。猪木にとっては、前年8月の大阪大会以来2度めの世界挑戦となります。前回のドリーとの「大阪・冬の陣」では、3本勝負でありながら、60分ノー・フォール・フルタイム・ドローでした。今回の「福岡・夏の陣」も60分3本勝負、先制攻撃をかけ、まずは1本取りたい猪木でしたが、さすがは「世界」のドリー、「うまく自分のペースへと持っていき、ダブルアーム・スープレックスで、「若獅子」猪木をマットに沈め、30分38秒、1本目を先取したのです。あとがない猪木、しかし7分4秒、「白いキャンパスに美しい弧を描く人間アートブリッジ」原爆固めでイーブンに持ち込みました。3本目は得意のコブラ・ツイストで「世...A猪木対D・F・ジュニア(1970.8.2)
昭和44年5月16日、東京体育館に於いて、日本プロレスが主催した第11回ワールドリーグ決勝戦が行われました。この時点で決勝に残ったのは、日本勢からG馬場とA猪木、外人勢はB・ブラジルとⅭ・マルコフであります。抽選の結果、馬場対ブラジルと猪木対マルコフのカードが組まれたのですが、第1試合の馬場対ブラジルは両者リングアウトで双方共に失格となり、第2試合の「猪木対マルコフの勝者が優勝」という特別ルールが組まれました。さて、今大会ダークホース的存在だった「ロシアの妖怪」マルコフは、優勝候補のG・モンスーンの不調により決勝に進出、試合はマルコフのペースで展開したものの、ナックル・パートで形勢逆転した猪木、最後は17分45秒、卍固めでギブアップを奪い、見事ワールドリーグ大会を初優勝したのです。当時猪木ファンは「これで馬場と...A猪木対C・マルコフ(1969.5.16)
「80年代」ファンの私にしたら、「場外心中」と言って思いだすのは、やはり昭和61年3月26日、東京体育館での新日対UWF(5対5)に於ける上田による前田との道連れ心中であります。まあ、それはともかくとして・・・昭和46年5月19日、大阪府立体育館に於いて、日本プロレスが主催した第13回ワールドリーグ決勝戦が行われました。この時点で決勝に残ったのは、日本勢からG馬場とA猪木、外人勢はA・ブッチャーとザ・デストロイヤーであります。抽選の結果、猪木対デストロイヤーと馬場対ブッチャーのカードが組まれました。前日、K・K・コックスに勝った事で辛うじて優勝戦に残った猪木ですが、勿論ここまできたら、2年ぶり2度めの優勝を狙ってる事でしょう。しかし外人勢として初優勝を狙うデストロイヤーはロープ最上段からのニー・ドロップ、ドロッ...A猪木対ザ・デストロイヤー(1966.5.19)
2021年9月
「ブログリーダー」を活用して、タカサキ式施術さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。