正覚者の言葉の書き写しをメインに、仏教の話題、折々の出来事、日々の雑感など。<br>自他法界同利益 倶生極楽成仏道
正覚寺住職 千葉県東葛地区在住 ハンドルネームは「クリームコロッケ」又は「えびちゃん」 ※正しく覚った先人方の言葉の書き写しをメインテーマに、日々の小さな出来事や写真、雑記等のご紹介をして行きたいと考えています。自他共に、このブログが覚りの機縁となり、正覚に至ることを祈念いたします。
おはようございます。十七eたとえば、スブーティよ、身が整い、身の大きな人があるというようなものだ。」スブーティ長老は言った-「師よ、如来が、<身が整い身の大きな人>と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、<身が整い身の大きな人>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌45法身をそなえたものとして考えられる点で、仏陀が、かの(欠陥のない巨大な体を持つ)人にたとえられている。(なぜならば、仏陀の法)身は(煩悩障や所知障によって)障(さえ)ぎられることなく(すなわち"欠陥のない体をそなえ")あらゆる場所に遍在するのであるから。頌46かつその属性は(功徳)が広大であるから、まさに"巨大な体"なのである。またそれは、「存在しない体の存在」に他ならないから、"体の持ち...金剛般若経十七e
おはようございます。十七dスブーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを覚られた』と、このように言ったとすると、そのひとは誤りを言ったことになる。すると、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、すると、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、すると、如来が現に覚り示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<あらゆる法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43c-d(...金剛般若経十七d
おはようございます。十七cそれはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43-a-bのちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")(無著造世親釈長尾雅...金剛般若経十七c
おはようございます。十七bスブーティよ、どう思うか如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるだろうか。」―「師よ、わたしが師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」このようにいわれたとき、師はスブーティ長老に向かってこのように言われた―「そのとおりだ、スブーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。スブーティよ、もしも如来が現に覚られた法が何かあるとするならば、ディーパンカラ...金剛般若経十七b
おはようございます。十七aそのとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように問うた―「師よ、求道者の道に進んだものは、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」師は答えられた―「スブーティよ、ここに、求道者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生けるものを、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはいないのだ。』と。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が<生存するもの>という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者...金剛般若経十七a
おはようございます。十六cまた、スブーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、どれだけ福徳を積んだり、身に着けたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が錯乱したりするようになるだろう。さて、また、スブーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬いも不可思議であると期待されるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌40c-d(人々に"軽蔑される"ことによって)あらゆる障りが浄化され、(過去の諸仏につかえた功徳として)速やかに神通性を得るということがある。頌41また("報いもまた思議を超えたもの"であって)さまざまなる世間的な繁栄という、大きな果報(も予期されるもの)である。...金剛般若経十六c
おはようございます。昨夜はエアコンなしに眠れました。夜風が心地よい晩でした。それはなぜかというと、スブーティよ、わたしはありありと思い出す。数えきれないほど無限の昔に、ディーパンカラ(然燈)という如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人がおられ、それよりも以前、もっと以前に、数限りもない目ざめた人々がおられた。わたしは、これらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてやめることがなかった。スブーティよ、わたしはこれらの目ざめた人々・世尊がたに仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃になって、このような経典を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、スブーティよ、また、実に、こちらの方の福徳の積み方に比べると、前...金剛般若経十六b
おはようございます。十六aけれども、スブーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱められたり、また甚だしく辱められたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは、前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱められることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十六a
おはようございます。朝晩、随分と涼しくなってきました。明日から処暑(暑さが落ち着き始める)。虫の声も変わってきました。十五cけれども、さらにまた、スブーティよ、実に、どのような地方でも、この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきことになるだろう。その地方は、右廻りに礼拝されることとなるだろう。その地方は塔廟にもひとしいものとなるだろう。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十五c
おはようございます。十五bさらにまた、スブーティよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スブーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は、目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、如来は、こういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無限の福徳を積んだことになるだろう。スブーティよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与る(あずかる)ようになるだろう。それはなぜ...金剛般若経十五b
おはようございます。十五aまた、実に、スブーティよ、女なり男なりがあって、午前中にガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、同じように昼間にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、夕刻にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、この方法によって、無限に長い間、体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗ったりしないならば、こちらの方が、このことのために、さらに多くの、計り知れず、数えきれない福徳を積むことになるのだ。況や、書き写してから学び、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があれば、なおさらのことだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十五a
おはようございます。本日は頌から始めます。頌36教えにおいて、どのように修行することにより、どのような功徳が得られるのか、また修行にはどのような作用(業)があるのかーこれらのことが(以下の経典において)説かれている。(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)(本文)十四hさて、スブーティよ、実に、立派な若者たちや立派な娘たちが、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、これらすべての人々は、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌37文字に関する(修行)には、三種ある。教...金剛般若経十四h
おはようございます。十四gさらにまた、スブーティよ、実に、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、真理もなければ、虚妄もない。スブーティよ、これをたとえて言うと、〔たとい眼があっても〕闇の中に入った人がなにものも見ないようなものだ。物事の中に堕ち込んだ求道者もそのように見なすべきである。かれは物事の中に堕ち込んで施しをするのだ。スブーティよ、また、これをたとえて言うと、眼を持った人は、夜が明けて太陽が昇ったときに、いろいろな彩をみることができるようなものだ。物事の中に堕ち込まない求道者もそのように見なさるべきである。かれらは物事の中に堕ち込まないで施しを与えるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌33(説法は、ものの真相には)到達し得ない(不可得)のであるが、しかしまた、(ものの真相に)かなっている...金剛般若経十四g
おはようございます。十四fさらに、また、スブーティよ、実に、求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを与えなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、この生きものという思いは、『思いでないということに他ならないからだ。このように如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、実は、生きものではない。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語るものであり、ありのままに語るものであり、あやまりなく語るものであるからだ。如来はいつわりを語るものではないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌29(菩薩の)実践修行とは、それが原因となって"生きとし生けるもののため"になることであると知らなければならない。しかし(衆生のためであっても、そこに)衆生という事物の相は(見られてはいない)、捨離...金剛般若経十四f
おはようございます。十四eけれども、さらにまた、スブーティよ、実に、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ。されはなぜかというと、スブーティよ、かつて或る悪王がわたしの体や手足から肉を切り取ったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、個人という思いもなかったからである。それはなぜかというと、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いを捨ててこの上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。法にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。それはなぜかと...金剛般若経十四e
おはようございます。十四dこのように言われたとき、師はスブーティに向かってこのように言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ないすばらしい性質を具えた人々である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実は完成ではないからだ。また、スブーティよ、如来が、最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめた人である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、<最上の完成者>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌25b-d("最高の完成"が説かれるこの経は)他の経典よりもすぐれたものであり、(無数の諸仏によってもそれが説かれているという点では)偉大にして清浄なる(諸仏世尊の)あとを継ぐものであるから、...金剛般若経十四d
おはようございます。十四cけれども、また、師よ、実にそれらの人々には、自己という思いはおこらないし、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでありましょう。また、それらの人たちには、思うということも、思わないということもおこりません。それはなぜかというと、師よ、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、思わないということに他ならないからです。それはなぜかというと、みほとけである世尊らは、一切の思いを遠く離れていられるからです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌25a(客観的な面で"自我という観念は起こらない"といい、主観的には"観念も観念ではない"と否定される。このようにこの教えは)底にまで達するような深い...金剛般若経十四c
おはようございます。十四bしかし、師よ、この法門が説かれているときに、わたくしがそれを受け入れ、理解するということは、それほど難しいことではありません。しかし、師よ、これから先、のちの世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、ある人々がこの法門をとりあげて、記憶し、誦え、研究し、他の人々のために、詳しく説明するでありましょうが、その人々はもっともすばらしい性質を具えた者ということになることでありましょう。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十四b
おはようございます。十四aそのとき、スブーティ長老は、法に感動して涙を流した。かれは涙を拭ってから、師に向かってこのように言った。―「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです。《この上ない道に向かう人々》のために、《もっとも勝れた道に向かう人々》のために、この法門を如来が説かれたということは。そして、師よ、それによって、わたくしに智が生じたということは。師よ、わたくしは、このような種類の法門をいまだかつて聞いたことがありません。師よ、この経が説かれるのを聞いて、真実だという思いを生ずる求道者は、この上ない、すばらしい性質を具えた人々でありましょう。それはなぜかというと、師よ、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。それだからこそ、<真実だという思い、真実だという思い>と説かれ...金剛般若経十四a
おはようございます。十三e師は言われた―「また、実に、スブーティよ、ひとりの女、または男が、毎日、ガンジス河の砂の数だけの体を捧げ、捧げ続けて、ガンジス河の砂の数ほどの無限の時間の間、その体を捧げ続けたとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために教え示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、一層多くの計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるであろう。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌24a(自らを捧げ供養し)その結果(として享ける身体)は最もすぐれたものであるが、(同時にその身体を無限に捨てることは)苦に満ちたものであるから(その功徳は劣っている。説法の功徳はそれに比して、はるかにすぐれている)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三e
おはようございます。十三d師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるものではありません。それはなぜかというと、実に、師よ、『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる三十二の特徴は特徴ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ<偉大な人物に具わる三十二の特徴>、といわれるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23d(七種の宝の功徳よりも三十二相の功徳はまさり、それよりも説法の功徳はさらにまさる、このように順次に)劣ったものよりもまさっているから(説法の功徳は最も...金剛般若経十三d
おはようございます。十三c師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。この果てしなく広い宇宙の大地の塵は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それは多いですとも、幸ある人よ、それは多いですとも。それはなぜかというと、師よ、『如来によって説かれた大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ<世界>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23c(七種の宝の供養が煩悩の原因となるのに対して、土の塵も世界も煩悩の原因ではない。まして説法は)よごれの原因とはならないから(その功徳はきわめて大きい)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三c
おはようございます。立秋です。彼方此方、見えないところで秋が始まっています。十三bスブーティよ、どう思うか、如来によって説かれた法というものがなにかあるだろうか。スブーティは答えた―「師よ、そういうものはありません。如来によって説かれた法というものはなにもありません。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23b(説法は、個人の作為ではなく、世界の真実のすがたとしての法界から自然に)流れ出たものとしての偉大さがあるから(説法の功徳はすぐれたものである)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三b
おはようございます。十三aこのように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように問うた―「師よ、この法門の名はなんと申しますか。また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」このように問われたときに、師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた。―「スブーティよ、この法門は《智慧の完成》と名付けられる。そのように記憶するがよい。それはなぜかというと、スブーティよ、『如来によって説かれた《智慧の完成》は智慧の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※この法門ーこの経典、この世尊の法金剛般若経十三a
おはようございます。十二さらにまた、スブーティよ、どのような地方でも、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、話したり、説いたりして聞かせたりされるとすれば、その地方は、神々と人間と、アスラたちを含む世界にとって、塔廟にもひとしいものとなるだろう。ましてや、この法門を余すところなく記憶し、読み、研究し、他の人々のために詳しく説いて聞かせる者どもがあるとすれば、スブーティよ、かれらは《最高の奇瑞をそなえた者》となるに違いない。スブーティよ、そういう地方には師と仰がれる者が住み、また、さまざまな《聡明なる師の地位にある者》が住むのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23a(説法の行われている土地と説法する人々と)両者ともに、尊敬されるものとなる(という奇瑞がある)から(説法の功徳はすぐれている)。(無著造世親釈長尾...金剛般若経十二
おはようございます。まだ昨日の暑さが残っています。今日も猛暑。蝉も忙しく鳴いています。十一師は問われた―「スブーティよ、どう思うか、ガンジス大河の砂の数だけガンジス河があるとしよう。それらの河の砂は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それらのガンジス河でさえも、おびただしい数にのぼりましょう。まして、それらのガンジス河にある砂の数にいたってはなおさらのことです。」師は言われた―「わたしはあなたに告げよう。スブーティよ、あなたによく理解させよう。それらのガンジス河にある砂の数だけの世界を、ある女なり、あるいは男なりが、七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人、・正しく目ざめた人々に施したとしよう。スブーティよ、どう思うか、その女なり、あるいは男なりは、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろう...金剛般若経十一
おはようございます。十・c「それだから、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。スブーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スブーティよ、どう思うか、かれの体は大きいであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それは大きいですとも、幸ある人よ、その体は大きいですとも。それはなぜかというと、師よ、如来は『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、<体>といわれるのです。師よ、それは有でもなく、また無でもないのです。...金剛般若経十c
おはようございます。十・b師は言われた―「スブーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は<国土の建設、国土の建設というのは、国土の建設でないことだ>ととかれているからだ。だからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌20(浄土というのは、仏陀の)知から流れ出たもの、ただ表象としてのみあるもの(唯識性)である。それゆえに、国土(の光輝)は捉えられるものではない。それは個別的な形状の限りではないから、(光輝ではないのであり)しかも最もすぐれた(教えによって飾られた)ものであるから、光輝ではないものが光輝であると言われるのである。(無著造世親釈長尾...金剛般若経十b
おはようございます。長い梅雨がやっと開けました。空の青さが心地よく感じられます。十・a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来が、尊敬さるべき人、正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで得られたものがなにかあるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとでえられたものはなにもありません。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌19実に、ディーパンカラ仏のもとで、(世尊に)言葉による証悟の把握があったのではない。それゆえにさとりにおいて、"(法は)とらえられないもの"、"表現すべからざるもの"であることが証明された。(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)※ディーパンカラ如来(仏)ー燃燈仏(ねんとうぶつ)。釈尊以前に...金剛般若経10a
おはようございます。九・eそれはなぜかというと、師よ、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、わたくしのことを《争いのない境地を楽しむ第一人者》と仰せられました。師よ、わたくしは、尊敬さるべき人であり、欲望を離れています。しかし、師よ、わたくしは、<わたしは尊敬さるべき人であり、欲望を離れている>というような考えはおこしません。師よ、もしも、わたくしが、<わたしは尊敬さるべき人という状態に達している>というような考えをおこしていたとするならば、如来がわたくしのことを、『立派な若者であるスブーティは、争いを離れた境地を楽しむ第一人者であり、どこにもとらわれないから、争いを離れたものである。争いを離れたものである。』などと断言したりはなさらなかったでありましょう。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌18(預流、一来、...金剛般若経九e
「ブログリーダー」を活用して、クリームコロッケさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。