現存する私のホームページで、今ままでも論じてきたし、これからも生命ある限りは論じるであろうバルトの諸著作に即したその総体像に向かっての論述を、さらに再<推敲>と再<整理>を積み重ねることによって、今後により良い形で残すことを目指す。
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-2)
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-2)『神の恵みの選び』をめぐって『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」蓮見和男訳、新教出版に基づく 『福音と律法』との関係において、根本的で重要な事柄は次の点にある――「予定説」は、
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-1)
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-1)成熟の書としての『福音と律法』をめぐってカール・バルト『啓示・教会・神学/福音と律法』井上良雄訳、新教出版の「福音と律法」に基づく 先ず以てイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論
バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?(その2-2)
『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか? それから次に、
バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?(その2-1)
『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか? 先ず最初に書い
カール・バルトの総体像へ――<「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)>について
カール・バルトの総体像へ――<「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)>について――『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』等に基づく 三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性とし
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)――『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』等に基づく その2の1で述べてきたように、イエス・キリストにおいて自己
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の1――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)――『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学神論』等に基づく 聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現さ
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その1――<バルトの処女作>および<神と人間との無限の質的差異>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その1――<バルトの処女作>および『ローマ書』「第二版序言」の<神と人間との無限の質的差異>について) バルトは、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織
ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場を巡って
ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場を巡って(『福音と律法』、『ローマ書新解』、『教会教義学 神の言葉』、『福音主義神学入門』等に
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