現存する私のホームページで、今ままでも論じてきたし、これからも生命ある限りは論じるであろうバルトの諸著作に即したその総体像に向かっての論述を、さらに再<推敲>と再<整理>を積み重ねることによって、今後により良い形で残すことを目指す。
私にとっては、カール・バルトは、客観的な正当性と妥当性とをもって、すべての自然神学を包括し止揚し克服するという仕方で、世界的に最善最良の神学を構成したカトリックを含めた全神学界におけるただ一人の<思想家>である、と確信をもって言えます、ちょうどカール・
カール・バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」
『バルト・教会教義学・解説シリーズⅢ/4 キリスト教倫理Ⅰ 序説・神の前での自由』鈴木正久訳・編、新教出版社に基づくカール・バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」(エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、198
カール・バルト「聖霊とキリスト教生活」――(3)救済者としての聖霊
「聖霊とキリスト教生活」――(3)救済者としての聖霊(3)救済者としての聖霊 「聖霊の神聖」は、「第三に、……『聖霊が神の啓示において、人間の霊(≪人間精神≫)に対し終末論的なものとして以外には存在しない』ということに存する」。「三位相互内在性」における
「聖霊とキリスト教生活」――(2)和解者としての聖霊(2)和解者としての聖霊 「聖霊の神聖」は、「造られた霊」(人間精神)との「相違」(無限の質的差異)という点からだけでは、「聖霊の神聖はまだ十分に言い尽くされてはいない」。ここで「神聖」は、「造られた霊
『カール・バルト著作集 1』「聖霊とキリスト教生活」蓮見和男訳、新教出版社に基づく「聖霊とキリスト教生活」――(1)創造者としての聖霊 この「聖霊とキリスト教生活」は、著作集「解説」によれば、1930年『時の間に』誌別冊に収録された論文である。 先ず以て
『カール・バルト著作集 1』「礼典論」蓮見和男訳、新教出版社に基づく「礼典論」 この「礼典論」は、著作集の「解説」によれば、1929年の『時の間に』誌第7巻に公表され、同年のエムデンとベルンで行われた講演である。「礼典論」は、具体的には三位一体論の唯一の
『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2-2) 「一体神は棄てられた人間に関して」、「何を欲し給うのか」・「何を定め給うたのか」? この場合、ユダのしたことは、それ以外の使徒においても可能性としてあったし・あるという点が肝要なことである。何故
カール・バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』川名勇訳、新教出版社に基づく 『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2-1) この翻訳本は、訳者「あとがき」によれば、1942年刊行の『教会教義学Ⅱ/2 神に関する教説』(吉永正義は「神
カール・バルト『最後の証し』小塩節・野口薫訳、新教出版社に基づく「最後の証し」 バルトは、「イエス・キリスト」について、次のように述べている――イエス・キリストは、「わたしにとっては特別に、わたしより前に、わたしのほかに、わたしと並んで、すべての人、すべ
『カール・バルト著作集6 政治・社会問題論文集 上』「義認と法」に基づく「義認と法」 バルトは、「義認と法」、換言すればキリストの国と人間の地上の国家、教会と国家について、「新約聖書に関する試論」として述べている。バルトは、『義認と法』の「二 国家の本質
カール・バルトの「ヨブ記」論、『ヨブ バルト著(ゴルヴィツァー編・概説)』西山健路訳、新教出版に基づく カール・バルトの「ヨブ記」論 「ヨブは他の人間すべてと同じく誤りやすい人間である」。したがって、ヨブ記は、「罪なくして罪となりたもうた(Ⅱコリント5・
カール・バルト『戦後神学論集』「キリストとわれら」井上良雄編訳、新教出版社に基づく 「キリストとわれら」 バルトは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信
カール・バルト『戦後神学論集』「イエスと群衆」井上良雄編訳、新教出版社に基づく「イエスと群衆」 バルトは、マタイ9・36について次のように論じている。(1)イエスは「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」「群衆」を「深くあわれまれた」とは、その群
寺園喜基『バルト神学の射程』ヨルダン社に基づく「平和に関するバルトの書簡」(寺園喜基の私訳)をめぐって ベルトールト・クラッパートの「状況連関神学」に傾倒している寺園が、日本基督教団立東京神学大学の学長だった桑田秀延の手紙に対する返答であるバルトの「平和
A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳、教文館に基づくカール・バルトは本当に<新正統主義>神学者か? 「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述者は、神学者か誰かの知識をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりして、それ
「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」
『カール・バルト著作集 1』「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」新教出版社に基づく「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」 「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守すると
『カール・バルト著作集 4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」および「キルケゴールと神学者」小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトとキルケゴール この「感謝と表敬――デンマークとの接触」は、1963年4月19日に行われたデンマークのソニング゙賞の受
『カール・バルト著作集 4』「カルヴァン祭」小川圭冶訳、新教出版社に基づくバルトとカルヴァン祭カルヴァンの「三つの命題」(1)カルヴァンは、われわれ人間の「思惟の力」、「研究のもろもろの成果」について、「懐疑主義」的にではなく、また「安閑」としてではなく
バルトとルター ルターは、「自分の事柄」について、「確信」していた。したがって、「世的なかしこさとまことの知恵の間の選択において、一瞬間たりとも、動揺」しはしない。その場合、「あらゆる側から」の異議申し立て・反対、すなわち「お前はただ自分ひとりだけが正
カール・バルトの生涯――「ただイエス・キリストの名だけ」(その2-2)
カール・バルトの生涯――「ただイエス・キリストの名だけ」(その2-2) エルンスト・ヴォルフの「六〇歳記念論文集への寄稿」文で、「ブルトマン主義者たちが、神の救済行為の『私ノタメニ』の要素を強調しているのを見て」、バルトは、「『ワレワレノ外ニ』という基本
カール・バルトの生涯――「ただイエス・キリストの名だけ」(その2-1)
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトの生涯――「ただイエス・キリストの名だけ」(その2-1) 1956年、バルトが70歳となる年は、彼にとって重要な年となった。何故ならば、200年前の1756年にモー
カール・バルトの生涯――東西問題、ブルトマン問題、『教会教義学 和解論』問題(その2-2)
カール・バルトの生涯――東西問題、ブルトマン問題、『教会教義学 和解論』問題(その2-2) 1951年、バルトは、通常の授業に専念するために、バーゼル大学の学長の職を「再び辞退した」。したがって、「パウロのヨーロッパ到着一九〇〇年記念祝典のためのアテネへ
カール・バルトの生涯――東西問題、ブルトマン問題、『教会教義学 和解論』問題(その2-1)
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトの生涯――東西問題、ブルトマン問題、『教会教義学 和解論』問題(その2-1) 1946年、バルトは、バーゼル大学学長の職の要請を断って、夏学期だけという限定において
カール・バルトの生涯――<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の完成の書としての『教会教義学』へ向かって(その2-2)
カール・バルトの生涯――<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の完成の書としての『教会教義学』へ向かって(その2-2) 1937年の夏、『教会教義学Ⅰ/2 神の啓示』(邦訳Ⅱ/1:言葉の受肉・イエス・キリスト、Ⅱ/2:聖霊の注ぎ・聖霊論、Ⅱ/3:聖書、Ⅱ/4
カール・バルトの生涯――<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の完成の書としての『教会教義学』へ向かって(その2-
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトの生涯――<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の完成の書としての『教会教義学』へ向かって(その2-1) バルトは、処女作『ローマ書』「第2版序言」からはじまって、『
<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2-2)
<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2-2)自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服した、バルトの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階について(1
<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2-1)
<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2-1)カール・バルトの、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な批判について 先ず以ては、次のような認識を必要とする――バルトは、客観的可視的に存
カール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2-2)
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2-2) バルトとトゥルナイゼンは、1933年10月から『不定期出版の双書』(後に、『今日の神学的実存』となる
カール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2-1)
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づくカール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2-1) 先ず以て、この『ルートヴッヒ・フォイエルバッハ』を経由させた成熟の書としての『福音と律法』は、神の
カール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2-2)
カール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2-2) ブッシュは、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』について、簡潔に、次のようにだけ説明している――バルトは
カール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2-1)
エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年に基づくカール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2-1) バルトは、1920年代を
カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2-2)
カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2-2)『カール・バルト著作集 1』「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」新教出版社に基づ論争3ハルナックの問い:(1)「神体験」と「その他の一切の体験」とが対立しているとすれ
カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2-1)
カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2-1)『カール・バルト著作集 1』「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」新教出版社に基づ まさに近代以降において神と人間との「混淆」論、神学と人間学との「混合」学、「神人協
シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉
『カール・バルト著作集4』「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」に基づく 翻訳者・吉永正義は、「訳者解説」で、この書は、「『十九世紀プロテスタント神学』のすぐれた要約」である、と述べている。この書を、吉本隆明が教える連鎖式勉強法
カール・バルトの生涯――カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2-2)
カール・バルトの生涯エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年に基づくカール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2-2) 1911年、バルトは、牧師としてザーフェンヴィル教会に
カール・バルトの生涯――カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2-1)
カール・バルトの生涯エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年に基づく はじめに ブッシュは、「はじめに」で、表出と表現あるいは創造と享受という言語表現の言語の指示表出性あるいは享受の側面に依拠して、「バルトの生涯の
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-2)
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-2)『神の恵みの選び』をめぐって『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」蓮見和男訳、新教出版に基づく 『福音と律法』との関係において、根本的で重要な事柄は次の点にある――「予定説」は、
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-1)
成熟の書としての『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2-1)成熟の書としての『福音と律法』をめぐってカール・バルト『啓示・教会・神学/福音と律法』井上良雄訳、新教出版の「福音と律法」に基づく 先ず以てイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論
バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?(その2-2)
『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか? それから次に、
バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?(その2-1)
『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか? 先ず最初に書い
カール・バルトの総体像へ――<「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)>について
カール・バルトの総体像へ――<「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)>について――『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』等に基づく 三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性とし
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)――『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』等に基づく その2の1で述べてきたように、イエス・キリストにおいて自己
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その2の1――キリスト教に固有な<三位一体の神>について)――『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学神論』等に基づく 聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現さ
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その1――<バルトの処女作>および<神と人間との無限の質的差異>について)
カール・バルトの著作に即した、バルトの総体像を理解するためのキーワード(その1――<バルトの処女作>および『ローマ書』「第二版序言」の<神と人間との無限の質的差異>について) バルトは、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織
ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場を巡って
ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場を巡って(『福音と律法』、『ローマ書新解』、『教会教義学 神の言葉』、『福音主義神学入門』等に
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