東京や近郊(ごくまれに遠方)を中心に散歩がてらデジカメ📷で下手糞な写真を撮り続けています。 人様にお見せするというよりは、忘備録的なアルバムとなっています。
浅草文化センター8階展望テラスからの眺望(201907)東京を代表する観光地「浅草」は、古くから浅草寺の門前町として繁栄してきた。明暦の大火後に吉原遊廓が葭町(現・人形町)から現在地に移転、更に天保年
佐野から東武佐野線で北へ3つ目の駅が田沼。平成17年に葛生町とともに佐野市に統合される前は、田沼町と独立した町だった。古くから一瓶塚稲荷神社の門前町として栄え、さらに市場が定期的に開かれたことで商業地
佐野から北へ10㎞超、平成15年に田沼町と共に佐野市と合併するまでは独立した町だった葛生。江戸時代から石灰の生産で栄え、江戸城の修復や日光東照宮の造営などで利用された。この地で生産される石灰は八王子石
栃木県南西部に位置する佐野市は、東西に両毛線、南北に東武佐野線が交わり、交通の要衝でもある。厄除け大師(惣宗寺)、近年ではラーメンの街として売り出し中だが、古くは栃木と同様に日光例幣使街道の宿駅として
日光例幣使街道の宿場と巴波川の水運による物資の集散で発達した栃木。その北方に隣接した街道沿いの嘉右衛門町は、惣名主の岡田嘉右衛門によって開発がされた町。西に流れる巴波川に並行して大きくカーブした街道沿
栃木は日光例幣使街道の宿場町であると同時に、巴波川の水運を利用した物流により繁栄した商都でもあった。明治4年の廃藩置県では、わずか13年だったが栃木県の県庁所在地だったこともある。巴波川沿いや日光例幣
【東京都】渋谷道玄坂「渋谷百軒店」(渋谷区)202003 渋谷道玄坂は現在こそラブホテルや風俗店が並ぶ歓楽街のイメージだが、かつては関東大震災後に西武鉄道の堤康次郎によって円山町の三業地に隣接する形で
慶應義塾大学のおひざ元である三田だが、その北の外れ、現在の三田一丁目はかつて「三田小山町」と呼ばれていた。古川が緩衝材だったせいか、戦災に見舞われていなかったようで、戦前から残っていると思しき木造長屋
麻布は谷地と台地で起伏が富んでいる典型的な山の手で、台地の縁に古川が流れている。世間で広くイメージされる高級住宅街は主に台地に広がっているが、古くから職人や町人が住んでいた谷地には木造家屋が密集するエ
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