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2019/11/23

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  • 4/26 知らないと知る為には知らないと知るしかない

    普段からずっと、人生やら生死やらを考えているから、大抵の人よりは分からないと分かっていることが多いと自負している(錯覚である可能性も否めないが)。 分からないと分かるということは往々にしてその構造が分かるということだ。例えば死が何かは生きている間には絶対にわからないということ。だから、死に感情を抱くのはおかしいということ。 分からないものに何らかの意思表示をするのは、明らかに変である。食べたことが無いものを「美味しかった」と言っているようなものだ。せいぜい許されているのは「美味しそう」までである。それ以上は明らかな無根拠での決めつけだ。 もっと言えば自分にとって自分の死は「ない」のである。自分…

  • 4/25 世界に一つだけの花×77億

    「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞はほぼ誰の耳にも聞き覚えるのあるものだろう。そう、あの有名な「世界に一つだけの花」のワンフレーズである。 「比べなくたって、競争しなくたって、あなたは元から特別なたった一人なんだよ」という暖かなメッセージなのだろう。 しかし、よくよく考えてみて欲しいのだ。この曲が大衆に向けられて書かれている時点でその主語は「皆」ということである。つまり「皆特別で皆オンリーワンだよ」なのだ。 さぁ、皆が「特別」で「オンリーワン」なら、もはや「特別」と「オンリーワン」にはどんな意味があるというのだろうか。 「特別」というのも、「オンリーワン」…

  • 4/24 洗脳状態が意味を生み出す

    あらゆる存在はそれに相対して存在するものに補填されて存在している。 私は他人によって、生は死によって、健康は病気によって、幸福は不幸によって、優は劣によって、善は悪によって存在する。 物事は相対して初めて認識され、言葉という記号を与えられ、そしてそこに意味が生じる。 だが何度も書いて来たが、「存在」に相対するはずの「無」は存在するとは言えないので、存在は実は存在するとは言えない、ということになる。 だから事態は振り出しに戻って、全ては「無意味」ということになる。いや無意味というのは意味が存在する前提の否定なので、正しくそれを表現するなら「意味ではない」ということになるだろうか。 そう、本当は全…

  • 4/23 分かり合えないと分かり合おうよ

    人間同士分かり合えるのなら、そも言葉など持たないのが道理である。言葉が生まれたという、そのことが即ち、人間は互いには分かり合えないことを示しているのである。 人には「主観」を共有をすることが不可能なのだ。これは科学や技術が発展すればいずれは成し得る、といったような話ではない。 主観の枕詞は必ず「自分の」であるのだから、他人が見られた時点でそれは主観では無くなるし、逆に他人のを覗いたとしても、覗けた時点でそれは自分の主観ということになる。 だからこれは定義的に絶対にありえない話なのである。 よって「自分」は絶対に他人には分かって貰えないのである。むしろ他人によって分かってしまったのなら、自分など…

  • 4/21 意味が欠落する日々

    他人と会話している時、ふと疑問に思うことがある。 「私は何と話しているのだ?」 いやもっと意味が欠落された問い方をするなら、 「何が何と何をしているのか?」 だろうか。 懐疑的な性格を持っていると、本当に分からなくなることがしばしばある。 まず、「個人」という単位が分からない。つまり「その人」とは一体どこからどこまでを指すのかが分からないのである。 顔がその人なのか、身体も含めてその人なのか、身体さえあればその人なのか。その人を私が見る、見てとることが出来た部分だけがその人なのか。 そして「話す」という行為だ。先と繋がることだが「その人が話す」とはどういうことなんだ。私の言葉を、その人の頭(?…

  • 4/18 馬の鼻先にぶら下げられた「生きる意味」

    欲望を持たない人間などいないであろう。三大欲求をはじめ、所有欲、出世欲、承認欲求、顕示欲、支配欲などなど、およそ挙げればキリがない。 人は常に何かを欲している。生きるとは欲することであると言っても過言ではない。 欲することが人間の生きる動機であり、動力なのである。そして人が様々なものを欲する目的はただ一つ、即ち幸福の為だ。 幸福とは何なのか。おそらく万人に共通する様式はない。幸福とは個人の尺度である。お金があれば、家族がいれば、何かを達成すれば幸福になれるというのなら、誰もがそれを目指すだろう。 しかし、現状皆はバラバラの方向でそれぞれの人生を生きている。まさにその事が幸福に決まった形式はない…

  • 4/15 人は一人で幸福になることは出来ない

    自分は洗脳されているだろうか。この問を一度抱えてしまったら、もう抜け出すことは出来ない。なぜならいかなることも洗脳されていないことの証拠にはなり得ないからである。 多くの人が「自分は(精神的に)正常(だろう)」と思う根拠は恐らく、周りの人と意思疎通する上であまり齟齬が生じていないこと、或いは皆も自分と同じように暮らしている(ようにみえる)ということからきている。 この場合の「正常」とは「多数派」の事だ。だが「多数派」というのは、当たり前だが、ただ多数であるということだ。そこには如何なる正当性もありはしない。 ただ人数が多いというだけで、正しいと感じてしまうのは、世の全てが無根拠だからに他ならな…

  • 4/14 訳もなく下り坂を全力で駆け抜けていたあの頃の自分へと

    大人になると、純粋に行為することが難しくなる。それは様々なしがらみに縛られているからだ。何をするにも目的や原因がいるし、他人の行為にもそういった意味を読み取ろうと考えるようになる。 今の行動は常に、過去に囚われた結果か、或いは未来への準備の段階であり、「純粋に〇〇する」ということはほぼ見られない。 トラウマ、過去の栄光、未来予想、将来への不安。そういったものから人間は逃げられなくなる。子供の頃のように、純粋にブランコに乗る、純粋に鬼ごっこをすることは、もはや一つの価値であると錯覚する程に、大人にはそれが出来なくなるのだ。 今を生きられなくなることは、人間にとっては当たり前の成長なのかもしれない…

  • 4/13 空虚な人生をただ見つめよ

    人生とは本当に不思議である。「何」が存在したのかも分からぬまま、「死ぬ」とは何かを知らぬまま、やがて誰もかも肉体が朽ち果て、意識もろとも消えうせる(おそらく)。 「ある」に閉じ込められた我々はただ存在するのみで、存在理由も存在形式も存在目的も何もかもが不明である。 なんと虚しいことであろう。毎日忙しなく生きている人も、毎日が楽しくてキラキラしている人でも、ふとした瞬間にこの根源的な虚無に触れているはずだ。 この虚しさを人々はずっと避けている。正面から向き合わずに家族や仕事、お金、娯楽、地位その他諸々で埋めようとしている。 だが空っぽに何を入れようが、それが空っぽであるという事実は変わらない。コ…

  • 4/9 考えること以外とは無縁の人生

    いつも普遍的で不変的な話ばかりをしているから、今回は移ろいゆく私(ブログ主)の個人的な話も書いてみたい。 最も私はあまりこちら側には関心がないので、難しいところであるが、何事もチャレンジということで。 感情を心や精神の面で多く書いてきたらけれど、私個人日々何を思っているのかということについてはあまり触れてこなかった。何故かというとどうでもいいからである。心にどんな思いを抱こうが私のやりたいこととやるべき事は絶対に変わらない。 それは赤ちゃんに戻ることであり、自身の無知を限りなく知ることであり、つまりは善く生きることである。 それ以外に人生でやるべきことなど私にはとても思いつかない。だからそれ以…

  • 4/8 人間に意志はあるか

    人間に果たして「意志」と呼べるものはあるのだろうか、と最近ずっと考えている。 意志とは何か。例えば手を上げる。我々は手を上げる前に、手を上げることを意志したのだろうか?しかし、それだと意志することにも意志する必要性が生まれる。従って我々に行為を始めることは不可能となる。 意志は行為を始める直前にはないことが分かる。それなら後付けの辻褄合わせか。つまりは解釈或いは物語の類いだろうか。手が上がった。その現象を飲み込む為に、手を挙げると意志した、と解釈した。 科学という物語と同様に、意志があるというのは人類が「納得」する為のストーリーに過ぎないのだろうか。 はて、それで「納得」する人はどれくらいだろ…

  • 4/6 コロナと恐怖

    世の中がコロナ一色である。恐ろしいウイルスなんだとか。私はあまり危機感というものを持てる方ではないが、人の迷惑にはなりたくないのでここ最近はバイト以外は家で大人しくする日々である。 人々は一体何を恐れているのだろうか。自身の死か親しい人の死か、或いはもっと他の何かか。 私には「分からない」ということを恐れているように見える。新型で対処が出来ない、世界中に前例かない、どの程度広まるのか、どれくらいの人が死ぬのか、自身の体にどのような影響を与えるのか、何もかもが不確定で分かりようがない。 皆分からないから恐れているのであろう。「不可知なものは恐ろしい」という価値観があるから、人類は未だに「自分」の…

  • 4/5 人は忘れることができない生き物である

    思い出す、忘れるまたは閃く、といった動詞を「あるはある、ないはない」という世界の超基本的法則に則って考える時、実に面白い事実に気がつくことが出来る。 例えば、「昨日は何してたっけ?」ということを思い出そうとして頭をひねる。そして、例え全然覚えていない時でさえ人は「あれ?思い出せない」と言うのである。 ここで人が言う「思い出せない」とは「何かはしていたけど、何をしていたかは思い出せない」という意味である。果てこの場合の「何かはしていた」ということの根拠は一体どこにあるのだろうか。 ことの内容は覚えていないけれど、ことが「あった」のは思い出せる。というのはどんな状態なのか。ことの内容を覚えていない…

  • 4/1 言葉が底抜けする恐怖〜深く考えたそこに待ち受ける狂気〜

    言葉によって言葉を定義する。これにはおよそ無理がある。その言葉が指している「意味」はその言葉によってのみ表し得る。 別の言葉で表せるのなら、そもその言葉は生まれないのが道理である。 しかし、人が何か言葉の意味を会得する時、それはいくつもの意味の相似によっている。或いは意味の空白、パズルの最後のワンピースの場所が決められているように、文章からその単語の意味の外枠を想像し、当てはめていく。 皆は不思議に思わないのだろうか。ただの文字の羅列だったものがだんだんと「意味」を帯びてくること、そして一度知ってしまった意味からはもう二度と抜け出せないこと、私にはこれはとんでもないことのように思うのである。 …

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