スヴェーデンボリ名言集
住所
出身
ハンドル名
スヴェーデンボリ名言集さん
ブログタイトル
スヴェーデンボリ名言集
ブログURL
http://newjerusalem.blog.jp/
ブログ紹介文
スヴェーデンボリの名言を紹介します。
自由文
-
更新頻度(1年)

98回 / 97日(平均7.1回/週)

ブログ村参加:2019/05/18

スヴェーデンボリ名言集さんの人気ランキング

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スヴェーデンボリ名言集さんのブログ記事

  • アベルの捧げものとカインの捧げもの

    「エホバはアベルとその捧げものに目を留めた」ことは、それらの仁愛とそこからの礼拝が主に喜ばしいことを意味することは前に説明されたのである。またアベルが何かも、捧げものが何かも前に説明されたのである。「ところがしかし、カインとその捧げものに目を留めなかった

  • 「門」の意味

    「門」の意味については、一般的に各々の人間の許に二つの門がある。一つは地獄に開かれており、それは悪とそこからの間違った原理に開かれたものである。その門の中に地獄的な悪鬼と霊が居る。もう一つの門は天界へ向かって開いており、それは善とそこからの真理に開かれた

  • アベルとカイン

    「そして、カインはその兄弟のアベルに言った。そしてそれがあった。彼らが野に居た時、カインはその兄弟のアベルに対して立ち上がって彼を殺した。」「カインはアベルに言ったこと」は時の流れを意味し、「カイン」によって前に言われたように愛から分離された信仰が意味さ

  • カインについて

    ここでは「カイン」と呼ばれる信仰の教義が記述されている。それは愛から分離した信仰なので、愛の実である仁愛からもまた分離した信仰である。どこでも何かの教会で、もし信仰の一つの部分について考え、それを最も重要なものと為すなら異端が生じる。なぜなら、人間の思考

  • 汚れた欲望の浄化について

    再生されるべき人間の許の最初の真理への情愛は極めて穢れたものを持つ。というのは、それにこの世のために、天界においての名誉のために、また同様なもののために自分自身のための用と目的の情愛が内在するからである。それらは自分自身に向かって目を向けるが、しかし公共

  • 信仰と仁愛の関係

    信仰なしに仁愛は本来の仁愛ではなく、また仁愛なしに信仰は信仰ではない。仁愛があるためには信仰があらねばならず、また信仰があるためには仁愛があらねばならない。だが聞き給え、信仰の本質的な部分は仁愛である。というのは、信仰である種子は他の地面に植え付けられる

  • 男を知らない乙女

    「彼女は乙女であり、また男は誰も彼女を知らなかった」が、凡ての間違った原理から清いことを意味することは、「乙女」の意味から知られよう。聖言の中で乙女はしばしば言われており、またそこで乙女によって主の王国が意味され、更に教会もまた意味されている。それ故、そ

  • 偽りの救い

    直接の慈悲による瞬間の救いは教会の中で飛ぶように走りまわっている火蛇(毒蛇)である。(神の摂理340)現代では多くの人が身代わりの救いを信じ、主が自分の身代わりに十字架に架けられたと信じ喜び感謝しています。確かに、そのことを信じればどんな罪の痛みも一瞬で取り

  • 偽りの祝福

    自分自身の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、不敬虔な者が名誉を高められることへ、そして、高官、および最上位の者に為され、更にその上、富に満ち溢れること、なお加えて、贅沢なものと豪華なものの中で生活するのを見る時、そして神の崇拝者が侮りと貧困の中に生活するのを

  • 善なる行為の中の悪なる意図

    例えあなたが凡ての機会において善を行なっても、例えあなたが教会を建てて、それを装飾し、なお加えて、捧げ物で満たしても、例えあなたが病院と介護施設に費用を支出しても、例えあなたが未亡人達と孤児達に毎日施し物を与えても、例えあなたが神聖な礼拝に熱心に出席して

  • 善に連結される真理

    これらの三つの節の内意の中に何が含まれているかは、説明から暫時認められることが出来よう。しかしそれは分かたれたものなので、ひと続きの事柄の中に何が含まれるかは、一つの考えの中へ集められたものが見られるのでなければ、またその時、文字通りの意味から鏡に写った

  • 不正な者よ立ち去れ

    「彼らは言うであろう。私達はあなたの前で食べ、また飲みました。そして私達の街路であなたは教えられました。しかし主は言われるであろう。私はあなた達がどこからあるか知らない。不正な労働者の凡ての者達は私から立ち去れ。」ルカ伝、13. 26, 27、ここの「主の前で食べ

  • 慈悲について

    「また慈悲を為し給え」が、愛の流入を意味することは、慈悲の本質が愛であることから知られよう。また愛そのものが慈悲の中に転じられ、そして愛から、即ち仁愛から助けを必要としている誰かが見られる時、慈悲が行なわれることから知られよう。それ故、慈悲は貧しい者達と

  • 相互愛

    この相互愛の結合の秘義の知識と理解に凡ての存在と創造の知識と理解が依存し、更に神による存続と保持の知識と理解が依存する。即ち、創造された全世界における神の凡ての働きの知識と理解が依存する。それらについては次に取扱われる。(神の愛と知恵50)神との関係におい

  • 主への愛からの礼拝

    聖言において「神を恐れること」が何を意味するかは、内意に関する理解によって聖言の多くの箇所から知られることが出来よう。聖言で神への恐怖は礼拝を意味し、実際に恐怖からか、信仰の善からか、愛の善からかの礼拝が意味される。再生されていない者達について述べられる

  • 隣人愛からの礼拝

    隣人愛からの礼拝聖言において「神を恐れること」が何を意味するかは、内意に関する理解によって聖言の多くの箇所から知られることが出来よう。聖言で神への恐怖は礼拝を意味し、実際に恐怖からか、信仰の善からか、愛の善からかの礼拝が意味される。再生されていない者達に

  • 恐怖からの礼拝

    聖言において「神を恐れること」が何を意味するかは、内意に関する理解によって聖言の多くの箇所から知られることが出来よう。聖言で神への恐怖は礼拝を意味し、実際に恐怖からか、信仰の善からか、愛の善からかの礼拝が意味される。再生されていない者達について述べられる

  • 「什一」の意味

    「十」の意味が主により人間の許に貯えられた善と真理である残りのものであることから(知られよう)。そのことについては、468, 530, 560, 561, 660, 661, 1050, 1906, 2284番に認められよう。(天界の秘義3048)聖言において「十」、或いは「什一」と言われるものは、人間

  • 人間の試練について

    一般的な試練については前にもまた言われたことが認められよう。59, 63, 227, 847番を参照、試練は善か悪か、真理か間違った原理かどちらが支配するかの支配力についての戦いである。1923番を参照、試練の中に憤りがあり、また多くの情愛がある。1917番を参照、試練には天的

  • 主の試練について

    主の試練については一般的に外的なものと内的なものがあった。とは言え、より内なるものであればあるほど、益々厳しい試練であった。最内部の試練はマタイ伝、26.37-39, 42, 44、27.46、マルコ伝、14.33-36、15.34、ルカ伝、22.42-44、に記述されている。しかし、主の試練に

  • 我が子を生け贄にすることは正しいことか

    主がこの世に来られるであろうこと、また死を受けられるであろうことは、最古代の時代から熟知されたことであったことは、異教徒達の許に我が子を生け贄に捧げることの習慣が激しかったことから知られることが出来よう。それほどに彼らは我が子を生け贄に捧げることによって

  • 主のもう一つの十字架

    これらの凡ての箇所における「人間の御子」によって神的な真理に関する主が意味されている。即ち内意そのものにおける聖言に関する主が意味されており、それが祭司の指導者達と律法学者達から捨てられ、暴行で苦しめられ、鞭打たれ、唾を吐かれ、十字架に架けられた。そのこ

  • 善と真理の連結と悪と間違った原理の連結

    人間が善い情愛を持つ時、即ち心から善を欲する時、欲することと行なうことが何かを考えられなければならない時、その時、その正しく欲することが彼の考えることの中に流入し、またそこでそれを適用し、同時にその容器に受け入れているようにそこの知識(概念)に導入する。

  • 救いの原型

    本来の理性は善から存在し、また真理から形になる。善は内なる道を通して流入するが、しかし真理は外なる道を通して(流入する)。善はその真理と一緒にそのように理性の中で連結し、また理性があるように為す。もし、そこで善が真理と連結されるのでなければ理性はないが、

  • 主からの隣人愛を受け入れる者

    誰が愛の本質を熟慮することが出来る者で、これを認めることが出来ない者があろうか? というのは、自分自身だけを愛すること、また愛を返されるであろう自分自身以外の誰かを愛さないのは何か? これは結合よりもむしろ解くことである。愛の結合は相互によってあり、そして

  • 二つの愛

    愛の本質は自分自身を愛することではなく、他の者を愛することである。そして愛によって他の者に結合されることである。更に愛の本質は他の者から愛されることである。というのはこのようにして結合されるからである。凡ての愛の本質は結合の中にあって、実にその愛の生命は

  • 続、愛と知恵は一つ

    知恵と愛は人間の許で二つに分けられているように見える。なぜなら、彼の許の理解することの能力は天界の光の中に上げられることが出来るからである。しかし愛することの能力は、もし人間が理解するように実行する範囲でなければ上げられない。それ故に、愛と一つのものを為

  • 愛と知恵は一つ

    愛と知恵の結合は神的な凡ての働きの中にもまたあり、それにより持続がある。無論これは永遠である。創造された何かの働きの中に、もし神的な神の愛が神的な神の知恵よりも多いなら、或いは神的な神の知恵が神的な神の愛よりも多いなら、それ以上にあるものは消え去り、等し

  • 神は一人

    神で在られる神的な人間の中に神の愛と神の知恵の、そして神の知恵と神の愛のこのような結合があるので、神的な神の本質は一つのものである。というのは、神的な神の本質は神的な神の愛であり、また神的な神の知恵であるからである。なぜなら神的な神の愛は神的な神の知恵の

  • 神の存在と神の形は区別のある一つのものである

    神で在られる神的な人間の中の神的な神の存在と神的な神の形は区別のある一つのものであることは上に認められる(14-16番)。そして神的な神の存在は神的な神の愛であり、また神的な神の形は神的な神の知恵であるので、それ故に、これらは同様に区別のある一つのものである。