日々考えたことをつらつらと書いています。 日常的なことを、かなり小理屈めいて考えています。 興味がありそうでしたら、ちょろっと覗いてみてください。
『海のトリトン』のピピ 〜子ども向けアニメに組み込まれた男女の姿
おもちゃ会社がスポンサーとなる子ども向けのロボットアニメ。しかし子どもに見せるものを子供騙しのようなものですませるのは失礼だ。こう考えた富野由悠季は、自分が監督を任された作品で数々の挑戦を始めました。それは『ガンダム』だけではありません。 富野由悠季の監督デビューは手塚治虫原作の『海のトリトン』でした。しかし漫画とアニメは全くの別物です。タイトルとキャラクター名と少しの設定が一致するくらいで中身は似ているところの方が少ないです。そして面白いのは手塚治虫版ではなく富野由悠季版なのです(以下ちょっとネタバレになるかもしれません)。 どこが面白いのかと言いますと、富野版『トリトン』は男女の物語なので…
TVアニメがグッズ展開によるキャラクタービジネスによって支えられているとしたら、スポンサーとして出資する企業も同じようにキャラクターグッズを販売する会社が集まるのは自然なことと思います。 日本のアニメは『鉄腕アトム』から出発し、すぐに『鉄人28号』が追随してきたことからもわかるように、実は最初からロボットものによって成立したともいえます。その後『マジンガーZ』によって、いわゆる今で言うスーパーロボットが確立します。この時点でスポンサーとなるのはどのような会社でしょうか。簡単ですね。おもちゃ会社が主なスポンサーになるのです。そしてスポンサーの目的は、アニメで流した作品のロボットをおもちゃとして自…
手塚治虫の危機とキャラクタービジネス 〜グッズ展開がないとやりくりも出来ないんですぅ〜
手塚治虫の名(迷?)言の一つに、漫画は本妻アニメは愛人、というものがあります。今なら怒られそうなセリフですが、当時の社会風潮を踏まえての自虐的な発言だったのでしょう。とにかくお金がかかって、漫画で稼いだ分で補填どころかつぎ込んでも、まだ足りません。結果2度ほど会社を倒産させています。手塚治虫はアニメを愛しましたが、漫画ほど愛されはしなかったようです。 この時が手塚治虫の人生の中で最も辛かった時期の一つだと言います。親しい人は去っていき、頼りにしていた人もいなくなり、周りに誰もいなくなってしまったそうです。後年『未来人カオス』を描いた時、本当の友情ってあるんだろうか、あってほしいと思いながら描い…
今週もまた振り返ってみたいと思います。 途中までは順調に横ばいだったのですが、急に一度落ち込みました。数日ゆっくりと回復してきたのですが、今度はまた急に増えました。あまりやっていることも変わらないので、落ちた理由も上がった理由もわからず困惑しています。落ちた時には飽きられたのかと落ち込み、上がった時は単純に喜ぶのですが、理由がわからないため今後どのように対策していけばいいのか戸惑ってしまいます。う〜ん、なんでだろう…よくわからないなぁ。 わからないついでに、今週は結構短時間の間にブックマークをつけてもらえた日もありました。大体30分くらいの間に3つ4つつけてもらえ、自分でもつけてみてはてなブッ…
たなびく布地に 色鮮やかと 右に左に 振り回されて 渦巻く蠢動 地響きもたて されど柄の根は 中空に浮く 先週の詩 指 - 日々是〆〆吟味
ちなみに手塚治虫は締め切りをよく破りました。それどころか締め切りを破ること自体を楽しんでいたそうです。いかにして原稿を取りに来る編集者を煙に巻くか、遊んでいたといいます。ちょっとトイレ、と言って目を離したら消えている、とか、原稿をあげる順番を滅茶苦茶にして、出来た原稿から持って行かせないようにした、とかいろんなエピソードがあります。 逆にどんなところでも原稿を描いたともいいます。たとえば出版社の行うパーティーというものがあります。なんでも漫画家は仕事場に篭ってするものですからあまり漫画家同士の交流は出来ないらしく(詳しくは知りません)、そのためこうした漫画家を集めたパーティーを出版社か開くのだ…
このまま日本の文化についてもう少しお話しようかと思ったのですが、ちょっと手塚治虫が残した様々な影響について、いくつかお話してみようかと思います。思い出したうちに書いておかないと、また違うこと書いて忘れてしまいますからね。 日本のアニメ体制が手塚治虫の無茶な料金設定によって成立してしまったように、漫画におけるアシスタント制度も手塚治虫によって作られたそうです。手塚治虫が売れっ子だったのは最初からです。落ち込んだらしいのは晩年のちょっと前くらいらしく、しかし『ブラックジャック』で返り咲きました。当時『ブラックジャック』の連載を決めた秋田書店の編集者は、手塚治虫の死に水をとるつもりで連載を引き受けた…
手塚治虫の制約のもとに戦後のアニメは出発します。金ない、人ない、動かない、粗製乱造と、悪くいうには事欠かない有様です。その中で手塚治虫は同じ絵を使いまわしたり必要のない絵を描かなくてすましたりしてなんとかして乗りきりました。 しかし、この手塚治虫のアイデアを聞いて、みなさん今まで見てきたTVアニメから思い浮かぶことはなかったでしょうか。たとえば同じ絵の使い回し。これは変身シーンや必殺技のシーンなどで毎回行われています。 古い例になりますが、『北斗の拳』でケンシロウが戦う前に服が破けるシーン。また『美少女戦士セーラームーン』で変身するシーン。同じく『美少女戦士セーラームーン』で毎回見る、敵を倒す…
アニメーションの原理はパラパラ漫画と変わりません。1枚1枚の絵を連続で映すことによって動いているように見える、というものです。これはなにもアニメーションだけに限らず映画でも同じです。今はデジタル化されて変わってしまいましたが、フィルムの時代であれば1コマ1コマが一枚の写真で、それを連続で映すことによって映像が動くわけです。理屈は同じですね。 ただ、アニメーションの場合は、映画の1コマ1コマにあたるものをすべて手作業で描かなければなりません。映画ならカメラ一台あればすむ作業を、すべて人の手でやる必要があるのです(代わりにロケもセットも必要もなく、手元に資料でも集めておけば描くことも出来るでしょう…
ディズニーと手塚治虫と日本のアニメ 〜ひとつのアメリカ文化に憧れた日本人
今や日本の文化と喧伝されるアニメや漫画も、いわば戦後のアメリカ文化の受容から生まれてきました。 アニメも漫画も日本では誰が開祖かは、多分みな知っているのではないでしょうか。そう、手塚治虫です。手塚治虫は正真正銘の天才で、歴史的な水準の表現者だったと思います。そうした天才、偉人が最初にいたからこそ、同時代で体感した下の世代の人たちがこぞって同じ道に入り、ひとつの分野を育てたのかもしれません。アニメならさしずめ宮崎駿と富野由悠季をあげれそうですし、お笑いなら明石家さんまやビートたけし、野球なら長嶋茂雄に王貞治、イチローといった人たちでしょうか。 しかし、その手塚治虫にも憧れた人がいました。ウォルト…
今週も振り返ってみたいと思います。 先週ははてブ砲があったので一気にアクセス数が増えました。ほぼ倍増といった形で喜ばしいことこのうえありません。その後はまたいつも通りに落ちてしまうだろうと予想されたのですが、以前に比べて多いままでした。嬉しい誤算でびっくりしたのですが、おそらくはてブ砲の際に読者登録をしてくださった方が思いのほか多く、翌日からの投稿も見に来てくださったのかもしれません。ありがとうございます。とても喜んでいます。 ただ、その後もまたアクセス数が増えている様子です。理由はよくわかりません。う〜ん、と考えてみますと、色々な方のブログを拝見しスターをつけたのを見てくださった方々が、どん…
触れる 最初の 瞬間は 壊れぬように 近づける 掴む 最後の その時は 離れぬようにと ただ握る 先週の詩 目 - 日々是〆〆吟味
日本は大国に染まりながらも一体化はしてしまわないそうです。福田和也はどこかで聖徳太子以来の日本の戦略、と述べていた気がしますが、おそらくそれはアメリカ相手での現在でも同じなのかもしれません。明治開国以来性急な西洋化と戦後のアメリカ化は同時代から批判されていましたが、完全に西洋やアメリカになってしまったわけではありませんからね。 実はこのあたりが日本独特の文化とはみなされているらしいのです。 つまり日本は自分たちよりも進んだ国や文化から取り入れるのですが、取り入れたものを自分たち流にアレンジして自らのものにしてしまうというのです。よく例に出されるかと思いますが、西洋からパンが入ってきたらおまんじ…
福沢諭吉の猛勉強ぶりはわかりましたが、これは単に昔の日本人は偉かった、というだけなのか、日本独特の文化として偉いのか、ちょっとわかりかねますね。そのお話を少ししてみましょう。 日本はお隣に中国があります。昨今評判が悪いことこの上ないですが、古代から今日まで超大国であったことは変わりありません。むしろ低迷していたのはヨーロッパが世界化した一時期だけであって、着々とヨーロッパから学んでいった中国はとうとうもとの地位に返り咲くだけの力を蓄えたのかもしれません。 中国はずっと超大国でした。アメリカみたいなものです。それと隣り合わせにいた日本は常に意識をしなければなりませんでした。幸い日本は島国で、中国…
渡部昇一が模範としたような文法の水準からの外国語理解、というものはどのようなものでしょうか。実はこれもちゃんと昔の本に書かれていたりします。 それはかの有名な福沢諭吉の自伝にあります。福沢諭吉は幕末に日本の外に中国やインドを越えた、未知の世界であるヨーロッパが存在することを知った人です。幕末人の衝撃ですね。 この衝撃は現代の我々からすると、今さら教えられるほどのこともないような気がします。散々映画ドラマに再現VTRと見させられてきました。しかしその衝撃は国がひっくり返ったほどのものでしたから、同時代人にとっては自分たちの存在からひっくり返りかねないほどの驚きと危機感があったようです。 福沢諭吉…
渡部昇一が述べていることは、極端にすれば喋れるだけの馬鹿では困る、といえないこともありません。これは英語を代表とする外国語だと喋れるだけで理知的に見えてしまうのですが、母国語である日本語に当てはめて考えてみればごくごく普通の主張であるかと思います。しかし当たり前に喋れる日本語ではそのようなことを意識せず、わざわざ学ばなければならない英語であれば喋れるだけで評価してしまう錯覚を生んでしまうことにもなります。 私たちは誰しも母国語を自然に操りますが、その母国語の水準についてはあまり考えません。また母国語に対する理解も日常的に理解するものと、英語のように学んで理解しなければならないことも失念してしま…
英語(外国語)習得と日本 〜渡部昇一の意見を参考にしてみよう!
『大漢和辞典』のお話をしましたが、昔の日本人は偉かった、なんて言うと、ちょっと昨今の様子では肩身が狭いかもしれません。その前日にも加藤周一の『日本文学史序説』のお話を少ししましたが、左翼の超大物である加藤周一だけでは偏っていると思われてもよくないので、保守の大物である渡部昇一からも昔の日本人は偉かった、といったお話を紹介してみたいと思います。 渡部昇一をご存知の方がどれくらいいらっしゃるのかはわかりませんが、本業は上智大学の英語学者です。それだけでなく相当に古くから保守論客として活躍されていたと思いますが(あまり詳しくないので、具体的には説明できません)、2017年に亡くなりました。もう令和に…
今週も振り返ってみたいと思います。 先週は新着に載らなくなってアクセス数が落ち込みました。私の気分も落ち込んだのですが、やはり皆様のブログを拝見し足跡を残していけば少しづつ回復していくのが数字にも表れ、ほっとひと息をついていたところです。 ようやく1日のアクセス数も100人を越えるようにまで回復し、なんなら少しアップしたかも、やった、なんて喜んでいました。 するとどうでしょう。一昨日のことです。日中アクセスも増えていて喜んでいたのですが、夜の記事更新になって異常が起きました。ありえないほどアクセス数があがっているのです。時間にして普段の2倍ほどのアクセスがあるじゃありませんか。一体何があったん…
さて、ついでに戦時中のすごい出版話として『大漢和辞典』という漢和辞典について紹介してみたいと思います。 『大漢和辞典』は大修館という出版社から出ています。大修館は辞典出版で有名な出版社です。この文章を読んでくださっている方の中にも、学生時代に使っていた辞書の中に大修館のものがあるかもしれません。もし学生の方がいらっしゃるのでしたら、手持ちの辞書を見てみると1冊くらいはあるかもしれませんね。それくらいメジャーな辞典出版社です。 この大修館、創業して100年になります。当初から辞書や学習参考書を出版し、既に今と同じような出版社だった様子です。しかし創業者の鈴木一平という方が偉かった。出版は天下の公…
戦争への文学的抵抗•日本版 〜関係ないこと書くだけでも抵抗だったのだ。これでいいのだ。
文化と専制的な政治状況をソ連を例にして書いてみましたが、日本でも戦時中は同じようなことがありました。戦争に協力しない創作は非国民と非難されたのです。 これが厄介なのは、なにも上から言われただけでもないということです。そうではなく、文学者自らが率先して、こんな大変な戦争の最中、能天気な小説など書いていてはいけない、と協力的だったのです。 ですから戦意高揚するような小説や、戦地に赴いて現地記事を書いたり、関係ない作品を書くような作家を自分たちで干したりしました。どこで読んだのか忘れましたが、当時芥川賞を獲ったある作家を表彰しに小林秀雄が向かったのですが、その作家は兵隊にとられていました。そこで駐屯…
世の中に役立つことと専制 〜ロシア•フォルマリズムの背景として
マルクス主義についての説明にかかりすぎてしまいましたが、当時のソ連が政治的にだけでなく文化的にも専制的だったということを理解していただければ幸いです。ロシア•フォルマリストが活躍しなければならなかった背景にはこのような事情があったのです。 文学(つまり創作。フィクション)ですら社会から自由ではなく、支配者層を支えるような価値観を生み出している。それを批判、暴露することこそマルクス主義者の文学的使命である。 そうなると、当然文学に対する態度も決まってきます。その作品はいかにして資本家階級から労働者を解放することが可能か、それを表していること、読みとることが創作と批評の役割になってしまいます。そし…
作品の統一的見解がなぜ可能なのか。 簡単に言えばそう強制されればいいのでした。 学校で行われる国語の授業などではそうですね。例題となる文章を前にして、作者がこの時どう思ったか答えなさい、こんな感じですね。なんでもどなたか作者がこれをやってみたら間違ったのだとか。作者自身が間違う作者の思いってなんなのでしょうか。それも簡単で、こうした例文がある場合はこう捉えろ、という強制なわけです。 他の読み方をしてもいいのですが、学校の授業では答えがないと先生が教えられませんから他の読み方など認めません。それは先生が教えられないからで、おそらく国語の先生でも漱石や谷崎、賢治に芥川、と日本文学に通暁されている方…
プロップからバルト、ジュネットへと至る小説(プロップは昔話ですが)の構造分析は、それまでにも前史がありました。ちょっとおまけでそのお話もしておきましょうね。 プロップはロシア人です。ロシア人ですから、当然ロシア人同士の間で学会が存在します。そして当時のロシアでは1つの文学運動がありました。それが形式主義とでもいうもので、ロシアで行われたのでロシア•フォルマリズムと呼ばれます。 このロシア•フォルマリズム。文字通り小説を形式的に読んでいくことを目標としました。つまり読み手の感情に左右されずに読めるようになることを目標としたのです。 何故そのようなことを目標としなければならないのでしょうか。ちょっ…
物語の構造的な分析の系譜 〜プロップ、バルト、ジュネットを参考にしてみよう!
プロップは民話、つまり昔話を扱って物語はパターン(構造)だ、と考えたのですが、ロラン•バルトはそれを小説でやろうとしました。そこでバルトは同じフランス人作家のバルザックの『サラジーヌ』という短編を用いて徹底的に分析しました。プロップは機能を31個としましたが、バルトはなんと561個も導き出しました。ものすごい数ですが、これで短編を分析したのですから長編は無理ではないか、と思われたそうです。 しかしバルトの仲間でもあるジュネットという人が、よりにもよってプルーストの『失われた時を求めて』を使って分析し成功をおさめました。プルーストは生涯この作品を書き続けて未完に終わったような人で、一般的な翻訳で…
今週は横ばいを目指していたのですが、まったくお話になりませんでした。理由は明白で、先週の日曜日から新着にのらなくなってしまったからです。理由はよくわかりませんが、どうももう新着にはのらないようです。すると目に見えてアクセス数が減りました。 しかも2日(火曜日)は体調を崩しあまりスマホに触れませんでした。となるとあっという間に激減。夜に気づいて驚いたのですが最早手に負えず。しばし落ち込み茫然自失のままスマホの画面を覗いていましたが、ふと、このまま放っておいたらどれくらい減るのだろうか、と思いつき翌日放置していたら、さらに下がりました。おそらくこれが現在の実数かと思います。しかしさらに放置していた…
あかあおきいろ すべてが違う でも同じ 彩る姿に 戯れながら そこにあるのは ただ光
人文科学の数学(構造主義)化 〜物語はパターン?(付:『わたしの知的生産の技術』/プロップ『昔話の形態学』/橋爪大三郎『はじめての構造主義』)
ニュートンの業績によって物理学が数学化され、数学の力が圧倒的であると知ったヨーロッパ型学問はすべてを数学化しようとしました。それが自然科学ではとてもうまくいったのですが、残念ながら人間や社会に当てはめようとしたら少し問題が出てきたのです。しかしそれでも学問の数学化は変わらず進めようとされています。ただあまりうまくいっていないだけです。 さすがに哲学は数学化されてはいないと思いますが(というかそもそも不可能な気もしますが)、社会科学は熱心です。最も数学化が成功しているのは経済学と言われ、次いで社会学、一番ダメなのが政治学、と言われています。これらは社会現象を捉える社会科学という枠組みの学問ですが…
数学と科学と世界の本質的理解 〜自然世界は数学によって理解•表現出来るのだ。これでいいのだ。
数学がもっとも使われたのは科学においてです。それはニュートンによって万有引力の法則が発見されたことによって科学の基礎ともなりました。 しかし数学を科学によって使うことはそんなに簡単なことではなかったようです。というのも、ニュートンが解明したい形に数学を合わせなければならなかったからです。ニュートンが考えていた問題は当然当時最先端のものですから、自分の考えに追いつけるような考えを持っている人などいませんでした。それは他分野の数学でも同じだったようで、そのためにニュートンは自分で新しい数学の分野である微分積分を生み出さなければなりませんでした。 この微分積分を用いてニュートンは万有引力の法則を証明…
レヴィ=ストロースによって言葉のシステムが世界を本質的に捉えるために有効である事がわかりました。しかしこの場合の言葉は私たちが普段使っているような言葉というよりも、ソシュールが考えたようなシステムとしての言葉を応用したものです。言葉そのものの使い方というよりも、言葉を数学化して使ったようなものではないでしょうか。本質的ではないエッセイの場合の言葉の使い方とは、また違うように思いますね。それはまた後で考えましょう。 まずはこうしたシステムとしての言葉と同じように世界を本質的に捉える強い味方、数学について少し考えてみましょうね。とはいえ私は数学なんてちっとも知らないので、ここで関係しそうな話だけに…
言葉と数学による本質的理解 〜レヴィ=ストロースの交叉イトコ婚の場合を参考にしてみよう!
さて、レヴィ=ストロースは文化人類学でしたから未開部族のもとにフィールドワークに出かけます。フィールドワークというのは調査者にとって未知の集団の中に入って一緒に生活し、外部者が内部から観察してその集団を分析するようなもの、だととりあえず思っておきましょう。ヨーロッパは植民地をたくさん持っていたので、そこで出会った未知の人々を調べようとしてこんな分野が生まれたわけですね。 レヴィ=ストロースの前にも文化人類学はありました。アニメやゲームにも出てくる『金枝篇』という本も文化人類学の最初期の傑作とされています。ただ『金枝篇』を書いたフレイザーは各地から送られてくる資料のみで書いたそうです。それがちょ…
世界と本質的表現 〜世界って、どうやって本質的に捉えればいいんでしょうか
さて、小説やエッセイ、論述(評論・論文)といった文芸の違いについて考えてきました。どちらかというと内容よりも視点や世界への態度によってわけられそうでしたね。そして小説やエッセイは視点人物(または書き手自身)によって世界を受け取ったままに表現しようとするのに対し、論述は本質的に捉えて表現しようとするものだ、とも考えてみました。 この時、世界を本質的に捉えるとはどのようなことを指すのでしょう。 まず世界を表現するには言葉が必要です。以前に考えた空間に存在し眼に映るものを言葉に置き換えることを思い出してみましょう。 言葉と視覚的世界 〜目に見えるものを言葉にすると世界は分断され置き換えられる?(付:…
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